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まほろと鷹彦 だけど峰彦   作者: 深瀬静流
3/17

第3話

 両親が迎えに来てくれるかもしれないという、かすかな期待を心の底に押し込めて、峰彦は十二歳の冬を迎えていた。

 年が明けて春になったら、峰彦は東京に帰ろうと考えていた。鷹彦のために三年も蒔江田で我慢したのだ。もう十分だ。いま鷹彦は、陸子とまほろに風呂に入れてもらっている。おもちゃのアヒルをたくさん湯舟に浮かべて、お湯をはじきながら遊んでいる。かわいい鷹彦の笑い声と、まほろの騒ぐ声が聞こえる。

 外はしんしんと雪が降って、屋根にも庭の植え込みにも厚く積もって冷え込んでいるが、風呂場から聞こえてくる声は温かく、軒下の氷さえ溶けそうだ。

 峰彦は廊下に佇んで、しばらく風呂場の声をきいていた。来春鷹彦は幼稚園だ。まほろは鷹彦の入園式を今から楽しみにしていて、峰彦とまほろと鷹彦の三人で、写真をいっぱい撮るのだと騒いでいる

 でも、自分は東京の中学を受験して親元で暮らす。ぼくと鷹彦は、あと三か月もすれば別れ別れになるのだ。幼い鷹彦を残して行けるだろうかと峰彦の胸は痛んだ。

 峰彦は風呂場の楽しげな笑い声に背を向けて二階に行った。二階には、まほろと鷹彦の部屋もあったが、今でもまほろは寝るときだけは鷹彦と布団を並べて陸子の部屋で寝ていた。いつも二人はべったりくっついていた。

 風呂からでたら、陸子に牛乳をもらって飲み、歯を磨いて陸子の部屋で眠りにつくのだ。だから夜は、二階は峰彦一人になる。

 屋根に積もる雪の音さえ聞こえそうな静かさの中にいると、寂しさで、いたたまれなくなるときがあった。だから峰彦は、気を紛らわせるためにも勉強した。机の前にすわって、ランドセルから教科書を出して宿題に取り掛かる。数字や文字を追いかけていると、よけいなことを考えなくていいからだ。

 都会の同じ年頃の子供たちに負けるわけには行かなかった。東京の進学校を受験するのだから。そして高校に行って、大学に行く。それも、東大でなくてはだめなのだ。見返してやる。

 誰を見返すのか。誰に見せつけるのか。千住の人間として、堂々としていろといった父にかもしれない。借金がなくなったら、とたんに享楽的になった母にかもしれない。金の力で自分たち親子の運命を変えてしまった憎い儀衛門にかもしれなかった。

 宿題を終えてから、中学受験対策の過去問に取り掛かった。さらさらとノートに鉛筆を走らせて集中した。携帯が鳴った。美苑からだった。峰彦は無視して勉強を続けた。

 三年の月日が峰彦の上に流れたように、顕人と美苑にも同じだけの時間が流れていた。

 世界一周の船旅に出ているあいだにリニューアル工事をすませた千住宝物館が、千住アートギャラリーに生まれ変わったあと、経営を任された寛臣は、おもいのほか優秀な手腕を発揮して軌道に乗せていた。

 さらに儀衛門の巧みな誘導で新たな事業を展開していて仕事にのめり込んでいた。借金に縛られて進退窮まっていたときと違って、千住寛臣は、伝統・文化の造詣が深く、グローバルな知識も有していたので、その能力を発揮できる場を与えられてからというもの、水を得た魚のように生き生きと仕事をしていた。

 美苑のほうも夫の華やかな活躍に負けずに、得意の料理で本を出したり料理教室を開いたりしていた。もちろんその資金は儀衛門から出ていて、料理教室の経営母体は蒔江田グループだった。

 そんな父母が、子供たちに会いに来ていたかといえばそんなことはなかった。それにひきかえ儀衛門は、月に一度の食事会のほかに、欲しいものはないか、困っていないかと、頻繁に電話してきて峰彦の機嫌を取っていた。

