■Scene 3 微熱【Fever】
「水が結晶化した状態」……華蓮は水晶の事を母親からそう教わった。
それは確か小学校に上がったばかりの時、母親が持っていた透明で小さな水晶を初めて見たときの事だ。
大きな目を見開き興味深げにそれを見ていた華蓮の手のひらに、母親はそっと水晶を乗せた。ほんのりとぬくもりを携えていたそれは、まさに水のような透明さを感じさせていたのである。
結晶という単語が、「ものがかたまったもの」程度にしか理解できない年齢だったが、
「これはね、人魚姫の涙なのよ」
という母親の言葉に驚いた。
「なみだ?」
「そう、とても悲しいことがあって涙が我慢できなくなると人魚姫はね、満月の夜を待って岩場にあがって、だれにも見られないようにそっと涙をこぼすの。
こぼれた涙が波に触れた瞬間、こんなに綺麗な宝石になるのよ」
「そっか、だから暖かいのね」
幼い華蓮は水晶の中の人魚姫の悲しみなど知る由もなく、小さな手をそれに重ね握り締めていた。
部活を終え栄子との約束を守るべく、慧香高校の裏手にあるコンビニエンスストア「ファミリーストア」の店先で、華蓮はプールの底に落ちていた蒼い水晶を見ながらあの時のぬくもりを思い出していた。
「……人魚姫の涙か。華蓮ってやっぱり母親似なんだな」
栄子はカリカリに凍ったアイスクリームの表面を、木のさじで少しずつ削りながらそうつぶやいた。真夏の夕刻。午後五時では吹く風くらいでは肌が感じる暑さを冷ますことは不可能に思えた。
華蓮は栄子のカップを見ながら小さくうなづいていた。
「うん、ママに教わったこと、みんな信じていたから。それでよくお姉ちゃんたちに莫迦にされたけどね」
「笑うトールに水晶に、ここのところは不思議づくしだな。華蓮も早く食べないと溶けるぜ」
「そうね」
と華蓮のアイスクリームを差し出す栄子、華蓮は水晶をポケットにしまってイチゴの絵が描かれたカップを受け取った。
「冷たすぎるのって苦手なんだよね」
「そのわりによくかき氷食べるじゃないか」
「あれはわたしの趣味じゃなくて……」
そこまで言いかけて、栄子の目つきがいやらしくなっていることに気づく。何が言いたいのかと言えば。
「草薙に合わせているんだろう?」
「べ、別に……」
華蓮はそれに答えず、木製のさじが折れてしまいそうな勢いで、アイスクリームの表面を叩いて見せた。
「……それで、少しは進展してるのかよ」
「進展って?」
「そうだなあ、奥手なおまえのこったから、手ぐらいはつないで歩いたのか?」
「ば、莫迦言わないでよ」
「おいおい、中学生じゃ無いんだからさ、そんな事で恥ずかしがってどうするんだよ」
「だって、そんなふうじゃないのよ」
「じゃあ、どんなふうなんだよ」
栄子の追撃に言葉が詰まっている。とりあえず、今までの「経緯」を説明すると……
「だ、だから、一緒にかき氷を食べて、お話しして……」
「つまるところ、華蓮の片思いってところか?」
「違うわよ!」
「そんなことじゃ西村に刃向かうなんて絶対無理だな」
栄子は笑いもせずそう言った。
それなりの勢いを持っていた華蓮も和美の名前が出たとたんにそれが急にしぼんでいくのを感じた。そんな感情を起こす自分は剛史との間柄をどこまで望んでいるのだろうか?
