■Scene 1 人魚【Mermaid】
※この前にPrologueがアップされています。
雲一つ無い蒼い空とはよく言った物だ。
海外旅行のパンフレットにあるような濃いブルーではないが、目の前に広がる空の中のアクセントと言えば、見つめることも出来ないほどの光の固まりが一つ。
それが先ほどから彼女の身体を焦がしていた。
じりじりと、じりじりと。
屋外にある五〇メートルプールのほぼ真ん中、風もなく落ち着いた水面にひとりだけ女の子が浮かんでいた。
背丈は一五〇センチほど、水着はライトブルーに右の肩から脇に向かって、一本だけオレンジのラインが入っている。
ややハイレグ気味のそれは競泳用にデザインされているため身体を引き締めて見せている。
元から華奢な造りである。手も足も首もウエストも、そして本人は一番気にしているバストもほっそりとした印象を与える。元々の線の細さかもしれない。
普段は「必ず付けろ」と顧問に言われている水泳帽を外し、腰まで届きそうな髪が水の中に揺らめき、そして身体にまとわりつく。
いつもそれをお下げにしており肩から胸に流しているせいか、自然なウエーブが水面に起きる波紋とどこか同調していた。
もう三〇分ほどこうしている。
受験校としても有名な私立慧香[けいか]高校のプール、夏休みの間にそれを利用できるのは水泳部員に限られる。
今、そこを独占利用している彼女、美咲華蓮[みさき・かれん]は二年生にして正選手である。
肩口のオレンジラインがその証拠だ。二年生でそれを付けているのはわずかに二人だけだった。
〈惨めだなあ……〉
華蓮は太陽に目を細めてそう思った。
彼女を惨めに思わせる物、水泳部の正選手も補欠も、残らず東京に出向き代々木競技場で行われている関東大会に参加している。
その大会も昨日で終わり、みんなは東京見物で羽を伸ばしているはずだ。
団体二位の記録は悪くない。
もちろん華蓮もそれに参加する予定だった。それなりの成果も期待されていたのだが、遠征の二日前になって体調を崩し熱が出て、自宅療養となったのだ。
遠征前日、二年生のもう一人のオレンジラインである北川栄子[きたがわ・えいこ]が見舞いに来た。ベットに横になったままうつろな表情を見せる華蓮の顔を、心配そうにのぞき込んでいた。
「あんたの代わりにあたしが頑張ってくるからさ」
好対照といえる華蓮と栄子、小柄な華蓮に対して栄子は身長一七〇センチ近くあり、女子生徒の中ではもちろん男子生徒の中でも大きな方だった。
少し垂れ気味で大きな瞳の華蓮に、切れ長でややつり目の栄子。
似ているところと言えば水泳部に所属しているにしては長い髪だが、栄子のそれはクセが無くまっすぐ腰まで伸びていた。
「東京土産何がいい? 買ってきてやるよ」
「……わかんなぁい」
栄子の言葉にもどこか間が抜けたタイミングで答える華蓮、それでも返事が出来る様子を見て、栄子は微笑んでいた。
「じゃあさ、ジャニーズの写真撮って来てやるよ」
「東京に行ったからってそんなに簡単に逢えるはず無いでしょう」
「判んないぜえ、ひょっとしたら大会のゲストに来てるかもしれないだろう?」
相変わらずの乱暴な男言葉とは裏腹に、栄子は楽しそうに腕を組む。
そんな事はないと思いながらも、華蓮の頭は熱でのぼせていた。
「なら、わたしは木村くんがいいな」
「おまえには『クサナギ』がいるじゃないか」
「ば、馬鹿!」
「照れるなよ、余計焼けるぞ」
そう言って豪快に笑ってみせた栄子も百メートル自由形で個人四位の成績に終わった。
三位との差はほんのわずか。今年はあがる事が出来なかった表彰台も来年はその頂点に居るのかもしれない。
〈わたしは……その両翼のどちらかに居るのかな〉
