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まほろと鷹彦 だけど峰彦   作者: 深瀬静流
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第4話

「おばちゃん。タカコがいないよ! 峰彦もいない! 二人はどこに行ったの」

 洗濯機を回そうとしていた陸子のところにやってきて、まほろは目を吊り上げた。まだ朝の八時で、いつもなら寝ている時間だ。八時半ごろになって、ようやく日差しの眩しさに目が覚めてくるのだ。だから陸子は、まほろが寝ているものとおもってぎょっとした。峰彦と鷹彦は、今頃東京に向かう新幹線の中だ。

「おばちゃん。タカコのお気に入りのカエルのリュックもないよ。ケロケロの水筒もないよ。玄関を見てきたら靴もないよ。まほろに内緒で峰彦とタカコはどこへ行ったの」

「二人はお出かけしたんですよ」

 洗濯しようとおもって丸めておいたシーツを取りながら、いくぶん慌て気味でこたえた。まほろが陸子のエプロンの裾を掴んで揺すってくる。

「おばちゃん。なんでまほろだけのけ者なの。なんで内緒で行っちゃうの。どこに行ったの。何時に帰って来るの」

「峰彦さまは、鷹彦さまをお連れになって、お父さまとお母さまに会いに行かれたんですよ」

 洗濯機の中にシーツを入れながらこたえる。まほろは洗濯機の前に立ちふさがった。

「峰彦は東京に行ったの? いつ帰ってくるの。帰ってくるんでしょ」

「帰ってきますよ。今夜一晩とまって、明日の夕方には帰ってきます」

「泊まってくるの。泊まったまま帰ってこなかったらどうするの」

「帰ってきますよ」

「どうしてわかるの。帰ってこないかもしれないじゃない。だって、お父さんとお母さんのところに行ったんだよ。帰ってきたくなくなるよ!」

 みるみるまほろの目に涙が膨れ上がった。

「おばちゃん。まほろが二人を迎えに行く。まほろを東京に連れてって」

「帰ってきますから。ね。まほろさま」

 陸子はまほろの前に跪いて懇願するように両肩に手を置いた。

「だめ。車のカギを取ってくる」

 陸子の手を跳ね除け、リビングキッチンのサイドボードの中から車のキーを取って戻ってきて、それを陸子に突き付けた。

「おばちゃん。行こう。タカコと峰彦を迎えに行こう」

「まほろさま。明日になれば、帰ってきますから。ね」

「いや!」

 まほろはいきなりキーを床に投げつけた。そしてこんどは、ダイニングテーブルに置いてあった陸子の携帯電話のところに行って、相場の直通ボタンを押した。追いかけてきた陸子が、そのようすをハラハラしながら見ていた。

「もしもし。おじちゃん。まほろだよ」


「もしもし。おじちゃん。まほろだよ」

 相場は妻からかかってきた電話だとおもったので驚いた。

「まほろさま。どうしました」

「おじちゃん。あのね。峰彦とタカコが行っちゃったの。だから、まほろが迎えに行くの。だから、おじちゃん。車で迎えに来て」

「え。なんですって」

「だから、峰彦とタカコが、お父さんとお母さんのところに行っちゃったから、まほろが迎えに行くの。おじちゃん、まほろを車に乗せて東京に連れて行って」

「陸子と代わってくれますか」

 まほろが携帯電話を陸子に差し出すと、陸子は耳に当てながら横を向いて小声になった。

「ごめんなさい。お仕事中に」

「それはいいから、どういうことなんだ」

「峰彦さまが千住のご両親と連絡を取っていたみたいで、今朝、急に東京に行ってくるとおっしゃって、鷹彦さまを連れて行かれたんですよ。一晩泊まって明日帰ってくるとおっしゃるものですから、約束させて行かせたんです」

