■Scene 35 裏切【Betrayal】
一面の草原である。
ひょっとしたらどこかで見たかもしれない風景……どこにでもあるかのようなそれは今までの世界が彼女にとって現実離れしていただけに、かえって不自然にさえ思えた。
ポートレートの中の作られた自然。
だが、そこには風が吹き彼女のほつれ髪をさらさらと流していた。
「……ここがマルドゥック?」
「そうですよ」
華蓮の質問にトールは簡潔に応えた。
カズミから森と風の世界だと聞いていたが、それは華蓮の想像以上の光景だった。
全体的な雰囲気はネボと大差が無いのだが、草原の果てに見える木々を見ているとそこに緑色の海を見ているようだった。
この世界が他の世界を支配しようと考えているのだろうか。
こんなにも平和そうな世界が……
「ねえ、カズミさん」
華蓮は振り返って尋ねる。
「どうしてこの世界の‘あ・り・す’は他の世界に戦いを挑んでいるのかしら?」
「わたしにはよく判りませんが、‘あ・り・す’様にはお考えがあってのことだと思います」
「そうよね」
そうだ、この世界の一住人に聞いたところで、ピラミッドの頂点の考えることがそのまま伝わることも考えられない。
聞くとしたら‘あ・り・す’本人だろう。そのためにこの世界にやってきたのだから。
華蓮はふと、視線をあげて隣に立っているエーコを見た。
しっかり立っているものの意識はほとんど無い。
エーコの長い髪が揺れている。自分のウェーブヘアはこんなに自然に揺れてはくれない。
「エーコ、髪、ストレートだと風に揺れて綺麗だよね」
返事はない。そんな事はすでに判っていた。
ただ、華蓮が問いかけるとほんの少しだけ顔を向ける。
華蓮はエーコと顔を合わせそして微笑んだ。
「それで、これからどうするの?」
マルドゥックについてから、初めてと言えるまっとうな質問をトールにしてみた。
水晶が運んだのはマルドゥックの世界であることに間違いない。だが、ここは敵地であり、ネボの‘あ・り・す’である華蓮はマルドゥック全軍のターゲットである。
本当ならこんな見晴らしのいい場所でのんびりして良いはずは無いのだが……そうは思っても景色が心をおおらかにさせるのかもしれない。
「そうですな……まずはマルドゥックの‘あ・り・す’様の居城に潜入することですか」
「他の人に見つからないルートってあるの?」
「この世界に入った以上、マルドゥックの‘あ・り・す’様の手中に入ったも同然なのです」
「まあ、そりゃそうね」
「姫……そんなのんびりとしたことでは……」
さすがにマナフは心配顔だった。
たぶん、エーコの容態を考慮にいれての事だろう。今はあまり素早い動きは出来ない。
「とりあえず移動しましょう。カズミさん、ここからお城への最短ルートって判るかしら?」
「はい……あそこに山が見えると思いますが」
と指さした方向を華蓮が見ると、そこには、
「あ、太陽がある!」
とカズミから少し左側を指さしていた。
ただ、太陽と呼ぶには光量が低いように思えた。
指さしてじっとにらんでいるのにまぶしさを感じないからだ。
「違います‘あ・り・す’様。あれはここでは白雲[はくうん]と呼んでいます。一種の雲ですよ」
といつものようにトールが解説を入れた。
「くも?」
「すべての風はあそこから流れ、そして」
トールはくるりと身体を一八〇度回転させた。
つられて華蓮も回転してみるとそこには同じような雲が浮かんでいた。
ただし、こちらはやや青みがかっていた。
「あちらに見える青雲[せいうん]に流れます」
「なんか、お線香みたいな名前ね」
そう一笑いふってみたものの、トールにはあっさり無視された。
「ちなみにマルドゥックの方向は白雲の方が『前』であり、青雲の方が『後』です」
「すると、白雲に向かって右手側が『右』で、左側が『左』?」
「その通りです。あの雲の位置は変わることが有りませんから。細かい方向は二四等分して白雲を〇とし左回りにレクタという単位で呼びます」
「するとマルドゥックのお城は、白雲のやや右だからここからだと二三レクタぐらいの方向?」
「そうですね、その方向です」
カズミの答えに華蓮は笑顔を作った。
そしてエーコの手を引きカズミの示す方向に歩き出した。
§
歩き始めて華蓮の時間単位で二時間が経過していた。