片思い? それとは違うような気がする。彼に対する態度だってクラスメートの男の子たちとあまり変わらないはずだ。
ましてや「恋人」など……そんなキーワードを思い浮かべるだけで頬が熱くなるのだ。
何と言っても「草薙剛史の彼女」は「西村和美」……それは慧香高校での常識となりつつある。あそこに二人が入学して以来、離れて行動しているところを見たことがない。
クラスのメンバーで旅行に出かけても、海に泳ぎに行っても、美術室でも教室でも、剛史の居るところに必ずまるで寄り添うように長い黒髪を揺らす「才女」がいるのだ。
彼を和美から引き離せるのは今のところ華蓮だけ。故に最近では「華蓮・和美戦争」が起きるに違いないとも噂されている。
二人の立場を考えれば華蓮が不利なのは一目瞭然だ。なんといっても剛史と和美は物心付いた頃から友だちの間柄、家は隣同士でお互いの部屋が窓挟んで向かい合わせという。
剛史が絵を描くのを趣味とするのも、今では離婚してしまったが和美の父親が有名な日本画家であり、家に遊びに行っている間に基本的な技術を教わったかららしい。
和美とは逆に幼い頃に母親を病気で亡くしている剛史は、身の回りの事にまるっきり疎く和美はまさに彼の母親のように食事を作ったり洗濯したり、部屋の掃除までするという。
そんなうわさ話は剛史とふたりっきりで学校から帰る場面を見られた級友から、再三「忠告」の形で聞かされている。
あまりに近すぎて「恋人」になりきれない和美だから……怖いよと。
「別に『割り込もう』なんて思ってないのに」
「……どうかな。華蓮って変なところで積極的じゃないか」
「そう?」
「いざって時に勝負に出られないくせにさ」
〈そうかもしれないなあ〉
華蓮はさじを前歯でかじりながらそんな事を思った。今度の関東大会だってそうだしもしこれからさき剛史の事を意識しても、卒業式までにそれをはっきりに相手に言えるのだろうか?
〈……無理だろうなあ〉
自分の事は自分が良く知っている。
「でもいいなあ、そういう浮いた話しがあってさ。あたしもそんな夢中になれる男でもほしいよな」
「夢中って……」
「いいよな、いいよな」
別に夢中という訳でもないのだが否定しても余計にからかわれそうだった。
「栄子だってラブレターたくさん貰っているからいいじゃない」
「その全部が女の子からでもか?」
「わたしみたいに男女問わず誰からも来ないよりましよ。女の子にもてるなんて、宝塚みたいでかっこいいじゃない?」
「じゃあ今度はあたしが華蓮にラブレターでも書いてやろうか。『愛しい愛しい華蓮様、わたしはあなたのそのスリムなボディ、フラットなバストに惹かれました』ってさ!」
「ん、もう! そこまで言うことはないでしょ!」
ぽんっ と軽い音がする。華蓮のパンチが栄子のおなかを叩いた音である。もちろん本気ではない。
「あはは、悪い悪い。それはそうと加藤と鈴木には旅行の事聞いたのか?」
「ううん、まだだけど」
うまい具合にかわされた、そうは思っても悔しいのでもう一回栄子のおなかを叩いて華蓮は返事をした。
「今週中に旅行会社に返事しないといけないから早めに聞いておいてくれよ。どうもあの二人は苦手だ」
栄子はそう言って表情を曇らす。からかってやろうかと思ったが「反撃」が怖いのでそのままうなづいて見せた。
§
翌日ははっきりしない天気となった。
気温はそれなりに高いのに風が無く、湿気がもう一枚の衣服のように身体にまとわりつく感覚があった。
水泳部にとって天候はあまり関係ないように思える。実際関係するのは気温で寒いと水温との差が小さくなるせいか、水の中が温かく感じるがプールサイドで休んでいる時間に身体が冷えてしまう。
屋外競技と同様雨の日は練習をしないのだ。
天気予報では夕立止まり、昼から崩れることはないという。一応水着は持ってきたものの、先に済ませる用事があるので夏服で校内を歩いていた。
慧香高校の制服はブレザーでありライトブルーのYシャツにダークブルーのネクタイ。普段は紺のベストを着ることになっているのだが夏休み中の部活ではそれも免除になっている。
ただ、ベストを着ていないと汗でYシャツが透けてしまうため、女子生徒はちょっと我慢してつけていた。
