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まほろと鷹彦 だけど峰彦   作者: 深瀬静流
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第10話

 パソコンを広げていた峰彦は、鷹彦から送られてきた結納式の写真に驚いた。

「結納だと?」

 あまりの突然に言葉を失う。

――俺たち、婚約しました。笑えるだろ――。

 そんなコメントが添えられていた。まほろの横には儀衛門。鷹彦の横には寛臣と美苑が並んでいた。儀衛門だけが微笑んでいて、ほかは全員唇を結んでいた。

 峰彦はやられたとおもった。儀衛門にしてやられた。僕が日本を留守にしている隙に、儀衛門は二人を婚約させたのだ。僕がいないあいだに。

 デリー・サウスキャンパス大学のそばにあるホテルの七階の窓からは、緑の芝生が広がるエキゾチックな庭園が見下ろせた。雨は止んでいたが、雨期の時期だったので庭はたっぷり濡れていた。日本の梅雨とちがって、インドの雨期はスコールのように降る。室内にいれば空調が効いているので肌はべたつかないが、外に出ると蒸し暑く、日本の梅雨とは違う苦しさがある。あと一日、仕事の予定が入っているので、日本に帰れるのは、あさっての夜になるだろう。それまで待てなくて、峰彦は隣の顕人の部屋をノックしていた。

 顕人は猫足の書き物机の前に座って電話中だった。指を一本立てて、少し待つように合図を送り、そのまま英語で会話を続ける。半袖のカジュアルシャツにチノパン姿の顕人は、会社で見せる姿とは違ってリラックスしていた。会話の端々に笑みがこぼれるのも、私的な関係の友人なのだろう。

 待つほどもなく電話を切って冷蔵庫に歩いていき、中からミネラルウォーターの小瓶をとって、飲むかと身振りできいてくるので、峰彦がいらないと答えると栓を開けて一口飲んだ。

「どうした。なにかあったのか」

 そう訊ねる声も穏やかだ。峰彦は書き物机の上に置いてあるノートパソコンに視線を向けた。

「おじさんのパソコンに、鷹彦かまほろから写真が送られてきませんでしたか」

 峰彦は顕人を社長ではなく、おじさんと呼んだ。家の中の話なので、家人として顕人をそう呼んだのだ。顕人も、社長ではなく、家族としての顔を峰彦に向けた。

「鷹彦からだろ。結納の記念写真だって? いまの時代はそんなことをするんだね」

 峰彦の顔が赤くなった。怒りで目が吊り上がる。

「知ってたんですね」

「さあ。そんな話を聞いたような気もするが、あまり興味がないので覚えていないな」

「鷹彦はまだ十七歳だ。結納なんて、早すぎます」

「この件に関しては、私はタッチしていないんだよ。父に任せているんでね」

「あなたの娘のまほろのことなのに、ですか」

「まほろは私の娘だが、蒔江田の娘でもあるんだよ。蒔江田の唯一の正当な跡継ぎだ。私ひとりのものではないんでね」

「まほろの人生は、では、蒔江田のものだとでもいうのですか。まほろに自由に生きる権利はないというのですか」

「飛躍しすぎだよ峰彦。まほろと鷹彦が婚約した。結婚はまだまだ先だ。ほかに好きな相手ができて解消したいというのなら、そうすればいい。結婚するというのなら結婚すればいい。それだけの話だよ。私はどちらでもいいんだ」

「なんて無責任なんだ。あなたはそれでもまほろの父親ですか」

「峰彦。聞きたいんだが、おまえは、いったい、なにに怒っているんだ」

 峰彦は、はっとした。何に腹を立てているのだろう。自分の留守を狙ったように二人が婚約したからか、あるいは自分の知らないうちに弟の大切な未来が他人の手によって左右されてしまったことなのか、または鷹彦とまほろが儀衛門の思惑どおり婚約してしまったからなのか。そして顕人の、父親とはおもえない無責任さにか。だが、たんに鷹彦とまほろの結婚が、現実味を帯びてきたことへの焦りであることに、峰彦は思い至らなかった。

