第5話
千住家に鷹彦と峰彦を迎えに行って、額を怪我して帰って来たまほろだったが、その後、額の傷は細く白い傷になって残った。しかし、まほろはそんなことは意に介さず、取り戻した鷹彦と元気いっぱいの毎日を送って二年が過ぎた。
「タカコ。頑張ろうね。来月の四月から、まほろは中学生でタカコは小学生だからね」
「うん。おれ、がんばる。四月から、おれ、一年生だから」
「おれ、じゃなくて、おれ、だよ」
相変わらずおかしなアクセントの“おれ”を言い直してまほろは笑った。まほろが笑うと鷹彦も一緒になって笑う。そして両手を取り合ってぶんぶん振り回しながら、
「お食事会では頑張るもんねー」
と、二人は大きな声を張り上げた。
恒例の食事会に向かう車の後部座席で、まほろと鷹彦はお菓子を食べたりゲームをしたりして騒いでいたが、助手席の峰彦はスマートフォンで英語の勉強に集中していた。口の中でぶつぶつ呟いているのは“Repeat after me”をしているのだろう。まほろと鷹彦は、それぞれ中学校と小学校に進学し、峰彦は高校に進学する。後ろで騒いでいる二人にくらべて、峰彦はすっかり大人びた雰囲気にかわっていた。
今回の食事会は、坪庭に、鹿威しの竹の音が風情をかもす料亭だった。鷹彦は部屋に通されるなり、真っ先に儀衛門のところに走り寄った。
「おじい。おれ、来たよ」
「おお。鷹彦や。いつも元気だねえ。また大きくなったねえ」
儀衛門は、かわいくてたまらないというように鷹彦の頭を撫でて目じりを下げた。つぎにまほろを眺めて感に堪えないように首を振る。
「まほろや。会うたびに美しくなっていくねえ。花が開いていくようだよ」
「お祖父ちゃまったら、先月も同じことを言ったよ」
「ほんとうにきれいだよ。まほろや」
まほろはくすぐったそうに首を竦めた。うれしかった。儀衛門にきれいだといわれるたびに、自分に価値があるような気がした。もしも顕人が、言葉に出さなくても温かいまなざしでまほろを見てくれるような父親だったら、儀衛門の言葉にこれほど喜ばなかったかもしれない。だからよけい、儀衛門のやさしい言葉はまほろの心に沁みた。
「峰彦や。ずいぶん背が伸びて、青年らしくなってきたねえ。じいが年を取るわけだねえ。なあ、顕人や」
「お父さん。話すのは坐ってからにしなさいよ。子供たち、座りなさい」
醒めた顕人の声に促されて、峰彦、まほろ、鷹彦、の順に並び、卓の前の分厚い座布団に座った。
子供たちの前の儀衛門は、
「足を楽にしていいよ。じいも足を延ばそう。年を取ると膝がだめになってねえ」
と、足をさすった。
「お祖父ちゃま。足が痛いの。シップを貼ると治るよ」
「まほろや。年寄りの膝は、軟骨がすり減って水が溜まってだめになるんだよ」
「そんな」
みるみるまほろの表情が曇った。心細そうな悲しい顔に、儀衛門のほうが慌てた。
「心配いらないよ。じいはまだまだ長生きするからね。まほろと鷹彦の婚礼を見るまでは、なんとしても長生きするよ」
「コンレーってなんだ?」
鷹彦が儀衛門とまほろの顔を交互に見ながら訊ねた。
「婚礼とはね、鷹彦や。おまえとまほろの結婚式のことだよ」
峰彦がぴくっとして儀衛門を睨んだ。
「まほろとおれがケッコン?」
「そうだとも鷹彦や。おまえは生まれる前から、まほろと夫婦になることが決まっていたのだよ」
「フーフ?」
「嫌かね?」
「いやじゃない! おれ、まほろとケッコンしてフーフになる」
「そうかい。では、その時を楽しみに、じいは長生きをするからね」
「うん!」
鷹彦はニコニコとまほろを見た。まほろはなんだかわからないような顔をして首を傾げた。
「でも、お祖父ちゃま。タカコはまだ子供だよ」
「いつまでも子供じゃないさ。なあ鷹彦や。おまえたちは、許嫁だ」
「イーナズケ」
鷹彦が繰り返す。
「婚約者だよ。鷹彦や。まほろはおまえの嫁になるんだ」
そういって儀衛門は、いたずらめいた笑みをうかべた。
仲居が前菜を運んできて食事がはじまった。まほろと峰彦には大人と同じメニューだったが、まだ小さい鷹彦にはお子様膳を頼んであった。