華蓮は寝返りを打つように身体を半回転させ、水面に顔をつけてそのまま沈んだ。
肺の中の空気をほぼ吐き出す。比重は水と同じになり、浮きもしなければ沈みもしない。
水の中で体重を無くす。上から降り注ぐ光が水面の波を円模様にして華蓮の身体を飾り立てていた。
もう一度、身体を半回転させる。顔を水面に向けた。
そして、残りの空気を吐き出す。
水中に溶け込めない気泡はゆらゆらと揺れながら水面に向かっていく。そこは、わずかに外界の様子を映し出すが、波紋のフィルターが青空と雲を混ぜ合わせていた。
〈綺麗〉
細身の身体がゆっくりと沈む。そして背中にエナメル塗装の冷たい感触が伝わってきた。
プールの底で大の字になりながら……自分はやはり、水の中が一番合っていると思う。
故に皆と一緒に東京に行けなかった自分を惨めに感じるのだ。
だが水の中はそんな気持ちをやわらげてくれる。体重を感じさせず水圧でさえまるで空気のようだった。
自分の前世はきっと魚だったのだろう、もしほ乳類だったらイルカに違いない。
今でもイルカのように海の中を自由に泳げるだろう。
素潜りの練習をしたわけでも無いのに、華蓮は人よりも長い時間水中に居る事ができる。不思議な事に息苦しさを感じないのだ。そのままじっとしていれば、一時間でも二時間でも潜っていられるのではないか、自分でもそう錯覚することがある。
今も息は止まっているはずなのに、苦しくも辛さも無かった。
《くすくす”“くすくす》
だれ? 華蓮は上半身を起こした。自分に向かって聞こえたのは笑い声、しかも水の中とは思えないほど鮮明に耳に飛び込んできた。
プールの中にはだれもおらず、彼女の周り三六〇度は水色の風景だった。
《……機嫌は良くなったようね》
《良かった》
やっぱり誰か居る、華蓮は両足を抱え込んで、はずみをつけてプールの底を蹴った。
耳元に水が流れる轟音と水圧差から鼓膜が震えてわずかに痛い。目の前に水と空気の境目が近づき、肺に僅かに残っていた空気が鼻から抜けた。
顔に感じていた水の感触が無くなり顎に集まっていた。小さく一回顔を振ると、目の前には華蓮が作った波紋が広がる水面と、夏の太陽と、木々がざわめく声だけ。自分を呼んだであろう人の姿はなく、遠くに蝉の鳴き声を聞くことが出来る。
気のせい? 髪をすくい後ろに流すと顔を上げたまま平泳ぎで、背の届く位置まで泳いだ。肩と首筋に光が針のように突き刺している。夏の間はほとんどプールで過ごしているわりに、彼女の肌はほとんど焼けていなかった。
泳ぎ終わってシャワーを浴びて、白いワイシャツを着れば肌が赤くなっているのが判るのだが、それも次の日には跡形もなくひいてしまう。友だちは「荒れないから良いね」というが、そう言う相手が見せる褐色にどこか憧れるのだ。
隣の芝生、そういう物かもしれない。
「おい、美咲!」
また声がする。だが今度のそれははっきりした方向性を伴っていたし、それが誰の声かも判別する事ができた。
華蓮はプールサイドに近づいて、上半身を乗り出してフェンスを見た。そこには一人の男子生徒が額に汗をかきながら、じっと彼女を見ていた。
短めに刈り込まれた髪だが運動部ではない。銀色の細いフレームの眼鏡の奥に、わずかに垂れた眠そうな目があった。背丈は一七〇センチを少し越えているから、高校二年生の男子としては標準的な高さなのだろうが、細身だが痩せているというより筋肉質といった印象を与える。
「何、草薙くん」
栄子が言っていた“クサナギ”とは、美術部に所属する彼、草薙剛史の事だ。
「そろそろ三時だぜ。まだ泳いでいくのか?」
そういえば太陽もだいぶ西に傾いていた。それでも日の強さは変わらない。
「かき氷食っていこうぜ」
