第12話
一階の受付に降りてきた峰彦は、ホールのソファにだらしなく坐って、スマートフォンでゲームをしてる鷹彦に顔をしかめた。まわりのテーブルでは、営業関係の来客が、担当社員と名刺を交換したり談笑したりしている。ビジネススーツ姿しか見当たらない蒔江田本社ビルの洗練された空間に、色褪せた半袖のTシャツと擦り切れたジーンズを腰まで下げた長髪の鷹彦は、やけに目立った。
つかつかと歩み寄って、
「鷹彦」
と、声をかけると、顔にかかった前髪の隙間から物憂げに見上げてくる。
「兄貴。おじさんが来いってうるさいから、来てやったよ」
「ひどい格好だ。わざとだな」
鷹彦がニヤリと笑う。峰彦は唇を歪めた。
「社内を案内してやる」
「会社見学に来たわけじゃないよ。おじさんが話があるっていうからさ。話なら家でもできるのに」
「夜遊びばかりして帰って来ないからだ。社長だって、おまえを会社になんか呼びたくなかったろうさ」
「じゃあ、帰るよ」
のそりと立ち上がった鷹彦の身長は、峰彦を追い越していた。ほっそりした若い体だが、肩も胸も筋肉がTシャツを押し返している。峰彦はTシャツの後ろ襟を掴んだ。
「来い」
まわりの視線が二人に集まった。受付に坐っている三人の秘書も興味津々だ。鷹彦は敏感にそれらの視線を拾って挑発的な笑みをうかべた。崩れたような、独特の笑みだった。しかし、峰彦は周りなど見なかった。
周りに自分たちがどう映っているかなど峰彦は気にしなかった。自分に対する自信がそうさせるのだが、峰彦のそういう傲慢ともいえる態度が鷹彦には癇に障った。鷹彦は乱暴に峰彦の手を払った。
「放せよ。襟が伸びるだろ」
「もっといい服を買ってやる」
「いらねえよ。それよか、小遣いくれよ。最近おばちゃんが渋くてさ」
「社長に無心しろ。その勇気があるならな」
「無心してやろうじゃないか。兄貴には社長でも、俺にはおじさんだからな」
皮肉な笑みに優越感をのぞかせて、鷹彦は胸をそらした。峰彦が歩き出すと、数歩遅れてジーンズのポケットに両手を突っ込んで、踊るようについて来る。一階から始まって、二階、三階と大雑把に各部署を見せて、どのような仕事をしているか説明する。
峰彦が働いている二十四階の経営企画室に入ったとき、それまでの雰囲気とちがって、ピリッとした空気に足が止まった。エリート集団だった。その中で、ひときわ目立つ女性がいた。岡田レイナだった。
真っ黒な髪をうなじでまとめて黒縁のセルの眼鏡をかけていた。光沢のある白のブラウスに黒のタイトスカートをはいて、蝶のデザインのシルバーのバックルがついた赤いエナメルベルトをしていた。眼鏡の奥の大きな瞳が鷹彦をとらえ、嘲笑するように細くなった。 レイナの視線が、鷹彦の頭のてっぺんから、擦り切れたスニーカーまで降りていく。レイナから皮肉な笑みは消えない。彼女はちらりと峰彦に視線を移した。峰彦にレイナと同じ笑みが浮かんだ。火傷したように鷹彦はジーンズのポケットから手を抜いた。頭と顔が瞬時に熱くなる。鷹彦は経営企画室から逃げ出していた。
廊下で鷹彦は、噛みつきそうに峰彦を睨んだ。
「俺に恥をかかせたな。会社の中を引きまわして、俺を笑いものにするために呼んだんだろ」
「バカをいえ。おまえが社長に恥をかかせたんだ。なんだ、その恰好は。身内が働いている会社に来るんだ。それなりの常識があるだろ」
いうだけいって、峰彦は磨き抜かれた廊下を歩いてエレベーターホールに戻った。ボタンを押してエレベーターに乗り込む。鷹彦も渋々エレベーターに乗った。二十六階で降りると、正面に役員室来客用の受付があり、秘書課の女性が二人坐っていた。
受付の一人が峰彦に、
「社長がお待ちです」
と、いった。礼をいって、受付のまえを通り過ぎ、絨毯が敷かれた廊下を進んで社長室のプレートがついたドアをノックした。ドアをあけて中に入り、峰彦は机の前に坐っている顕人に一礼した。
「鷹彦を連れてまいりました」
