■Scene 28 伝説【Legend】
「お・な・か、空いたー」
その日何度目かの声があがる。
もし、これが彼女からの物でなければ全員から罵声が上がっていたに違いない。
そうならないのは‘あ・り・す’という特権かもしれない。
華蓮である。つまりは‘あ・り・す’様がそう欲求しているのだがどう聞いてもわがままな女の子が、だだをこねているようにしか見えない。
よって、それを諫める事ができるのは‘あ・り・す’の付き人であるトール一人となる。
「‘あ・り・す’様。食事は先ほど済ませたばかりではないですか」
「……だって水飲んだだけなんだもん」
彼女の言葉通り今日の朝食は水である。
ちなみにここ数日のほとんどの食事は水だけであった。
水といっても水道水とは異なりネルガルの地下水なので普通に食事した場合以上の栄養は補給できているはずである。
本当は地下分泌水という言い方が正しいのだが、それでは華蓮の拒否反応が酷くなるとトールが判断し地下水と呼んでいる。
現に華蓮の身体は空腹感を覚えていなかった。
むしろ満腹に近い状態だ。今、彼女の大好きなアイスクリームをデザートに出されても、すべて食べきることはできないかもしれない。
ようは食事らしい食事をしていないという不満なのだ。
その場に膝立ててしゃがみ込んで手で膝を抱え込む。お尻が地面につかない体育座りをし膝の間に顎を埋めていた。
当然のように目つきが悪い。
とても世界を支配する者の代名詞を冠している女性(女の子)には見えなかった。
「ねえ知ってる?」
こもった声で華蓮は言った。
「昔の宇宙飛行士の食事って栄養中心のチューブタイプだったんだって。でも、それだと食事したって感覚がわかなくてストレスたまるから、結局固形の食事を積むようになったんだよ」
「よくご存じで」
「百合姉ぇから聞いたの」
「それでそれがいかがしましたか?」
さらに目つきを悪くして目の前のウサギを見たものの、こういった駆け引きでは相手の方が一枚上手だと感じたのか、ゆっくりと腰を上げた。
「姫、何でしたら、ニニブの果物でも食べますか?」
見るに見かねたエーコがそう声をかけるが、うれしそうな表情の華蓮を差し置いてトールが、
「ダメです。まだ乾燥がたりません」
と言った。
ニニブの果物は腐らないために水分を抜いてドライフルーツ状に加工しているのだ。
華蓮の表情が暗いを通り越してやや微笑んでいるようにさえ見える。
トールもその変化に気がついた。
「……耳、引っ張るわよ」
「おやめください。歴代の‘あ・り・す’様の中でわたしの耳を引っ張るなどあなたが初めてですぞ」
「いいじゃない、コミニュケーションなんだし」
彼女はそう言って歩き始めた。
§
ネルガルについてから三回ほど眠った。
ニニブでの滞在時間は華蓮にとって一日にも満たないが、山の中に入らなかった他のメンバーはそこで四日ほど過ごしたらしい。
新陳代謝が発生しないので食事も睡眠も必要ないのだが、慣習でそれなりに眠ったという。
今までネボ・ニニブ・ネルガルと訪れた世界では、時間の流れに若干の差がある。
ニニブのように時間が過ぎても時刻そのものが関係ないところもあるし、ネルガルはトールの説明だとまた少し違っていた。
「ネルガルの一日というのは表現が難しいのです」
主要都市、ネルガルに近づいているためか砂漠地帯を歩く頻度が少なくなっている。かといって、枯れた大地にサボテンもどきがたまに顔を見せる程度でネボのような生命あふれる光景は見ることができない。
今も次の宿泊施設にむけ乾燥した大地を歩いていた。
砂に比べるとだいぶ歩きやすい。
「でも、一日って単位はあるんでしょ。夜ばっかりのニニブにだって有るぐらいだから」
「そうですね……ネルガルには太陽も月も有りませんから、一日を切り分ける基準が難しいんですよ。住人はネボの‘あ・り・す’様の時間で二二時間単位で生活をしています」
「ぢゃあ、それが一日じゃないの?」
「一日の単位はありますが、集団的な一日は無いと思った方が良いでしょう」
「……なにそれ?」
「つまり、住人の個々で一日の開始位置が異なるのです」
