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まほろと鷹彦 だけど峰彦   作者: 深瀬静流
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第一話

 蒔江田儀衛門は、その昔、千住家の当主から足蹴にされた悔しさが忘れられず、その血筋を受け継ぐ子を奪い取り、蒔江田のものにして積年の遺恨をはらそうとした。

 これは、儀衛門の孫娘のまほろと、千住家の長男の峰彦と、その弟、鷹彦の、二十年間にわたる物語である。


「どうだい。顕人や」

 と、蒔江田儀衛門まきえだぎえもんは、隣りで資料をめくっている一人息子に機嫌よく声をかけた。

 児童公園の道路わきに停めたクラウンマジェスタの車内は静かで、前に坐っている運転手と助手席の相場恭一あいばきょういちは、気配を消したように沈黙している。蒔江田顕人まきえだあきひとは不機嫌を隠そうともせず書類をふせた。

「本気ですか。お父さん」

「本気だとも。私が死ぬ前に、どうしても叶えたかったことだ」

「それにしたって、まだ、生まれてもいない子供ですよ。母親の胎内で成長中の赤ん坊を、まほろの婿にしようだなんて」

 頭がどうかしているといいかけて、顕人はとっさに言葉を飲みこんだ。おまえのいいたいことはわかっているというように、儀衛門は児童公園の向こうの小学校に目をやった。授業を終えた子供たちが、次々と校門を出てくる。

「ほら、顕人。あの子供だよ」

 指さされて、顕人はおおぜいの子供たちに視線を向けた。その男の子はすぐにわかった。資料に写真が添付されていたせいもあるが、たとえ写真がなかったとしても簡単に見分けることができただろう。儀衛門が目を付けただけあって、その子供は飛びぬけた容姿をしていた。

「あれが千住家の長男だよ。きれいな子供だろ。あの子は頭もいいんだ。あの子が生まれた病院の系列大学が、定期的に知能の追跡調査をしているんだよ。あの子の弟なら、間違いないと思わんかね」

「生まれてもいないのに弟だなんて。生まれてくるのは女の子かもしれないじゃないですか。それとも、千住夫人が通院している病院に手をまわして、情報を入手したんですか」

「さてなあ。院長とは長い付き合いだけどねえ」

「とぼけないでください。うちの傘下に入ってる病院だから圧力をかけたんでしょ。お父さんの悪い癖だ。平然と権力を使う」

「そう怒るなよ。私はあの峰彦という子供が気に入ったんだから」

「だったら峰彦をまほろの婿にしたらいいじゃないですか。峰彦は九歳。まほろは六歳。年もちょうどいい」

「それはだめだ。峰彦は千住家の跡取りだ。いくら没落貴族の末裔でも跡取り長男は手放さないさ。だが、次男坊なら、はて、金で転ぶ、な」

 儀衛門の好々爺とした小さな目が狡猾に光った。顕人は言葉を飲み込んで腹に力をこめた。儀衛門がそうしたいと手を回したのなら、千住家に勝ち目はないだろう。なんと執念深いのだろうと顕人は、白髪白鬚の老父を盗み見た。

 その昔、儀衛門には結婚を約束した恋人がいた。地方の庄屋の家に生まれた儀衛門は、自信満々で恋人の家に結婚の申し込みに行った。儀衛門の家は威勢を誇っていたし、千住家は敷地が広いだけで手入れもされず、朽ちた屋根にぺんぺん草が生えているような家だった。だから儀衛門は楽観していた。

 高価な贈り物を二人の供に持たせて、檜皮葺の屋根を乗せた上土門あげつちもんをくぐって、入母屋造りの正面玄関を訪うと、主の清麿きよまろが足音荒く出てきて、「我が千住家は由緒正しき公家の末裔。たかが庄屋の子倅が、娘を嫁にとは笑止千万」と罵倒し、身をかがめて礼をしている儀衛門の腰を、乱暴にも足蹴にしたのだった。

 襤褸をまとった奉公人に追い出されながら、儀衛門は恋人の名を呼び続けた。もしもこのとき、娘の泣き声が奥から聞こえてきたならば、一声でも儀衛門の名を叫んでくれていたならば、儀衛門の感情はここまでこじれずにすんだかもしれない。しかし、屋敷の奥は静まり返っていた。そのときの悔しさは、この歳になった今でも忘れられないらしく、もはや執念といってもよかった。

