第13話
これから、このままアパートを探しに行くといってきかない鷹彦をなだめすかして家に連れて帰ってきたが、その夜、鷹彦は熱をだした。ベッドに寝ている疲れ果てた顔を見ていると切なくてたまらない。どんなに苦しんだかとおもうと、まほろは鷹彦の枕もとから離れることができなかった。
鷹彦の傷だらけの手を消毒して絆創膏を貼っていく。洗面器に氷を浮かべた水でタオルを濡らして顔や首筋を拭いてやると、鷹彦はうっすらと目を開けた。
「まほろ……。喉が渇いた」
「待ってて。いま、冷たいお水を持ってくるから」
「行かないで。おばちゃんに持ってきてもらって」
「ええ」
壁のインターホンを取って階下とつながっているボタンを押す。すぐに陸子がでた。
「おばちゃん。鷹彦が冷たいお水が飲みたいって」
「いま持っていきます」
冷えたペットボトルの水とコップを持って陸子が部屋に入ってきた。まほろの手を握って目を閉じている鷹彦を見て、陸子の胸は痛んだ。子供のころは、一つベッドで寝ていた二人だ。仲が良くて片時も離れなかった。時が二人を大人にしたように、その時が二人に苦難を与えている。
「鷹彦さま。お水ですよ」
コップに水を入れて声をかける。まほろの手を借りて起きると喉を鳴らして飲み干し、また横になって目を閉じた。
「まほろさま。お部屋を暗くして休ませましょう」
陸子が促すと、頷いて立ち上がろうとした。しかし、鷹彦が手を伸ばしてまほろの腕を掴む。
「ここにいて。まほろ」
片時もまほろを放そうとしない。陸子は小さくため息をついて部屋の照明を半分に絞ってから出て行った。
鷹彦はこんこんと眠った。何日も寝ていなかったような深い眠りだった。
夜半、ようすを見にやってきた峰彦は、鷹彦の横で背中を丸めて眠っているまほろの姿に、危うく泣きそうになった。子犬と子猫が丸くなって眠っていた。顔をくっつけて、互いの体に手をまわして静かに寝息を立てている。
ひとりは傷つきやすい僕の弟。もう一人は、いたずらばかり仕掛けてきた、寂しがりやの女の子。
どちらも峰彦にとっては、自分と切り離せない存在だった。その二人が、蒔江田の家を出て、二人で暮らすというのなら、自分は止められないだろうとおもった。
思いもよらぬ痛みが心に走った。まほろが、僕から離れていく。鷹彦が離れていくよりも、そのことのほうが衝撃だった。まほろはいままで、僕が去ろうとすると、震える手で必死に服を掴んで行くなといい続けた。だから僕は、いま、ここにいる。それなのに、まほろのほうが去って行く。
峰彦の中に大きな空洞があいたような気がした。蒔江田で頑張ってこれたのは、まほろがいたからだった。いたずらばかりして峰彦を怒らせ困らせたまほろの存在が、どれだけ峰彦を救ってくれていた、かまほろは知らない。
年頃になっていくにしたがって、花びらが一枚づつ花開いていくように美しくなっていったまほろに目を奪われながら、素知らぬふりで一緒に暮らし続けた日常も、結局このような形で終わりを告げるのだ。
今度の一件は深刻だ。まほろは鷹彦を守るために、ほんとうにこの家を出て行くだろう。鷹彦はまほろを放さないだろう。そして自分は、何も言わずに二人を見送るだろう。この家に鷹彦の幸せがないのなら、そして、まほろが鷹彦を幸せにしてくれるのなら、自分はそれを後押しするしかないとおもった。
ほんとうに狭いアパートだった。二階の角部屋の1LDKで、洗濯物は窓の外に取り付けられた竿に干すようになっているが、ベランダというものはなかった。独身者向きのアパートだったが、独立した六畳間がついているので、そこをまほろの寝室にして、鷹彦は台所と続き部屋の六畳間を使うことにした。
峰彦の車に、二人の布団と食器と折り畳みのテーブルとテレビ、それとわずかな身の回りの品を積んで運んだ。鷹彦は自分のバイクで峰彦の車を先導してアパートに向かった。
