■Scene 4 予感【foreboding】
‘あ・り・す’……蒼い水晶越しに見慣れたはずのウサギのぬいぐるみは、華蓮のことをそう呼んだ。
ぬいぐるみ? 少し違う。水晶越しに見えたのはぬいぐるみではなくまぎれもない生きたウサギなのだ。
しかしそれは華蓮にとって二の次だった。
〈……ス、スマホどこ〉
彼女は水晶をかざしたまま部屋の中を見回した。
確か脱ぎ捨てたベストの中に入っていたはず、ベットの上から部屋の中を見回して、手を伸ばせば届きそうな場所に丸まっているベストを発見する。
華蓮は水晶をトールにかざして視線を向けたままベストに手を伸ばした。あとちょっとで届かない。
人差し指はベストに引っかかっているのだが滑ってうまく移動しない。
えいやっと力を込めるとベストは手元に引き寄せたのだが、肝心のスマートホンはポケットから転がってより遠くになった。
「ん、もう!」
と声にする彼女。
どうにかして目の前の事実を記録しておきたかった。そして今度こそ両手を腰にあて、どや顔で「それ見たことか」と大笑いしたかった。
自分を散々あざけ笑った四人に対してようやく仇を討つことができる。
しかし手が届かない。水晶から視線を外せば良いのだが、その隙に元のぬいぐるみに戻っては元の木阿弥だ。
華蓮の混乱に拍車がかかる。あたりをきょろきょろして空いてる左手をそわそわさせ落ち着きがない。
『‘あ・り・す’様』
再度声が聞こえる。
『‘あ・り・す’様、少し落ち着いてください』
「判ってるわよ、トール」
『とてもそうは見えませんが……』
意外と冷静なウサギであった。華蓮は差とされてじっとトールを見ている。
少し不便だったのがトールを生きたウサギとして見るには、小さな水晶を間に置かなければいけないことだった。
視線からわずかにでも外れるとそれはいつものぬいぐるみになってしまう。
声の方は問題ないようだ。先ほど自分に問いかけた声は部屋の中を見回していた時に聞こえていた。
これだけ混乱している華蓮だ、スマートホンを引き寄せたとしてもファインダーをきちんと水晶の中に収められたか疑問である。
「……面倒よね」
『何がですか?』
「この小さな水晶越しにトールの姿を見るのが」
『では見やすくしましょう』
トールがそう言い終わらないうちに華蓮の右手の水晶に変化が起きたのだ。
蒼い水晶は柔らかい光を放ち点滅する。さらに、結晶の奥からまるでレーザー光線のように一直線の白い光が飛び出したのである。
「きゃっ!」
華蓮は思わず水晶を持つ手を離していた。だがそれは、天井からつり下げられているかのように彼女の目の前でふわふわと浮いていたのである。
水晶から漏れた白い光はかくかくと曲がりながら華蓮の周囲を取り囲んだ。それは最初鳥かごを思わせたが、よく形を見ると目の前に浮いている水晶の外形に酷似している。
白い線がよりいっそう輝きを増した瞬間、目の前の水晶が大きく膨れ上がった。
大きさを拡大して彼女を取り囲む白い線と重なろうとしている。
そして、ホワイトアウト。
光の洪水が堅く閉じた瞼の上から、華蓮の瞳をこじ開けようとする。
そのまぶしさを感じなくなりゆっくりと自分の視界を確保しようとしたとき、目の前に「生きたウサギ」の姿のトールが立っていた。
「トール……」
『いかがですか?』
自慢げに胸を張ってみせる目の前のウサギは右耳が途中でたれていた。
華蓮はゆっくりと、そして身体ごと自分の周りを見ていた。
自分を取り巻くライトブルーの壁。それを支える白い柱。座り込んでいる感触があるのにその存在を示さない床。
「これ……どういうこと?」
さらに自分の衣服にすら変化があることに気が付く。確か学校の制服からベストを脱ぎ捨てただけのはずなのに、自分が今身に纏っているのはドレスだった。
ただしドレスと言ってもフリルも宝石の飾りもなく、床(を仮定して)一面に広がっているフレアスカート、上は胸元に深い切り込みが入っていた。
色は白……いやブルーだろうか。
蒼い壁から差し込む光線がすべての色をブルーに調色する。まるでオズの国に到着したドロシーがエメラルドのメガネ越しに覗いた世界のようだった。
「お姫様みたい……」
『お姫様なのです。それが正しい姿なのですよ』
