■Scene 32 召喚【Summon】
爆炎と爆音、飛び散る舟の残骸、そして強くなる砂混じりの風の中、華蓮は動こうとしないエーコの身体を抱えて立ちすくんでいた。
「マナフ!」
華蓮の仲間、もう一人の兵士であるマナフも舟の爆発に巻き込まれその場から動こうとしない。
華蓮は自分よりも二周りは体格が大きいエーコを肩に担ぎ、彼女の下半身は引きずるようにマナフに近づいた。
「マナフ!」
再度彼の名前を呼ぶ。
もう何回呼んだか判らない。だがもし呼ぶのを止めてしまったら、自分の中の恐怖を押さえることができない。
さらにもう一度彼の名前を叫ぼうとしたとき、うつぶせに倒れていた彼の背中がわずかに動いた。
「マナフ!」
華蓮の声に答えるようにマナフは上半身を起こした。
自分を支える腕が細かく振るえている。額を切ったのか、血のスジが頬を伝わって地面に落ちた。
「マナフ、しっかりして!」
ようやく彼のそばににじり寄るとマナフは大きくため息をついて身体を起こした。
「ここは……危険です、早く……脱出しないと……」
「でも、馬車が」
ラクダもやられてしまった、そう思って周りを見回すと、一頭は完全に息絶えているようだったが、もう一頭は胴体に傷はあるものの足腰はしっかりしているようだ。
「マナフ、あれを使いましょう」
「判りました」
マナフは自分の身体を動かすのがやっとだ。
華蓮は再度エーコの身体を引きずって、半ば錯乱しているラクダもどきのそばに寄った。
ラクダの背中にエーコを乗せ、その後ろに華蓮、そして先頭にマナフとギリギリだが三人乗ることができた。
マナフが両足でラクダの胸を蹴ると、炎のない方向へと駆け出す。
また、それと同時に背後でいくつもの爆炎が上がった。
直撃はしなかったが爆風がラクダの背中から三人を振り落とそうとする。
華蓮は右手で背の皮を握り左手でエーコの身体を支えた。
ラクダの足は速く瞬きのまもなく野営地から大地へと躍り出た。
爆炎に恐怖していたのだろう。しばらくそのまま大地が続くものと思ったが、すぐさま砂漠地帯に入りまた砂の層が深いのかラクダの足は段々と遅くなった。
足が鈍ったのは砂漠のせいだけではない。
華蓮にも見て判るのだがどんどん視界が悪くなるのだ。
「姫……どうやら砂嵐が近づいているようです」
こちらの言うことを聞かなくなりつつあるラクダを手綱で必死に操りながらマナフが言った。
少しでも口を開けると砂が飛び込んでくる。
それも砂風呂に使う微細な物ではなく、肌に当たると痛みを感じるくらい大きな物だ。
砂嵐は間をおかず激しさを増す。
たとえこちらが動かなくても砂嵐の方がこちらに近づいているらしい。すでに目の前は真っ赤にそまり、延ばした腕の先も確認できないほどになっていた。
ラクダはその場でまったく動かなくなった。華蓮もマナフも呼吸するのがやっとである。
うつむいて息を吸っても鼻の中に砂が飛び込んでくるのだ。
「姫、これ以上は……」
進むことはできない、さりとて止まることもできない。
こうなったら砂嵐の進行方向に動くしかない。華蓮は返事できない。
マナフは手綱を引いた。進路を反転させとりあえずこの場から脱出する。
しかしわずかに動いたラクダの足が、急に砂の中に沈み込んだのだ。
それと同時に背中の三人は、ラクダの前方に投げ出される形になった。
呼吸が楽になったような気がする、砂の圧力を受けない。
しかし華蓮が見たのはすり鉢のような砂である。
流砂だった。
砂が渦を巻いて下へ下へと流れている。ちょうどあり地獄のようだ。
エーコの身体は自分がしっかりとつかんでいた、マナフは少し離れたところで渦と格闘している。
身体の大きなラクダは悲鳴のような鳴き声をあげて、渦の中心に吸い込まれていった。
自分たちもああなるのか。
「……いい格好ね、ネボの‘あ・り・す’」
声が聞こえた。
流砂に捕まらない距離からの声、そしてわずかに見えるローブ。
タローマティである。
「タローマティ!」