 代替わりした千住家は、今も外見は昔の矜持を捨てていなかったが内情は火の車で、代々伝わる古物を展示した千住宝物館の収入でなんとか糊口をしのいでいるありさまだった。その千住家の苦境に付け込んで、儀衛門は千住家から、これから生まれてくる第二子を奪い取り、蒔江田家の人間として育て、積年の恨みをはらそうというのだった。

 いっぽう顕人のほうは、六歳になったばかりの娘を思いうかべて苦虫を噛みつぶしていた。癖ッ毛で赤みの強い髪は伸び放題で綿菓子のように膨らんでいる。真っ黒に日に焼けた顔は泥団子だ。亡くなった妻の香純かすみはたおやかで美しかったのに、いったい誰に似たのだろう。他人ひとは顕人に似ているというが、とんでもないと腹が立つ。もう少し女の子らしくならないものかとため息がこぼれる。

 ランドセルを背負った峰彦が車の脇を通り過ぎていった。近くで見ると、確かに峰彦は際立っていた。ほかの子供たちは友達と連れ立って帰っていくのに、峰彦は一人だった。大人びた目つきが印象的で、友達とふざけるよりは、一人でいるほうを好むような冷たい雰囲気をしていた。

 顕人は意識を峰彦から儀衛門の話に戻した。生まれてくる赤ん坊をまほろと添わせて、儀衛門の自尊心が癒えるなら、それも親孝行の一つなのだろうかと無責任に考えた。

 生まれてくる千住の子供が出来の悪い子供だったら、それはそれで厄介だ。まほろは蒔江田家の跡取り娘だが、経済界に力を及ぼす蒔江田グループを受け継ぐのは、まほろの配偶者だからだ。そこまで考えて、顕人は顔をしかめた。

 儀衛門は遺恨を晴らすつもりのようだが、それは結局千住の紐を蒔江田に付けることになるのだ。これから先、千住は蒔江田の財力をヒルのように吸い続けるだろう。それを自分は我慢できるだろうかと顕人は、痛み出したこめかみに指をあてた。

「もういいよ。車をだしておくれ」

 儀衛門の一言で車は音もなく走り出した。助手席で無言を通していた相場は、感情が顔に出ないように気をつけていた。いまの話を妻の陸子りくこが聞いたら怒るだろうとおもった。

 相場の家は、もともと蒔江田の庄屋屋敷で、代々年貢の納入決済の仕事をしてきた。その関係で信頼は厚く、儀衛門の右腕として、仕事関係から身の回りの世話まで補佐していたが、妻の睦子のほうは、生まれて間もなく母を亡くしたまほろの養育を任されていた。 四十代の相場夫婦に子はなく、まほろは相場夫婦にとっては実の子供と同じだった。そのまほろが、祖父の勝手な思惑のまま、未来を決定されてしまった。父親である顕人は反発さえしようとしない。相場はまほろがかわいかった。元気いっぱいで、天真爛漫で、それにあの、かわいい笑顔。

 苦いものがこみあげてくるのを飲み込んで、相場は手帳を広げて次のスケジュールを確認した。

「社長。国土交通省の入札の件ですが、うちの会社が落札したと知らせがありました。参事官にお電話をなさいますか」

「うん。ご挨拶をしておこう」

「はい」

 相場は土地市場担当室に電話をいれて挨拶を交わしてから携帯電話を儀衛門にさしだした。儀衛門のしわがれた話し声をききながら、これから千住家にふりかかる難儀をおもうと暗澹とした。

 千住夫妻は、この話をどのように受け止めるだろうか。すっぱり断ってくれれば、まほろも、これから生まれてくる子供も、未来に足かせをはめられなくてすむ。相場は儀衛門の計画が無駄になることを心から願った。


 千住峰彦せんじゅみねひこは、客間の張り詰めた空気に緊張していた。来客があると、両親は隣接した千住宝物館の応接室に通すのが通例だったので、自宅に通すのはよほど大切な客なのだろうとおもった。