「まほろさまに内緒でか」

「ええ。言ったら大騒ぎになるでしょ」

「うん。ちょっと待っていなさい。社長に伺ってみるから」

 相場は、会社では儀衛門のことを社長とよび、個人的な場所では、代々蒔江田家に奉公していた家の者なので、大旦那様と呼び分けていた。夫が儀衛門のことを社長と呼ぶのをきいて、陸子は改めて儀衛門が大会社の総帥であることを意識して身が引き締まった。

 相場は役員専用のエレベーターで二十五階まで昇り、第一会議室のドアをノックした。

 顕人は出席していなかったが、役員たちとグループ企業の各会社から役員が出席していて、中間期決済の報告資料をもとに、目標達成可能か否か、修正案を検討している最中だった。会議特有の緊張感の中、相場は急ぎ足で儀衛門のところに向かった。全員の視線が集まり、脇の下が汗ばむのを感じた。

「社長。まほろさまからなんですが、峰彦くんが鷹彦くんをお連れになって、千住さんのお宅に向かったそうなんです。一泊して帰ってくるということなんですが、まほろさまが迎えに行くと言ってきかないそうで、」

 最後までいわせずに儀衛門は、相場の携帯電話に手をのばした。

「いえ。社長。ご指示をいただければ」

 私的な、しかも孫からの電話に、重要な会議を中断してまで出ようとする儀衛門に相場は慌てた。

「いいから」

 逆らわずに携帯電話を差し出すと、儀衛門は、はばかることなく話しかけた。

「まほろかい」

 いきなり儀衛門が話しかけてきたので、陸子は驚いて携帯電話をまほろに押し付けた。

「じいだよ」

「あ。お祖父ちゃま。まほろだよ」

「うん。どうしたんだい?」

 儀衛門の声は、あくまでもやさしい。ふだんまほろに見せている顔と声に、会議室は和やかな雰囲気になった。

「あのね。峰彦がね。タカコをつれて東京に行っちゃったの。峰彦たちのお父さんとお母さんのところだよ。だから、まほろが迎えに行くの。だって。だってさ。お父さんとお母さんのところに行ったら、帰ってきたくなくなるでしょ。だって、お父さんとお母さんだもの」

「帰ってくると言ったんだろ?」

「帰ってこないよ。お父さんとお母さんのところがいいにきまっているもん。まほろだったら帰ってこないもん。だから、迎えに行って連れ戻さなきゃ」

「まほろが迎えに行ったら帰ってくるのかい」

「帰ってくるよ。だって、タカコはまほろのものだもの。タカコとまほろはいつも一緒だもん。タカコが帰れば峰彦だって帰るよ。だって峰彦は、タカコのお兄ちゃんだもの」

「それじゃあ迎えに行けばいいよ。でも、一人で行けるかな?」

「一人で? 行けるよ。行く」

「一人だよ。勇気はあるかい」

「勇気、出す。峰彦とタカコとまほろは、ずっと一緒じゃなきゃいけないんだもん。まほろの大切な家族だもん」

「わかったよ。では、おばちゃんに代わっておくれ」

「うん」

 まほろが差し出した携帯電話を受け取って、陸子は一つ息をした。

「もしもし。お電話かわりました。陸子でございます」

「いつもまほろたちが世話になっていてすまないねえ」

「いえ。とんでもありません。こちらこそ至りませんで、申し訳ありません」

「いやいや。それでね。まほろの決心が堅そうなんで、行かせてみようと思うんだ。車は私が手配するから、まほろを一人で乗せてやっておくれ」

「お一人で行かせるんですか」

「一人で行くというんでね。勇気を出すそうだ」

 そういって儀衛門はクスクス笑った。

「わかりました。大旦那様のおっしゃるとおりにいたします」

「うん」といって電話は切れた。

 三十分後、家の前に黒塗りの車が着いた。ワイシャツにネクタイの三十代の男性が運転してきて、助手席にはサマースーツ姿の二十代の女性が座っていた。

「お世話をおかけしてすみません」

 陸子が彼らに声をかけると、彼らはいったん車をおりて陸子に自己紹介した。東北支社の総務の社員だった。

「途中、何度かトイレ休憩をお願いします。あまり人見知りをしない子ですけど、はじめての人には遠慮すると思いますので」

「だいじょうぶですよ。トイレのときもわたしがそばについていて一人にはしませんので安心してください」

 女性がにっこりと陸子に頷いた。陸子が急いで用意したおにぎりとお茶と、皮をむいたオレンジ、クッキーなどが入っているランチバッグを持たされたまほろが後部座席に乗り込む。