「その流砂に捕まるとそう簡単には出られないわ。あなたには無理ね」
「聞いて、わたしたちは本当に何もしていないの!」
華蓮の声を聞いてタローマティは低く笑っていた。
「お願い、信じて! わたしは」
「ええ、あなたは何もやっていないわ」
タローマティは一息置いた。
「だって、ネルガルの‘あ・り・す’を殺したのはわたしだから!」
「た、タローマティ……」
「そうよ、あなたがベールの中に入った時、‘あ・り・す’の身体を燃やしたのはわたしよ。彼女の身体に炎を放ったのはわたしよ! そして逃げ道を作ってあげたのもみんなわたしよ!」
「どうして……」
「決まってるじゃない、‘あ・り・す’が憎かったからよ。焼き殺しても引き裂いても粉々にしてもそれでも済まないくらい憎かったからよ!」
不思議と砂嵐の轟音は聞こえなかった。
「あの‘あ・り・す’はわたしの兄を取ったのよ。わたしがただ一人愛していた兄を、兄のアエーシュマを自分のモノにしようと思ってわたしから取り上げて……そして自分の者にならないと判った瞬間に殺したのよ!」
「……兄を?」
「わたしにはお兄ちゃんしか居なかった。別の世界のあなたには判らないでしょうけど、わたしとお兄ちゃんの血は一つになるはずだった。それをあの‘あ・り・す’は引き裂いたのよ! わたしは絶対に許さない!」
華蓮には見えた。今のタローマティの表情が。
笑顔しか見せない彼女の相貌から、あふれんばかりの涙が流れていることを。
「……でも、あなたは草薙くんと……」
「そう……そこにマルドゥックの遠征がありそこでタルウィに出逢ったの。彼は兄にうり二つだった、そしてわたしを妹と見てくれた……だからネルガルの‘あ・り・す’を殺しわたしはトールになり、マルドゥックに渡ったの」
「え?」
「気がつかなかったみたいね。ネルガルの‘あ・り・す’はとっくに死んでいたのよ。誰もそれに気がつかなかっただけ。だってこの世界の人にとって‘あ・り・す’は存在すればそれで十分だったからよ」
タローマティは再度笑った。
「簡単だったわ、あんなババアを殺すなんて。呪術もろくに使えないくせに‘あ・り・す’だって地位だけを利用してやりたい放題やって、わたしの呪術一発でもだえ苦しんで腹を焼いたのよ!
その後身代わりを‘あ・り・す’にみたてたの。それをあなたが殺したように見せかけた。良い死に様だったわ。
そうよ、‘あ・り・す’なんてみんな死んでしまえばいいんだわ。あなただってマルドゥックの‘あ・り・す’だって!」
「タローマティ!」
「さっさとその流砂に飲み込まれなさい。もし浮かんできてもわたしが骨まで焦がしてあげるわ! さあ沈め、沈め、沈めぇ!」
華蓮にはどうにもできない。流砂はもがけばもがくほど沈んでいく。
さらにエーコの身体をも支えているのだ。
自分の視界が狭くなる、まず、マナフの姿が消えた、そしてエーコの身体が沈み、自分も肩まで、耳元まで、ついに目の前が真っ暗になった。
なぜか最後までタローマティの笑い声だけが聞こえていた。
§
自分は浮いている……華蓮はそう感じていた。
流砂に飲み込まれどこかに流されていくうちにきっと息ができなくなり、そのまま死んでしまうのだろうと思う。
『‘あ・り・す’様』
声が聞こえる。聞こえるはずがない、だってここは砂の中なんだから。
いよいよ自分はダメなのかもしれない。
『あなたは泳ぐことができるのですよ』
判っている。
だが、それは水の中の話。ここは砂の中だ。
『今、泳がなければあなたはご友人を助けることができません』
友人?
そうだ、幹ヶ原池公園の池でわたしは草薙くんを助けることができなかった。
誰からも人魚姫と呼ばれながら、誰よりも華麗に泳げても、好きな男の子一人助けることができなかった。
今は? 今自分は誰か助けることができるのだろうか?
自分の手が誰かを掴んでいる。
エーコ……ネボの世界からずっとわたしと旅している大切な友人。
いま自分が泳ぐことで、彼女を助けることができる!