 客は二人だった。一人は白髪白髭の老人で、家紋の入った黒の羽織に袴を身に着け、腰に扇子をさしていた。もう一人のほうは四十代の温厚そうな人物で、仕立てはいいが地味な灰色のスーツを着ていた。

 父の千住寛臣せんじゅひろおみと母の美苑みそのは、付書院と床脇が並ぶ床の間を背にして、色あせた錦の座布団に坐っていた。客は、年代を感じさせる黒漆の卓の向こうで、同じく錦の座布団に正座している。客のほうは背中から力が抜けていたが、寛臣と美苑のほうは、肩だけではなく腕にも指先にも力がこもっていた。

 卓の上には九谷焼の湯飲みが茶托に乗って出されていた。玉露茶はとっくに冷たくなっている。針を落としても音がしそうな緊張のなか、峰彦は両親と並んで座りながら、前の二人の男の顔ばかり見ていた。

 峰彦は老人に見覚えがあった。先日の下校のとき、児童公園の脇に停めていた車の中にいた人だ。車の中から、じっとこちらを見ていた。老人なのに目つきが鋭くて、少し怖かったのを覚えている。

 その老人は、ほとんどしゃべらなかった。しゃべるのは隣の中年のほうだった。ぼそぼそとしたおとなしい声だったので怖くはなったが、両親が異常に緊張しているので、そちらのほうが怖かった。

 中年の男は、卓の下に隠すように置いた書類カバンから、紙幣ぐらいの大きさの白い用紙を一枚出して、寛臣と美苑がよく見えるように卓の中央に置いた。紙には1000000という数字が手書きされていた。その紙は卓の上に九枚載っていて、男がさしだした紙で、ちょうど十枚目だった。

 峰彦は、美苑に身を寄せて小さな声で訊いてみた。

「お母さん。あの数字はなに」

 美苑がびくっとして、上目遣いに老人を盗み見た。老人が峰彦に笑いかけた。

「これはね、銀行に持っていくと、お金と変えてくれるんだよ。峰彦くん。この数字の単位がわかるかな」

「百万、です」

「そうだね。それが十枚だと?」

「一千万」

「うん。では、もう十枚だそうね」

 儀衛門がいうと、横の男が十枚の小切手を出した。

「これでは足りないねえ」

 老人がいったら、さらに十枚が上乗せされた。

「三千万だ」

 峰彦は呟いた。寛臣が苦しそうに顔をねじって、広縁の向こうの庭に顔を向けた。見る影もなく荒れた回遊式の山水の庭は、水が干上がった池の底を雑草が突き破って、五月の日に晒されていた。

 額に汗をうかべた美苑は、無意識に腹に手をあててさすっていた。美苑も顔色が悪く、汗をかくほどの季節でもないのに、首筋に滴る汗が異常だった。

「お母さん。だいじょうぶ?」

「ええ。だいじょうぶ。退屈でしょ。遊んできていいのよ」

「うん」

 峰彦はそうしようかとおもって腰を浮かせた。

「峰彦くん」と、老人が声をかけてきた。峰彦は再び腰を下ろした。老人が隣に小声で何かいったら、男は峰彦に小切手を一枚持たせた。

「一千万?」

 峰彦が首をかしげて老人をみると、隣の中年男は、一千万円の小切手をさらに九枚抜いて老人に渡した。

「その一枚は峰彦くんへ。そして、この九枚はお父さんとお母さんにだよ」

 そういって、卓の上に積んであった小切手の上に乗せた。すると美苑が、いきなり声を放って泣きだした。

「どうしたの。お母さん」

 驚いた峰彦が、卓に泣き伏した美苑の背中を揺すった。

「峰彦ちゃん。この人たちはね、赤ちゃんを買いに来たのよ」

 そう美苑が叫んだ。

「よさないか。美苑」

 小さな声だったが、寛臣の叱責は鋭かった。儀衛門がつと膝を前に進めた。

「奥方。私はお力になりたくて来たのです。千住家の借金もきれいにして差し上げましょう。千住家の家宝を展示している宝物館も新しくしましょう。峰彦くんの将来についてもお力になります。生まれてくるお子様は、蒔江田家の跡取り娘のまほろと結婚させて、ゆくゆくは、蒔江田グループの後継者になっていただくつもりです。けして悪い話ではないでしょう」