峰彦が運転する車の横に乗ったまほろは無言だった。静かな表情だったが、その奥に不安が揺れていることを峰彦は感じ取っていた。まほろにかけてやる言葉が見つからなかった。元気でな、というのも長い別れのようで変だ。寂しくなるな、ともいえない。せいぜい、体に気をつけて、ということぐらいだろうか。それさえ峰彦は口にできないだろうとおもった。
八月が終わり九月に入っていたが、暑さは真夏と変わらなかった。アパートにはエアコンが備え付けてあったので、秋の気配が風に混じるまで活躍しそうだった。
バス通りから外れた路地の先にあるアパートは、蒔江田の屋敷とちがって、隣家と隣家の隙間が一メートルあるかないかという密集した住宅地にあり、窓を開けても景色は息苦しかった。
アパートにつくと、鷹彦は外階段を軽い足取りで昇って行ったが、車から荷物を下ろしている峰彦は沈んでいた。手に抱えたかさばる寝具を、ともすると道に捨ててしまいたくなる。
こんなことになるとはおもわなかった。こんな予定ではなかった。峰彦の計算では、鷹彦は儀衛門に反発して千住に帰って行くだろうとおもったのだ。
千住の両親は、鷹彦が小学生の頃から運動会に来ていたし、なにかにつけてプレゼントを贈ってきていた。一緒に暮らしたことはなくても、親であることは事実なのだから、結局は両親のもとへ帰っていくだろうとおもったのだ。蒔江田から鷹彦を取り戻せれば、それでよかったのだ。
事の顛末を顕人から聞いた儀衛門は、顕人に怒りを表したが、鷹彦とまほろが家を出て行くことに関しては不快な表情はしても無言を通した。むやみに止めても鷹彦の感情をこじらせるだけだとわかっていたし、まほろが一緒ならだいじょうぶだとおもったようだった。まほろが鷹彦を蒔江田につなぎとめるだろうとおもった。可愛い鷹彦を儀衛門は手放す気はなかった。
アパートの内装は壁や襖、畳もきれいにしてあったので、みすぼらしい印象はなかった。そこに荷物を運びこむ。まほろは黙々と荷物を収納していった。鷹彦もきびきびと体を動かしているが、やはり表情は暗い。峰彦が手伝うほどの荷物ではなかったので、一時間もすると片付いてしまった。
アパートの前に車を路上駐車していたから長居はできなかったので、昼時でもあるし、峰彦は二人を食事に誘った。すると鷹彦が、台所の続き部屋の自分の部屋になる六畳間に腰を下ろして、携帯電話をいじりだした。
「冷蔵庫とソファベッドの配達があるから、俺は留守番してるよ。二人で昼飯食べたあと、まほろをスーパーに連れて行ってくれよ。俺の昼飯と食料品を買ってきてくれ」
まほろが流しの水道で手を洗いながら振り向いた。
「峰彦は帰っていいわ。近くのコンビニで何か買ってきて食べるから。冷蔵庫が来たら、鷹彦とスーパーに買い物に行ってくる」
「車があるから買い物を運んでやるよ。なにもかもいっぺんにじゃ疲れるだろ」
「いいの。これからは、なんでも二人でやるの。ねえ、鷹彦」
「うん」
「二人でやっていくわ」
「そうか。じゃあ、帰るよ」
寂しそうな笑みが峰彦に浮かんだ。
「ありがとう。たすかったわ」
「ちょくちょく顔を見せに帰って来いよ」
「そうね」
そうするとはいわなかった。峰彦は狭い玄関で靴を履いてアパートを後にした。鷹彦は一度も僕と目を合わせなかったな、とおもった。
これから二人は、あの狭いアパートで暮らすのだ。なんでも二人で分け合うそうだ。重い荷物も分け合って、食事も二人で分け合って、喜びや寂しさも分け合うのだろう。
ハンドルを握る峰彦の手に力がこもった。大切なものが、ごっそり体から抜け落ちていくようで、何かに掴まっていなければ崩れそうだった。
まほろと鷹彦の生活は静かに始まった。仕事を持たないまほろは、ほとんど家にいて、二人分の洗濯や食事をつくり、鷹彦が散らかす衣類やブルーレイディスクを片付けたりしていた。