何となくトールの言いたいことが判った。
「ええと、Aさんのお昼がBさんの朝だったり、Cさんの真夜中だったりするってこと?」
「そうです……」
「よくそれで集団生活が成り立っているわね」
「成り立っていませんよ。ネルガルでは集団で住んでいますが集団生活はしていません。個々が必ず優先されますから」
「へえ」
「それに……他の世界と比べるとちと変わった風習もありますし」
トールの言葉にカズミが微妙に反応した。それに気がついたのか華蓮は彼女の方を向いた。
「そう言えばカズミさんの居るマルドゥックには、ちゃんとした一日が有るんだよね」
「え、ええ……ですがマルドゥックにはニニブのような夜が有りませんから」
その回答にエーコも興味を示したのかちらりと二人を見ていた。
「夜がないの? こんな夕焼けは?」
「空が赤いのは初めてです」
「でも、寝るときは?」
「はい、空は青いままですしそれが当たり前でしたから」
「そっか……ずっと住んでしまえばそれに慣れちゃうもんね」
昼と夜と夕方と朝方がワンセットになっていた華蓮の世界から考えると、どの世界もどこか欠けているような気がするが、やはりそれも慣れてしまえば不自然は無くなるのだろう。
むしろニニブやネルガル、マルドゥックの人々にとって、時刻ごとに空の様相が変わるシャマシュの方が不自然に見えるだろう。
ついでだからと、
「マルドゥックには‘あ・り・す’に関する伝説とかおとぎ話って、何かあるのかしら?」
「‘あ・り・す’様ですか……そうですね『眠れる森の少女』というお話が有りますけど」
はて? どこかで聞いたことの有るタイトルだが。
「どんなお話?」
「マルドゥックにまだ人が居なかったころ、天から一人の少女が降りたってその森の真ん中で寝ていたそうです。
あまりに寝心地がよく天界に帰ることを忘れた少女は、やがて帰る手段を無くしてしまいました。それでも寝続け何度も少女の母親……これは女神なのですが、女神が探しても見つからず、いつ目覚めても良いように一つの城を造ったのです。
それが今の‘あ・り・す’様のお城ということです」
「……それでその女の子は寝たままなの?」
「いえ、旅の兵士が寝続けている少女を見つけ、口づけすると目を覚ましたそうです。ですがその兵士はその後少女を残して旅に出たそうで……」
「あら、一緒に住まなかったんだ」
「はい」
途中までは眠り姫のバリエーションかと思ったが、最後が少し切ないと感じる華蓮だ。
エーコには以前聞いたので。
「ねえ、マナフが住んでいた地方ではどんなお話があったの?」
「え、ぼくのですか?」
突然だったせいも有るのだが、マナフは驚いていた。
「……そうですね、‘あ・り・す’様に関係有るか判りませんが『内気な人魚姫』というお話があります」
「ああ、それか」
うなづいたのはエーコだった。どうやらネボではポピュラーな話しのようだ。内容については華蓮がせかさなくとも、マナフが自分で話し始めた。
「とある湖に人魚が住んでいたそうです。その人魚は陸の男性を好きになりましたが控えめな性格のため、告白できなかったそうです。
それを見かねた女神様が彼女を陸の女性にしましたが、その姿では一日しか居られず湖に戻らないと泡になって消えてしまうと言われました。でも、その人魚は男性に告白することができなかったのです」
「なぜ?」
「男性にはすでに恋人がいたからです。あまりの悲しさに湖に帰ることを忘れ泡と消えてしまった彼女を、女神がその土地を見守る守り神にしたという話しで、これが‘あ・り・す’様ではないかと」
「ふうん」
これまた切ない話しだった。形としてはアンデルセン童話の人魚姫の変形というところだ。
〈ネボとマルドゥックではこういった切ない話しが受けるのかな? まあヨーロッパの童話とか日本の民話でも、最後が切なく終わる物は多いし〉
「……あんまり明るい最後を迎える話しって無いのね」
そもそもの‘あ・り・す’の伝説……『‘あ・り・す’は彼女の恋する男に命を奪われる』というアレもかなり暗い話しだ。
「どうしました?」
