■Last Scene 握手【Handshake】
華恋はもううんざりしていた。
がんばって勉強して制服のかわいい高校に入学したと思ったら、病気でそのまま入院して結局一度も制服のそでを通すことなく今に至っている。
恵夏総合病院の二三七号室。すでに彼女の指定部屋になっていた。
新人の看護士や医師よりも長くこの病院に居るかもしれない。職員から影で主とか言われていることも考えられる。
もともと社交的であった性格もこの病気のおかげでだいぶ暗くなってしまった、自分でもそう思うのだ。
季節はもう冬。そろそろお正月である。
去年の三が日は外出許可をもらい自宅で過ごしているが、また今年もかとため息ばかりついていた。
こんな時にすることと言えば鳥かごの中のセキセイインコのトールとお話しするか、それとも父親のおみやげの本を読むか、窓をあけて空を見るかのどれかだ。
最近めっきり寒くなったため、あまり窓を開けると看護士に怒られてしまう。だが、華恋にとっては常に変化し続ける雲を見ているのが好きだった。
〈あーあ、今日もいいお天気だなー〉
せっかく窓をあけたのに肝心の雲が見あたらない。そうなると空は青一色で逆になんのおもしろみも無い風景に変わってしまう。
それでも開けたんだしと青空に雲が出るのを待っていると、窓の外が何やら騒がしい。
病院の敷地内に人の声が響いている。
それも一人では無い。聞き慣れた看護士の声も混じっている。
〈何を騒いでいるのだろう〉
華恋は身体を起こして窓枠から外に乗り出そうとした。
そこに男の子が居た。
とっさの事に何も考えられなくなる華恋。ゆっくりと瞬きしてから一歩退いた。
窓の向こうに男の子が立っている。ここは病院の二階、ベランダは無い。彼は窓枠のわずかな出っ張りに足を引っかけていた。
あまりの事に唖然として華恋は目を見開いたまま硬直してしまった。
年齢なら自分と同じぐらいだろうか、どうやってここに来たにせよ体力には自信があるのだろう。
顔は……目が前髪に隠れてあまり見えないが悪い方ではないと思う。
その彼がにっこりと微笑んだ。
「こんにちは」
「……は、はじめまして」
「ねえきみ。名前なんていうの?」
またそれにびっくりして返事を忘れていると、
「あ、あのさ……」
「まさか、こんなところで名前聞かれるとは思っても見なかったわ」
「そう」
「わたし、美咲華恋よ。あなたは?」
「俺は草薙武史って言うんだ」
「……かっこいい名前ね」
「ホントにそう思っている?」
返事が遅れる華恋。何となく相づちを打っただけだった。
「あなた、どうやってここまで来たの?」
「裏手に大きな桜の木があるだろ。あれに昇ってあとは窓枠伝ってここまで来たんだ」
「どうしてそんなことしたの?」
「決まってるだろ、外から病院見たら冬なのに窓が開いていてさ、そこから華恋ちゃんの顔が見えたからだよ」
あけすけな彼の言葉に華恋は頬を赤く染めた。
「それだけのためにこんな危ないことしたの」
「うん。でも来た階はあった」
そしてまたニッコリと微笑む。外見よりずっと子供じみた笑顔だった。
「あのね、おしゃべりしたいけどそろそろ看護士さんが来るの」
「そりゃまずい。じゃあ、明日も同じ時間に来るよ」
「ホント?」
「うん、約束する。じゃあね」
そう言って男の子は身を翻した……のだが元々足場の悪い窓枠だ、足を滑らせて落ちそうになる。
「危ない!」
華恋はとっさに手を伸ばした物の、それに掴まられても体重を支えることができない。きっと自分も窓の外に落ちてしまう……しかし!