五人(四人+一匹)は森の中に入りその中の湖の畔で休息している。
カズミとトールの話では、マルドゥックの湖の周りは一種の結界になっており、術者にも捕まえづらいそうだ。
水が探索のじゃまをするらしい。
湖の水はその成分から飲み水には適さないらしいが、すぐそばにわき水があるのでそれを汲んでノドを潤した。
これだけ木々があるので果物には不自由しないだろうと華蓮は思ったのだが、
「マルドゥックには果物はほとんど無いのですよ」
ニニブのドライフルーツをかじりながらトールは説明する。
「木はこんなにはえているのに?」
「マルドゥックの木もほとんど種類がありません。ここにはえているのはミアゲソウスギと呼ばれるものだけで木の皮も根も堅くて食用になりません。また、種子はあるのですが果実はならないのです」
「それじゃあここの人は何を食べているの?」
「ほとんど肉食なのです。このスギの皮や根を食べることができるキハダイノシシなどの獣がいますし、それらを家畜として改良したものを食べて居るんですよ」
「そうなんだ……」
確かに華蓮が根っこに腰掛けている木にしても、見上げると首がつりそうになるほど背が高い。
一番低い枝でも二〇メートルほどの高さがありそうだ。
あんなところに果物がなっていたとしても採るだけで一苦労だろう。
それでも植物が全く食べられない訳ではないらしく、根にはえているキノコは一部食用になるという。また草原に自生する穀物も食用になるそうだ。
自分は雑食だから良いが、ネボの人間だとここの食事には苦労しそうだと華蓮は思った。
幸い果物はまだ数日分ストックがある。
マナフはトールと食用となるキノコを採取している。エーコは水際までのびた根に腰を下ろしてじっと空を見ていた。
枝が幾重にものびて絡んでいるので、外のあかりはほとんど届かない。
元々太陽が無い世界の青空なのでわりに明るく木漏れ日を湖面に写していた。
小さなトンボのような虫がすっとエーコに近づいて、彼女の右肩に止まった。
それでも全く動かない。
トンボは羽を掃除すると、またそこから飛び立ってしまった。まるで時間から切り離された神秘的な存在に見えた。
「エーコ、何を考えているのかな」
華蓮のすぐ後ろではカズミがドライフルーツを食べていたが、その問いは彼女に発せられた物では無いだろう。
華蓮はじっとエーコの様子を見ていた。先ほどもマナフから受け取った果物を、一口大にちぎって彼女に食べさせたのだ。
幸い、唇に近づけるとわずかに舌をのばしそれを口に含もうとする。
身体は何かを食べるための動作を覚えているようだった。
ふと、エーコの身体が動いた。片足が湖の中に入ってしまった。
「ああ、ダメだよ、エーコ」
華蓮はそう言って近づくと、エーコの片手を握り微笑みかけながらきちんと根に座らせる。
身体がずれないようにエーコのすぐ隣に座った。
そんな光景を見てカズミは……ドゥルジはたとえようもない苛立ちを感じていたのだ。
それが何かはっきり言えない。たぶん、戦士としてのプライドだろう。
ただ、そう思ってもそれをこの場で言えないし、うまく言葉にはできないだろうと思った。
§
華蓮たちの移動はどちらかといえばとてもスローペースで進んでいる。
マルドゥックの時間単位は特殊だ。
ここの一日はシャマシュの二日に相当する約四〇時間である。これは白雲から吹く風のタイミングで一日を決定しているからだ。
故に他の世界から来た人間は一日に二回寝ることになる。
一日を六〇等分したものを一レンクという単位で扱う。一レンクは約四〇分程度だ。
華蓮たちが一レンクで歩いた距離はマルドゥックの単位で七レオム。一レオムは約九〇〇メートルなので、五キロも歩いていない計算になる。
トールとカズミのやりとりを聞いている内に、この世界の単位には頭に「レ」がつくんだな、と華蓮は思った。
進んでいない理由の一つにエーコの身体の具合もあるのだが、それよりも森の中に入ると方向感覚が非常にとりづらくなるためだ。
例の白雲・青雲を見ることができず、木々の間から見える位置まで移動するのが一苦労だった。
「この森のなかではわたしも方向に自信がありません」
トールご自慢の耳レーダーも役立たずのようだ。
もともと役立たずのくせにと華蓮は思いながらも声にしない。