黙ってしまった華蓮を心配しマナフが声をかけた。
「ううん、何でもない。ちょっとね……この世界の‘あ・り・す’って、どんな人なのかと思って」
エーコが華蓮を見る。
「ニニブの‘あ・り・す’様はどのような方でしたか?」
「……なんて言うんだろう、わたしが逢ったのは声だけで姿は無いっていっていたっけ」
「では、お姿はごらんにならなかったのですか」
「そうね。声だけだったら女性だと思うけど」
行く先々で判らない事だらけだ。それを気にしないつもりでも謎が貯まっていくとそれを無視するのも難しくなる。
かといってそんな不安をエーコたちに見せたらより心配する。
〈『女王様』って楽じゃないわ〉
華蓮は思わず出そうになったため息を押し殺していた。
§
その日もネルガルの街に着くことはなく、今までの物より規模の大きな宿泊施設に泊まることになった。
トールの話しでは明日には街につくらしい。
太陽もなく方向もつかみづらいこの赤い大地で、どうやって目的地を目指しているのか不思議だが、きっと動物的センサーをもっているのだと華蓮は一人納得する。
それはあの長い耳かもしれない。あれを掴んだり引っ張ると迷惑そうにするのがその証拠だろう。
夕食は例によって地下水、それとやっと食べ頃になったニニブの果物だった。
味と形はあんずによく似ている。久しぶりの歯ごたえに満足したのか食後華蓮は不平を言わなかった。
その後は翌日に向けて早く寝てしまうのだが、その施設にはトールの言っていた砂風呂があるというのでさっそく華蓮は試してみた。
ただ、問題なのはその浴場というのが寝床のすぐそばにあり、そこから丸見えになってしまうのだ。
エーコとカズミの前ならコンプレックスがあるもののまだ平気なのだが、マナフの前というのはさすがに抵抗がある。
「ネルガルの民は異性の前で裸になることにあまり抵抗もありませんし」
これがトールの言っていた変わった風習というヤツだろう。
風呂をあきらめようかと思ったが、
「見回りに行って来ますので」
と気を利かせてマナフがその場を離れたのだ。
そこで、華蓮は砂風呂初体験となった。
砂風呂の砂は砂漠地帯の砂よりだいぶ細かいうえに軽く、手ですくった感じではほとんど水と同じだった。
トールの話しでは粒に細かい穴があいており、それで見た目より軽いのだという。
さらにその小さな穴に皮膚の老廃物が吸着することによって汚れが取れるという。
確かに二の腕にあててこすりつけても痛くないし、髪にこすってみても痛んだ様子もない。
浴場といっても日本の湯船のようにどっかりつかるタイプでは無い。
段差の有る石組みの上から水のようにさらさら流れている砂を浴びるらしい。
砂は地下から押し上げられて流れているそうだ。
華蓮はショーツを残して裸になって、水代わりの砂を肌にこすりつけた。
思ったほど汗はかいていないのだが、それでも肌がすこし張りを戻したような気がする。
トールの説明ではその砂で洗濯もできるという。
華蓮はショーツも脱ぐと再度全身に砂を浴びてから着衣をこすり洗いしてみた。
無水洗濯というのだろうか。赤い風景のせいではっきり判らないが衣服のくすみが消えたように思える。
自宅で有れば姉にしかられるほどの長風呂の華蓮だが、一〇分ほどで洗濯と入浴をすませる。
着衣し寝床に戻ろうかと思ったとき強い視線を感じた。
〈まさか、マナフがこっそり覗いているとか〉
彼女はおそるおそる視線の方に顔を向けると、石壁の上に一話の小鳥が止まりじっと華蓮を見ていた。
くちばしの形や身体の模様はセキセイインコのように見える。ネルガルの空の色に染められて本当の色は判別しづらい。
とりあえず後でマナフには謝ろうと思いつつその小鳥に指を伸ばしてみる。
小鳥は逃げずにじっと華蓮を見ている。指先で頭をなでようとするとすっと避けた。作り物では無い証拠だ。
〈ネルガルにもこんな小鳥が居るんだ〉
それにしても避けられたのが少し悔しい。再度なでようと指を動かしたが、小鳥はその場を飛び立ってしまった。
頬をふくらませる華蓮。
彼女は生きたペットを飼ったことが無い。ウサギはもちろんのこと猫も犬も小鳥も大好きだ。