そんなまほろを、鷹彦はベッドを折りたたんだソファに寝そべって、じっと目で追っていた。何もする気になれないらしく、テレビを見ても楽しくなさそうだし、バイクで出かけることもせず、ぼんやりしていた。
そんな鷹彦を、まほろは買い物に誘ったり、散歩に連れ出した。髪が伸びすぎたので、無理やり散髪に行かせて髪を切らせた。鷹彦の遊び仲間から誘いの電話がかかってくるときもあった。行かないでほしいと心の中で願うのだが、浮かないながらも鷹彦は夜の街に出掛けて行った。
まほろは鷹彦が帰ってくるまで何時間でも起きていた。時には明け方帰ってくるときもあった。一人で待っている時間は、まほろにとっては苦痛以外のなにものでもなかった。
限りなく沈み込んでいく。自分は、いったい、何をしたいのだろう。どうしたいのだろう。鷹彦を慰めるつもりで、一大決心をして引っ越してきたのに、わたしは、少しも鷹彦の慰めになっていない。それどころか、こうして一人でいると、自分自身が不安でたまらない。その不安は、鷹彦がそばにいる時でも同じだ。しっかりしなければとおもうのに、強い言葉を鷹彦に投げつけることさえできない。峰彦がいてくれたらいいのに、とおもって、まほろははっとした。峰彦に会いたかった。
いつもまほろの前に毅然と立っていた峰彦は、まほろにとって岩のような存在だった。峰彦がいればだいじょうぶ。峰彦がなんとかしてくれる。なにがあっても、最後は必ず峰彦が収めてくれる。でも、今度ばかりは、だめみたい。峰彦がいないから。帰りたい。峰彦のところに。
まほろはソファで両膝を抱えて泣いていた。台所の水切りかごには、赤と青のマグカップが並んでいる。コップも二つ、お茶碗とお椀も二つづつ、お箸も、お皿も、なにもかも。
炊飯器でご飯を炊くのにも慣れた。包丁で指を切る回数も減った。お肉やお魚も焦がさず焼けるようになった。なれないことばかりで、すごくたいへん。でも、わたしは鷹彦より六歳も年上だから泣き言はいえない。息が詰まりそうな二人だけの暮らしでも、なんでもないような顔をして、鷹彦が立ち直るまで、頑張るのだ。
両膝に顔をうずめて、まほろは静かに泣き続けた。いつこの生活に終わりが来るのだろう。あと、どれくらい我慢したら、頑張ったら、鷹彦は自分を取り戻してくれるのだろう。
アパートの二階の角部屋に明かりがついていた。明かりがついているのはその部屋だけで、あとの部屋は真っ暗だった。周りの住宅も雨戸を閉めていてエアコンの室外機の作動音だけがしている。路地の街灯の明かりの中を、首輪のない猫が急ぎ足で横切って行った。 草もろくに生えていないアスファルトで固められた路の暗がりから虫の音が聞こえてくる。その虫の音は秋の気配を告げていた。
鷹彦は足を忍ばせて外階段を上った。静かに角部屋の部屋の鍵を回す。部屋中にこうこうと明かりが点いていた。靴を脱いであがると、ソファで両膝を抱えたまま、まほろが肘掛けにもたれて眠っていた。頬の涙のあとを見て鷹彦はうなだれた。ごめん、まほろ、と言葉に出さずに詫びて、まほろの足元に腰を下ろす。ジーパンのポケットから携帯電話を出して、高校を卒業してから知り合った遊び仲間の電話番号を表示した。
まほろが傷ついていることはわかっていた。遊び仲間から抜けなくてはいけないこともわかっていた。誘われると、気がすすまないながらも出かけていく気の弱さにもうんざりしていた。さらに始末の悪いことに、行けばそれなりにおもしろく、騒いで笑って現実の憂さから逃れてすっきりしていることだった。だが、それはひと時のことで、すぐにまほろの顔が浮かんだ。