「でも、でも!」

「どういうことなの。お母さん」

 混乱する峰彦に、儀衛門は好々爺とした笑みを向けた。

「簡単にいうとだね峰彦くん。きみの家は借金だらけで、唯一の収入源だった宝物館も、抵当に入っているんだよ。つまり、無一文の丸裸だ。きみは高校へも行けず、大学にも行けない。中学を卒業したら肉体労働をして、お父さんとお母さんを養わないといけなくなるんだよ」

 怒りに震えながら寛臣が立ち上がった。

「帰れ。帰ってくれ。人の苦境に付け込んで金をちらつかせるとは、なんと卑怯な人間だ」

「まあまあ。そう感情的にならずに、よくお考えください。お子様がたにとっては悪くない話だと思いますよ。私にとっても、由緒正しいお家柄の若君を、婿にお迎えできることは名誉なことでございますからね」

 美苑ががばっと顔を上げた。

「では、生まれた子供が二十歳になるまで、手元で育てさせてください」

 相場はちらりと美苑を見た。まずいとおもった。儀衛門と交渉するなんて、とんでもない。案の定、儀衛門の声が堅く変化した。「では、この小切手は、二十年後にお渡ししましょうかねえ」

「いえ、そ、それは、困ります」

 今すぐほしい金だった。美苑は身を揉みながらもう一度懇願した。

「だって、生まれてすぐにわたすなんて、あんまりじゃないですか」

 儀衛門の目が糸のように鋭くなった。おもむろに積み上げた小切手をかき集める。

「残念ですなあ。では、この話は、無かったことに」

「待ってください」

 叫ぶより早く、美苑は小切手に身を投げ出していた。

「美苑。おまえ!」

 美苑の頭の上で寛臣が怒鳴った。

「だって、あなた。もう千住家は体裁を繕うにも、繕いようがないじゃないですか」

「それじゃあおまえは、生まれてくる子供を手放すというのか。そんなことができるのか」

「では、おたずねしますけど、あなたにこの苦境を打開する力があるんですか。親子三人、いいえ、もうすぐ四人ですけど、路頭に迷わずにすむ方法があるんですか。宝物館の展示品は、すべて抵当に入っているんですよ。お金に変えられるものは代えてしまって、なにもないじゃありませんか」

 崩れるように座り込んだ寛臣からは表情が消えていた。精も根も尽き果てたように畳に手をつく。

 寛臣は、亡くなった母から子供のころに聞いた話を覚えていた。「お母さんには若い頃、結婚を約束していた人がいたのよ」

 と、秘密を打ち明けるような楽しそうな母親の声がよみがえる。

「でも、千住家とは身分が釣り合わないと父に反対されて諦めたの。もしも、その人と結婚していたら、今とは全く違っていたでしょうね」

 夢見るような母親の口から出た名前が、蒔江田儀衛門だった。このじじいが母の昔の恋人なのかとおもうと、表現しようのない感情に振り回された。まさか、かつての恨みを今はらしているわけではないだろう。そんなことがあるわけない。そんな大昔の遺恨で、生まれてくる子供を買うなんて、そんなこと、するだろうか。

 混乱したまま寛臣は唇を噛み続けた。

 峰彦はめまぐるしく頭を回転させていた。うちにはお金がない。借金だらけだ。でも、このおじいさんが借金を払ってくれるという。それに、目の前のお金もくれるという。お父さんは悔しそうだけど、助かるのは本当だとおもう。お母さんは、もうその気になっている。その代り、生まれてくる赤ん坊はもらわれていくんだ。もらわれていく先は、ものすごい大金持ちみたいだ。どうらや生まれてくるのは弟のようだが、弟は大金持ちの子供になるわけだ。こっれって、悪い話か?

 九歳の峰彦はさらに考えた。お母さんは弟を二十歳まで育てたいといった。でも、相手は生まれてすぐ取り上げるつもりだ。だったら……ええと、どうしようか。そうだ!