 老人らしいずる賢さとわかっていた。だから儀衛門への応対は冷淡で事務的にすませていた。だが雪の夜の静けさや、身に染みる寂しさにくじけそうになるとき、千住の両親よりも儀衛門のやさしい言葉に傾きそうになるのだった。

 いつの間にか問題集を解く手が止まっていた。ぼーっと考え事をしていた。そういうときの考え事は、きまって気が滅入るようなことばかりだ。気を取り直して、また問題集の続きを始めた。

「峰彦お」

 まほろがヘアドライヤーを持って部屋に入ってきた。

「かってに入るなっていってるだろ」

「髪」

「なんだよ」

「乾かして」

「自分でやれよ」

「だって、おばちゃんはタカコのお世話で忙しいんだもん」

「タカコじゃなくて、鷹彦っていえ」

「タカコとミネコ。タカコとミネコ! かわいいのはタカコちゃんで、怒りんぼはミネコだよおーん」

 まほろはおかしな節をつけて踊りだした。いくら部屋の中が暖房で温かいといっても、パジャマ姿で髪が濡れているから寒そうだ。

「いいから、早く髪を乾かせよ」

「ん!」と、まほろがヘアドライヤーを突き付けてくる。

「自分でやれ」

「ん! ん!」

「うるさいなあ。もう」

 峰彦がヘアドライヤーをひったくったので、椅子に掛けている峰彦の足元にしゃがんで背中を向けた。

 まほろの長い髪は細くてゆるくウエーブがかかっているから、乱暴にドライヤーを当てると、髪が絡まって厄介なことになる。まほろはがさつなので自分でやらせると必ず髪がもつれて陸子の世話になるのだが、陸子の手は鷹彦に取られてしまい、まほろは峰彦のところにドライヤーを持ってくるようになった。

 どうしてぼくがこんなことをしなければならないのだとおもいながら、ドライヤーの温風を髪にあてた。腹が立つし時間ももったいない。まほろは敵の子供なのだから、まほろだって敵なのだ。

 そんなことを考えながら手を動かしていたら、「いいなあ。峰彦は」と、まほろが部屋の中を見回しながら、そんなことをいった。

「なにがだよ」

「だってさ。峰彦のお部屋は峰彦のお父さんとお母さんの贈り物でいっぱいだからさ」

「贈り物じゃなくて、お土産だよ。あっちこっちで買ったお土産を送ってくるんだ」

「いいなあ。峰彦のお父さんとお母さんは優しくて」

「どこがだよ!」

 つい大きな声を出していた。

「だってさ、お仕事で忙しくても、峰彦のことを忘れていないじゃない。お誕生日には、お母さんが手作りのケーキを送ってくるし」

「送ってくるだけだ」

 手を止めてしまった峰彦からドライヤーを取って、まほろは自分で髪を乾かし始めた。

「それでもいいじゃないの。まほろなんか、お父さまから完全に忘れられてるよ」

 背中を向けて髪に温風を当てているまほろの小さな背中が丸くなっていた。ドライヤーの吹き出し口が髪に近いせいで、吹き上がった髪がドライヤーの送風口に吸い込まれそうになる。峰彦はまほろの手からドライヤーを取り上げた。こんどは丁寧に髪を乾かしていく。

「ねえ、峰彦。中学は地元の中学に行くよね?」

 峰彦は返事をしなかった。

「ねえ、峰彦。東京へ行ったりしないよね?」

 やはり峰彦は黙っている。

「ねえ、峰彦! タカコを置いて行ったり、しないよね」

 ドライヤーの音で聞こえていないとおもたのか、まほろは怒鳴るようにいった。それでも峰彦は返事をしなかった。まほろがドライヤーを手で払って振り向いた。思いつめたようなきつい目をしていた。

「行かないよね。行ったら、タカコ、泣くよ。タカコはまだ大きな赤ちゃんだから、峰彦を思い出して、何度も泣くよ。だから、行っちゃ、だめだよ」

 峰彦は無言のまままほろを睨み付けた。まほろも峰彦を睨みつけて目を反らさなかった。


 あわただしい十二月の半ばに、その年最後の食事会があった。いつものように迎えの車が来て、三歳になった鷹彦もよそ行きの服を着せられて一緒に乗った。車の後部座席で鷹彦は、峰彦とまほろの間に収まってご機嫌だった。“おとうちま”と“おじんちま”に会えるといって、はしゃいでいた。