 写真では、儀衛門だけがうれしそうで、千住の両親と、鷹彦とまほろは表情が暗かった。こんなのは間違っている。

「なにもかもです。おじさんにも、儀衛門さんにも、鷹彦にも、まほろにも。そして、千住の両親にも。僕は全部に怒っているんだ」

 峰彦は許せなかった。儀衛門は、どんなふうに鷹彦とまほろを言いくるめたのだろう。帰ったら鷹彦に聞いてみよう。儀衛門が事の始まりからすべて本当のことを話したのかと。

 顕人は、睨みつけてくる峰彦の胸の内を楽しむように、唇に笑みを浮かべてミネラルウォーターを飲んでいる。なにもかも計画されたうえで、自分はインドの首都、デリーにいるのだと峰彦は悟った。


 インドも暑かったが、日本に帰ってきても暑かった。顕人は成田空港に着くなりスーツケースを空港から宅配便で自宅に送って、パソコンとわずかな着替えだけを持って、上野から新幹線で軽井沢に行ってしまった。

 涼しいところでゴルフ仲間と遊んでくるといっていたが、家に帰ったら峰彦がおとなしくしていないことがわかっているので逃げ出したのだ。

 峰彦にいったように、顕人はまほろと鷹彦の結婚については、ほんとうに無関心だった。峰彦と鷹彦も、親の縁に薄いというてんでは、まほろと大して変わらないが、まほろの場合は一人っ子なので、自分たちよりもかわいそうな気がした。

 日暮里で乗り換えて渋谷に出て、渋谷からはタクシーで家に帰った。家についたのは十二時を少し回った頃だった。キャリーケースを引いて玄関までのアプローチを歩いていると、二階の窓から鷹彦が顔を出した。

「あ、兄貴が帰って来た」と、いって、すぐ顔をひっこめた。玄関ドアを開けたら、階段を駆け下りてくる足音がして、鷹彦が玄関ホールに姿を現した。

「お帰り。疲れだだろ。おばちゃん。兄貴が帰って来たよ」

 奥に声をかけてキャリーケースを峰彦の手から取る。

「兄貴の部屋に置いてくるよ」

「うん。まほろは?」

「サークルの部室に行ってる。でも、兄貴が帰ってくるから早く帰るって言ってたよ。お土産を狙っているんだ」

「おまえは出掛けなかったのか」

「だれも出迎えないのはかわいそうだとおもってね。待ってたんだ」

 そんなかわいいことをいう弟に、疲れが溶けていくようだった。陸子が出てきて、お昼はまだかと訊くから、まだだと答えると、すぐに用意するといってキッチンに戻っていった。

「兄貴。写真見ただろ。驚いたか」

 荷物を置いて戻って来た鷹彦が、峰彦にまとわりつきながらダイニングルームについてきて顔を覗き込む。峰彦は、うるさそうにその顔を手でどけて椅子に腰を下ろした。

 陸子が入れてくれた日本茶を飲みながら、感情が高ぶらないように自分を戒めたが、鷹彦のはしゃいだようすにしだいに苛立っていった。陸子がしたくしてくれた昼食をとっている横で、さかんに話しかけてくる。

「俺の誕生日の夜、夕飯のあとに、おじいから部屋に呼ばれてさ、いきなりだぜ」

 峰彦は鯛の切り身の塩焼きを口に入れた。うまかった。わかめと豆腐の味噌汁も、空心菜のゴマ油炒め、青のりをふった温泉卵も、みるみる胃の中に収まっていく。

「何の話かとおもったら、結納だってさ。それも、明日だっていうんだもの、驚いちゃってさ」

 峰彦は返事をしないで黙々と食事を続ける。それでも鷹彦は嬉しそうだった。

「俺とまほろ、とうとう婚約しちゃったよ。すごいだろ。高二でフィアンセがいるなんて、俺ぐらいなもんじゃないかな。一気におとな気分?」

 あはは、と鷹彦は笑った。食事を終えた峰彦がお茶を飲み干して、シンクで洗い物をしている陸子に「ごちそうさま」と声をかけてから立ち上がった。

「鷹彦。話がある。僕の部屋においで」

「うん。お土産、お土産」

 ハミングするように同じ言葉を繰り返して峰彦のあとに続いた。先に部屋に入った鷹彦が、机の上のエアコンのリモコンを取って冷房を入れた。すぐに作動音がして、冷気が吹き出してくる。