「お母さん。お父さん。いい考えがあるよ」

「え? 峰彦ちゃん。いい考えって」

 美苑が涙を拭きながら峰彦を覗き込んだ。

「ぼくが赤ちゃんと一緒にいるよ。ぼくがついていれば、お母さんも安心でしょ」

「ひぇええー。なんですってえ」

「それがいい!」

 儀衛門は、打てば響くように大きな声でいった。儀衛門は交渉相手を峰彦に替えた。

「峰彦くん。きみがいれば赤ちゃんも安心だよ。きみも一緒に行こう。したいことは何でもさせてやろう。欲しいものは何でも買ってあげよう。うんと大切にするよ」

 儀衛門は笑いたいのを我慢した。海老で鯛を釣るとはこのことだ。優秀な峰彦まで手に入れることができたのだから。

 寛臣と美苑は、出来のいいはずの長男を呆けたように眺めていた。



 蒔江田の里は、都心から車で三時間ほど走った山の中にあった。旧街道沿いに発展した宿場町を再現した時代色豊かな観光地で、一年を通して賑わっていた。

 時代劇の撮影にも使われる町並みは完全なコピーだったが、コピーと違うところは、鍛冶屋は実際に金物を職人が製造販売していたし、旅籠は近代的な設備を隠した旅館仕様になっている。芝居小屋には興業がかかるし映画も上映する。茶店や食べもの屋、土産屋はもちろんのこと、髪結い屋もロンドンで技術を習得したヘアスタイリストがカットの腕を振るっている。

 町医者の診療所には、最新の医療器機も完備していたし、魚屋、八百屋、スーパーはもちろんのこと、両替屋のていをした銀行と飛脚屋ならぬ郵便局もあった。この宿場町は観光用でありながら、実際に住民が生活している町でもあった。

 子供たちは寺子屋ふうの木造の小学校に通学しているし、中学は宿場町から少し離れたところに立派な鉄筋コンクリートの校舎がある。高校は駅のそばなのでバスで通学する。駅の周辺には大学や専門学校、ファッションビルからオフィスビまで立ち並び、住宅やマンションもひしめいていて、なんら都会と変わらない。

 宿場からはずれた山のふもとにはカントリークラブもあるし、カントリークラブの高級ホテルでは結婚式も行われた。川のほうに行けば上流では沢登り、激流下りのラフティングも楽しむことができる。自然が豊かなのでキャンプはもちろんハイキング客も多く、遊ぶことには事欠かない。これらを含む広大な土地と事業はすべて蒔江田のものだった。

 明治のころ、廃藩置県で大名や高級武士は統治権を取り上げられたが、平民である庄屋の蒔江田家の財産はそのまま残った。

 財力にものをいわせて土地を買いあさり、儀衛門は積極的に事業を拡大していった。戦後、財閥は解体されたが、蒔江田儀衛門こそ、戦後に急成長した新財閥といってもよかった。

 そういうところに峰彦は連れてこられた。寛臣と美苑も一緒だ。三人は宿場町のはずれにある古色蒼然とした蒔江田家の庄屋屋敷に案内された。

 相場陸子が待っていて、深々と頭を下げた。

「お待ちしておりました。どうぞ、おあがりくださいませ」

 と、いって、美苑が持っていた荷物を持った。

 来客と家長しか使うことを許されない格式高い表玄関から案内されて長い廊下を何度も曲がり、いったいいくつ部屋があるのかと呆れた頃に裏の玄関から外に出て、庭の奥に続いている敷石を歩かされて離れに通された。

「お疲れのところを長々と歩かせてしまって申し訳ございません。お食事は母屋から運んでまいりますし、お入用なものがありましたら、何なりとお電話でお申し付けください」

 睦子は、4LDKの離れの中を案内してまわった。一家三人がしばらく逗留するには十分すぎる家だった。周りを庭に囲まれた静かな離れは、わざわざ母屋の表玄関から入ってこなくても、庭から直接来れるのだが、それを知らない千住の家族は、蒔江田の大きさを見せつけられたおもいだった。

 睦子が淹れてくれた熱い煎茶を飲みながら、美苑はほっとしていた。金銭の苦労から解放されて、せいせいしていた。みすぼらしかった服はみんな捨ててしまった。いままで我慢していた高級服やアクセサリーを買いまくった。靴もバッグも香水も、これまでのストレスを爆発させたように買いまくった。エステサロンにも行き、荒れた肌が回復し、ささくれていた指先もネイルアーティストの手によって輝きを取り戻していた。