峰彦は一言も口を挟まず静かにしていた。峰彦にとっては我慢できない儀衛門の話の流れだった。鷹彦を蒔江田から取り戻すために、峰彦は心を痛めてきた。儀衛門のおもうがままに、千住家の次男の鷹彦を蒔江田にくれてやるわけには行かなかった。少なくとも、両親と違って峰彦の気持ちとしてはそうだった。両親と暮らせない年の離れた弟を不憫に思う気持ちもあった。だからこそ、かわいい弟を蒔江田などにわたしたくはなかった。
だが、鷹彦はすっかりまほろに懐いている。許嫁とか結婚の意味も分からないくせに、鷹彦はまほろと結婚すると喜んでいる。それは千住の人間にとって、どんなに悔しいことか、鷹彦は知らない。 爆弾を仕掛けてやる。でも、今ではない。まだだ。鷹彦がもっと大きくなって、年頃になって、揺れ動く年齢になってから、爆弾を落としてやる。
峰彦がそんなことを考えているとも知らずに、まほろと鷹彦の楽し気な会話が儀衛門の笑いを誘っていた。一品ずつはこばれてくる料理も最後のデザートになったとき、顕人が背広の内ポケットから手帳をとりだして目を走らせた。
「峰彦。高校は予定通りでいいんだな」
「はい。進路の先生が単願で大丈夫だと言っていましたから、それでお願いします」
「うむ。では、身の回りの荷物を整理しておくように。制服やそのほかの物も用意しなくてはいけないから、なるべく早く広尾のほうに越して来なさい」
「はい。荷物は整理しておきました」
「おれも、整理したよ」
「まほろもした!」
鷹彦とまほろがウフフと笑って顔を見合わせた。
「なんのことかね。鷹彦や。まほろや」
「だからね。お祖父ちゃま。まほろとタカコも、峰彦と一緒に東京に引っ越すんだよ」
「そうだよ。おれとまほろも東京に行くんだ」
「ね、タカコ」
「な、まほろ」
鷹彦とまほろが手を取り合ってぶんぶん回した。
「なんのことを言っているんだ」
顕人が顔をしかめた。
「ほおぉ。そうかい。まほろに鷹彦」
儀衛門が目を大きくして二人を眺めた。
「おまえたちも、東京に来るというのかい?」
「うん! お祖父ちゃま。まほろとタカコと峰彦とおばちゃんと、みんなで東京に行く。みいいんなで、東京に行く。だって、みいいんな、家族だもん!」
「かぞくだもん! な、まほろ」
「ね、タカコ」
「突然なにを言っているんだ」
顕人が怖い声をだして続けた。
「峰彦は高校は東京と決まっていたが、おまえと鷹彦は別だ。陸子さんのところで、今までどおり暮らすんだ。東京にくる必要はない」
「どうしてよ。どうしてお父さまはそんなことをいうの。峰彦が東京の高校に行くのなら、まほろとタカコだって東京の学校にするよ。峰彦が暮らすことになる家で、まほろとタカコとおばちゃんも暮らすんだよ。家族がバラバラになるなんて、そんなのだめだよ」
「そんなのだめだよ」
鷹彦も同じようにいった。
「ほほう。陸子さんも一緒かい」
儀衛門が笑いをこらえるような声でいった。
「そうだよ。おばちゃんも一緒だよ。ねえ、タカコ」
「そうだよ。おばちゃんも一緒だよ。置いていけないよ。おばちゃんだって家族だもん。おれ、おばちゃんが一緒でなきゃ嫌だもん」
「まほろだって嫌だもん。お祖父ちゃま。お願い。峰彦と一緒にまほろたちも東京に行かせて」
「おじい。おねがいだよ。でなかったら、おれ、おじいを嫌いになっちゃうぞ」
「おやおや。鷹彦に嫌われるのは嫌だねえ。顕人や。このさいだから、みんなで暮らすとするか」
「お父さん。あなたって人は、ほんとうに子供たちに甘いんだから」
ふほ、と儀衛門は首を竦めて笑った。
相場から電話がかかってきて、東京に引っ越すことになったと聞いた陸子は、目を白黒させて驚いた。渋谷の広尾にある屋敷で暮らすというのだから、驚きをとおりこして気が重くなる。なぜなら広尾の屋敷には儀衛門と顕人が暮らしているからだ。
敷地の北側に2LDKの平屋の戸建てがあって、そこに岡田夫婦とレイナという一人娘が暮らしており、岡田の妻は食事のほうを、岡田のほうは屋敷の家政を取り仕切って、儀衛門と顕人の身の回りのことをしていた。
そこに引っ越していくとなると、岡田は解雇されて、空いた家に自分たちが住むことになるのだろうか。そんなことを相場に話すと、電話の向こうで相場は、安心させるような声でいった。
「岡田さんはそのままだよ。いままでどおり、家のことと大旦那様と旦那様のお世話をして、俺たちはお屋敷のほうに部屋をいただくことになったんだよ」