小さな手は大きな腕を掴んでいた。
武史の足は適当なところで足場を見つけたのか、転がり落ちるのは避けたようだった。
「ふう」
「ふう」
二人は手をつないだまま大きなため息をついた。
「……大丈夫? ここから落っこちたらあなたも入院しちゃうわよ」
「そしたら、華恋ちゃんの部屋がいいな」
「残念でした。わたしのは個室よ」
「そっか……あ、もう大丈夫だよ、手を離しても」
「ご、ごめんなさい」
そう、武史の腕には、華恋の手形がしっかりとついていた。
「じゃあ、また明日ね」
彼は窓枠伝いに壁を進む。乗り出してその様子を見ていた華恋だが彼の姿はすぐに見えなくなった。
〈何だったんだろうあの人〉
華恋がベットに腰を落とすと同時に病室の扉がやや乱暴に開く。
慌てて入ってきたのは本日担当の看護士だった。
「美咲さん、こちらに不審者は来ませんでしたか!」
「ううん、来てないけど。誰か怪しい人が居るの」
「ええ、先ほど病院職員の警告を無視して病棟の壁に昇った男の子が居て。窓枠伝いにこちらに移動していたんです」
「まあ器用ね」
「見つけたらこってりとお仕置きを……まあ寒いんだからこんなに窓を開けたらだめよ」
「ご、ごめんなさい」
そう謝りながら、さっきの男の子の事を思い出していた。
〈武史くんか……明日、来てくれるかな〉
「安心してくださいね、今度は絶対にあんな真似はさせませんから」
と言いながら窓を閉める看護士を見る。
〈今度は窓からで無く受付から来てね〉
彼女の春は近いのかもしれない。
§
フィエル=エーコの旅立ちの日がやってきた。
最初、アールマティに『世界を旅してみたい』と申し出たとき、剣技を買われ兵士の訓練教官にと留意された。
だが、エーコの決意が固いとしってか今度は色々な手続きを率先して行ってくれたのである。
ネボの世界にも色々な街が存在することが判ったのだ。これからはそれぞれの街や村の交流をよくする必要がある。
……‘あ・り・す’様が居なくなったからだ。
そのためエーコにはネボの街に残って指導的な立場にたって欲しかったのだが、
「なればなおのこと、世界を回ることで見識を深めてみたいと思っております」
そう口上した。
若輩者ながらあっぱれな意見と議会もアールマティもエーコを褒め称えたが、実はそれは建前である。
アールマティはそれに気が付いていた。
旅立ちの当日、見送りにはアールマティその人が来たのである。
そしてエーコに小さな包み紙を渡しそっと耳打ちした。
「あなたの尋ね人が見つかりますように」
そう、エーコの旅は‘あ・り・す’様を見つける旅だった。
もちろん、もうこの次元に舞い降りる事もないかもしれない。
しかし果てしなく広がるこの世界には、どこかに居るような気がするのだ。
エーコは新しい装備と旅用品とわずかな金を持って、ネボの街を旅立った。
みなの姿が見えなくなるまで手をふり、谷を一つ越えてようやく一人になり、そこで寂しさを味わっていたのだ。
そういえば。
〈アールマティ様は何を包んでくださったのだろう?〉
そう思って小さな紙包みを開いてみると、そこにあったのは小さな白い水晶だった。
まさしく、ネボの‘あ・り・す’がつけていたそれである。
あまりに恐れ多くて、それを返しに帰ろうかと一瞬考えたものの、包みの中に文字が書かれている。
『‘あ・り・す’様にお逢いになったら「忘れ物です」と渡してください。あなたの任務は重要ですよ』
その文面を見てエーコは白い水晶を首からぶら下げた。
剣士である彼女には効果のある物でもないが、お守り代わりにはなるだろう。
もし運良く‘あ・り・す’様と再会できたら、約束を果たす必要がある。
例の、『ため口、呼び捨て』である。
〈どうしたものかな〉
街道を歩きながらエーコはほとほと困り果てていた。しかしこういったものは練習でなんとかなるかもしれない。
「……ええとカレン」
呼び捨てにすると背中に寒気が走る。だが我慢我慢。
「カレン、元気だったか?」