華蓮はエーコの身体を引き寄せ、そして空いている手で砂をかき両足で砂を蹴った。
自分は人魚姫だ。誰よりも華麗に泳ぐ、水の国ネボの‘あ・り・す’だ。
しかしどこに向かえばいい。
このまま流砂から顔を出せばタローマティの呪術を浴びることになるだろう。かといって潜れば圧力で身体は持たない。
道を見つけられない華蓮、だが、彼女を呼ぶ『何か』があった。
彼女は迷わずその方向に泳いだ。
砂を水に見立てて泳いだ。ほぼ水平に、方向は判らないが導かれるままに泳いでいると……
突然、腕にかかっていた抵抗が消えた。
次に足に触れていた砂の抵抗も消えた。訳もわからず瞼を開くと、そこは不思議な球状の空間だった。
直径で三メートルほど、砂の中にできた空気の泡の中だった。
ただ、外に接している面では目にもとまらぬ速さで砂が流れ続けていた。
〈だれがこの空間を?〉
華蓮は自分の水晶を見る。赤い水晶も淡い黄色の水晶も輝いていない。自分ではない。
そのとき、空気の壁を越えてマナフが飛び込んできた。
「……姫、ご無事で」
「マナフ、ひょっとしたら、これはあなたの」
「あまり長くはもちません」
ネボの世界、預言者の祠に向かう時マナフが見せてくれた呪術は、指先ほどの空気球だった。今はそれがこれほどまでに大きくなっている。
マナフの疲れ具合を見れば状況維持も難しいはずだ。
あとどれくらい保つか。
『‘あ・り・す’様』
再度その声が華蓮の耳に飛び込んできた。
「だれ、わたしに語りかけるのは?」
『従者のわたしをお忘れですか?』
「トール!」
そうだ、その言い方と声はトールに違いない。
「トール、無事なの? どこに居るの?」
『わたしは無事です。そばに居ますが近づけません』
「カズミも無事なの?」
『はい、彼女も無事です』
「そう……ねえ、トール。この世界ではわたしの水晶が使えないの!」
『それは‘あ・り・す’様の魔法の根源たる水が存在しないからです』
「水……地下水じゃだめなのね」
『そうです、あれでは不純物が多すぎます』
「では、わたしは何もできないの?」
『いえ、‘あ・り・す’様がより純粋な水を作り出すことができれば』
より純粋……華蓮はその言葉に応えるように水晶を握り締めた。
純粋とは何だ?
不純物を含まない水のことか。それならここに望みはないが、この水晶を構成するのにもっとも近い水だとすれば……
§
一方、タローマティは華蓮たちが飲み込まれた流砂をのぞき込んでいた。
ネルガルの‘あ・り・す’が死に、そして今、ネボの‘あ・り・す’が死ぬ。
「……‘あ・り・す’なんてみんな死んでしまえばいいのよ」
「そんなに‘あ・り・す’が憎いかね、タローマティ」
声は背後からだ。
笑顔を忘れとっさに振り向いた先に居たのは、
「マルドゥックの‘あ・り・す’!」
たぶん、そうであろう。
全身を真っ黒なローブで包み、手も足も顔も見ることはできないが、その奥から聞こえてくる声と、全身から放たれる気は、まさしくあのマルドゥックの‘あ・り・す’の物だ。
「なぜ、おまえがここに!」
「おやおや、わしもタローマティにかかってはおまえ呼ばわりかい」
‘あ・り・す’は吹きすさぶ砂嵐などに動じる様子もなく、両足は根が生えたように微動だにせずに笑った。
「……のう、タローマティ。そんなに‘あ・り・す’という存在がにくいかえ?」
「き、決まってるわ、‘あ・り・す’はわたしからお兄ちゃんを取ったのよ!」
「その代わりにタルウィを差し向けたであろう。彼では満足できなかったのかい、なかなか欲張りな娘だのう……」
「ま、まさか……ネルガルとマルドゥックで仕組んだの?」
‘あ・り・す’はそれに答えずローブを揺らして笑った。
「なぜ、なぜそんな事を!」
「おまえのその力が欲しかったからだよ。その憎悪から導き出される炎の力がのう……」
「馬鹿にしないで!」
タローマティは手をクロスさせると、両手の手のひらを内側に向けて、赤も黄色も白も越えた、青白い炎を作り出して‘あ・り・す’に向かって投げつけた。
それは確かに‘あ・り・す’の身体にぶつかって弾けた。