相変わらずそのウサギは饒舌だった。華蓮は改めて目の前の彼を見た。
「あなた……トール?」
『ええ、そうです。先ほどからそう言っていると思いますが』
「それでわたしが……」
『‘あ・り・す’様です』
アリス? Alice? その単語で思い出す物と言えばルイス=キャロルの不思議な童話だった。
確かに目の前に怪しいウサギはいるけど。耳は曲がっているが懐中時計は持っていないようだ。
「わたしは美咲華蓮よ」
『そうとも言いますね』
「そうしか言わないわ」
彼女は周りの蒼い壁に手を伸ばす。
「だいたいこの訳の判らない場所は何なの?」
『おやめ下さい、‘あ・り・す’様!』
不意な大声に身体をうちあげられた魚のように震わす華蓮、すぐさまトールをにらみつけていた。
「なによ、脅かさないでくれる?」
『驚いたのはこちらです。不用意に「境界面」に触れないで下さい』
「『境界面』? そんなに仰々しい物なの?」
華蓮はトールの言葉を無視し自分の右側にある平面に右の手のひらを押し当てた。
『あっ!』
トールの声の後……壁の中に手が埋没する。それと同時に手形を囲むように光が漏れた。
すべてが自分に向かって飛んでくる光の矢。身体を突き抜けていく感触があるが痛みでもなく暖かさでもなく冷たさでもない、「感触」が残されていく。
「な、なにこれ!」
華蓮がそう叫んだ次の瞬間、一番明るく太く早く鋭い光の矢が華蓮の眉間に突き刺さったのだ。
“……返してあげる、あなたの思い出を”
〈え?〉
声とともに映像が……しかしなんだかよく判らない。
“あなたも‘あ・り・す’なの?”
どこ? ここ? わたしは何を見ているの?
“美咲!”
聞こえてきた男の声、それには聞き覚えがあった。自分の身体の向きも状態もはっきりと判らないが、華蓮はその「声」の「方向」に「手」をのばした。
〈草薙くん!〉
映像……見える、息ができない、気泡? 蒼い世界? 水の中? 渦?
目の前に草薙くん!
剛史が手を伸ばしていた。華蓮に向かって手を伸ばしていた。その指の先を掴もうと華蓮も腕を伸ばす。彼の人差し指と自分の中指の先があと少しでつながりそうだった。
だが、
“ネボに触れさせるわけにはいかない!”
その声とともに剛史の後ろに大きな暗闇が……剛史と華蓮の指先が急速に離れる、底なし沼のようなそこに剛史が。追わなければ彼を!
『‘あ・り・す’様!』
トールの声、でも!
「草薙くん!」
目の前に光が……
§
「華蓮、ごはんだってさ」
〈声……蘭姉ぇだ、きっと。わたしはどこにいるの?〉
「寝てるの、あんたのおかず、全部食べちゃうわよ!」
華蓮はゆっくりと身体を起こした。少ししわのよったYシャツ、ベットの上には脱ぎ捨てられたベスト、床に転がったスマートホン、窓の外からは雨の音、そして枕元のウサギのぬいぐるみに右手の中の蒼い水晶。
〈夢? 今までのことは〉
「華蓮!」
ドアを開け蘭が入ってきた。
「なによ居るんなら返事ぐらいしなさいよ。うつろな表情しちゃって」
「蘭ねえ……」
「ちゃんと部屋に鍵かけないとパパが見たら泣くわよ」
「……え?」
「もういいわ。ほら、ご飯だってさ」
蘭はそう言うと呆れ顔を見せて部屋から出ていった。
気になったのは首筋の汗。それは汗と言うより水の中に浸かったかのように濡れていた。
§
華蓮は「水晶の中での出来事」について忘れていた訳ではなかった。かといってその全てを克明に覚えていたわけでもない。
立ち姿のトール、ドレス、そして剛史。
あれは溺れていたのだろうか……自分が覚えている感覚は水の中のそれだった。
華蓮に必死になって手を伸ばす彼、それに触れようとする彼女。
不思議な言葉、黒い渦。
食事をしていてもその後に風呂に入っても、どうしてもその映像を脳裏から消すことができなかった。
幸いだったのは夢に見なかったことだろうか。
一メートルも泳いでいないのに身体の疲れ方は酷く、好きなFMラジオ番組を聞くこともなくその日はベットに横になる。
枕元でじっとしているトールを見ているうちに意識がとぎれ、次の瞬間には朝になっていた。
夢を見る余裕も無かったのだろう。
天気は晴、幾つかの雲が浮かんでいるが昨日の雨の気配すらない。
寝付く時には雨だれが聞こえていた。夜中のうちに止んだのだろう。
