■Scene 44 想像【Imagination】
目の前にあるのは鏡ではない。
左右は逆だし着ているものも異なる。
しかし顔は全く同じ声も同じ。そして‘あ・り・す’という世界を治める者という名前を持つところも同じだ。
美咲華恋……それは華蓮の世界の北川栄子が東京への遠征土産に買ってきてくれた一冊の本『眠れる森の少女』の中の登場人物の名前だ。
いま、あの本の中と同じ人物が目の前に実在している。
しかも今まで敵対していたネルガルの‘あ・り・す’として。
「……あなたの名前は」
華蓮が聞いた。この病室のネームプレートを見ているためその漢字綴りの事を聞こうとしているのだ。
「判っているわ。わたしもあなたのことは前からよく知っているの」
華恋がベットの横にある本棚から一冊の薄い本を取りだし、華蓮の前に差し出した。
「父がね、お見舞いに買ってきてくれたものよ」
その本のタイトルは……『内気な人魚姫』という物だった。
華蓮は無言の内にその本をめくっていた。
目次をとばし綺麗なイラストをとばし、細かい活字を目で追った。
「……そんなに急がなくても時間はあるわ。そこの椅子に腰掛けてゆっくりと読んだら」
華恋に進められるままに機械人形のように腰掛ける華蓮。鳥かごの中のセキセイインコが小声で鳴いている。
「トールもね、今日はこんなに遅くなっても起きているの……もう風が冷たいから窓は閉じるわね」
「トール?」
華蓮は本から目を離して同じ顔の少女を見る。
華恋はベットから身体を窓に伸ばすと静かに閉じた。
「……‘あ・り・す’に仕えるものはすなわちトールよ。今日だってあんまりにもここに来ないから、心配になってこの子に案内を頼んだの」
華恋が人差し指を小鳥に差し出すとまた小さな声で鳴いた。
「きちんと『眠れる森の少女』を読んでいれば、ここなんか簡単に見つかったのにね」
「……それじゃあの本はわざとわたしに?」
「さあどうかしら? それよりその本は読まなくていいの?」
華恋に言われて再び本を読み出す華蓮。そのお話は……
主人公は高校の水泳部のエースの女の子。
明るい性格で学校でも人気があるが、好きな男の子には幼なじみの女の子や、彼を兄と慕う従姉妹がいてなかなか仲良くなれない。
がんばって彼に絵を描いてもらう約束をしたけど、その日彼が持っていたスケッチブックに幼なじみの水着の絵があって大げんか……
華蓮はいつの間にかその本を読むのを止めていた。その続きを見るのが怖かったのだ。
「……そうよ。その本の主人公は美咲華蓮。どこかで聞いた名前よね。それにそんな設定も」
「どういう事?」
華蓮は本を閉じて華恋を見た。
「……怖い目。ここではわたし病人なのよ。何年間も入院して病気が治るめどもたっていない女の子なのよ」
少しおびえた表情を見せたが一転して笑顔となる。
「でもせっかく遠くから来たお友達のためだもの。色々と聞きたいのでしょう。答えてあげるわ」
「ここはどこ?」
「もう何度も説明しているわ。シンの世界よ」
「それはハルワタートの説明してくれた世界には無かったわ」
「ハルワタート……あなたの前身ね。そう彼女は未完成だったからこの世界全体のありようについて間違いを覚えていたの」
「未完成?」
「見て」
そう言って華恋は紙とエンピツを取り出すと、四角錐ではなく正八面体を書いたのである。
そして各頂点に小さな丸を書き、重心の部分にやや大きめの丸を書いた。
「この四角錐が二つ重なった共通の部分、この四つがそれぞれ、ネボ、ニニブ、ネルガル、マルドゥックになるの。それぞれのチャンネルが一方通行なのは判っているわね。そして、残った向かい合う二つの頂点、これがシャマシュとシンよ」
「この真ん中のは?」
「これがイシュタル。あなたとわたしの本当の終着地」
「あなたとわたし?」
華恋はうなづいた。
「そうよ……二人のゴール。そこにたどり着くためにあなたは各地の‘あ・り・す’が持つ力を集めていたんでしょ。そしてついに白い水晶を完成させた」
「あなたの水晶はネルガルの世界においたままよ」
「違うわ、わたしも水晶を持っている。ただしあなたのとは違うけど」
そう言って華恋が胸元から引っ張り出したのは、華蓮と同じ大きさの六角柱の水晶だったが色は黒だった。
しかもどんな光も反射しない黒である。
表面が曇っているわけではない。濁りもないのにそれは完全な黒色を保っていた。
「この黒の水晶とあなたの白の水晶……二つがあって初めてイシュタルへの道が開くわ」
「わたしがマルドゥックであなたと逢ったときは……‘あ・り・す’はおばあさんの声だった」
「呪術でそんなのいくらでも変えることができるでしょう」
華恋はクスクスと笑って見せた。しかし華蓮は真剣に問いかける。