 峰彦の部屋は東側にあるので、正午をまわると太陽が屋根を越えて西側にまわるので陰になる。室内のほの暗さと、日に晒されている庭の眩しさが対照的で美しい。

 鷹彦やまほろの部屋は雑多なもので溢れているが、この部屋は、あるべきものが、あるべき場所に収まっていて、必要なものしかなく、完結で潔かった。

「いつも思うんだけど、兄貴の部屋って、スポーツバッグ一つあれば、いつでも夜逃げできるほど片付いているよな」

「なんだ、それ」

「俺の部屋なんか、ごちゃごちゃしているけど、あそこはおれの城で、俺にとってはガラクタ一つとっても必要なものばっかなんだよな。自分の部屋だって感じる。でも、兄貴の部屋って、ホテルみたいだよな。生活感がないんだよね」

 蒔江田の家で生まれて、蒔江田の家で育ったおまえには、こここそが自分の家なのだろうが、僕は違う。僕のほんとうの家は千住の両親が住む家だ、といおうとしてやめた。部屋の入口に置かれたスーツケースを持ってきてベッドに置く。そのまま峰彦はベッドに腰を下ろした。鷹彦もスーツケースを間に挟んで腰掛けた。

「儀衛門さんから話は聞いたんだろ。おまえとまほろのこと。どうしてお前が蒔江田で大きくなったのか。千住の両親のことも。以前、おまえが僕に聞こうとしたことを、話してもらったんだろうな」

 きつい目で睨んでくる峰彦に、鷹彦は眉をひそめた。

「なんだよ。怖い顔をしてさ」

「儀衛門はなんと言って、お前たちを言いくるめたんだ」

「おじいのことを儀衛門なんて言うなよ。なんだよ、その言い方」

「おじいじゃない。他人だ」

「それくらいわかっているよ。血が繋がっていないのは知ってるさ。でも、俺を赤ん坊のときからかわいがってくれるおじいだよ」

「儀衛門は何て言ったんだ」

「儀衛門なんて呼ぶな!」


「ただいま。おばちゃん、峰彦は帰って来た?」

 まほろは靴を脱ぐのもじれったそうに奥に声をかけた。陸子がリビングから顔だけ出した。

「お帰りになりましたよ。鷹彦さまと一緒にお部屋におられますよ」

「わあ。鷹彦ったら、真っ先にお土産をもらうつもりなんだわ」

 まほろは峰彦の部屋に急いだ。ドアノブに手をかける。ノブを回すとドアの隙間から鷹彦の興奮した声がこぼれてきた。

「おじいは、千住の家柄血筋に憧れていたから、借金で苦しんでいたあの人に融資したんだ」

「融資だと。そう言ったのか、儀衛門は」

 峰彦から儀衛門と呼び捨てにされて、まほろは驚いた。憎しみのこもった声だった。

「融資の条件が俺とまほろの結婚だったんだ。おじいは俺に蒔江田を継いでもらいたいと千住の親に頭を下げたんだよ。あの蒔江田グループの蒔江田儀衛門がだよ。俺は、やがては蒔江田グループの頂点に立つ男なんだよ」

 誇らしげな鷹彦に、峰彦は力のない笑い声をもらした。

「なにが蒔江田グループの頂点に立つ男だ。金で買われたくせに」

「兄貴。言っていいことと悪いことがあるぞ。いまのは聞き捨てならないぞ。金で買われたとはなんだ」

 まほろは、わずかに開いたドアの隙間を、開けることも閉じることもできないでいた。固まってしまったように動けない。

 峰彦がベッドから立ち上がって机のほうに移動した。椅子を引いたが、坐るわけではなく、背もたれに手を乗せてベッドに坐っている鷹彦に振り向いた。

「僕は、あのとき、あの場にいて、なにもかも見ていたんだよ」

「おじいは、兄貴のことも言ってたよ。あのとき峰彦は九歳だったって。俺を一人にするのはかわいそうだからついてきたって。やさしい子だって、おじいは言ってたよ。それなのに、兄貴はおじいのことを儀衛門って呼び捨てにするんだな!」