しかし……数万度に及ぶその火球を浴びても、‘あ・り・す’は笑いながら微動だにしない。
「……‘あ・り・す’の力を過小評価するでない」
ローブの内側から杖が出る。それが左右に動くと‘あ・り・す’を取り巻いていた炎が消えた。
それと同時にフードの部分が少し持ち上がり、中の顔をタローマティに向けたのだが……
「そ、そんな……」
うろたえるタローマティ、それを意に介さず‘あ・り・す’は杖の先をタローマティに向けて小さくつぶやいた。
尖端から碧色の光が突き進み、それは呪術加工しているタローマティの左胸を貫いたのだ。
タローマティは光線が突き抜けた箇所を見た。
信じられないと言う表情でそれを見た。
次に目に入ったのは自らの口から吐き出た大量の血だった。
‘あ・り・す’は何事も無かったようにフードを戻し、そして杖をしまった。
「もう、おまえの出番は終わりだよ、タローマティ」
「……と、とどめは……ささないの?」
「とどめはネボの‘あ・り・す’が刺してくれよう」
「でも、ネボは……」
そのとき、タローマティの背後で爆発音がした。
胸の傷があるためにゆっくり振り返ることしかできないが、そこには大量の砂が巻き上がっていた。
先ほど華蓮が落ちた流砂の中である。
砂のカーテンが引くと、見えたのは氷でできた半球である、流砂が凍り付いてできた逆さまのドームであった。
その中央に立って華蓮がじっとタローマティを見ていた。
「……馬鹿な、水の魔術は使えないはず……」
混乱し振り返ってみてもすでに‘あ・り・す’は居ない。そして目の前ではネボの‘あ・り・す’が自分を見ている。
「……ネボにとどめを刺すのは、わたしよ!」
タローマティは震える足でなんとか踏ん張ると、両手を高々と掲げその手の中に火の球を作り出した。
視直径で二メートルはある巨大な物だ。
「燃えろ!!」
そのかけ声とともに火の玉を凍り付いた流砂めがけて投げつける。
とたんに高さが四メートルはありそうな火炎の壁が華蓮を取り囲んだ。
それが段々半径を狭め、そして中のあらゆる物を焼き払うはずなのだが。
迫り来る炎の中、華蓮は水晶を差し出した。彼女のネボの水晶である。
しかしここでは発動しないはず、それは水が無いから!
「龍よ!」
華蓮は叫んだ、張り裂けんばかりの声で叫んだ。
それに呼応し水晶が輝く。
そして華蓮の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちたのだ。
スローモーションを見ているような光景だった。あご先からこぼれた一粒の涙は落ちながらひらたく広がる。
そして地面に接する直前、その円盤の中央が盛り上がり何かが出てきた。
水蛇? 違う。
その太さも大きさも威圧も何もかも、一ミリも無い円盤からそこに異空間を直結したかのように数メートル、いや数十メートル、いや、数百メートルにも達するような生物が躍り出る。
水の鱗を輝かせたてがみをなびかせ、何をも切り裂く牙を並べたそれは……華蓮のイメージする龍だった。
水龍は一気に上空まで飛び上がると砂嵐のまっただ中に入り、そして顎を開き咆吼した。
大気も大地もすべて揺るがす声だ、自らの主を守ろうとする声だ、叫びだ。
一瞬にして砂嵐はきえ、華蓮を取り囲んでいた炎を消し去る。
そしてその目はタローマティに向けられていた。
〈……これが、ネボの‘あ・り・す’の……力〉
もはや何の手出しもできないと思ったのだろう、どんな風よりも素早く飛ぶ龍の姿を美しいと感じていた。
その顎が自分の身体を引き裂くのだとしても。
その神々しい姿を最後まで見ようと思ったから目を閉じるのはやめた。
間近にせまった龍の顎、だが、水龍はタローマティに食いつく直前、ただの水の奔流となって彼女にぶつかったのだ。
だが、水泳という習慣もないネルガルの民である。
一時的におぼれた状態になり、そのまま水の勢いでもう一つの流砂に取り込まれそうになった。
その腕を華蓮がつかんだ。水の奔流は消えている。
「……離せ、情けをかけるきか!」
「離さないよ!」
「離さないとおまえの腕を焼くぞ!」
しかし華蓮は答えない。
タローマティは華蓮が掴んでいる腕に小さな火球を作った。