 もともと贅沢をするのが好きだった。このような暮らしに憧れて千住寛臣と結婚したのだ。まさか、借金まみれの男だったとは知らずに、よけいな苦労をしたものだ。でも、と美苑は、ようやく取り戻した張りのある肌と美貌に満足して、ソファにくつろいで足を延ばした。

 もう、お金に不自由はないのだわ、と臨月のお腹をさすった。考えてみれば親孝行な子供だ。この子は蒔江田の婿になって、蒔江田の財産をすべて受け継ぐのだ。

 うっすら笑みをうかべた美苑に反して、寛臣は神経質に家の中を見て回った。使っている材木にしても普請にしても大したものだ。名のある棟梁に建てさせた家なのだろう。中の設備も申し分ない。寛臣は目利きだったので、儀衛門が金を惜しまずに建てたのであろう家の仕立てに歯ぎしりして、ソファで寛いでいる美苑を睨み付けた。

 蒔江田の援助を受けて、たちまち嫁に来た当時の美しさを取り戻した妻の変わり身の早さに、目を見張るおもいだった。呆れるし、浅ましいともおもう。だが、これが現実だとしたら、自分も開き直っていいのではないか。これからは蒔江田がついているのだ。生まれてくる子は蒔江田の婿養子になるのだ。すごいではないか。子供の親として、蒔江田から援助されて、遊んで暮らすこともできるのだ。そういうことなのだろう。子供を蒔江田に売ってやったのだから。

 いっぽう峰彦のほうは、さっきから庭の茂みが気になっていた。母屋の庭は庭師の手が入っているので美しく整えられているが、離れを取り囲んでいる庭は、一般家庭のようにサツキの植え込みがあったり、梅の木が植わっていた。峰彦がさっきから気にしていたのは、赤いサツキの花が盛り上がっている植え込みだった。

 日に焼けたリスのような小さな顔が植え込みから覗いていた。好奇心まるだしで、目を皿のようにしてこちらを窺っている。目玉の白目が青みがかってきれいだった。なにがうれしいのか、峰彦と目が合うと弾けるように笑う。歯が抜け代わる年齢だから前歯の二本がないせいで滑稽だ。峰彦は見ないようにしようとおもうのだが、意に反して目が吸い付いて離れない。

 あれが、まほろという子なのだろうか。ぼくたち一家を救ってくれて、ぼくたちのプライドを粉々にしてくれた老人の孫。生まれてくる赤ちゃんをさらっていく女の子。

 峰彦は、陸子が淹れてくれたお茶を飲み干して、湯飲み茶わんをいじりながら立ち上がった。何食わぬ顔で開け放たれた縁側に歩いていく。

 峰彦が縁側に出てきたので、まほろの目が期待で大きくなった。うれしそうに大口を開けて笑う。その間抜け顔めがけて峰彦は湯飲み茶わんを投げつけた。

 まほろはさっとしゃがんで頭を手でかばった。茶碗はサツキの枝に遮られてコロンと足元に落ちた。茶碗を拾って立ちあがったまほろは、大きく笑って力いっぱい峰彦に投げ返した。峰彦が片手でパシッと受け止める。まほろが、飛び上がって笑い、子犬のように逃げていった。

「なんだ。あいつ」

 これが、峰彦とまほろの出会いだった。

 峰彦は気抜けしたように肩を落とした。そのようすを、急須に湯を足しながら、睦子がひやひやしながら見ていた。

 まほろさまが怪我をしなくてよかったとおもった。睦子は寛臣と美苑の湯飲みにお茶を足してからへ離れをさがった。



 生まれた赤ん坊は鷹彦たかひこと名付けられた。珠のような男の子だった。まほろは鷹彦のそばに行きたくてしかたがなかった。だが、美苑がいつも見張っていたし、彼女の目を盗んで鷹彦に近づくことに成功しても、峰彦が目ざとく走ってきて、まほろを縁側に放りだすのだった。

 鷹彦は愛らしかった。泣き声もかわいい。そばに寄るだけで乳臭い甘い匂いでむせかえりそうになる。まほろは、その匂いを嗅ぐだけで幸せな気持ちになった。

「まほろに赤ちゃんができた」

 まほろが喜んで陸子にそういうたびに、陸子は微笑むのだった。



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