顕人は決裁書類に判を押して、書類箱に戻してから顔を上げた。家にいる時と同じ冷静な表情は、鷹彦のだらしない格好を見ても変化しなかった。
「来たか。そろそろまほろも来る頃だが」
腕時計に目を走らせながら立ち上がって、対談用のテーブルセットのほうに峰彦と鷹彦を導いた。坐りながら、顕人はいつものように淡々とした口調で鷹彦に声をかけた。
「はじめて会社の中を見ただろう? 毎日遊んでいるのも飽きたんじゃないかとおもってね。うちでバイトでもしないか」
「わざわざ嫌味を言うために会社に呼んだの」
「拗ねるなよ」
顕人は笑った。顕人が笑うのは珍しかった。しかも楽しそうにだ。やはり生まれたときから蒔江田で育った鷹彦は違うのかもしれない。顕人のことを煙たがったり恐れたりしないから、自然に顕人も気を許してしまうのだろう。服装のことには触れずに、顕人は伸び放題の髪を顎で指した。
「床屋ぐらい行きなさい。それじゃあ、まるで浮浪児だ」
「そうだな。床屋ぐらい行くかな。じゃあ、おじさん。散髪代ちょうだい。俺、金ないんだよ」
峰彦が鷹彦にだけわかるように目を剥いた。鷹彦もこっそり笑い返す。
「それじゃあ来月、陸子さんからこづかいをもらったら、真っ先に床屋に行ってきなさい」
鷹彦は肩をすくめた。顕人は儀衛門のように甘くない。
「ところで、きょうは何の話しなの。まほろも来るんでしょ。大事な話なの」
鷹彦は話を促した。
「ほんとうは、こんな話は会社でするべきじゃないんだが、おまえが家に寄り付かないから非常手段だ。これからのおまえたちの話だよ」
「俺たちの」
鷹彦と峰彦は顔を見合わせた。ノックの音がしてドアが開いた。サマースーツ姿のまほろが、四人分のアイスコーヒーをトレーに乗せて入ってきた。
「なんだ、まほろ。いつこの会社のウエートレスになったんだ」
鷹彦がからかい口調でまほろにいった。まほろも笑いながらテーブルにコーヒーを置いてく。
「秘書さんがコーヒーを持っていくところだったから、わたしが代わりに持ってきたの。鷹彦、久しぶりね。相変わらず汚いわね」
「うるせえな」
プイとふくれて横を向く。
「まほろも坐りなさい」
顕人にいわれて、まほろは顕人の隣に坐った。正面の峰彦にも笑顔を向ける。鷹彦に向ける表情とちがって、峰彦と目を合わせるまほろの瞳はしっとりしていた。
「三人揃ったところで、話というのはだね」
いったん言葉を止めて顕人は、三人の顔を順番に見ていった。
「ずっと気になっていたことなんだが、鷹彦は先日十九歳になったな」
「おじさん。俺、大学行くつもりはないからね」
「待て待て。おまえのこれからのことは、ゆっくり話し合おう。今ここで大学に行かないと決めてしまうことはないし、就職すると決めることもない。一年間の猶予をあげよう。鷹彦にはその権利がある。なぜなら、おまえがこんなふうになってしまったのも、みんな父が原因だからだ」
いきなり顕人は核心に触れた。三人に緊張が走った。
「峰彦と鷹彦が親元を離れて、なぜ蒔江田で大きくなったかという理由は父から聞いたとおもう」
三人は無言で顕人の次の言葉を待った。
「酔狂な話だよ。だが、峰彦と鷹彦にとっては酔狂では済まないことだ。今更だが、父をとめなかった私にも責任がある。そこでだ、本来あるべき形に戻そうと思うのだが、どうだろう」
「どういうことでしょうか」
峰彦が警戒するようにいった。
「つまりだね。峰彦と鷹彦は自由になるということだよ。言い換えれば、蒔江田から解放されるということだ」
「待ってください、社長。それは鷹彦とまほろの婚約を解消して、さらに、鷹彦と私を千住に返すということですか」
「簡単に言うとそういうことになるかな」
兄弟とまほろは絶句した。
「なんだよそれ」
鷹彦が大きな声をだした。しかし、顕人の冷静さは変わらない。
「これは提案だよ。そうしたいというなら、私が父に話してあげるよ。長いこと峰彦と鷹彦を縛ってきたが、もう父の言うなりになることはない。蒔江田で暮らしたければ暮らせばいいし、千住に帰りたかったら帰ってもいいということだ。昔交わした千住氏と父の約束など、無効にしようというのだよ」