とっさに手を離すはずだ――だが、華蓮はうめき声を上げ手を離そうとしない。
〈馬鹿な、やけどで済む熱ではない!〉
「……おまえ」
「は、早く上がってきて……」
「もう、わたしにその力はない……」
そのタローマティの腕をマナフが掴んだ。
「姫、引き上げます!」
「お願い!」
二人で同時に反動をつけ、そしてタローマティを引き上げた。
「……どうして……ここに……居るの? お……」
その時、タローマティの小さな声は華蓮の耳には届かなかった。
§
「なぜ助けたの」
タローマティは身体を起こすことができず、仰向けに寝たままじっと華蓮を見ている。
ネボの‘あ・り・す’の目に勝利者の輝きはない。またさげすみの表情も無かった。
華蓮は返事に困っていた。ただ、何もしゃべらないのはいけないと思ったのだろう。
言葉にできる思いをそのまま伝えてみた。
「……判らないけど、そうしたかったから」
「ふ、ふふ」
タローマティは笑っていた。今までの笑顔が張り付いただけの無表情ではなく、心からの笑いがオオ浮かべて。
笑いながら口から少しずつ血がにじんでいる。
不振に思った華蓮は彼女のシャツを引き上げてみた。
そこはすでに赤く染まりきっており、流れる事も無くなっていたのだ。
華蓮はすぐさま水晶を取り出したが、タローマティがそれを止めた。
「……もう手遅れよ。それより、なぜ呪術が使えたの?」
「トールが教えてくれたの。水が無ければ水を作ればいいって」
「水を?」
「この水晶はね、元々わたしの流した涙が固まってできたものなの。だからわたしの涙なら、きっとできると思った」
「そうか……」
タローマティには何となく判った。目の前のネボの‘あ・り・す’がどんな理由で涙を流したのかを。
「……完敗だよ」
「タローマティ」
「水晶を……差し出して」
華蓮は言われるままに自分の水晶とネルガルの赤い水晶を差し出したが、タローマティは胸元から、もう一つ赤い水晶を取り出した。
「それはニセモノよ。ホントのネルガルの水晶はこっち。‘あ・り・す’を殺したときに、わたしが奪ったの」
タローマティは本物の水晶を握り締め瞳を閉じた。
手の中からわき上がる赤い光が華蓮のネボの水晶を照らす。
赤い輝きが収まる頃には淡い黄色が薄いピンク色に変わっていたのだ。
「……これで、ネルガルの水晶の力と……わたしの呪術は……その中に」
「判ったわ」
「わたしは……‘あ・り・す’になりたかったのかも……しれない」
「‘あ・り・す’に?」
「そうすれば……いつでも、お兄ちゃんと……一緒に」
彼女は誰かを探すかのように視線を踊らせる。
タローマティは咳き込んだ。
背をソリ反し身体をはね手を華蓮にさしのべた。
「……わたしは……踊らされていた……これは、きっと」
「タローマティ!」
「気をつけて、マルドゥックの、‘あ・り・す’、は……」
そこまで言いかけてタローマティのけいれんは止まった。
本当に突然に、まったく不意に、タローマティの身体は動かなくなった。
「タローマティ……」
彼女の身体を揺さぶろうとする華蓮をマナフが止める。
彼は開かれたままのタローマティの瞼をゆっくりとおろした。
そこにいつもと違い、どこか沈んだ表情を見せるマナフが居た。
「もうこの子は眠りました」
彼女の記憶はニニブへと飛んだのだ。
「……‘あ・り・す’様」
背後からトールが近づいてくる。しかし振り向きもせず彼女は泣いた。
声もあげず今まで流し忘れていた涙が頬を伝っていた。
水晶を握り締め、爪が手のひらに食い込むほど握り締め、そして泣いた。
「どうして!」
なぜ、どうして、‘あ・り・す’という立場がこうやって他人の人生を狂わせるのか。
そんな価値が自分にあるのか!
「いけません、‘あ・り・す’様!」
トールの叫び声だ。
何事かと思った瞬間に華蓮の真下に、真っ黒な空間が口を開けていた。
チャンネルが出現したのだ。
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■Scene 33 忘却【Oblivion】に続く