口の中で反復してみるとそれなりにいけるかもしれない。
〈なんだ、意外と簡単だな、ため口とは〉
「カレン、元気だったか?」
などと調子にのって何回か繰り返していると……
「何が『元気だったか』だ」
「そうだ、遅いぞ」
街道の分岐点に四人の女性が立って居るではないか。
「……なんだおまえら?」
「おまえらではない」
そう答えたのはドゥルジだった。服装はエーコと同じような旅姿、深緑のマントを着けて背中には長剣と図太袋を背負っていた。
「ここで待っていてくれとアールマティから連絡を受けたが遅すぎる」
「そうだよ」
これはタローマティである。彼女も旅姿だがドゥルジに比べると帯剣していない分だけ軽装だ。
「せっかくまた生きる機会をもらって、みんなで旅ができるんだから。時間は厳守だよ」
残りの二人は何も言わず、じっとエーコの事を見ていた。
「……ええと、アミとユミだっけ」
と指さすと、
「違う、わたしがユミで」
「わたしがアミだ」
と説明されるが、どっちも同じ顔の上に服のしわまで同じなのだ。いっそのこと、すっぽりかぶったローブに名前を書いて欲しかった。
「よし、集まったなら出発だ」
元気なタローマティの後にぞろぞろと女四人がそろって歩く。
「しかし……チャンネルが元に戻ったというのはホントなんだな」
「なんだ、エーコは知らなかったのか?」
「タローマティ、わたしの忌み名を呼んで良いのは‘あ・り・す’様だけだ!」
いつも通り怒り出す始末。
「だ、だって、もうそれに慣れちゃったよ」
「勝手に慣れるな!」
「おまえたち、少しは静かにしろ」
「ドゥルジは静かすぎ。旅はもっと楽しくね、アミもそう思うよね」
「違う、わたしがユミで」
「わたしがアミだ」
「……判りづらいよ」
いきなり人数が増えてにぎやかになったが……エーコはもう見えなくなってしまったネボの街に向かってお辞儀していた。
アールマティに感謝したのだ。
この面子で世界を旅し、そして姫に逢ったときには……
その時。自分の目の前に小柄な少女が歩いていた。
波立つ長い髪を編み込んで肩から胸に流している。とても小さいのに元気な背中だ。
その彼女が振り返る。広めの額、大きな瞳を蓄えた目尻が本の少し垂れていた。
『さあ、行こうよエーコ!』
〈そうだな。行こうカレン〉
うなづく二人。いつの間にか目の前の少女の姿は消えていた。
「あー、にやにやしている、またカレンの事を考えて居るんだよ」
「気安く姫の名前を呼ぶな!」
「おまえたちうるさい」
彼女らの旅は始まったばかりだ。
§
「す・ず・しーぃ」
混雑する電車の中、空調装置の真下に陣取って華蓮と栄子は同時にそうつぶやいていた。
まさに心の叫びである。
夏休み最後の日曜日。何とか死ぬ気で宿題を終わらせ、二人はそろって隣町まで買い物に出かけていた。
といっても趣味が全く異なる二人である。
可愛い小物が見たいという華蓮とバイク用品が見たいという栄子の欲求が同じ店で果たせるはずが無い。
残暑厳しい炎天下の中、三時間近くも歩き周り汗だくになっても喫茶店に寄る余裕もなく、電車に飛び込んだのだ。
このあと慧香町に着いたらまっすぐ華蓮の部屋に行って、クーラーをがんがんに利かせて二人でごろ寝。
あまり健康的ではない。
高校二年の夏休みの思い出としては、あまり美しくない、華蓮はそう思った。
思い出と言えば、
「夏休みの旅行、楽しかったね」
「ああ、そうだな」
八月の第二週、栄子の田舎に泊まりに行った時のことである。
メンバーは華蓮に栄子、例の亜美・由美の双子と和美、和美の文化部の知り合いの維泉と香里、七名である。
海が近く温泉があり、おまけに夜真っ暗で神社で夏祭りと田舎で起きそうなイベントをほとんどこなしつつ、部屋は大部屋にみんなでごろ寝という、まるで修学旅行の前哨戦だった。
「でも、亜美と由美って初めて同時に見たね」
「実際に二人居たんだな」
ウワサの亜美・由美も電車の中や旅館では、きちんと二人いたものの、目を離すと必ずどちらかが消えているのも事実だ。