「それに……あなたとわたしが同じ顔ならタローマティがわたしに出逢ったときにもっと驚いたはずね」
「鋭いわね。でも、タローマティはわたしのこの顔を知らないわ。
タローマティが殺したネルガルの‘あ・り・す’はニセモノよ。あの子がわたしに殺意を抱いていたのは知っていたから、身代わりを置き水晶を渡してわたしはさっさとマルドゥックに移動したの。それからタローマティはなんとかニセモノの‘あ・り・す’のトールになった。そこで初めて‘あ・り・す’の顔を見たのよ。
まああの子は勝手にトールを名乗っていたみたいだけど。わたしにとってトールは過去も現在も、そしてこれからもこの子だけよ」
華恋の笑顔に答えるようにセキセイインコは鳴き声をあげる。
もちろん……」
華恋は作り笑いを浮かべている。
「わたしの顔を一時的に身代わりの顔にもできる。だって‘あ・り・す’なんだから。
そもそもネルガルでタローマティが見たわたしもマルドゥックの謁見の間の暗幕の中に居たのもみんな幻。わたしはこの病室から出ることができないの。お医者様に止められているから。
でもね、さすがにこの素顔を草薙くんに見せたら驚いていたみたい。一瞬心に隙ができたから付け入るのはとても楽だったわ」
「草薙くん!」
「……聞きたいことは判るわ、彼に何をして、彼は今どこに居るか」
浮き足だった華蓮だが、その勢いを殺された形になった。
「それはイシュタルに行けば全て判ると思う。それだけではなくてあなたが思っている疑問も、考えても居なかった事実も」
「どういうこと?」
「あなたは‘あ・り・す’という言葉の意味を考えた事がある?」
「……その答えは判らなかったわ。だれも答えてくれないし」
「答えられる訳がないわ。知らないんだから」
「知らない?」
「その答えを誰かきちんと知っている人がいると思ったの? アールマティが知っているとでも? ネボの平和ぼけの人たちやニニブの死者たちが? それともネルガルやマルドゥックの戦うだけの戦士が?
あの人たちはその言葉を知っているだけなのよ。だから、言葉の意味なんて知らない」
「あなたは知っているのね」
華恋は静かにうなづいた。
「……そんなあなたはなぜここに居るの?」
「何でこの病院に入院しているか、ということ?」
「そう」
「それも簡単には説明できないわ。逆に質問するけどネボの‘あ・り・す’であるあなたは、何故慧香町に住んでいて水泳が得意でない家族から、一流の水泳選手としてオレンジラインになったのかしら?」
「それは……」
上目遣いに考えてみると……
「ハルワタートが生まれ変わって……」
「でも、それって変よね。ならタルウィも生まれ変わった事になるから、二人がチャンネルの中に消えてから十数年の時間がたっているはずよ。
でも、ドゥルジもハルワタートもタローマティもさほど歳はとっていないわ。それはなぜ?」
「……世界によって時間の流れが違うから」
「そう……でも、それってずいぶんと都合のいい話だと思わない?」
「うん、言われてみれば」
「答えは意外と簡単なのよ。あなたがそう設定されていたから」
「設定?」
「これ以上は実際に見た方が早いわ」
華恋はベットから身体を起こし、布団から両足を投げだして床に置いてあるスリッパを突っかけていた。
そして立ち上がるとスツールをしっかり巻き付けて病室の出口に向う。
「どうしたの、わたしに付いてこないの?」
華恋に言われ、華蓮もあわてて席を立って紙袋を掴むが、
「トールは連れてきても無駄よ。イシュタルに入ることができるのはわたしたちだけなの」
「……そう」
華蓮は紙袋を病室に置くと、華恋の後を追った。
§
相変わらず消灯時間を過ぎた病院の中は、季節はずれの肝試し状態である。
同じ背の高さの人物が並んで立って話をすると、お互い相手の方が背が高く見える。今も目の前には華恋がいるのだが、服装の違いか向こうの方が背が低く見えた。
華恋は階段をおり、そのままフロアを抜けて中庭に向かっていた。
「病人なんでしょ。歩き回って大丈夫なの?」
「あら、わたしの事を心配してくれているのね」
わずかに振り返った華恋がそうもらした。
「あなたはネルガルの‘あ・り・す’に怒りを感じていたのではないの?」
「それはそうだけど」
「それとも、自分と同じ顔の人物だったので、その気が無くなってしまったのかしら?」
「違うわ!」
「ふふ……でも、不思議に思わなかった? 色々な世界を巡ると自分と関係する人々によく似た人物は居るのに、自分にそっくりな人物に出逢うことは無かった」
華蓮はふと考える。たとえば栄子とエーコと映子、和美とドゥルジ(カズミ)と和実。鳴瀬美雪とタローマティと成瀬深雪。
この世界の深雪の姿を見たわけではないが、たぶん容姿は同じなのだろう。