進まない割にあまり危機感はない。
最初にトールからここは敵地であると宣言され覚悟ができている事と、いざとなったら華蓮の水晶で切り抜けることができるかもしれないとそんな目論見があるからだ。
幸い、マルドゥックにはネボの水晶を稼働させる水が豊富にある。
湖や川の水は純度に問題がありそうだが、飲み水として使えるわき水は探さなくても簡単に見つけられるほどだ。
問題はその水晶を使う側にあった。
「……未だによく判らないのよね、これの使い方」
華蓮はアールマティにもらったチェーンを人差し指に引っかけて水晶をくるくると振り回してみた。
「‘あ・り・す’様、そんな風に扱ってはいけません」
トールのお小言も華蓮はどこ吹く風である。
「しかし流砂では砂を凍らせたり、あの巨大な龍を呼び出したではありませんか」
マナフがそう言うと反応したのはカズミである。
彼女はその現場を見ていなかったからだ。
言われた華蓮は困惑顔だった。
「……そう言われてもねぇ。だって操作説明書も無いのよ。結構当てずっぽうで使っているんだから」
「どうせ説明書があっても‘あ・り・す’様はお読みにならないでしょうに」
トールがそんなことを口走ると華蓮の目がすっと補足なり、素早くトールの耳に手を伸ばすのである。
今回は捕まえるのに失敗したようだ。
「さっきからせめて水蛇でも呼べたらと思って願っているんだけど、一向に現れる気配無いし」
「水蛇を呼び出してどうされるつもりです?」トールである。
「そりゃ、水蛇にまたがって‘あ・り・す’のお城にレッツゴーって感じ?」
その場の全員が絶句した。
「……ホントはあの龍の方がみんな乗れるのにね」
華蓮は本気だったようだ。ただ、
「だって、早く水晶の力を取ってネボに帰りたいでしょ」
そう言って隣に座っているエーコの手を握る華蓮を見ると、みな言葉を失うのである。
そのエーコがほんのわずか表情をゆがめた。
「あ、ちょっと待ってね!」
華蓮は立ち上がってエーコの手を引くと、みなから見えない位置に連れ込んだ。
ややあってエーコの手を引きながらみんなの元に戻り、イス代わりの木の根にエーコを座らせたのだ。
マナフもトールも何も言わないが、華蓮は一人照れ笑いを浮かべていた。
「でも、ホントに森ばっかりだよね、この世界」
「‘あ・り・す’様!」
とそこでいきなりカズミが声を上げた。
「どうしたの?」
「あの、エーコ様のお世話ならわたしが……」
「大丈夫よ、わたしができるって」
「でも、その、そんな事まで……」
すべて言わなかったが、そんな事とは下の世話であることはすぐに判った。
言葉にしなかったのはできなかったのである。
たとえ婢に化けていてもそれが戦士たるプライドだったのかもしれない。
華蓮にはそんなカズミ=ドゥルジの気持ちなど判らなかったが、もう一度照れ笑いを浮かべて見せた。
「大丈夫だよ、エーコはちゃんと身体が覚えているから。わたしはエーコを連れているだけ。いくらカズミがマルドゥックのお手伝いさんだからってそれは頼めないよ」
「ですが……」
「だってマナフは男だし、トールだって男でしょ。それに……わたしは大丈夫。ボランティアでそういう経験もあるんだから」
これはウソである。
慧香高校の特別授業で知識として知っているだけだ。
「……それよりカズミさん。そろそろわたしたちと別れた方がいいんじゃない?」
華蓮の問いかけについに身元がばれたかと思ったが、
「あなたの世界に居るんだし、お城までの道筋はトールが知っているわ。わたしたちと一緒に居るとマルドゥックの兵隊さんに出逢ったときにまきぞいになるわ」
華蓮はそう言って微笑んだ。
「もう、敵同士だもん。もし、ここからあなたの家に帰れるのならお別れした方がいいかもね」
〈……これがネボの‘あ・り・す’なのか〉
ドゥルジはそう叫びたかった。何という甘さ、何という認識のなさ。
「これから先はわたしたちで大丈夫だよね、マナフ」
「ええ、そうですね」
〈何が大丈夫なのか。戦えない兵士を抱え、世界を納める役目にあたる者がその兵士の世話をするなど!〉
苛立ちだ、叫びたくなるような苛立ちだ。
だがなぜだ。
自分とは直接関係ないはずなのに、なぜだ。
目の前の女性が本当に‘あ・り・す’様のとく世界を破滅に導く『混沌の‘あ・り・す’』なのか!