 まほろが顕人と儀衛門をお父さま、お祖父さまとよぶので、まねをしているのだが、あの二人はぼくたちの父と祖父ではないと、そのつど峰彦は言い聞かせた。

 ぼくたちの両親はほかにいるといっても、鷹彦にはピンとこないようだった。それも仕方がないのかもしれない。だって鷹彦は千住の両親に会っていないのだから。

 生まれたばかりだった鷹彦が、来春には幼稚園に入るぐらい大きくなって、ぼくのほうは背がこんなに伸びて、声変わりして、大人の声になったのに、それを両親はなにも知らない。

 ぼくたちが成長した分、お父さんとお母さんも、年を取ったりしているのだろうか。すくすく育っている鷹彦を見たいとおもわないのだろうか。ぼくはこんなに会いたいのに、お父さんとお母さんはそうではないのだろうか。

 スタッドレスタイヤで走ってきた高速道路から雪が消えていた。東京はもうすぐだった。やがて車はインターを降りた。

 うす水色の冬空は、東北の雪の晴れ間に冴えわたる青空のように清々しくはなかったが、東京という街には似合っていた。夏にはさほど感じない東京と東北の距離感が、冬だと雪を介してはっきり感じる。白い雪の世界から出発して、色彩があふれた都会に近づき、数時間過ごして、また白の世界に戻っていく。でも、それもあとわずかだ。年が明けて春になれば、ぼくは三年ぶりに東京に帰るのだ。

「あい。兄ちゃん」

 鷹彦が峰彦の唇に、チョコレートが中に入ったマシュマロを押し付けてきた。反射的に口を開けていた。見ると、まほろが紙袋からお菓子をたくさん取り出していた。

「まほろ。お菓子はやめておけ。食事が食べられなくなるぞ」

「だって、タカコちゃんがほしがるから」

「あの人たちの前で、タカコなんて呼ぶなよ。わかってるな」

「うん。わかってる。あ、タカコちゃん、お茶? 飲む?」

 陸子が持たせてくれたお茶のポットを開けようとするので止めた。

「こぼすといけない。ぼくがやろう」

 峰彦はポットを取ってコップにお茶を注ぐと、温度を確かめてから鷹彦に飲ませた。まほろが、出したお菓子を紙袋にしまいなおしている。

「お菓子はおしまいだ。もうすぐ着くから、ちゃんとご飯を食べよう」

「はあーい」とまほろが返事をすると、鷹彦も、「ああーい」といった。

 運転している蒔江田の社員は、後ろの座席の三人の様子に微笑んでいたが、峰彦がしだいに緊張しだしていることには気がつかないようだった。

 今回はトラットリアの店に予約を入れてあった。イタリア料理の開放的な雰囲気の店で、席も個室ではなく観葉植物で空間を仕切っただけのテーブルに通された。

 儀衛門と顕人はまだ来ておらず、車を運転してきた社員が、いったん有料駐車場に車を置いてから店に戻ってきて、一緒に席についてくれた。

 店の中を物珍しく眺めているとメニューを渡されたので、鷹彦を真ん中にして、まほろと峰彦はメニューを覗き込んだ。あれも、これも、とにぎやかにメニューの写真を指さしていると、儀衛門と顕人がやってきたので、それまで一緒にいてくれた社員は一礼して帰っていった。

「待ったかい。まほろや。また大きくなったねえ」

 儀衛門は、会うたびに同じことをいった。

「大きくなってないよ。先月会ったばかりだもん」

 そのたびにまほろも同じことを答えた。しかし、たしかにまほろの身長は伸びていた。頼りなかった骨もしっかりしてきたし、小学三年生らしい言葉の受け答えもできるようになっていた。