「そうね。でも‘あ・り・す’という立場ではわたしはあなたと逢ったわ。他の‘あ・り・す’は違うみたいだけど」
「同じ‘あ・り・す’でもわたしとあなたは特別なの。向かい合う‘あ・り・す’同士としてね」
華蓮の中で華恋が書いて見せた正八面体が頭に浮かんだ。
「ネボとネルガルって事?」
「いいえ、シンとシャマシュよ」
いつの間にか二人は中庭に出ていた。
もちろん、この時間なので誰もいない。
病室はすべて照明が落ちており、鳴く虫もなく風に揺られて木々が奏でる音だけが聞こえてきた、
星と月が鮮やかに見える。先ほどよりやや雲が出てきたようだ。
「……ここがイシュタルの入り口?」
華蓮がそう聞くと、華恋は首を左右に振る。
「ううん、ここがわたしのお気に入りの場所なの。イシュタルへの道はいつでも開くことができるわ……さあ、白の水晶を出して」
言われた通り、手のひらに自分の水晶を乗せると、華恋に向かって差し出した。相手も手のひらに黒い水晶を乗せると華蓮に差し出した。
すると、今まで輝きを失っていた二つの水晶はほんのりと光り出したのである。
細かい粒子のような四色の光が、ゆっくりと渦を巻きながら二つの水晶からにじみ出て、それが二人の身体を包みだした。
確かに世界を渡るチャンネルが発生する光に似ている。
だが、どこか違う。自分の足下に真っ黒な空間はできないし、鮮やかな光の輪もできない。
「ねえ、これって……」
そう華恋に語りかけたが、すでに目の前に彼女の姿は無かった。手の中に白の水晶はそのまま残っている。
周りは段々ともやがかかり、何も見えなくなった。
§
自分の視界が回復すると、見えてきたのは不思議な光景だった。
どこかの部屋の中だろう。天井が低い部屋、その模様は白と黒のチェックだった。
床に目を移すとそれも同じ模様が並んでいる。
辺りを見回すとずっと先に壁が見える。どれほど先か見当も付かないが、確かに壁がある。
華蓮の正面には青と白のチェック柄が、右手には黄色と白のチェック柄が、後ろは赤と白のチェック柄が、そして左手には碧と白のチェック柄の壁である。
自分は部屋の中心に居るらしく、どの壁へも距離は同じように見えた。柄の感覚が同じなので、それは間違い無いだろう。
もしかしたら遠近感を狂わすだまし絵かもしれないが、ともかくどちらかに進まないと何か起きるとは思えなかった。
問題は、どちらの壁に向かえば良いかという事だ。
最近は自分の勘や無意識だけで行動するのではなく、それなりに考えるようになった。
四色のチェック柄を比べれば、自分はネボなわけだし……華蓮は青白の壁に向かうことにした。
歩き出すと判るのだが、足は動いているのに一向に壁に近づく気配がない。
下をみると、床のチェック柄はきちんと自分の後方に流れているようだ。
ただ、チェック柄というのがくせ者だ。一こまの大きさが微妙なので逆の動きをしているような錯覚を起こす。
とりあえず動いていればいい。華蓮はあわてず騒がずペースを崩さずに歩き続けた。
ここまで来ているのだ、そんな度胸の良さがあるのかもしれない。
すると、今まで近寄る気配の無かった壁がどんどん間近になっているではないか。元々鮮明だった壁の柄がパターンの大きさが拡大されていく。
それから一分もしない間に床の柄と目の前の壁の柄の大きさが同じになった。
ここでゴールなのだろうか? 扉を探しても無いような。
〈……なんか変ね〉
目の前の柄の話である。非常に微妙なのだが柄にずれが生じているのだ。
そのずれを目で追ってみると、扉に見えない事もない大きさだ。
だがノブはいっさい無かった。
なら、押し戸だろう。華蓮が躊躇なくずれの部分を押してみると、何の抵抗もなくすっと開いた。
戸の向こうもやはり同じデザインの部屋であった。
しかし若干の差があり、目の前に一人の少女が立っていたのだ。
「あら、きちんと壁を選択できたのね」
華恋である。一瞬驚いて見せた物のすぐに笑顔に戻っていた。
反面、華蓮の顔はふくれていた。
「まだこんな仕掛けがたくさんあるわけ?」
「ううん、これで最後よ」
「……ここまでして何を隠すの?」
「それもすぐに判るわ。さあ、行きましょう」
華蓮と華恋は並んで歩き出す。
華蓮から見て部屋を出て左に曲がってまっすぐ、今度は比較的近くに木製の大きなドアが見えた。
「さっきの部屋で間違えた壁の方向に歩くとどうなるの?」
「どうにもならないわ。チャンネルを開いた場所にふたりで戻るだけ」
「迷って死んじゃったりしないんだ」
「わたしたちは死なないの」
華恋は真顔でそう言った。
「え? でもハルワタートは、タルウィに胸を貫かれて……」
「それでもあなたが居るでしょう。わたしとあなたはそう簡単に死ぬことはできないわ」
それもこの目の前の扉を開くと判るのだろうか?