特にこんな蒸し暑い日はYシャツはまさにシースルーになってしまう。華蓮は地味めな下着を選び念のためにベストもつける。
首回りは特に暑いのでネクタイは外していた。
今日の用事は校庭のトラック、本日は陸上部の優先日なので校庭全面を占領していた。
特に午前中は女子部が使っている。華蓮はフィールドに入ると走り高飛びをおこなっているグループに近づいた。
そこには女子生徒が五人ほど居た。その中でバーの高さを調整している下級生二人を一人の女子生徒が腕組みして見ていた。
華蓮の視線を察したのか腕組みの生徒は首だけわずかにこちらに向けた。
ごく普通の体型、だがスパッツからのびた足は筋肉で引き締まっている。両耳の上でまとめている三つ編みを首筋で一つに絞っていた。それがなければちょっとヤセ気味の男子に見える。
「やあ、美咲」
「元気、亜美」
その女子は華蓮に答えるようにわずかにうなずいて見せた。
「加藤先輩! 準備できました」
バーを調整していた後輩が元気な声を亜美に浴びせる。
「練習始めてくれ」
「ハーイ」
「ところで今日はなんの用だ?」
亜美は華蓮の前でゆっくりアキレス腱を伸ばすと無表情にそうつぶやく。彼女、加藤亜美は華蓮と同じ二年生で一年の時は同じクラスだった。
制服を着ているときはごく普通の女の子なのだが、こうやって体操服に着替えるとまるっきりの男の子になる。それが証拠に。
「亜美は旅行、どうする?」
「ああ、ボクは参加するよ」
と、うれしそうに答えた。
「北川さんは参加するんだろう?」
「う、うん。一応主催だからね」
「楽しみだなあ……」
栄子が亜美を苦手とするのは彼女のこんな態度からだ。他意はないんだよと栄子に説明するが華蓮自身もまったく不安がないわけでもない。
高跳び選手として男子からも一目置かれている彼女の顔を赤らめる姿は違和感以外の何物でもなかった。
「ところで鈴木さんはどうなの?」
「たぶんアイツも行くとは思うよ」
「聞いてない?」
「ああ。今日は家じゃないかな」
「……ところでさ、亜美と鈴木さんって本当に双子だよね」
「そうだよ」
訝しげに華蓮を見る亜美だが今の質問は全校生徒の疑問でもあった。
「鈴木由美」は「加藤亜美」の双子の妹だ。
戸籍上由美は鈴木家の一人娘、亜美は加藤家の一人娘である。
二人は加藤家の双子として生まれた。家庭の事情と親戚筋の鈴木家の希望で由美が養子にだされた。
二人とも自分の境遇はよく心得ており、姉妹としても認めているがお互いが育った状況が大きく異なっていたのか、加藤亜美は陸上選手として活躍し、鈴木由美は目立たず華道部の一員として花を愛でている。
髪型と物腰が違っていてもそこはそれ双子、顔立ちなどはそっくりで「慧香のマナカナ」なんてあだ名が付いているのだが、たった一つ謎めいた部分がある。
加藤亜美と鈴木由美を同時に見た生徒がほとんど居ないのである。
クラスも部活も違うためそれでも不思議では無いはずなのに、昼休みや体育祭に文化祭でも亜美が居れば由美がおらず、由美が居れば亜美が居ない。
一部に二人は実は一人でないかと言われている。
「二人そろって旅行なんて初めてじゃない?」
「そうだなあ、アイツとどこかに行ったって記憶はないものな」
「そう」
「美咲こそ今度は『遠足熱』出さないようにな」
亜美にそう言われてシュンとする華蓮。
「ああ、ごめんな。悪気は無かったんだよ」
「しょうがないよね」
亜美のすまなそうな様子を見てなおさら落ち込むのである。
§
遠足熱とは修学旅行や遠足に出かけた先で、一時的な環境の変化や期待・不安から発熱し、風邪と同じようになるストレス症状である。
華蓮の場合は少し違っている。旅行など遠くに出かける日が近づくと発熱・嘔吐など続き参加を断念することが多かった。
つい最近では関東大会である。
そこで症状は少し異なるのだが、華蓮のそれは友人から、「遠足熱」と呼ばれていた。
その日は正午過ぎから天気が崩れ水泳部の練習も遠征直後と言うことから中止になり、華蓮はそのまま家に引き返した。
〈……今度の旅行くらい大丈夫だよね〉
こればかりは自分の身体ながら保証できない。