「僕とおまえのことは、借金の肩代わりの担保だと言わなかったか」

「そんな言い方はしなかったよ。おじいがいったのは、金だけ出して俺たちに逃げられたら、損をするのはじいだからね、って言ったよ。俺もそのとおりだと思ったよ。おとなの勝手な都合で振り回されたのは俺や兄貴だけど、それとは別に、俺はまほろと結婚する。それでいいんだ」

 まほろの体に電流が走った。まほろには、鷹彦と婚約はしても結婚する実感はなかった。婚約と結婚には、かなり距離があるような気がした。

「僕が見た、あの日の話しをしよう。本当の話を」

 冷たい声だった。峰彦が話そうとする内容を聞くのがまほろは怖かった。だが、まほろ自身も思い悩み続けてきた疑問に峰彦が答えを出してくれるなら、聞かねばならないとおもった。

 いまこそ、爆弾を落としてやる。峰彦の胸は、何年にもわたって積もり積もった憤りで煮えたぎっていたが、頭は冷静に冴えわたっていた。鷹彦は、体は水泳で鍛えているから立派な体格をしているが、顔だちはまだまだ幼かった。親の愛情を知らずに育った弟だったが、そういう自分だって親と暮らしたのは、わずか九年だ。鷹彦の兄として、強くあらねばならないとおもいつめて生きてきた峰彦だったが、峰彦こそ、親の愛情に飢えていた。それを自覚していないことが、いつもぎりぎりで生きてきた峰彦の不幸だった。

「千住の家は、おまえが知っているのとは違って、その当時は、それは落ちぶれたものだった」

 過去を振り返るように峰彦が語りだした。

 子供心にも、家は貧しいとわかっていた。食事はもちろん、自分も含めて、両親の着るものは古びて時代遅れだった。

 母はいつも疲れて愚痴をこぼし続けていた。父は無口で家族と目も合わせなかった。屋敷は、本来なら素晴らしい日本建築で文化財なみなのに、管理する費用が無かったために、屋根には雑草が生えていて、過去の栄華の亡霊のようだった。

 夜になると、無駄に広くて、いくつあるかわからない部屋の明かりはすべて消え、家族がいる部屋にだけ照明がついているのが物悲しかった。

 僕は、寒々とした両親の関係を敏感に感じ取っていた。いつ離婚になっても不思議ではなかった。僕は両親の離婚を恐れた。母が自分たちを見限って出て行ってしまうのではないかと不安でしかたがなかった。ただ、父が酒やギャンブルに逃げなかったのだけはよかった。千住の当主としての誇りが、父にはあったのだ。

 藤棚の花が甘く薫る季節に来客があった。来客は隣接している千住宝物館の応接室に通すのが通例だったので、自宅の客間に通すのは珍しかった。

 客は二人だった。ひとりは老人で、紋付の羽織袴という正装で、腰には刀の代わりに扇子を挿していた。もう一人は、仕立てはいいが地味なスーツを着た中年男で、ぼそぼそとした話し方をする男だった。

 両親は異常に緊張していた。父はもちろんだったが、母は汗をかくには早い季節だったのに、臨月近い体で脂汗を流していた。回遊式の荒れ果てた庭は、春の日差しに雑草がのび広がり、水が枯れた池の底を破って草が猛々しく突き出ていた。

 母は前屈みになって大きなお腹をかばった。うなじには汗の玉が浮かび苦しそうだった。

 ぼそぼそとした話し方をする男が、年代物の漆塗りの卓に紙幣ぐらいの大きさの紙を置いた。紙には数字が書かれていた。小切手だった。1000000と書かれたそれを何枚も、父と母の目の前に、見せびらかすように置いていった。

 はじめは、なにが始まったのかわからなかった。それまでは数字の単位は百万だったのに、老人が自ら僕にさしだした小切手には一千万と書かれていた。老人は、積み上げた小切手はお父さんに、そして、この一千万は峰彦くんにあげようといった。