扉は観音開きになっている。ノブが二つあり、華恋は右を、華蓮は左のノブを持った。
「まったく同時って必要はないけど、同じタイミングで開けないと中には入れないわ」
「……じゃ、音頭はあなたがどうぞ」
「三、二、一」
二人は三泊目でドアを押した。
タイミングが合っていたのだろう、扉は問題なく開いたようだ。
ドアの向こうの部屋は広さで言うと一〇畳ほど、華蓮の自室を二周りほど大きくした感じだ。
床や壁や天井の模様は例のチェック柄だが、部屋の真ん中に大きなベットがあった。
そして床には子供のおもちゃらしい物がたくさん転がっている。
一面という訳ではないのだが、普通の母親がみれば片付けを言い出すレベルだろう。
と、言うことは。
ベットに目を向けるとどうやら小さな子供が寝ているらしい。
二人は足並みをそろえそのベットに近づいた。
中には女の子が一人、安らかな寝息を立てている。
掛け布団を首まですっぽりとかぶり、寝顔はとても穏やかだ。
ただ、華蓮にはその顔に見覚えがあったのだ。
思い出すのはたやすかった。幹ヶ原池公園で母親を待っていた少女……他にもチャンネルを通過するたびに見たり、ニニブのオアシスで見たり、ネルガルの禊の間を出た後に見たり……
「……そうよ。あなたがこの子に逢うのは初めてではない」
華恋は目の前の女の子を腕組みして見ながらそう言う。
いつでも楽しそうに物事を告げていた彼女が、今だけはどこか寂しそうに見えた。
「たぶん、あなたが色々な体験をするとき、この子は必ずあなたのそばに居たはず……そして、あなたを見守って居たのよ」
「どうして知っているの?」
「わたしもそうだったから……でも、今はそんな事関係ないわね。それよりも、床に転がっているおもちゃの中には面白い物があるわよ」
華恋がそう言って視線を送った先……白いウサギのぬいぐるみがあった。華蓮は思わずそれを拾い上げ、
「トール!」
だがそのウサギは本当にただのぬいぐるみらしく、華蓮の受け答えに何の返事もしない。
さらに、その横には同じ顔をした女の子の人形が二体。
さらに目の前の華恋が持ち上げた鳥かごの中に、機械仕掛けの鳴く小鳥がある。
そして枕元には綺麗な緑色のドレスを着た女の子の人形が一つ。
……すなわち、全ての世界のトールであった。
「それに『眠れぬ森の少女』をあなたに、『内気な人魚姫』をわたしに送りつけたのもこの子の差し金よ。お互い相手のことを知らせる気配りかもしれないけど」
「彼女はだれ?」
華蓮は非常にシンプルな質問をしてみた。すると華恋はやれやれと困った表情を返す。
「ここまでヒントが出ていてまだ判らない?」
「……悪かったわね。どうせわたしは血の巡りが悪いわよ」
「仕方ないわ。そう設定されているんだから」
「設定ってどういうこと。さっきからそれを言っているけど」
華恋はそれに答えず布団を少しだけめくってみた。
小さな身体である。両手は胸の前で汲まれていた。
その手が握っているのは小さなネックレス。それに付いているのは六角柱の水晶だ。
形状は華蓮や華恋が持って居る者と同じだが色は透明だった。
「なぜわたしたちが‘あ・り・す’と呼ばれているか、‘あ・り・す’という言葉がなぜ世界を治める者の代名詞なのか……
それはね、‘あ・り・す’という名前の人物が、実際に全ての世界を支配しているからよ」
「……つまり」
華蓮はベットの上の少女を見た。そして華恋がつぶやいた。
「彼女の名前は美咲亜理寿[ありす]。
すなわち、世界の……わたしとあなたも含めた全ての世界の『創造主』よ」
華蓮は何も言い返せずベットの上の小さな創造主の寝姿を見ていた。
■Scene 45 箱庭【Miniature】に続く