髪型を同じにして二人並べると、区別が付かなくなるのはやっぱり双子だろう。
「それに、亜美は栄子にべったりだったし」
「うーん」
とたんに表情が暗くなる栄子、確かに部屋で座談会しても、お風呂にはいっても、寝るときも、亜美は寄り添うように栄子の隣に居たのである。特別変な事は無かったようだ。
「それにしても。維泉と香里の間にあんな秘話があったとは意外だったぜ」
というのは、座談会で必ず出てくる恋話。
それが始まったとたん維泉と香里の間にへんなオーラが漂っていると思ったら、どうやら中学の時同じ男を好きになってそれがこじれたらしい。
結局その場は和美が場を保ち、それはもう濃い話を持ち出して気をそらした。
姉たちのそんな話に慣れている華蓮でも引いてしまう話なので、見るからにお嬢様の由美は訳もわからずぼーとしていた。
「またあんな旅行に行けたらいいね」
「来年行けるだろ」
「そうだよね」
「しかしさあ。おまえ来年一八才だろ」
何を当たり前なことをと栄子を見た華蓮だったが、上から目線で自分の荷物を見られて首をすくむ。
「梱包してあるからいいけどさ。どうしてそんなにばかでかいのを買うんだよ」
華蓮が手にしているのは有名ファンシーショップの大きなビニール袋だった。
かなり容積に余裕があるのか中身のシルエットは見えていないが、そこには身の丈一メートルほどのウサギのぬいぐるみが入っていた。
本日華蓮が唯一購入したものである。桃色の全身に左耳が途中で垂れている。
華蓮もこれを購入するときに、
「親戚のコドモニプレゼントするのでラッピングよろしくお願いします」
そう店員に頼んでいたところから、自らが購入するのは年齢的に不相応かなと感じて居るようだ。
「これ前から目を付けていたんだもん。トールだって一人だと寂しいでしょ。誕生日にお相手を買おうと思ったんだけど、もう売れそうだったから。名前だって女の子だからアリスって決めてるんだから」
くどくどと言い訳をする華蓮。
ちなみに華蓮設定のトールの誕生日は自分と同じである。その理由は華蓮の誕生日に父親から貰ったからだ。
当然のように栄子は深いため息をついた。
「あのなあ。トールの彼女がどうこう考える前に、自分の彼氏を見つけろよ」
「だってー。わたしもてないもん」
「もてるように努力しろよ。男に嫌われるほど不細工でも性格が悪いわけでもないんだからさ」
男子連中における華蓮の評判はむしろとても良い。一年生のバレンタインデーニ男性にあげたチョコレートはパパだけと、噂話に涙した男子は多かった。
「そういう栄子はどうなのよ。休みのたんびにわたしと遊んでいるってことは彼氏居ないんでしょ」
「判ってないなおまえ。あたしは選んでいるだけでいい寄ってくる男は絶えないんだぜ。なかなかあたしに釣り合う男は居なくてだな、仕方なく華蓮に付き合っているってわけだ」
そんな栄子をじと目で見る華蓮。
「わたしの側に男の子が来ないのって半分は栄子のせいだと思う」
「何だと!」
「部員の下級生に聞いたことあるのよ。栄子を怖がって男の子が近づいてこないって」
「よーし判った。今度きっちりイケメンな男を連れてきてやる」
まさか恐怖で顔面真っ青の上に、生まれたての子鹿みたいに全身ぷるぷる震えながら来ないよねと思いつつ。
気合いを込めていた栄子の表情、それが急に曇りゆがんでいた。
何かあったのだろうかと思いつつ声をかけることが出来そうな表情ではない。
さすがに『慧香中の栄子さん』といえばそこいらのヤンキーも泣いて謝った実力の持ち主だ。素になった表情はマジで怖かった。
だが、栄子の前に座っている子供が彼女の表情を怖がり泣きそうになっている。
これはほっておけないと声をかけようとしたとき。
むにゅっという感触が自分のお尻を襲った。
多分、華蓮も栄子によく似た表情になっていただろう。
そして再度むにゅっと来る。
この感触は手のひらだ。しかも押しつけるだけでなくスライドさせたあげくに握って来やがる。