 子供心にも、総額三千万という金額は大金だとわかった。だが、老人の提示してきた金は、最終的には臆という金額だった。

 母が、汗まみれになって泣き崩れた。僕は妊娠している母の具合が悪くなったのかとおもって心配した。すると、母が叫んだんだ。

「峰彦ちゃん。この人たちはね、赤ちゃんを買いに来たのよ」と。

 あとは混乱だった。ヒステリックに泣き叫ぶ母と、感情的に怒鳴りつける父。二人は、大声で怒鳴り合いながら、互いを責めあい、罵りあいながら、生まれてくる子供と借金を天秤にかけたんだ。そして、金の威力に屈服したんだ。

 母は、老人に哀願した。せめて生まれてくる子供が成人するまでこの手で育てさせてくれと。生まれてすぐ渡すなんて嫌だと、声を振り絞って泣いた。僕は考えた。父と母は、喉から手が出るほどお金が欲しい。老人が提示してくれたお金は両親を救ってくれる。でも、その代り、赤ん坊は取られてしまう。赤ん坊は老人のところで育てられて、やがては孫のまほろという女の子と結婚することになるらしい。老人は大金持ちのようだ。悪い話じゃない。

 そうだとも。僕はそう結論付けて、少しぐらいなら、かわいそうなおまえのそばにいてやるといったんだよ。それなら母も少しは安心するだろうとおもったからだ。

 おまえの大好きなおじいは、僕の両親の苦境に付け込んで、金でおまえを買ったんだよ。儀衛門という老人は、そういう男なんだ。


 峰彦が話し終えると、耳鳴りのような静寂が部屋を満たした。いつも冷静な峰彦だったが、さすがに息が震えていた。それに反して、鷹彦のほうは息さえしていないようだった。瞬きさえ忘れている。見開いた目が真っ赤だった。

「少しぐらい、だと?」

 鷹彦はつかえそうになる声を振り絞った。

「少しぐらいなら、かわいそうなおまえのそばにいてやるだと? ふざけるな。なにが少しぐらいだ。まだいるじゃないか。兄貴の母親が、何度も帰って来いっていっているのを知ってるんだぞ。なんでそうしなかったんだ。俺のためだなんていうなよな」

 峰彦は答えなかった。鷹彦と睨み合ったまま、身動きもしない。

「もしかして、兄貴のほうが蒔江田の財産を狙っているんじゃないのか。俺が手に入れるものを横取りする気なんだろ。だから蒔江田に居すわっているんだろ」

「違う!」

 峰彦はカッとして大きな声をだした。違う。おまえが心配だったから。おまえがかわいそうだったから。そして、まほろが行くなといって、何度も僕の服を掴んで泣いたからだ。それともう一つ、いつかは千住の無念を晴らしてやると心に誓っていたからだ。

 顕人のそばで仕事に頑張っているのも、この会社でのし上がってやるという野望があったからだ。それは、失った千住の誇りを取り戻すためだった。親の雪辱を息子が雪ぐ。その気概が峰彦にはあったのだ。

「兄貴って、残酷だな。やっぱり、おじいのほうがやさしいよ。俺が傷つかないように言葉を選んだんだから。借金で苦しんでいた親のことなんか知らないよ。俺と借金と何の関係があるんだよ。母親が成人するまで育てさせてくれって泣いたって? そんなの勝手に泣けばいいだろ。俺より金を選んだんだからな。兄貴だって、そんなにおじいが憎けりゃ、とっとと出てけばいいんだ。俺がかわいそうだと? 心にもないことを。つまり、俺は親に捨てられたんだろ。そういうことなんだろ」

「お父さんとお母さんがどんなに辛かったか、わからないのか」

「俺がいま、どんだけ辛いか、兄貴にわかるか!」

「なにもかも、儀衛門が悪いんだ」

「借金なんかするからいけないんだ。借金のかたに取られた俺は、これからどうやってこの家で暮らしていったらいいんだ。今までのように、大きな顔をして、おじいに甘えて、安心して暮らしていけなくなっちゃったじゃないか。もう、いままでのように暮らせない。千住の家にだって行けない。親子であっても、一緒に暮らしたこともない親なんか、親じゃない。兄貴は残酷だ。何べんも言ってやる。残酷だ!」

 峰彦は膝が崩れそうになった。残酷だと叫ばれて、自分がどんなにひどいことをいったのか愕然とした。後悔が押し寄せてくる。だが、あのときの父母の逆上するほどの屈辱と無念をおもうと、儀衛門への憎しみをとめられなかった。その苦悩の中に、蒔江田ですくすく育った鷹彦を引きずり込んでやりたいのも本心だった。