「まあ。どうしましょう」
陸子はつい不安な声を出してしまった。
「俺は遠慮したんだよ。お屋敷で大旦那様や旦那様と一緒に暮らすなんて、なあ……」
「そうですとも。気づまりだし」
「うん。そうしたら、岡田さんたちに子供たち三人の世話まで頼めない。仕事量が多すぎると、こうおっしゃるんだ」
「それはそうでしょうけど」
「そっちの家は閉めてしまって、子供たちと引っ越してきて、この家で夫婦で暮らせとおっしゃるんだよ」
「居心地悪くて……」
「そんなに嫌か」
「え?」
「いやなに、お屋敷は広いからさ。旦那様がたは二階にお住まいだし、それぞれの部屋にはバス・トイレがついているし、電子レンジや冷蔵庫も置いてあるから、食堂での食事が終われば部屋に行って、俺たちに世話はかけないとおっしゃるんだよ。子供たちの面倒を、いままでどおり、見てくれればいいとね」
「まあ。ずいぶん気を使ってくださいますね」
「一階の西側の六畳二間をくれるそうだ。一階にあるキッチンも風呂も、自分の家のつもりで自由に使えとおっしゃってくださっているんだが」
「そうですか。でも、ううん……」
「俺はな陸子。陸子さえその気になってくれれば、そうしたいと思っているんだよ」
「ううん、でも……」
「一緒に暮らそう陸子。俺はそうしたいよ」
「…………」
「岡田さんに気を使っているんだろ?」
「うまくやれるか自信がないんですよ。あちらは古くからのかたですし、そこへわたしが入っていくんですからね。あちら様からすれば、自分の職場を奪われるようなものでしょ」
「では岡田さんには辞めてもらおう」
「なんですって」
陸子はぎょっとした。
「俺から大旦那様にいうよ」
「簡単に言うんですね。そんな力があなたにあるんですか」
「あるもなにも、俺の家は代々蒔江田家に仕えてきたんだ。俺にとって大旦那様が特別なように、大旦那様にとっても、俺はただの社員じゃないんだよ。それくらいわかるだろう」
「いつものあなたじゃないみたい。なんだか怖いわ」
「子供たちを育てるのも大切だが、俺たちの人生も大切だ。せっかく夫婦なのに、もう離れて暮らすのはごめんだ。世間の夫婦のように、一緒に出掛けたり、旅行にも行きたいよ。なあ、陸子。そうしよう。大旦那様も、それがあるから、まほろさまに反対しなかったんだよ。俺たちのことも考えてくれたんだ」
「……。わかりました。岡田さんたちとも、何とかうまくやってみます。だから、あの方たちをクビにするようなことはやめてくださいね」
「うん。だが、そうするつもりなら、いつでもそうするよ。岡田の代わりはいくらでもいるからな」
いつにない夫のきつい言い方に、陸子は別の顔を見たような気がした。自分の知らない仕事の世界で、揉みに揉まれてきたのだろう。いい人だけではいられない夫の一面を知って、電話を切ったあとも、陸子はぼんやりした。
さあ、荷造りをしなければ。しかし、陸子は脱力したまま動けなかった。
峰彦は中高一貫教育の進学校の高等部に入学したが、まほろと鷹彦は公立の中学と小学校に入学した。
相場がいっていたように、相場夫妻は一階の西側の二部屋を使うことになり、峰彦は同じ一階の、リビングを挟んだ東側のほうの洋間を与えられた。
まほろと鷹彦は二階のゲストルームの二部屋を割り当てられた。そこは儀衛門と顕人の部屋の向かい側だった。
陸子は、儀衛門と顕人が帰宅したら静かにしなくてはいけませんよと、繰り返しまほろと鷹彦に言い聞かせたが、騒ぎたい盛りの鷹彦は、階段のスロープの手すりに跨って滑り降りたり、廊下を走り回ったりして騒音をまき散らした。
そんな鷹彦に顕人は、ときどき癇癪をおこして怒鳴りつけることがあったが、儀衛門は一度もそんなことはなかった。鷹彦のやんちゃがかわいくてしかたがないようだった。
陸子は、慣れない東京暮らしのうえに、鷹彦とまほろのうるささに神経をすり減らした。岡田にも気を使うし、仕事の分担も同じ家の中だからうまく割り振れなくて苦労した。さらにもう一つ、陸子には気になることがあった。それは、岡田の娘のレイナのことだった。
レイナは冷たい感じの美しい少女だった。年は峰彦と同じ年で、しかも同じ高校だった。制服姿のレイナが門のところで峰彦を待っているのを、朝刊を取りに出て偶然目にしたことがある。