ただ華蓮以外の家族が皆アレルギー持ちなので動物を飼うことができないのだ。
トールにしても本当は生きた白ウサギをねだったのだが、家族で相談の上あのぬいぐるみとなったのである。
〈わたしって動物に運が無いのかな〉
彼女はそんなことを思いながら寝床に戻った。
「意外に気分が良くなるわよ」
興味深げに自分を見るエーコとカズミにそう言って、
「今の内に二人も入っちゃったら?」
「こ、ここでですか?」
驚いて見せたエーコだが、
「だって、街に入ったら余計入りづらくない?」
確かに華蓮の言うとおり……街の浴場はどうせ混浴なのだろうから、ここでの方がよほど人目に付かない。
ネボ出身のエーコはたぶん自分と羞恥心に関しては同じだろう。
はたしてマルドゥックではどうなのだろうか。
「カズミさんも身体洗ったら?」
「え?」
「……マルドゥックでは混浴でも大丈夫なの?」
「コンヨク?」
「ああ、見知らぬ男女がお風呂に一緒に入ること」
「いえ、それは有りませんが……」
「ならエーコの後に入った方がいいよ」
「あ、あの……」
同性同士の手前でも恥ずかしいものだろうか? 自分でもそうだし無理強いは良くない。
「判ったわ。後でわたしとエーコとマナフで見回りに行くから、その間に入ったら? 別にトールは居ても大丈夫よね」
「……はい」
とカズミはか細い声で返事した。
「じゃあわたし、ちょっとマナフを探してくるわ」
華蓮はそう言って髪をかき上げる。
いつものように束ね始めると髪の間に紛れ込んだ砂が、雫のように流れていた。
§
〈マナフはいつ、お風呂に入ったらいいんだろう〉
寝床をはなれ施設が見える程度の距離を保って辺りを歩きながら、華蓮はふとそんな事を思った。
〈男性でも女の子の前で裸になるのって抵抗あるんだろうなあ〉
一回だけ栄子にそそのかされ男子水泳部の着替えを女子部員でのぞきに行ったことがある。
男子部員がたまに女子更衣室にのぞきに来ることがあったからだ。
もちろん顧問に知られれば即退部だが、なかなかしっぽをとらえることができない。
「あたしの裸をただで見ようなんて、許しておけるか!」
栄子が息巻いて、お仕置きとばかりに男子更衣室に細工をしたのだ。
女子の更衣室はしっかりとした部室だったのだが、男子のそれは建て直しでバラックに近い作りだった。
そこで栄子の知り合いの鳶の職人に頼み壁を止めているねじをゆるめ、わずかの振動で校庭側の壁が倒れるようにした。
作戦は見事に成功、栄子の満身の一蹴りで壁はあっさり倒れた。
そこで着替え中だった男子がそれは大変な騒ぎだった。
その時に泣き出す下級生まで居たのを見て、
「ああ、男の子でも恥ずかしいものなんだ」
と納得したのである。
ちなみにその事件は調査されたものの、バラックの作りが不完全だったらしいと落ち着いた。栄子の蹴りも偶然で押し通したらしい。
その後、やはり栄子を怒らせるとマズイとの共通認識ができたのか、女子更衣室は以後二度とのぞかれることはなかった。
〈草薙君もきっとあわてるんだろうなあ〉
部屋の中で自分の前を隠そうと必死なる部員に、剛史の姿を重ねてみた。
幸いというか遠巻きで見ていたおかげで部員の前は凝視せずに済んでいる。
ちなみに成人男性のそれは実物では無いにせよ見たことがある。これも出どこが栄子だが、どこからかしら手に入れた違法DVDを部屋にテレビが無い栄子が華蓮の部屋で鑑賞会をするためだ。
なんとなくグロテスク、せめてもの救いが女子部員を数人集めての鑑賞会なので見てみない振りもできるが、栄子と二人きりだとどうしてよいか判らないだろうと思う。
歩き始めて五分ほど、せっかく汗を流したばかりなのでゆっくりと歩いている。
少し先に男の人影らしきものが見えてきた。
〈ああ、あれかな?〉
そう思ってほんの少し歩く速度を速くしたが……
〈草薙君!〉
空の赤を全身に受け、遠くを見つめるその横顔はまさしく草薙剛史だった。
どうしてこんなところに、そう口に出す前に、華蓮はその人影に向かって走り出した。
剛史は逃げないでずっと遠くを見つめている、ここで彼に逢えるなんて!