「ねえ、カズミさん……」
「‘あ・り・す’様! あなたはどうして」
そこまで言いかけた時である。
周りの木々が騒がしくなり、ひりひりと何かの気が近づきつつあった。
まずマナフがそれに感づき、つぎにトール、最後に華蓮が自分の水晶を握り締めた。
木々の枝が大きく揺れ真上から人影が舞い降りた。
音もなく地面に着地すると、マントを背中に回してフードを引き上げる。
「……おまえは!」
華蓮が叫んだ、そこには草薙剛史を幹ヶ原池に引き込んだ張本人、サルワの顔があった。
「これはネボの‘あ・り・す’様。ご機嫌麗しゅう……」
「カズミ、さっさと逃げて!」
一か八か、何か出るかもしれないと水晶を握り締め、カズミを苦そうとその方向を見ると、彼女は無表情に立っていた。
ただし、右手に持った短剣をエーコの首筋に当てていたのである。
華蓮はその姿を見てすべてを察したようだ。
焦りの表情はきえ水晶を持った手をだらんと下げた。
「……貴様!」
「やめてマナフ……目的はわたしでしょ。抵抗はしないわ」
華蓮は静かに言った。
「カズミさん」
「わたしの名はドゥルジよ」
華蓮は小さくうなづきドゥルジの顔を見続けた。
「他に要求は?」
「あなたの水晶を」
ドゥルジに言われるままに華蓮は手のひらの水晶を差し出した。
華蓮たちを取り囲むようにマルドゥックの兵士が近づきつつあった。
兵士の数は全部で二〇人ほど。そのうち、木で作った手錠を持った者が数人華蓮に近づいた。
「ネボの‘あ・り・す’様よ、手錠はいらないわ」
ドゥルジはエーコの身体を兵士の一人に預けると、棒立ちしている華蓮の前にたった。
そのまま何も言葉を発することなく時間がすぎ……
乾いた音がした。
華蓮がドゥルジの左頬を平手で叩いた音だった。
その素早さに兵士は抜刀し一気に距離を縮めたが、それをドゥルジが手で制した。
華蓮は何も言わない。表情すら変えない。
ただ、エーコの様子を見て不安げな表情を浮かべただけだった。
§
「よくやった、ドゥルジよ」
マルドゥックの居城まで馬で二レンク程度である。
いくら敵といえ仮にも‘あ・り・す’だ、この城まで四頭だての御輿に乗せられて運ばれた。
マナフとトール、それにエーコについては二頭だての籠である。待遇そのものは悪くない。
途中、華蓮の要望でエーコだけは華蓮の御輿に同乗することになり、大きなトラブルもなく入城することとなった。
ドゥルジは召使の服を‘あ・り・す’捕獲現場で兵士が用意した普段着に着替え、そして居城についてから礼服に再度着替えると謁見の間に現れた。
深緑色の一枚布を身体に巻き付けたものだ。
見えているのは足と手、それに顔程度である。
普段の剣士の甲冑からは考えられない露出の低さだが、マルドゥックの女はこれが普通だった。
「……そんな礼服など改めて着る必要などなかろう」
「いえ、これも‘あ・り・す’様に対しての礼儀ですから」
そう言って彼女は暗幕の前に跪いた。
その左側には例によって一人、召使の女性が目を伏せたまま座っていた。
「ネボの‘あ・り・す’と衛兵二名、および従者を連れて参りました」
「うむ、まことにご苦労。あの卑しい服をまとってまでよく任務を遂行してくれた。礼を言うそ」
「ありがたき幸せ」
「次の手までしばらく時間がある。それまでゆっくり休むがいい」
「は……」
そこでドゥルジは下がって良いはずだったが、
「‘あ・り・す’様……タローマティの事ですが」
「聞いたよ。ネボの‘あ・り・す’に討ち取られたようだな」
「わたしは手助けできませんでした」
「わしはおまえに手助けせよとは命じておらん。おまえが気に病むことではない」
「ですが……タローマティは……」
「落ち着けドゥルジ。おまえと契りを交わしたタルウィも記憶を戻しておる」
「はい……ネルガルで逢いました」
「ならば話が早い……タルウィもおまえに逢うことを楽しみにしておる。タローマティの事は残念だった……わしもきちんとともらおう」
「……タローマティも喜びます」
「もう下がって良い。十分に休むのだ」
ドゥルジは深々と頭を下げて謁見の間を出た。
〈そうだ、この威厳が‘あ・り・す’様だ。この方にならお仕えする事ができる!〉
しかし心のどこかにそれを否定する何かがあった。
思い起こすのはネボの‘あ・り・す’の……華蓮の顔だった。
〈違う、違う! あれは人々を納める器量ではない!〉
ではなぜこんなに焦るのだ?
謁見の間を出てそのまま廊下を駆け抜けると鍛錬場に顔をだした。
そこの誰もが敬礼するなか、甲冑もつけずにそばにあった剣を引き抜き目の前の人藁に向かって抜刀した。
光の筋がいくつか走っただけで剣はすでに鞘に収まっている。
一呼吸おいて、目の前の藁は数十個に分割されていた。
どよめきと感嘆が聞こえる中、ドゥルジは剣を投げ捨てていた。
「これではない!」
そこにいる誰もが声を失った。
握り締めた拳から血がにじみそれが床を染めていく。
なぜそんな事をするのか自分にも判らなかった。
■Scene 36 軟禁【Confine】に続く