「おばちゃん。行ってくるね。タカコたちを連れて帰るからね」

 意気込むまほろを送り出したが、どうせ明日帰ってくるのに、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのだった。

 車の中で、まほろは無言だった。女子社員は名を斎藤といった。斎藤は絶えずまほろに話しかけていた。彼女は彼女で、代表取締役会長兼代表取締役社長の孫であるまほろに気を使っていたのだが、どのように接していいか、わからないようだった。

 このときのまほろは、遠い東京まで一人で行くという緊張と、鷹彦と峰彦を連れ戻すという決心で頭がいっぱいだった。お父さんとお母さんという存在は、まほろにとっては脅威だった。両親にかなうわけがない。他人の家で暮らすより、両親と一緒に暮らすほうがいいに決まっている。

 それでなくても峰彦は、まほろや鷹彦と別れて、東京の両親のところから中学に通うつもりでいたのだ。それをまほろが強引に引き止めた。そんな経緯があったから、峰彦はまほろに内緒で鷹彦を連れて東京に行ってしまったのだとおもった。

 負けられない、とおもった。タカコを両親から取り戻す。峰彦も取り返す。

 まほろは陸子が持たせてくれたバッグから、おにぎりを出して食べはじめた。戦うときめたら、とたんにお腹がすいてきた。サケと昆布のおにぎりを食べて、オレンジも食べた。斎藤にはクッキーを分けてやった。斎藤は喜んだがクッキーはあとでいただきますといって食べなかった。

 東京に入ったのは十四時頃で、信号につかまりながらカーナビのとおり車を走らせ、目的の場所に着いたころには十五時を過ぎていた。

 千住宝物館があった千住ビルは、一階と二階を飲食店にしてしまって、三階と四階を千住アートギャラリーにリニューアルしていた。千住ビルに隣接している入母屋造りの千住屋敷は、匠の手によって復元され、木目が匂い立つ立派な屋敷に変貌していた。

 たくさんある表座敷のほうは、お茶会の席に貸したりしていて、予約が一年先まで埋まっており、そのほかの部屋も香道教室や華道の師範の会合などに使われていた。

 車は上土門あげつちもんの前を回って塀沿いにゆっくり進み、千住夫妻が暮らしているほうの家屋の門の前で停まった。

 まほろは真っ先に車をおりて玄関に走った。千住という表札を確認してからチャイムを押した。

 もう一度押した。

 また押した。

 返事がないから、こんどはドアを開けた。

 広くて美しい玄関に鷹彦と峰彦の靴があった。真っ白なシューズボックスの棚の上には、クリスタルの花瓶に生けられた深紅の大輪の薔薇が盛り上がっていた。その玄関に、まほろは足を踏み入れた。真っ直ぐ伸びている廊下の奥で鷹彦の泣き声がした。ひきつるような甲高い泣き声に、まほろはわなないた。