彼女は制服に着替えダイニングで軽い朝食をとると、そのまま学校に向かった。
〈誰にも……話せないよなあ〉
校門をくぐってからすぐにプールに向かわず、八月の太陽の下鉄棒を背もたれにじっと校庭の様子を見ている。今日はサッカー部が校庭を占領しており縦横無尽に男子生徒が駆けめぐっていたが、昨日の雨のせいか砂埃は起きていなかった。
「あら美咲さん。こんにちは」
華蓮の背後からそんな声が聞こえてくる。
優しくてか細い声である。何か考え事をしていれば聞き過ごしていたに違いない。
「こんにちは」
華蓮は振り返って挨拶を交わす。相手は二年生だが同じクラスでは無いため面識もあまりないし彼女の丁寧な言い方に合わせているのだ。
「旅行の件は姉さんから伺いました。わたくしも参加させていただきます」
「それじゃあ鈴木さんと亜美が初めて一緒に旅行行くのね」
「そういう事になりますね」
と彼女は微笑んでみせる。
彼女が亜美の双子の妹、鈴木由美であった。
さすがに双子、顔立ちはまさにそっくりだった。由美の髪型はロングで栄子のようなストレートではなく、華蓮のように癖毛になって緩やかなウエーブを描いている。
袖口から見える手やスカートから伸びる足は、日焼けという存在を消し去ってしまいそうなくらい白く運動を拒絶していた。
そもそも直射日光にも弱いのだろう。華蓮との会話を中断し校舎の影に入り込んでほっとしていた。
「今日は泳がれないんですか?」
由美も華蓮が水泳部に属していることを知っているし、主力メンバーであることも理解している。
部活は始まっていそうだしなのに校庭の端でぼうっとしている彼女が気になったのだろう。
「……ちょっと体調が悪くて」
「まあ、それは大変ですねえ。女の子なのですから無理は禁物ですわ」
曖昧にうなづいて見せた華蓮だが、真実は別だった。
昨日の体験からくる疲れも有るのだが、本当は水が怖いのである。
今日プールに入ると溺れてしまいそうなそんな予感があるのだ。それを正直に由美に言ったところで判っては貰えないだろう。
例え同級生や水泳部員に言ったところで反応は同じはずだ。
〈たぶん理解してくれるのは家族と栄子くらいか〉
「でも、泳げる人はいいですね」
「鈴木さん、泳ぎの方はどうなの?」
「浮く程度ならなんとか。泳ぎとなると全くだめですね」
「そう……今度の旅行先なら海が近いからみんなで泳ぎに行こうと思ってるの」
「その時は宜しくお願いします」
由美は頭を深々と下げてみせる。泳ぎを教えてくれと言うのだろう。
「よう、何やってんのこんなところで」
由美がお辞儀をしているとそこに割り込んできたのは剛史だった。
「あら、草薙さんこんにちわ」
「鈴木さん、外にいるなんて珍しいね」
またもや深々とお辞儀する由美に剛史はまいったなという顔を見せる。
華蓮はそんな剛史に声をかけられなかった。
「……どうしたんだ美咲?」
「う、ううん、何でもない」
「練習始まってるんだろ、こんなところでサボっていていいのか?」
「いいのよ、ちょっと体調が悪いんだから」
「へえ、美咲でも調子が悪くなるんだ」
そう言ってへらへらと笑う剛史、反論しようとした華蓮だが目の前にあの映像が蘇る。
水の中で自分に手を伸ばす剛史、自分の名前を呼ぶ剛史。
「あ、あのね……」
「なんだ?」
「草薙くん、しばらく泳がない方がいいよ」
それを聞いた剛史は表現しがたい表情を作ってみせる。華蓮はせっかく忠告したのにと彼の態度を不満に思った。
「なによ」
「美咲、イヤミで言ってないか? 俺は泳げないんだよ」
そう言えば……前に聞いたことがあった。学校の友達数人で海に出かけたとき彼は浜辺から一歩も動かなかったのである。
そんな剛史を無理矢理波打ち際に引っ張っていき和美とケンカになるところだった。
和美は事情を知っていたのだ。
剛史はまるっきりの金槌だ。泳ぐことはおろか浮かぶこともままならないという。
華蓮も彼を危険にさらすつもりは無く彼をビーチパラソルの元に返したが、一泳ぎした後そこに帰って見れば、和美と仲良くかき氷を食べていたのである。
和美には何も言えず地団駄を踏んでいたのを覚えている。
「あ、そうだったね」
「どうしたんだいきなりそんな事言いだして」