間違いなく痴漢だ。
「おい、華蓮もか」
「そうよ、どこにいるの?」
二人は小声で話した。
「今度さわってきたら思いっきりつねってやる」
「じゃあ、わたしもそうする」
そして二人でじっと待つ。
ややあって華蓮のお尻にまたむにゅっという感触があった。
〈かかった!〉
と思った華蓮はその手の甲の肉を、引きちぎらんばかりにひねりあげたのだ。爪を食い込ませたのは言うまでもない。
「ひ」
自分たちの後ろでそんな悲鳴がする。さすがに肉は付いてこなかったが、華蓮の爪の中には痴漢の手の甲の皮が付いていた。
そして二人が同時に振り向くと、そこに高校生らしい男の子の背中があったではないか。
〈学生のくせに……〉
思わず涙目になりそうなところをぐっと押さえ華蓮は、がに股に開いていた男の子の靴を思いっきり踏みつけた。
「いてぇ!」
彼は絶叫し顔だけ振り向いた。
顔つきは悪くない。短めの髪に眼鏡をかけており目尻がほんのちょっと下がっている。
とても痴漢をするような男には見えなかった。
〈人は見かけに寄らないわ!〉
華蓮は心の中で絶叫である。
彼はゆでだこ状態の女の子二人を交互に見ている。
「……何だよおまえたち」
「何だよじゃないわよこの痴漢!」
「痴漢?」
「おう、この栄子さんの尻をタダで触ろうってのは良い度胸だ!」
「はあ?」
「とぼけるんじゃ無いわよ!」
「知らねえよ、俺は触ってない!」
そんな言い合いが始まる。
「何を騒いでるの剛史くん」
彼の後ろから女の子が顔をのぞかせたが、華蓮と栄子を見て驚きに目を見開いている。
「なんだ西村」
「西村さん」
そこに居たのは西村和美だった。今日は眼鏡をかけていない。ヘアバンドは必須らしい。
「誰かと思えば慧香のカッパコンビ」
「だれがカッパだ」
「だれがカッパよ!」
彼はおそるおそる和美に顔を向ける。
「……和美、こいつら知り合いか?」
「ええ、同じ学校の同級生」
「西村、コイツおまえの知り合いか!」
栄子はまだ怒りが収まらない。それに反して和美は比較的冷静だった。
「ええ、わたしの幼なじみ。それで剛史くん何をやったの。謝らないと切れたらやばいわよ」
「何もやってねえよ」
「うそ、わたしのお尻触ったくせに!」
「あたしの尻もだ!」
カッパコンビの叫びを聞き和美の視線が自然と冷たくなる。
「……ふうん、剛史くんも見境が無いわねえ。言えばわたしがいくらでも触らしてあげるのに」
「俺じゃねえって言ってるだろう!」
「どうかしら? 小学校の頃はよくわたしのスカートめくって喜んでいたでしょ」
「いまそんな話をするんじゃねえよ!」
電車の中なんて事を忘れ絶叫する剛史をそのままに、和美は華蓮を見た。
「それで美咲さん、その痴漢はあなたと北川さんのお尻を手で触ったのね」
「そうよ! それでその手を思いっきりつねったんだから」
「なるほど……それでは残念だけど犯人は剛史くんではないわ」
「残念ってなんだ、和美!」
「西村さん、どういうこと?」
「こういう事だよ」
と剛史が身体を半回転させてみると……華蓮も栄子も声を上げた。
和美と剛史がそれぞれの両手で大きな箱につけられた取っ手を握っていたのである。しかも剛史の手の甲には傷一つ無い。
「コイツがバカでっかいパソコンなんか買うから、こうやって二人で持ってるんだ」
「これを進めたのは剛史くんよ」
「ついでに郵送にしろって進めたよ!」
「お金がもったいないでしょ。それにすぐ使いたかったし」
いずれにせよ、その状態で華蓮と栄子のお尻を触ることなど不可能だ。
表情が暗くなる華蓮だが剛史はその場から何となく逃げ出しそうにある背広男を見つけた。
「ちょっとまて、こら!」
取っ手を話して男の衿を捕まえる。ぐいっとこちらに引っ張り寄せた。
「きゃっ、急に離さないでよ!」
と言う和美の抗議を無視し、引き寄せた男の手の甲をみると、なんと真っ赤にはれていてすりむいた後があった。
「おいオッサン、この傷はなんだ!」
「し、しらん!