「なぜ、いま、そんなことをおっしゃるのですか」
身を乗り出す峰彦に、顕人は軽く頷いた。
「来年鷹彦が二十歳になるからだよ。このままだと父の思うとおりになってしまいそうだからね。この先どうするか、改めて考えてもいいんじゃないかと思ってね」
無言になってしまった三人を顕人は見回しながら続けた。
「父をとめなかった私にも責任があると言ったろ。無責任な話だが、その当時は父がそうしたいならすればいい、それで父の気が済むのならと安易に考えたんだ。正直、子供に興味はなかった。仕事がおもしろくてね、どうでもよかった。だが、鷹彦とまほろが結納を交わして現実味を帯びてきて、疑問を持ち始めたんだ」
鷹彦の目がきらりと光った。
「俺とまほろが、ほんとうに結婚して、蒔江田の籍に入ったりしたら困ると思いはじめたんだな」
「そうじゃないよ。鷹彦。こんな形の結婚はおかしいだろ。不自然だ」
顕人の表情に動揺はなかった。声もおちついている。本心で言っていることがわかった。だが、鷹彦は顕人の真意を測りかねて目が吊り上がっていた。
「俺のだらしなさに嫌気がさしたんだろ? 俺を蒔江田に入れるのが嫌になったんだろ? だから、そんなことを言うんだろ、おじさん」
「では聞くがね、おまえは、まほろを一人の女性として愛しているのか」
「もちろんだ。子供のころから、俺たちは結婚するんだって言って大きくなったんだから」
「その気持ちは、作られた気持ちではないのかね。思い込まされた意志ではないのかね」
「そんなことない! だったらまほろに聞いてみればいい。なあ、まほろ。そうだよな」
まほろはぎょっとした。ぎょっとしてしまったことに動揺した。心の隙を突かれたような気がした。まほろの目が泳いで峰彦にたどりついた。峰彦は問いつめるような厳しい表情をしていた。峰彦の目を見つめ返せなくて、下を向いてしまった。
「わたしは、わたしも、あの、」
「どうして下を向くんだ。顔を上げろよ。俺たちは、ずっと一緒だったじゃないか」
鷹彦がじれったそうにいった。
「でも、それは、子供の頃の話で、鷹彦が中学になったころから、わたしは、もう、おばさんで、だから、年が離れすぎているから、おばさんだから、鷹彦には、ふさわしくないと思って」
「なんだよ、まほろ。はっきり言えよ。だからまほろはだめなんだ。大事なところではっきりしないから、女を殴るような男に引っかかるんだ」
全員がはっとした。顕人が何か言う前に、峰彦が鷹彦に詰め寄った。
「鷹彦。よけいなことは言うな。終わったことだ」
「兄貴こそ、いつまで蒔江田に居座るつもりなんだよ。兄貴こそ千住に帰れよ」
「おまえも一緒なら帰ろう」
「俺はまほろと結婚するから残る。兄貴だけ蒔江田から去れ」
「だめ。だめ!」
まほろは立ち上がっていた。
「わたしたちは、きょうだいと同じ。きょうだいは、一緒に暮らさないとだめなのよ」
鷹彦も立ち上がった。
「俺と兄貴は兄弟だけど、まほろはきょうだいじゃないよ。きょうだいだったら、結婚できないだろ」
「だから、それは……」
「俺たちは結婚するんだ。まほろも、はっきりそう言え。そうすれば、それがおじさんへの答えになるんだ。そして、兄貴が千住に戻れば、すべてが整然となるんだ」
顕人がまほろを見つめていた。峰彦も食い入るように見つめている。鷹彦は、強い視線で返事を要求していた。裏切るなよ、まほろ。鷹彦の目は、そういっていた。
まほろは無意識に喉首をさすっていた。声が出なかった。息さえしていなかったかもしれない。なんと答えよう。なんと答えればいいのだろう。
「まほろ。言えよ。約束通り、俺と結婚するって」
「や、約束……」
約束って、何だろう。わたしは誰と約束をしたのだろう。結婚て、約束だからするのだろうか。
「わたしは、誰とも約束してない……」
不安におののく声だった。
「しただろ。まほろ」
「だ、だれと」
「俺としたじゃないか。おとなになったら結婚しようって」