「何でもないわよ」
「どーせまた不思議な何とかじゃないのか?」
彼の目は明らかに自分を莫迦にしている……華蓮の心の導火線に火がついた。
二人の間に立った由美が不安そうな顔をしている。
「なによ、そんな言い方する事はないでしょう。わたしは心配して上げているんだから」
「心配? いつそんな事してくれって言った?」
「あの……」
「どうせわたしの言うことなんかなんにも信用していないんでしょう?」
「信用できるような事を言わないのはどこのだれだよ」
「その……」
「そんな変な事言ってないじゃない、草薙くんが……」
「だいたい一七才にもなってだな、そんな夢みたいな……」
「ええと……」
二人の言い合いがピークに達し由美の立場がかき消されようとした、その瞬間である。
「そのケンカ、まったあー!」
校庭の丁度反対側から実によく通る大きな声が響いた。
その言葉通りケンカを止める二人、それどころか校庭でサッカーをしていた部員の動きも全て止まっていた。
そして足音が、誰かが二人……いや三人の元に走って来るではないか。
この真夏のしかも正午前、真上にかんかんと太陽が照っているのだ。それにも関わらず冬服を着て詰め襟がしっかりと止められていた。
彼は三人の手前数メートルでぴたりと止まった。
「晃……」
剛史は嫌そうにつぶやいた。
「生徒会副会長の俺が学生間のケンカを見過ごすわけにはいかない。そのケンカ俺に免じておさめてくれぇ!」
またもや大声である。彼なら拡声器無しに朝礼が出来そうだった。
兵藤晃、慧香高校生徒会副会長の彼はどういう訳か剛史と仲が良かった。そのせいか彼の声のボリュームに耳が慣れているのだろう。表情をゆがめただけで、その声にも平気だが、華蓮と由美はしっかりと耳を塞いでいた。
「もし、ケンカが納められないというならばぁ!」
「ああ、止める止める、すぐに止めるから」
「だから……え、止めるの?」
といきなり声が小さくなる晃。
彼は正義感の固まりのような男だ。「ケンカ」を見つけると止めずには居られない。おまけにケンカを見つける能力が発達していた。
たぶん学校の敷地内で発生したケンカであれば、一分とかからずやってくる。
「ケンカ止めたからもう帰っていいぞ」
「えー、もう止めたのか?」
晃は酷く残念そうである。
「よかったですねえ、ケンカが終わって」
由美はほっと胸をなで下ろしているが華蓮は剛史の背中をじっと見ていた。
なぜ自分があそこまで気にするのだ。
ただの夢かもしれないのに。
そんな時。
“……ネボがイシュタルになる前に”
〈誰?〉
どこからともなく聞こえる声。
「お兄ちゃん!」
今度は方向感のあるしっかりとした声が聞こえる。それも女の子の声で素早く反応したのは剛史だった。
華蓮と晃は一拍置いて、由美は三拍おいて振り向くと剛史のすぐそばに一人の女の子が立っていた。
背丈は低い方では無いのだが、華蓮より童顔の彼女は少なくとも自分たちより年上には見えない。
「……なんだ、こっちに来てたのか美雪ちゃん」
剛史に名前を呼ばれた美雪の表情はさらに明るくなる。なにより笑顔が似合うその子もそれは熟知しているのだろう。
残された三人は申し合わせたようにじっと美雪と剛史を見ていた。いつもは鈍感な剛史もそんな周りの雰囲気の変化に気が付いたようである。
「ああ、この子は俺の従姉妹で鳴瀬美雪っていうんだ。夏休みで田舎から出てきたんだろう」
「鳴瀬美雪です、はじめまして」
剛史の横でぺこりと頭を下げる美雪に、ぎこちなく答える三人である。
「それよりどうしたんだ?」
「お兄ちゃんお弁当忘れていったでしょう」
美雪が差し出した手には高校男子が食べそうないかにもごつくて大きな弁当箱があった。
「あ、すっかり忘れてた」
「今日は和美お姉ちゃんが用事あるから美雪が届けにきたんだよ」
「すまんすまん」
「お兄ちゃん、そそっかしいんだから」
恐らく剛史の方が年上なのだろう、従姉妹と言いながら実の兄妹のように見えるふたり、微笑ましいはずの光景なのに。
華蓮の中に浮かぶ何かの不安、それが嫉妬なら何を子供相手にとでも思うのだが、言いしれぬ感情に彼女はどこか恐怖に似たものを覚えていた。
■Scene 5 約束【Promise】に続く