 きつく三つ編みに結っていた髪も、ポニーテールにしている。ふわふわのポニーテールと、ふわふわの真っ白なセーターとスパッツが白うさぎのように愛らしかった。

「きょうのまほろは、ことのほかかわいいねえ。なあ、顕人。おまえもそう思うだろう?」

 あいかわらず顕人はにこりともしない。儀衛門は、次にまほろと手をつないでいる鷹彦に笑いかけた。

「鷹彦や。おまえはほんとうにかわいいねえ。さあ、じいのところにおいで」

 手を伸べられて、鷹彦はぱっと儀衛門に飛びついた。儀衛門が、「どっこらしょ」

 と、いいなが抱き上げる。

「重くなったねえ鷹彦や。ご飯をいっぱい食べて、元気に育っておくれよ。おまえは大きくなったら、まほろと結婚するんだからねえ。蒔江田家の一員になるんだからねえ」

 そういって揺すると、鷹彦はうれしそうに声をあげて笑った。儀衛門は鷹彦に会うたびに、鷹彦とまほろが結婚することを念仏のように繰り返した。鷹彦は儀衛門になついていて、笑い合っている二人は、まるで本当の祖父と孫のようだった。

 峰彦は忌々しい気持ちを抑えるのに苦労した。よくも堂々と、大きくなったらまほろと結婚するのだ、などど幼い鷹彦にいえたものだ。なんにもわからない鷹彦に、そうやって教え込んでいくつもりなのだ。憎い、とおもった。

「こっちにおいで。鷹彦」

 峰彦は儀衛門から鷹彦を取り返した。

「さあ、座りましょう。お父さん」

 顕人が椅子に掛けながら儀衛門を促した。

「そうだな。子供たちはメニューを見ていたようだが、なにを頼むか決まったのかい」

 まほろがメニューの写真を順番に指さしていく。もちろん鷹彦が喜ぶものも忘れない。顕人は、スマートフォンに入ってくるメールをチェックするのに余念がなく、子供たちのことから意識が逸れていた。そんな顕人を見ているうちに、まほろはしだいに元気をなくしていった。儀衛門だけが機嫌よく子供たちに話しかけてくる。

 口をつぐんで話そうとしない峰彦に気を使って、そのぶんまほろがおしゃべりをした。それは、まほろにとっても気骨の折れることだったが、まほろはまほろなりに、月に一度しか会えない父親への愛情の示し方でもあった。

 儀衛門は小食で、自分の分をほとんどまほろと鷹彦の取り皿に分け与えた。学校のことや習い事、陸子との暮らしぶりなどを話題にしながら食事は終わろうとしていた。

「ところで」

 と、儀衛門がナプキンで口元を拭いながら改まった声をだした。まほろの背中がピクッとした。峰彦も小さく息を止めた。

「どうしたね。二人とも急に硬くなって」

 儀衛門は、まほろと峰彦の気持ちをほぐすように笑みを浮かべた。

「来春、峰彦は中学生だねえ。早いものだねえ。蒔江田に来て、もう三年になるんだからねえ」

 感慨深い儀衛門の口調を一掃するように、顕人が手帳を背広の内ポケットから出して、事務的な顔を峰彦に向けた。

「進路のことだが、峰彦の希望の中学はどこかな。東京の公立中か、大学付属中学か、それとも、中高一貫教育の進学校か。おまえの希望を聞いておこう。手配はこちらでするよ。もちろん、もう考えてあるんだろ」

 まほろは俯いて膝の上でぎゅっとこぶしを握った。ちらりと横目で峰彦を盗み見る。峰彦は顔を上げ、まっすぐ顕人を見つめた。

「行かないっ! もん……」

 峰彦が答えようとする前に、まほろが投げつけるようにいっていた。ガタンと椅子を動かして立ち上がる。

「行かないんだもんっ。峰彦は、まほろたちと一緒だもん。来年、タカコの幼稚園の入園式に一緒に行くんだもん。三人は一緒だもん!」

 まほろの顔はこわばっていた。目は見開き、こぶしをぎゅっと握って顕人を睨み付けている。

「おまえに訊いているのではない。峰彦に訊いているんだ」

「だから、行かないって、言ってるんだもん」

 まほろは食い下がった。まほろの膝頭が震えていた。顕人に口答えしたのは初めてだった。顕人が鋭く目を細めた。

「どうなんだ。峰彦」

 峰彦も立ち上がった。まほろが峰彦の背中の服を強く掴んでくる。

「訊いているんだがな。峰彦」

 癇性なものが顕人の額に浮かんだ。震える手で服を引っ張っているまほろの手を、峰彦は強く意識していた。



 年が明け、三月も終わり頃になると、曇天の雲の切れ間から日が差すようになり、雪は湿った雨に変化していく。夜は冷え込んで氷点下になることもあるが、日中は十二度を上回るときもあり、暖かく感じる。