「傷ができてるからあの子の指先と検証すれば一発でばれるぞ、観念しろ!」
剛史はそう言ってどや顔を三人娘に向けた。
§
結局最寄りの駅に痴漢をつきだし、事情聴取を終える頃には日も暮れかけていた。
「ごめんなさい」
華蓮は剛史に頭を下げている。
「俺ってそんなに痴漢に見えるか?」
「そうじゃなくて……真後ろにいたから」
「もっと周りを確認しろよな。冤罪ってこうやって生まれるんだぜ」
「……ごめんなさい」
再度謝る華蓮。だが剛史は言うほど怒っていないようだ。
「ま、そんなスケベそうな顔している方が悪いのよね」
「なんだと和美!」
言われた和美は口笛吹いて取り合わない。
「まあ、あんまり怒らないの。どうせ九月になったら同じ学校に通うことになるんだから」
「同じ学校?」
栄子だ。
「そう、彼は草薙剛史って言ってわたしの幼なじみ。小学校六年までうちの隣に住んでいたんだけど、それからお父さんの都合で海外に行っていてね、この夏また戻ってきたの。九月から慧香高校の生徒よ」
「へえ、帰国子女ってわけか。あ、あたしは北川栄子。水泳部だ、よろしくな」
「ああ、よろしく……で、こっちが?」
と剛史が華蓮を見た。
「わたしは……」
「アリス」
笑いながら栄子が言った。
「アリス?」
「違うわよ。それはこのウサギに付ける名前であって……」
「ウサギ? 何の話だ?」
話が全く見えない剛史はただぽかんとするばかりだ。栄子は小声で笑い和実は華蓮の手持ちの中身を予想して含み笑いを浮かべている。
華蓮は咳払いをして仕切り直す。
「わたしは美咲華蓮。栄子と同じ水泳部よ、よろしくね」
「ああ……そんじゃ、仲直りの印に、握手でもするか?」
剛史はそう言って右手を差し出した。
一瞬躊躇した華蓮だが、すぐに笑顔を作って握り返した。その手は思っていたほど堅くなく暖かだった。
:
:
:
が!
すぐさま華蓮は手を振り払うと、自分のスカートで手のひらをごしごし拭き始めたのだ。
「なによその手、汗だらけじゃない、べったべた!」
「しょうがないだろう、さっきまで荷物持ってたんだから」
「んっもう、そんな手で握手なんかさせないでよね!」
華蓮と剛史の様子を見ながら、栄子と和美は頭を抱えていた。
「これ仕えよ」
剛史が華蓮に差し出したのは一枚のハンカチ。
しかしそれはどことなく乙女チックなデザインだった。
ライトブルーの下地、その四隅にウサギの刺繍が入っている。
それだけでも女の子向けなのに、そのウサギは右耳が途中で垂れており、口元がどこか笑っているような印章を与える。
その形状、まるで……そんなことを思っていると、その刺繍がこちらを向いて右耳を建てて見せた。
“たった三年ほど遅れただけですからな”
その声に瞬きすると、刺繍は先ほどのデザインのまま。
「それ、やるよ」
驚いて彼を見るとどこか照れたように頬を赤くしている。
「俺もどうしてそれを買ったのか判らないんだ。ウサギ好きそうだし、君が持っていた方が似合うだろ」
それに対して華蓮は小さく笑顔を作るとハンカチをキレイに折り畳んだ。
「洗って返すわ」
「別に返さなくても……」
「このハンカチはあなたが選んだのでは無くて、きっとハンカチがあなたを選んだのよ」
きょとんとする剛史。直後、彼も微笑んでみせる。
「ホント、アリスなんだな」
「華蓮よ」
彼女はそう言うと剛史に微笑みかけた。剛史もつられて笑っていた。
華蓮の春も始まったばかりだった。
■Epilog 乙女【A.L.I.C.E】に続く