旅行が嫌いというわけでもないし枕が変わったくらいで眠れなくなるほど神経質でもない。
正月など隣町の親戚の家に、お年玉目当てで泊まり歩くことがある。そんなときなど体調を崩すことなど無かった。
ただ距離に比例して体調を崩す確率が上がる。栄子には地縛霊か土地神様かと笑われている。
〈こんな事じゃ秘密の旅行なんて夢のまた夢……〉
華蓮も年頃の女の子、大好きな男の子と誰にも秘密でどこかに出かけたいと思う。それも泊まりがけで。
ラフな姿に小さなカバンを持ち、ちょっと離れた駅で彼と待ち合わせ……そんな事を想像し顔を赤くする。もっともその彼が誰かというのも大きな問題だった。
〈やっぱり――かなあ〉
名前は出さずとも脳裏に浮かんだのは剛史の顔だった。しかしその直後浮かんだのが彼の腕を引っ張りどこかに連れて行く和美の姿。
自分で想像したことといえいきなり気分が悪くなり、丁度現れた自分の家の扉にやつあたっていた。
「ただいまー」
今の時間家族は出かけているか昼寝のはず、そう思った華蓮だが目の前に次女の百合が現れた。
「あらお帰り。早かったのね」
「百合姉ぇこそ出かけてなかったんだ」
「雨が降るって天気予報で言っていたからね」
根っからのインドアの姉は降水確率が二五パーセントを超えると外出しなくなる。
華蓮は脱いだ靴をそろえるとすぐに二階にあがろうとしたが。
「これあんたのかい?」
何だろうと思って振り向くと百合が自分に右手を突き出している。その人差し指と親指の間には何か光る物が……
「あ、それどうしたの?」
「やっぱり華蓮のか」
百合が持っていたのは昨日華蓮がプールの底で見つけた水晶だった。
「洗濯機の中に転がってたってママが言ってたんだよ」
「か、返して!」
と百合に詰め寄る華蓮。オカルトマニアの怪しい目の輝きを感じ取ったのだ。
だが百合はそれに答えるように水晶を華蓮にそっと投げた。
「取りゃしないよ。どうせ模造品だろ。どこで拾ってきたか知らないけどさ」
「プールの底よ」
華蓮はそれを左手で受け止めぎゅっと握ると階段を駆け上がった。
「何だって?」
「プールの底!」
不思議そうに自分を見つめる姉を後にし華蓮は自分の部屋に飛び込んだ。
バックをベットの上に投げるとベストを脱ぎ捨て自分も横になる。
恐らく昨日洗濯物を出すときにベストのポケットに入れっぱなしにしていたのだろう、華蓮は窓から差し込むあかりにその水晶を透かしてみた。
ほんのわずかブルーに着色された世界をかいま見ることができるが、姉が言うように模造品かもしれない。
外から伝わる雨音も何となく自分を笑っているように聞こえる。
一瞬それが強くなった。
“見ているの?”“覗いてるの?”“眺めているの?”
声? 耳を澄ましてみても聞こえるのは雨音だけ。それが人の声に聞こえたのだろうか?
もう一度水晶をのぞき込むと……
“……ようこそ”“……帰るわ”“……さようなら”
華蓮は上半身を起こした、それも勢いよく。あれは絶対に雨音ではない。確かに人の声だ。
ベットを離れドアを開ける。廊下には誰もいない。次に窓を開ける、外は雨。備え付けのステレオを見ても電源は入っていない。
彼女はため息をつきもう一度ベットに腰掛けた。
〈疲れてるのかな……それとも泳げなかったからかな〉
百合のように人差し指と親指の間に水晶を挟み枕元のトールの前にかざす。
少しだけ蒼いトール。いつもと何も変わらない部屋の静けさ。
「泳げば良かったかな」
『その通りですよ』
今度の声ははっきり聞こえた。しかも部屋を見回す必要も無かった。
「……トール」
『雨の中をおそれるなどあなたには似合いません』
水晶をさっとよけると声は消える。そこにあるのは古びたぬいぐるみ。
だが水晶をかざすとそれ越しに見えるのは、二本足で立って自分に笑いかける生きたウサギだった。
「あなた誰?」
水晶越しにウサギへ話しかけるなど自分でも気がどうにかなったのかと思う。しかしそのウサギはうれしそうにうなづくのである。
さらに。
『従者のわたしをお忘れですか? ‘あ・り・す’様』
ウサギの右耳は途中でたれていた。
■Scene 4 予感【foreboding】に続く