 鷹彦が足音荒く部屋を歩いてドアを開けた。まほろが呆然と立ち竦んでいた。青ざめたまほろの目にみるみる涙が盛り上がった。

「聞いていたのか」

「鷹彦。なにもかわらないよ。鷹彦は、いままでどおりでいいのよ。鷹彦は、まほろの鷹彦なんだから」

「まほろ……」

 くしゃりと鷹彦の顔が歪んだ。まほろは、鷹彦を抱きしめようとした。しかし、その手を払って鷹彦は家を飛び出していった。まほろは鷹彦のあとを追おうとしたが、思い直して部屋に入っていった。峰彦は、机の前の椅子に座って肘をついて頭を抱えていた。

「峰彦。どんなにひどいことを言ったのか、わかっているの。鷹彦がかわいそう」

 峰彦は、ゆっくり振り向いた。指の隙間から髪がこぼれて泣きそうな目を隠している。奥歯をかみしめているから顎に力が入っていて頑固そうだ。この顔はよく知っている。まほろにはなじみの顔だ。 峰彦は、悲しいときや苦しいとき、泣くのを嫌って、よくこんな顔をした。おとなになっても、ちっともかわっていない。泣けばいいのに、とおもった。自分こそ辛いのだから、大きな声で泣けばいいのだ。でも、峰彦はけして泣かないことも知っていた。

「鷹彦がかわいそうだって? それよりも先に言うことがあるだろう。儀衛門が千住の両親にしたことを恥ずかしとは思わないのか。札で人の顔を叩いて子供を買ったんだぞ」

「売ったのはそっちじゃない!」

 峰彦の顔色が変わった。まほろも自分の言葉にぎょっとした。

「僕の弟を品物扱いしたな。やっぱり血は争えないな。儀衛門の孫だけある」

「ち、ちがう。そうじゃない。わ、わたしは、ただ、鷹彦を被害者にして、お祖父ちゃまを加害者にするのは、ちょっと違うんじゃないかと、だから、鷹彦には、何の責任もないし、お祖父ちゃまが千住さんの苦境を助けてあげたのは事実だし、わたしと鷹彦のことは、そういうこととは別に考えてもいいんじゃないかと」

「別じゃない。なにもかも絡み合っているんだ。おまえと鷹彦は、絡み合った糸の中に閉じ込めらて成長したんだ。ぜんぶ儀衛門が長い時間をかけて仕組んだんだ」

「どうしてもお祖父ちゃまを悪者にしたいのね。でも、お祖父ちゃまが鷹彦を愛しているのはほんとうよ。峰彦のことだってそうよ。お祖父ちゃまは、わたしたち三人のことを、ほんとうにかわいいとおもっているのよ。それなのに、許せない」

「こっちこそ、許すもんか」

 二人はきつく睨み合った。先に揺らいだのはまほろだった。

「峰彦なんか、大っ嫌い!」

 言い放つと、まほろは鷹彦を追いかけて家を飛び出していった。峰彦は力なくうなだれた。もしかしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのではないか。不安と後悔がこみ上げてくる。それでも、それを強引にねじ伏せて携帯電話を取った。

「レイナ。僕だよ」

「デリーから帰ってきたの。仕事はうまくいったの」

「今、どこだ」

「家だけど」

「付き合えよ」

「いいけど、疲れてるでしょ」

「酒が飲めるところに行こう」

「何かあったの」

「いいから」

 乱暴に電話を切った。まほろから、大嫌いといわれたことが、思いのほかこたえていた。


 鷹彦はバス通りを歩いていた。むしゃくしゃしておさまらない。なにをどう考えていいのかもわからない。冷静になれないまま、理不尽な怒りにかられてがむしゃらに歩いていた。

 夏休みだったので街には学生が目立った。おまけに日曜日なので人出はさらに多い。明治通りを人にぶつかりそうになりながらむやみに歩いた。

 汗が額に滲みだす。峰彦の冷たい顔が脳裏に浮かぶ。まほろの呆然とした顔も浮かんだ。まほろは、はじめからから全部聞いていたのだろうか。なにも変わらない、鷹彦はいままでどおりでいいのだといっていたから、きっと全部聞いていたのだろう。