慣れない生活で苦心しているまほろがかわいそうだった。料理などできないので、作るものはひどいものだ。でも、一生懸命作っている姿を見ればありがたくて、無理して全部平らげた。まほろの美しかった手は包丁の切り傷と洗剤負けで荒れていたし、心労のせいで肌からは艶が消えていた。まほろのやつれた姿を見たら、峰彦はきっと怒るだろうとおもった。これ以上、まほろに悲しいおもいはさせたくなかった。
遊び仲間の名前を順番に眺めていく。番号とアドレスを消してしまおうかと指が迷う。悪い奴らじゃないんだと、言い訳している自分がいる。遊び方が派手で、ちょっとばかり乱暴なだけなんだと庇ってみたりする。世間では、そういう連中を何と呼ぶのだろう。度が過ぎることもあるが、だからスリルがあって面白かった。でも、もうやめなくては。このままではいけない。それなのに、指は削除するのを拒んでた。
スクロールしていった中に、高校時代にいつも一緒にバイクを転がしていた下地徹の名前が出てきた。懐かしかった。下地はどうしているだろう。沖縄に帰って、本当に漁師をやっているのだろうか。無性に下地と話しがしたかった。
「鷹彦。帰っていたの」
まほろが目を覚まして、抱えていた膝を下ろした。
「うん」
鷹彦は携帯電話をポケットにしまった。
「電気を消して、もう寝なさい」
立ち上がって、まほろは自分の寝室に入って行った。遅く帰って来たことを叱るかとおもったのに、案外そっけなかった。風呂場に行ってシャワーを浴びながら、あした下地に電話してみようとおもった。
翌日、まほろは会社にいる顕人から呼び出されて出掛けて行った。髪を整え、水色のワンピースを着て薄く化粧もしたが、まほろのやつれは隠しようもなく、特に荒れた指先は苦労を感じさせた。
顕人は、まほろに苦労させている俺に腹を立て、ついでにまほろの不甲斐なさに失望するだろうなとおもった。
まほろは悪くない。俺のために自分を犠牲にしてついてきてくれたのだ、と心の中で顕人に弁解しながら自分を責めた。鬱々としたまま、沖縄にいる下地に電話してみた。昼近い時間だから、仕事中なら出られないだろうとおもったが、それならかけなおせばいい。だが、電話はじきにつながった。
「おう! めずらしいなあ。オレのことなんか忘れちまったかと思っていたよ。どうしてたよ」
威勢のいい下地の声が耳に飛び込んできた。懐かしかった。一瞬で高校の時の楽しさが戻ってきた。鷹彦の口元に笑みが浮かんだ。
「忘れてないよ。元気にしてたか。いま、どこだ」
「ばかやろ。沖縄にきまってるだろが。沖縄の糸満だよ。糸満がどこかわかんなかったらグーグルで調べろ」
「いや、そこまで興味ないから」
「相変わらず醒めてるな。で、あれからどうしてた」
「どうもしてないよ」
「働いているんだろ。仕事はなにしてるんだ」
「してない。ニートだな」
「なにがニートだ、えらそうに。いいよな親が金持ちは。プータローしてても面倒見てもらえるんだからな」
「下地はどうなんだよ」
「俺は親父の船に乗ってるよ」
「やっぱり漁師、してるんだ」
「おう。朝帰ってきて、漁港に水揚げして、一段落してアパートに帰って寝るところだ」
「そうか。ほんとに漁師になったんだ」
そうか、下地は、自分が決めた道を歩いていたんだ、とおもった。
「写真送るよ。五月の糸満ハーレーのときは、俺もサバニに乗ったんだ。暇みたいだから、そのうち沖縄に遊びに来いよ。海はきれいだし、空気もいいし、魚も泡盛もうまいぞ」
「酒はだめだろ」
「そうだったな。あはは」
他愛ない話をして電話を終えたあと、下地から次々と携帯電話に写真が送られてきた。それは下地が高校を卒業してから現在に至るまでの下地が歩いた軌跡だった。
タオルで頭を縛り、漁船に乗ってポーズをとっているのもあれば、漁港で揚がった魚を箱に入れて運んでいるところもある。塩焼けした骨太の男たちに混じって働く下地は初々しく、いつも人に取り囲まれて笑っていた。