ストレートの長い髪をセンターで分けて、左の耳に髪をかけていた。ブレザーにプリーツスカートの制服のブラウスを、目立たないように気崩していて、それがいかにも都会の女子高生らしく洗練されていた。
人を寄せ付けない雰囲気の峰彦が、レイナを無視して門を出ようとしたときだった。レイナが、道をふさぐように峰彦の前に立った。
「お高くとまってるのね。わたしなんかと目を合わせるのも嫌?」
峰彦は表情も変えずにレイナを見かえした。
「わたしのこと、知ってるんでしょ。無視しないでよ」
「何か用か」
「ええ。一緒に登校しましょう。これから毎日」
レイナはにこりともせずにいった。
「いいよ」
峰彦のほうは薄く笑った。たったそれだけだった。二人は会話することもなく駅に向かって歩いて行った。
たったそれだけだったのに、陸子には強く印象に残った。レイナという娘が峰彦の近くに住んでいることが気になった。だいじょうぶ、と陸子は騒ぐ自分の胸をなだめた。なにがだいじょうぶなのか、はっきりしなかったが、だいじょうぶ、なにも起こりはしない。心配することなどおこらないと胸をさすって、門柱の郵便受けから新聞を取って家に戻ろうとした。開けたままにしておいた玄関にまほろが立っていた。じっと門の外を見ている。
「どうしました。まほろさま。家に入りましょう」
「峰彦がレイナさんについて行っちゃった」
「え。なんですか。聞こえなかったんですけど」
「ううん。なんでもない」
勢いよく踵を返して廊下を走っていくまほろの後ろ姿は怒っていた。
まほろと鷹彦のほうは、公立の学校が合っていたとみえて、元気に通学していた。二人とも、蒔江田の里にいたときのような習い事は止めてしまっていて、まほろは学習塾、鷹彦はスイミングだけ継続していた。
二人は二階に部屋があったが、一階の相場夫婦に割り当てられた二部屋のうちの一部屋に寝ていた。襖で仕切った和室に布団を並べて寝ている。
帰宅した相場が、すごい寝相で寝ているまほろと鷹彦を覗いてからダイニングキッチンに戻ってきて、椅子に掛けながら、食事を並べている陸子に声をかけた。
「子供たちは、どうして自分の部屋で寝ないんだ」
いくぶん不満そうな相場に冷えたビールを差し出しながら、陸子は笑ってしまった。
「いままでそうだったからですよ。今までは、わたしの部屋で寝ていたんですよ。でも、ここに越してきて、あなたが帰ってくるようになったから、隣に寝てるんです。遠慮するところがかわいいじゃないですか」
「自分の部屋で寝ればいいんだ。まほろさまは中学生だろ」
「でも鷹彦さまは、まだ小学一年生ですよ」
「陸子は甘やかしすぎだ」
「それじゃあ、あなたがあの子たちを二階まで抱いて運んでくださいよ」
「何を言うか。腰が壊れる」
クスクス笑いながら、陸子は冷えたビールを相場が持っているグラスについだ。気苦労は多いものの、こうして毎日夫の帰りを待って語らうのはいいものだった。その夜、アルコールも入り、いい機嫌で相場は床についた。
真夜中、いきなり襖ががらりと開いた。まほろがつかつかと部屋に入ってきて陸子の枕もとに立った。
「おばちゃん! おじちゃんのいびきがうるさくて眠れない!」
陸子はがばっと身を起こした。
「あ、え、ああ、まほろさま。ああ、びっくりした。どうしました」
「だから、おじちゃんのいびきがうるさくて眠れないんだってば」
「ああ。いびき」
あなた、と小さな声で相場の肩を揺するが、相場は目を覚まさない。
「おばちゃん。そんなんじゃ起きないよ」
まほろは相場の腹の上に跨って両手で思いきり相場の頬を叩いた。相場がバネのように飛び上がった。
「うわあああああ。どうした。地震か」
「おじちゃん! いびきがうるさい! 迷惑」
「ぐが。まほろさま。い、いびき」
相場は寝ぼけながら目をごしごしこすった。
「いびきかあ」
情けなさそうにもう一度呟く。まほろはさっさと隣の部屋に戻って寝てしまった。
布団にもぐりながら、相場はため息をついた。陸子もため息を漏らす。
「とにかく寝ましょうか。あしたも仕事ですからね」
「いびきかあ」
遠慮のない子供と暮らすということは、こういうものなのかとおもって、相場はもう一度眠りについたのだった。