 市内ではビルの日陰の片隅に、雪の塊が煤けて残ていたりするが、旧街道の蒔江田の里は山寄りにあるので、かき寄せられた雪が道の両側にうずたかく残っていた。しかし、その雪も四月になれば太陽に溶けて水になって流れていく。

 桜は四月の中旬ぐらいから咲き始めるので、幼稚園の入園式には間に合わないが、冬の名残りと春の訪れが同時にやってくる東北の四月は、心を浮き立たせる華やぎに満ちていた。

 鷹彦の入園式は4月の第一週の土曜日だったので、陸子に連れられて、まほろと峰彦も出席できた。まほろの喜びは大きく、興奮を抑えきれなようだった。式が始まる前に、幼稚園の門の前で鷹彦を真ん中にして峰彦と三人で写真を撮ったのに、式が終了したあとも、景色の良いところをみつけると、陸子に写真を撮ってくれと何度もせがんだ。

 鷹彦とまほろは満面の笑みで映っていたが、どの写真でも峰彦は笑っていなかった。まほろは紺のブレザーとプリーツスカートという改まった格好をしていたが、中学生になった峰彦は、詰襟の学生服姿で大人びてみえた。それがまほろには眩しいらしく、よけいに浮わついていた。

 中学生になった峰彦は気難しさが増して口数が減り、まほろはもちろんのこと、陸子にさえ口をきこうとしなくなった。時おり陸子に対して、反抗的な目で睨むことさえあった。

 陸子は峰彦の態度を思い余って、夫の相場が帰ってきたときに相談したことがあった。相場は湯あがっりのビールをうまそうに飲みながら、陸子が作った里芋の煮っころがしに箸をのばした。

「まあなあ。あの年頃の男の子というものは、いちばん難しい年頃だからな。陸子だって経験があるだろう。青臭い話だが、なぜ自分は生まれてきたのだろう。生まれたからには、ほかの人とは違う何かが自分にはきっとあるはずだ、なんて考えて、物思いにふけったことはなかったか」

 愚直な相場にそういわれて、陸子はくすっと笑った。

「あなたにはあったんですか」

「どうだったかな。昔のことで忘れてしまったが、自分で作った壁に自分でぶつかって痛い思いをして苦しむのがあの年頃だからな。まして峰彦くんの場合は、事情が事情だから」

「千住のご両親は、とうとうこれまで、お子様方に会いに来なかったですね」

「大旦那様との約束だったからな。里心がついて、峰彦くんが帰ると言いだすのを警戒しておられた」

「かわいそうに」

「だが、まほろさまのおかげて、だいぶ気がまぎれたのではないかな」

「ええ。まほろさまが、呆れたいたずらばかりするものですから、峰彦さまは、まほろさまに腹をお立てになって大変です。峰彦さまの登校用の靴の中にガムを入れていたんですよ。学校の昇降口で靴を脱ごうとしたら、足がべったり張り付いて、しかたがないから靴下を脱いで裸足で過ごしたんですって。あのすました峰彦さまがですよ。恥ずかしかったでしょうね」

「帰ってから、そうとう怒っただろうな」

「それはもう。そうかと思えば、雨になる予報のときに、鞄の中の黒い傘を、まほろさまのピンクのパンダ柄の折り畳み傘にすり替えていたんです。峰彦さまは濡れて帰ってきましたよ。そして、お風邪をひきました」