下地がいっていた糸満ハーレーは、古く糸満市に伝わる祭りで、おおぜいの見物人で賑わう。揃いの衣装を着た若者たちが、サバニと呼ばれるハーレー舟に乗り込み、真っ青な海面を力強く櫂で漕いで順位を競う祭りだ。下地の雄姿に笑みがこぼれた。サンゴ礁で泳いでいるところや、海の中の色鮮やかな魚を撮った写真もあった。サンゴが砕けた白い砂浜と、透き通る真っ青な海と、空に浮かぶ眩しい雲。
体の中の血がうずきだした。泳ぎたかった。冷たい水に全身を浸して、水の抵抗に逆らい、体中の筋肉をしならせて、息が切れるまで泳ぎたい。
下地の自信にあふれた元気な声と、何枚もの沖縄の海の写真を見ているうちに、鷹彦のなかに消えかけていた何かが、再び息づきはじめた。だらけきった心と体を、久しぶりに徹底的にしごきたくなった。
下地がかつて、高校を出たら沖縄に帰って親父の船に乗って漁師になるといっていたが、現実にその姿を写真の中に見て、鷹彦はじっとしていられなくなった。俺だって、何かやらなきゃ。このまま、なにもしないで、すねて毎日を無駄にすごして、まほろに悲しいおもいをさせているようじゃだめだ。下地みたいに、俺だって。
俺だって、と鷹彦は顔を上げた。開けた部屋の窓の向こうには、住宅やアパートの屋根しか見えないが、その上には秋雲がたなびく青空が広がっていた。沖縄の空のような青さでなくても、鷹彦には十分に美しい東京の空だった。
社長室に入ってきたまほろを一目見て顕人は顔をしかめた。
「ちゃんと食べているのか。そんなに痩せて」
叱責に近い口調だった。まほろは身を竦めた。これでは帰って来いと言われかねない。
「ただの夏痩せだから。心配しないで」
「鷹彦はどんな具合だ」
机の前に坐って腕組みをする顕人の視線を避けて、応接用のテーブルに歩いていく。椅子に掛けながら、なんと答えようと考えを巡らせた。
「落ち着いてきたけど、なにをする気にもなれないみたい」
「まあいいさ。一年間は自由にさせてやろう。そのあとは」
と、言葉をきった先が怖かった。その先はどうするつもりなのだろう。このまま鷹彦がずるずると無気力に暮らし続けるなら、放り出すつもりだとでもいうのだろうか。捨てるまでだとでもいうのだろうか。まほろはこぶしを握った。そんなことはさせない。おとなたちの勝手にはさせない。一人の子供を、物のようにあっちへやったりこっちへやったり、いらなくなったら捨てればいいといわんばかりの傲岸さに、怒りがわいた。
「そのあとは、どうするつもりなの。いらなくなったペットを返品するみたいに千住さんのところに送り返すの」
めずらしく棘のある言い方に顕人は苦笑した。
「怒ったのか」
「ずっと怒ってるわ。お祖父ちゃまもお父さまも、ひどすぎる。わたしたしたちをなんだと思っているの。お二人のおもちゃじゃないわ」
「そうだな。さて、どうしたものか。私も親父も、鷹彦のことは心配しているんだよ。とくに親父は鷹彦をかわいがっていたからな。あれの気持ちが収まるまで、そばにいてやってくれ。まずは、鷹彦がどう考え、どのように決心するか、それによるな。鷹彦の気持ちに従うよ。千住に帰るというならそれでいいし、今までのように蒔江田の家族としてやっていくというのなら歓迎するし、鷹彦しだいだ」
「鷹彦がわたしと結婚しなくても、蒔江田の家族として大切にしてくれるというの」
「もちろんだよ。鷹彦はうちで大きくなった子だ」
「お祖父ちゃまもそう思ってくれるかしら」
「それはどうかな。親父は頑固だからな」
「これ以上、鷹彦を傷つけたら絶対に許さない」
顕人は軽く笑っただけだった。社長室を去るとき、顕人が生活費は足りているかと尋ねたので、おばちゃんが口座に振り込んでくれる分で足りていると答えて部屋を後にした。