「でも、それは、本物の約束じゃない。だって、そのときは、まだ、訳も分からない子供で、半分遊びで、だから」
「裏切者! だったら、俺は千住に帰ってやるさ。用無しは返品されてやるよ。俺は千住に捨てられて、今度は蒔江田からも捨てられるんだ」
鷹彦は峰彦を押しのけて社長室を飛び出していった。まほろはあとを追うか迷った。おろおろと手を揉みしだく。顕人は、ぬるくなってしまったアイスコーヒーで喉を湿らせた。
「やれやれ。良かれと思って話をしたんだが、すっかり怒らせてしまったな」
峰彦は顕人に一礼した。
「仕事に戻らせていただきます」
去り際に峰彦はまほろを一瞥した。まほろは深くうなだれて唇を結んでいた。まほろのことが気になったが、峰彦はドアをあけて退室し、仕事に戻っていった。
まずそうにアイスコーヒーを飲みながら、顕人は俯いているまほろを眺めていた。まほろは泣いていた。若い娘の複雑な気持ちなど理解できない顕人には、娘にかけてやる言葉を知らなかった。
一年がかりで進めてきたプロジェクトの報告書をまとめおえて、峰彦はほっと息をついた。時間を見ると十五時を回っていた。あれから鷹彦はどうしただろうか。家にちゃんと帰っただろうか。それとも、またどこかをほっつき歩いているのだろうか。
まほろのことも気になった。鷹彦に問い詰められたら、もともと頼りないところのあるまほろのことだから、鷹彦のいいなりになるとおもっていた。だから逡巡を見せたことが意外でもあった。
峰彦は書類を束ねて椅子から立ち上がった。数時間前に社長室で顕人からいわれた提言については、あとでゆっくり考えようとおもった。顕人の言うように儀衛門の思惑は別として、自分たち兄弟のこれからを考えるには今しかないようにもおもえた。だからこそ、顕人は、わざわざ鷹彦を会社にまで呼んで話をしたのかもしれない。どちらにしても、いまは仕事に集中だとおもって、書類を室長のところに持っていこうとしたときだった。
携帯電話の着信音が鳴った。書類を持ったまま、電話を耳に当てた。千住の母からだった。
「峰彦!」
叫び声に近い美苑の大声におもわず電話を耳から離していた。書類をいったんデスクに置く。
「どうしたのお母さん。仕事中に電話してくるなんて」
声を潜めた峰彦を遮るように、電話の向こうで器物が破壊される騒音が起こった。
「た、大変なの。鷹彦が、暴れてるの」
重いものが倒れるような地響きとガラスが割れる音、獣のようなわめき声。鷹彦の声だとすぐにわかった。近くに寛臣もいるらしくて、取り乱した怒声もする。
「み、峰彦。鷹彦を止めて。家の中が滅茶苦茶よ。ガラスが散乱して、足の踏み場もないわ。いったいどうしちゃったのよ」
峰彦は経営企画室を飛び出していた。エレベーターホールに走りながらまほろに電話を入れた。まほろはまだ会社にいて、顕人の雑用を手伝いながら時間調整をして、同窓会の集まりに出席するために、そろそろ社を出ようとしてるところだった。
鷹彦が実家で暴れているとの峰彦からの電話で、まほろも血相を変えてエレベーターホールに走った。一階のロビーで待っていた峰彦の腕を取り、地下駐車場に導いた。真っ赤なアクアのドアをあけて運転席に乗り込み、助手席のドアを開けてやると峰彦が乗ってきて、安全ベルトを締めたので車をスタートさせた。
まほろが運転する車の中で、峰彦はとっさにまほろに電話してしまったことに自分でも驚いていた。まほろでなければ鷹彦を止められないと直感したのだ。
昔、幼稚園だった鷹彦を連れて、まほろに内緒で千住の両親に会いに行ったことがあった。知らないところに連れて来られた鷹彦が泣きやまず、途方に暮れていたとき、十歳だったまほろが、蒔江田の里から、たった一人で兄弟を迎えに来た時のことを、峰彦は鮮やかに覚えていた。