「ひどいいたずらだなあ。陸子はそういう時は、まほろさまを叱るのか」

「叱りますとも。相手を困らせるようないたずらはいけません。学校で素足で過ごさせたリ、風邪をひかせたりなんて、とんでもないですよ」

「たしかに。ちょっとやりすぎだな。でも、どうしてそんなことをするんだろう」

「かまってほしいんですよ。峰彦さまは、まほろさまの顔を見ようともしませんし、口もきかないんです。見ていてこちらが息苦しくなります。ある意味、まほろさまには感心します。よく峰彦さまに悪さをする勇気があるなと。でも、峰彦さまは、怒っても絶対手は上げないんですよ。まほろさまを叩いたことはありません。我慢強いお子です」

「うん。まほろさまを叩くような子だったら、大旦那様は許さなかっただろう」

「怖いですね」

「怖いさ。そういう怖さの中で、峰彦くんは大人になろうとしているんだ」

 ところで、と相場はビールを飲みほして口調を明るいものにした。

「鷹彦くんはどうだい」

「まほろさまと鷹彦さまはべったりです。まほろさまは鷹彦さまの髪を結って、髪飾りで飾ったり、お洋服を着せたり、お風呂に入れたり、夜は一緒のお布団でくっついて眠っていますよ」

「まあいいだろう。鷹彦くんはまだ三歳だ。あの子の成長に関しては、慎重に見守らなくてはいけないよ。この先どうなるかわからないが、今のところ、大旦那様は鷹彦くんを猫かわいがりだ。まほろさまが撮った写真を、暇があると見ているよ」

「まほろさまと、どちらがかわいいのかしら」

「そんなこと言うなよ。まほろさまが男の子だったらよかったんだ。そうすれば、大旦那様は、こんな、とんでもないことを実行しなかっただろう」

「若旦那様は再婚なさらないのでしょうか」

「本人にその気はないようだね。仕事が忙しくて世界中を飛び回っているよ。月に一度のお子様がたとの食事会の予定も、大旦那様ではなく、若旦那様の予定に合わせているくらいだからね」

 子供たちが寝静まった夜の夫婦の語らいは静かに続いた。相場がいったように儀衛門の鷹彦のかわいがり方は、目の中に入れても痛くないと表現されるようなものだった。食事会では膝の上に抱き上げて食べさせるほどのかわいがりようで、顕人にたしなめられて膝から降ろすありさまだった。峰彦に対しては、あくまで峰彦への尊重と親密さを崩さず、儀衛門の態度は愛情にあふれた見事なものだった。

 峰彦が、もう少しおっとりした性格だったら、儀衛門のやさしさに警戒心を緩めていたかもしれない。しかし、中学にあがってから、母の美苑から頻繁に電話がかかってくるようになり、三年間は親のほうから連絡を取らないようにとの条件だったと聞いて、儀衛門への反発と憎しみを新たにしたのだった。


 鷹彦は幼稚園にも慣れ、陸子が作った弁当を残さず食べ、時おり風邪は引くものの元気に育っていた。三歳で幼稚園に入ったばかりの頃はおぼつかなかった運動能力も、成長とともに発達し、活発に動き回るようになった。寡黙な峰彦と違って、鷹彦は元気で利かん気なところがあり、陸子にも強情を張ることがあったが、まほろにだけは素直だった。

 鷹彦の四歳の誕生日を迎えた七月二十六日は、夏休みに入っていたこともあり、まほろは鷹彦の誕生会を開いた。幼稚園の同じクラス全員と近所の子供たちを自宅に招き、歌やゲームで大騒ぎをした。 まほろの目的は、集まった子供たち全員を鷹彦の家来にすることだった。

「いいか、子供たち。今日のごちそうを食べたものは、みんなタカコの子分だからね。幼稚園でも、小学校へ行っても、中学でも、タカコはみんなの親分だからね。わかったね。なかよくしなきゃだめだからね」

 ケーキの皿を配りながら、まほろはそういってまわった。子供たちは何の事だかわからないようすだったが、山盛りのケーキに目が眩んで喜んでいた。

 相変わらずまほろはバカだと峰彦は、二階の自室でまほろの大声を聞いていたが、峰彦にはある計画があった。その計画を実行に移したのは、鷹彦の四歳の誕生会の一週間後だった。


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