 自分という人間が、借金のかたに取られた子供だという事実が、死ぬほど惨めだった。同時に、同じくらい峰彦が憎らしかった。借金だらけだったという実の親も憎くて情けなくてしかたがない。だが、不思議なことに、儀衛門だけは憎めなかった。儀衛門が自分に愛情を掛けてくれたことは疑っていなかった。儀衛門はいつも優しかった。

 俯い歩く鷹彦の頬に涙がこぼれた。ぐすっと鼻をすすって涙をこぶしで拭ったとき、前から来た人と肩がぶつかってよろめいた。

「なんだ。千住じゃないか。ちゃんと前を向いて歩けよ」

 ぶつかった相手に声をかけられて鷹彦は顔を上げた。水泳部で一緒だった下地徹しもじとおるだった。下地は二年になってから、きつい練習に嫌気がさして退部していた。沖縄なまりのある気さくな性格だったが、下地には悪い噂があった。バイト先の店長にかわいがられて、夜の街を遊び歩いているというものだった。人懐こい笑顔の下地が話しかけてきた。

「一人か」

「ああ」

「どこ行くの」

「別に。だた歩いていただけ」

「じゃあ、一緒に遊ぼうや」

「どこかに行くつもりだったんじゃないのか」

「仲間に呼ばれていたんだけど、行くのやめた。ボーリングでもするか」

「いいのかよ。仲間」

「いいさあ。飽きが着ていたとことだったんだ。ところで、おまえ、金、持ってる?」

「少しなら」

「いくら」

「五千円ぐらい」

「よっしゃー!」

 下地が肩を組んできた。暑苦しかったので、その腕を払ってやったら、下地は、あはは、と笑った。

 その日、鷹彦は夜遅くまで下地と遊びまわった。鷹彦が行ったことのないところばかりだった。酒とたばこの匂いが染みついた薄暗いスナックの片隅で、鷹彦は半ば怯えながら下地のそばにへばりついていた。

 持っていた五千円はあっという間になくなっていた。だが、いままでもらったお年玉や小遣いを貯金していて、おサイフケータが使えたので下地は機嫌がよかった。

 鷹彦は、二十二時を回ったあたりで止まり木から降りた。スナックのママが、まだいいじゃないといって鷹彦を引き止めた。カウンターの中でグラスを洗っている下地も引き止める。スナックのママと下地は母子だった。

 鷹彦の前に、ママがインスタントのラーメンをつくって置いてくれた。

「お腹がすいた頃でしょ。食べなさい。うちの徹と仲良くしてね。徹はね、東京に出てくるのを嫌がったのよね。この子は、沖縄が好きなの。でも、わたし、離婚しちゃったでしょお。沖縄の狭い土地が嫌でさあ、東京に出てきちゃったのよお。徹は沖縄に残るって言ったんだけどね、わたし一人じゃ寂しいさあ」

 化粧は濃いが、沖縄なまりののんびりとしたママの声をきいていると眠くなってくる。鷹彦の知らない世界の下地とその母親は、悪い人間ではないとおもった。いつの間にか鷹彦は、ラーメンを食べ終えていた。


 まほろは夢中で鷹彦を探し回っていた。コンビニやファストフード店、ファッションビルやブックオフなど、いそうなところは全部探した。だが、鷹彦はいなかった。いつの間にかネオンが眩しい時刻になっていた。家に電話しても、鷹彦は帰ってきていないといわれて、逆に陸子からまほろこそ帰って来なさいと叱られた。

 峰彦はどうしているかと訊ねたら、峰彦はレイナと出かけてしまったというので、まほろは膝から力が抜けた。

 どっと疲れが押し寄せてくる。鷹彦は帰ってこない。峰彦はレイナと一緒だ。

 わたしは、また一人ぼっちだ。苦しい。苦しくてたまらない。どうして鷹彦も峰彦も、わたしを一人にするのだろう。誰か、助けて。わたしを一人にしないでほしい。

 まほろは、ネオンに誘われるように、ふらふらと街をさまよい歩いた。


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