どんなに不安で怖かっただろうとおもう。痩せて小さいまほろが、震える膝で千住の家の玄関に飛び込んできたときの姿は忘れることができない。今、二十五歳になったまほろは、口元を引き結んで前方を睨み付け、鷹彦のもとに車を走らせている。まほろの脳裏には、きっと泣き叫んでいる鷹彦の姿が映っているのだろう。早く、早くと、急きながらハンドルを操っているまほろに、顕人の執務室で見せた気弱さは微塵もなかった。かつて、兄弟を取り戻すために決然と千住に乗り込んできたときのように、まほろは瞬きもせず車を走らせていた。
ひどいありさまだった。テレビの大画面には無数のひびが入り、そのそばには輸入家具の椅子が片足折れて落ちている。掃き出し窓のガラスは粉々になって飛び散り、どれほどの力で引き倒したのか、ガラス製の飾り棚が割れて床に倒され、中のマイセンやロイヤルコペンハーゲンの陶器が粉々になっていた。
壁を飾っている油絵の額も割られているし、黒檀のテーブルも引きずられて位置が変わっている。倒れて床に散らばった観葉植物の土が美しい絨毯を黒く染め、割れたボトルからは洋酒の芳醇な香りが部屋中に充満している。
その部屋の真ん中で、スニーカーを履いた鷹彦が、一抱えもあるアールヌーボーのアンティークの鏡を狂ったように振り回していた。峰彦が部屋に姿を現したとき、真っ先に美苑が飛びついてきた。
「峰彦。鷹彦をなんとかしてちょうだい。頭がおかしくなっているのよ。誰の声も耳に入らないのよ」
寛臣も息を乱して峰彦の腕を掴んでくる。
「警察に電話しろ峰彦。手に負えん」
峰彦は両親の手を振り払った。
「警察には電話するな。僕が抑える」
「鷹彦」
と、峰彦は部屋の中に足を踏み出そうとした。そのとき、また腕を掴まれた。
「放せ!」
うるさそうに振り払う。
「靴を履いて、峰彦。足を怪我してしまうわ」
まほろだった。足元に革靴を揃えて置く。峰彦は足を靴にすべりこませた。つかつかと鷹彦に向かっていく。
「鷹彦。落ち着け」
「うるせえ!」
目を剥きだした鷹彦が、振り上げた鏡を峰彦に向かって打ち下ろそうとした。
「やめて! 鷹彦」
止めに入ろうとしたまほろの前に美苑が立ちふさがった。
「何しに来たの。誰の許可を得て家に入ってきたの。また息子たちを連れていくつもりなの。帰ってちょうだい。出て行きなさい」
美苑の剣幕に一瞬まほろの足が止まった。振り下ろされた鏡が、派手な音をたてて峰彦の近くで割れた。峰彦がとっさに体を背けて破片を避ける。ガラスは鷹彦の手や腕に跳ねて傷をつけた。
鷹彦がそばに落ちていたブロンズの馬の置物を取ろうとしたので、峰彦が足で蹴って遠くに飛ばし、屈んだ鷹彦の背中を腕ごと抑えこんだ。
「落ち着くんだ。鷹彦」
「くそ。放せよ」
「もういいだろう。これだけ暴れたら」
鷹彦は力任せに身をよじって峰彦を振りほどいた。両腕が開いた鷹彦の胸に、まほろが飛び込んでいった。
「鷹彦。まほろだよ。もうやめて!」
「まほろ……」
鷹彦は、恐る恐る焦点をまほろに合わせた。息がかかるほどの近さにまほろの歪んだ顔があった。
「鷹彦。まほろが迎えに来たよ!」
みるみる鷹彦の瞳が大きくなる。
「まほろ。俺……」
「ごめんね鷹彦。まほろが悪かった。だから、一緒に帰ろう。ねっ」
嫌だというように首を振る。
「帰るもんか。帰る家なんかない。俺は、あっちにやられ、こっちにやられて、どこに帰ればいいのか、わからなくなったんだ。俺は、何回おとな達から捨てられればいいんだ。教えてくれよ。まほろ」
ぼろぼろ涙をこぼして訴える鷹彦の体は汗に濡れ、燃えるように熱かった。まほろは夢中で大きな体を抱きしめた。力をこめて、きつくきつく抱きしめる。
「だったら、まほろと暮らそう。ね、鷹彦。まほろと二人で、小さなアパートを借りて、二人だけで暮らそう。そうしよう。ね、鷹彦」
ふうぅと鷹彦は息を吐きだした。そして、思い出したようにまほろを抱きしめて、声を放って泣き出したのだった。
悲しさともどかしさと悔しさの入り混じった泣き声が、まほろの体の中に響いてくる。火傷しそうなほど熱い鷹彦の体が不憫で、夢中で抱きしめていた。二人を見つめる峰彦の瞳が弱々しく揺らいでいるのに気づきもせずに。