いつの間にか駆け足だ。そして息も切れていた。
呼吸も苦しくなる、そんな中で声を上げた。
「草薙くん!」
相手は振り向かない、そして再度、
「草薙くんっ!」
あともう少しで手が届きそうな距離、彼も華蓮の呼びかけに答えてこちらを向いた。
そこに居たのはやはり草薙剛史。
「……姫」
彼の返事に虚をつかれ立ち止まって目の前の男性をよくよく見ると、そこに居たのはマナフだった。
〈あ、あれ? 確かに草薙君に見えたけど……〉
しかし剛史とマナフでは見た目が違いすぎた。
〈男の子ってもう、だれを見ても草薙君に見えちゃうのかな……〉
華蓮はそんな自分が少し恥ずかしくなった。事の次第が判らないマナフは心配そうに彼女を見ていた。
「あ、あの……どうされました?」
「ううん、何でもないの。それとごめんね」
「なんのことです?」
マナフにしても何を謝っているのか判らないのだろう。
「もう砂風呂はお済みになったのですか?」
「うん。気持ちよかったよ。お風呂なんて久しぶりだったから」
華蓮は笑顔を作って答えた。
「そうですか」
「今、エーコが入っているの、それからカズミさんにも進めたんだけど、わたしたちが居ては恥ずかしいみたいで……」
「そうですね……ひょっとしたら、身体に大きな傷があるのかもしれませんし」
「あ、そうか、それもあるんだよね。わたしってそう言うところに気が回らなくて……ダメだなあ」
「そんな事はありませんよ」
マナフは優しく微笑んで見せた。
「それでね、マナフの入る順番なんだけど」
「わ、わたしは別に……」
「そんな。この世界に入ってから歩きっぱなしなんだし。汗だって臭うよ」
と、彼の胸元に鼻を寄せてみる。
だが。
〈……匂いがしない〉
「ひ、姫……その、少し離れてください」
彼の照れ具合も気になったが、押し当てるほどの距離に近づけているのに、華蓮の鼻は気になる匂いをまったく感じなかった。
ゆっくりと自分の身体を起こすと二、三回鼻をすすってみる。別に詰まっている様子はない。
試しに自分の腕の匂いをかいでみると汗のそれを感じるくらいだ。これは先ほどの早歩きから全力疾走でそうなったのだと自己完結した。
こほんと咳払いを一つ。小首をひねってから、
「ともかくお風呂に入りなさい。これは‘あ・り・す’としての命令です」
「は、はあ」
困った表情を見せたマナフだが、すぐにそれが緊張に変わっていた。
「どうしたの?」
「姫、あちらの方から……」
マナフが指さす先……だが、視力に自信のある華蓮でも何も見えない。
それでもがんばって、目に力を込めていると、こちらに近づいてくる影があった。
さほど距離は無いようだ。
コブの無いラクダのような生き物に惹かれて馬車が近づいてくる。
マナフは剣を引き抜いて、華蓮を背中に回した。
その車が二人の目の前に来るまでほんの数分と言うところか。思いの外速く移動したらしい。
馬車の作りは西部劇のほろ馬車風である。
ラクダもどきが鼻の穴を広げ、息を吐き出すとほろ馬車の動きはとまる。
ややあって中から出てきたのは一人の兵士である。装備はネボの物ともマルドゥックの物とも異なる。
「……ネボの‘あ・り・す’様一行か?」
その兵士はぶっきらぼうにそう聞いた。応えたのはマナフだ。
「いかにも」
「お迎えにあがりました」
兵士の口調が幾分丁寧になり、馬車からもう一人女性が降りてきた。
華蓮もマナフも同時に声を上げた。
「お久しぶりね、ネボの‘あ・り・す’さん」
そこには預言者の祠の前で闘いを仕掛けてきた赤毛の少女、タローマティが立って静かに微笑んでいたのである。
■Scene 29 謁見【Audience】に続く