「タカコ! まほろだよ。迎えに来たよ!」

 大きな声を張り上げたら、奥から鷹彦が転がるように飛び出してきた。

「まほろ!」

「タカコ!」

 飛びつく鷹彦をまほろは受け止めた。しっかり抱きしめる。

「まほろ。おうちにかえる」

「うん。帰ろう」

 複数の足音がしたとおもうと、最初に峰彦が姿を現し、そのあとに美苑と寛臣が続いた。三人とも驚いた顔をしていた。

「峰彦。迎えに来たよ。帰ろう」

 まほろがまっすぐ峰彦の目を見据えていった。

「まほろ……」

 峰彦は驚いて言葉もないようだった。

「あなたは」

 美苑が血相を変えた。

「鷹彦、こっちにいらっしゃい。お母さんのところに来なさい」

「こわいよ、まほろ。あんなおばちゃんしらないよ。兄ちゃんは、あのひとがお母さんだっていうけど、おれ、しらないもん」

 おかしなアクセントで“おれ”という鷹彦を、まほろはきつく抱きしめた。

「鷹彦を放しなさい。あの人の孫までも、わたしの子供を奪いに来るなんて。憎らしい!」

 いきなり一抱えもあるバラの花束を掴んで、美苑が、まほろめがけて投げつけた。深紅のバラの束がまほろの顔面にあたって散った。峰彦が息をのんだ。寛臣も小さく声を上げた。たった一つ取り忘れていた太くて鋭い棘がまほろの額に線を引き、血が盛り上がっていく。

 まほろの額から血が滴った。このときの傷は後々まで額に白い傷跡を残すことになる。

 鷹彦はその血を見て怯えて泣き出した。まほろは靴を脱いで上がり、つかつかと歩を進めて峰彦の腕を掴んだ。

「帰ろう! 峰彦」

 峰彦ははっとした。腕を掴むまほろの手はぶるぶる震えていた。いきなり美苑がまほろを突き飛ばした。

「帰れ! わたしの子供を奪いに来る悪魔!」

 まほろは子供で体重が軽いので、玄関まで吹っ飛んで、尻もちをついた。また鷹彦が怯えて甲高く泣いた。美苑は興奮して目が据わっていた。妊娠中に儀衛門が鷹彦を買いに来たことを思い出していた。

 あのときはどうすることもできなかった。しかたがなかった。でも、今は違う。もう子供は渡さない。峰彦も鷹彦も、蒔江田なんかにくれてやるものか。美苑はガラスの重い花瓶を掴んでいた。

「美苑、やめろ」

 寛臣が叫んだ。しかし、目が完全に据わっていた美苑には、夫の声は届いていなかった。美苑はまほろめがけて花瓶を投げた。投げようとした。だが、峰彦が美苑の手をしっかり押さえつけて立ちふさがっていた。



「ほほう。それで、どうしたね」

 儀衛門の笑いを含んだ電話の声に、陸子はため息をつきそうになった。

「まほろさまは、峰彦さまと鷹彦さまを連れて、お戻りになりましたけど、額に怪我をなされていました。あとに残らねばいいがと心配しております。女の子ですから」

「ううーむ。怪我の原因は話したかね」

「いいえ。言いません」

「うむ」

 考え込むような儀衛門の反応に、陸子はそっと息を吐いた。まほろも峰彦もなにも話さないので、千住家で何があったのか正確にはわからなかったが、鷹彦が拙い言葉で話してくれたので、だいたいのようすはわかった。

 しかし陸子はそのことを儀衛門にはいわなかった。美苑のしたことは大人とは思えない危険な行為で、怒りが収まらなかったが、儀衛門に伝えたらどんなことになるかを想像すると、それもまた恐ろしかったからだ。

「で、まほろの様子はどうかね。夕飯をちゃんと食べたかね」

「あまりお食べにならずにお風呂に入って、鷹彦さまと寝てしまいました。お疲れになったのでしょう」

「峰彦は」

「峰彦さまは、まったく口をききません。食欲もなく顔色が悪くて。まほろさまが怪我をして帰ってくるなんて、一人で東京に行かせたことを後悔しております。申し訳ありません」

「あやまらなくていいよ、陸子さん。子供を育てるのは大変だろうが、よろしく頼むよ。困ったことがあったら相場に相談するんだよ。私がなんとかするからね」

「はい。ありがとうございます」

 電話は切れた。陸子はぐったりとへたり込んだ。なんて疲れた一日だったことだろうとおもった。


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