鷹彦が父や祖父に振り回されないように、わたしがしっかりしなければとおもった。慣れない家事がなんだというのだ。指を包丁で切るくらい、なんだというのだ。鷹彦のようすに不安がったり、夜出て行くのを止める勇気がなかったり、そんな弱気でどうするのだ。もっと強く鷹彦に正面から向かっていこう。いままで、わたしは逃げていた。
まほろは、雲が晴れたような気がした。自分を見失っていたのは鷹彦ばかりではなく、自分も同じだったのだと気がついた。鷹彦との暮らしを、前向きに築いていこうとおもった。鷹彦が鷹彦らしく、わたしもわたしらしく生きていけるように、積極的に鷹彦にかかわっていこうとおもった。
足取りも軽く一階のロビーを玄関ドアに向かって歩いた。背の高い観葉植物と来客用のソファセットが置いてある一角を通り過ぎて、玄関を出ようとしたとき、名前を呼ばれたような気がして振り向いたが、来客が出入りしている玄関ホールに見知った顔はなかった。気のせいだとおもってまほろは会社を後にした。
社員用のエレベーターから出てきて、まほろに声をかけた峰彦だったが、通りかかった専務に声をかけられて足を止めた。一年前からかかりきりになっているプロジェクトが最終段階に入ったので、その会議が十分後に始まる。一緒に行こうと誘われた。
峰彦が中心になって進めていた企画だったのでプレゼンテーションも峰彦がすることになっていた。ちらりと外に目を向けたが、すでにまほろの姿はなかった。
一瞬目にした後ろ姿だったが、まほろは痩せてしまっていた。それが気になったが、峰彦は専務と一緒にエレベーターに乗った。せっかく顕人から、まほろが帰るところだと電話をもらったのに、残念だった。一か月近く会っていない。電話もよこさないし、蒔江田の家にも寄り付かないので、まほろが来ていると知って急いで降りてきたのに会えなかった。顔を見たかった。声も聴きたかった。心配しているといいたかった。
だが、二十四階で専務と別れて経営企画室に寄り、書類とタブレットを持って役員会議室に向かう峰彦の頭の中は、すでに仕事に占領されていた
アパートに帰ってみると、驚いたことに鷹彦が掃除機をかけていた。
「どうしたの。鷹彦」
「おかえり。おじさん、どうだった。機嫌が悪かった?」
「悪いに決まっているわ」
「俺のこと、怒ってた?」
「怒ってなかった。一年間はすきにすればいいって」
「ずいぶん物分かりがいいんだね。おじさんらしくないな」
「それ、どういう意味」
着替えに部屋に入ろうとして、ドアノブを掴む手を止めて振り向いた。鷹彦も掃除機のスイッチをきる。とたんに静かになった。
「だってさ、おじさんて、計算する人だよね。プラスが出ない博打は絶対しないタイプじゃない」
「なにそれ」
部屋でTシャツとスカートに着替えて台所に行くと、掃除を終えた鷹彦が、冷蔵庫を覗き込んでいた。
「まほろ。スーパーに買い物に行こうぜ。食料品がきれてる。昼時だから、ファミレスで昼飯食って、夕飯の総菜を買ってこようよ」
「ええ」
二人は日盛りの中を歩いて駅前にあるファミレスに寄り、鷹彦はボリュウームのあるステーキセット、まほろはサラダ付きパスタを食べた。鷹彦は、久しぶりに快活だった。まほろは鷹彦のペースに戸惑ったが、スーパーで買い物をしながらふざけてくる鷹彦に、ようやく笑い声が出た。
アパートに帰る道で、スーパーのレジ袋を提げた鷹彦が、昔のように明るい声でいった。
「俺、またスイミングに行くことにしたんだ。まほろ、スクールの月謝、頼むな」
「そう。泳ぎたくなったんだ」
「うん。泳ぎたい。がむしゃらに、息が切れるまで泳ぎたいんだ」
西日が鷹彦の顔を赤く染めていた。吹いてくる風に秋の冷たさが混ざっていたが、久しぶりに見る鷹彦の若々しい頬は上気していた。
鷹彦の中で何かが変化している。それをまほろは感じ取っていた。