「……いいわよ」
「じゃあ裏門で待っているからさ」
彼はそう言って手にしたスケッチブックを振ると、すたすたとフェンスから離れていった。
小さくかけ声を上げプールからあがる華蓮、彼女は濡れた髪をまとめると、振り返って誰も居なくなった水面を見た。
風が作る幾重もの波紋、それ以外は周りの風景を写しこむそれは、ただ静かに水を蓄えていた。
§
慧香高校の裏門を出てすぐ、本屋・弁当屋・菓子パン屋・文房具屋など学生御用達の店が並ぶ、慧香通りがある。平日の放課後はこの通りを下校の生徒が埋め尽くすのだが、さすがに夏休みは閑散としており、店の方も真剣に営業していない。
慧香通りと私鉄東慧香町駅へむかう駅前通りが交差する十字路の一角に、オープンテラスの喫茶店、竜虎がある。
喫茶店と言ってもおしゃれな雰囲気はどこにも無い。オープンテラスと言っても数年前の火事で屋根が無くなっただけだ。
学生向きのメニューを取りそろえているせいか慧香高校の生徒がよく利用していた。なにせそこの店主が理事長なので学校も生徒に『立ち寄るな』とは言えないらしい。
この竜虎も不真面目な経営では有名だ。なにせ屋根が無いから雨が降れば休業、普段でも午後五時前に店を閉めてプロ野球の観戦準備を始める。
ただ慧香高校の生徒には特典があり、夏場は特製のトッピングを施したかき氷が二〇〇円で食べられるのだ。
華蓮と剛史は道路沿いのテーブルに向かい合わせに腰掛けていた。屋根は無いといってもエンビ製の青い半透明の板が太陽光を遮ってくれる。
華蓮の髪型はいつもの三つ編みお下げ、普段は肩から胸に流すのだが食事中は背中に流している。
腰ほどに届く長さの髪はまとめてもそれなりのボリュームがあった。毛先は青いリボンで飾っていた。
「美術部も部活やってるんだね」
華蓮は自分のかき氷の上に乗ったバニラアイスを、銀色のスプーンで一口分すくった。彼女のトッピングはコンデンスミルクとあずきをかけて、その上にバニラアイスクリームを鎮座させていた。トッピングで価格以上の価値を付けている。
一方目の前の剛史のかき氷はいたってシンプルだ。華蓮から見て右半分にイチゴシロップを、左半分をメロンシロップで飾っていた。こちらは店川が得しているだろう。
「慧香祭に作品、間に合わせたいからね」
「でも、あれって一〇月最後でしょ。夏休み開けてからでも間に合うんじゃないの?」
「……前期の期末試験、忘れているな」
華蓮は思わず喉を詰まらせた。
慧香高校は二期制の学校だ。九月末に前期の期末試験があり、一〇月一週が試験休みこと『秋休み』そのあと後期が始まる。
「そもそも後期が始まったら生徒会の選挙や、部活の方だって新しい部長の選出とか色々ごたつくだろう。のんびり作品書いていられないよ」
「そうかなあ」
「美咲みたいにのんべんだらりとして居られれば、そりゃ問題ないけどな」
「酷いよ」
華蓮はぷっと頬を膨らませると、あずきとミルクを器に押し込むようにざくざくとスプーンを突き入れた。
はたから見ればなんとなく良い雰囲気のこの二人、中学二年の時に偶然知り合ってからずーっと『お友だち』な関係が続いている。
華蓮も男の子と付き合っているというより、「友だちと話している」という感じがしっくりくると思っていた。
「わたしだって色々努力はしているんだよ。栄子と一緒に勉強したり」
「でも一〇分もしないうちにそれに飽きて、一緒に格ゲー始めるんだろ?」
情報の出典は栄子に違いない。
「ちっとはマジメに勉強しとかないと、事業団なり体育系の大学に推薦入学なりあっても卒業できないぞ」
「どうせわたしは草薙くんとは頭の出来が違いますよーだ」
事実剛史の成績は二年生全体でトップレベルだった。しかも区内や県内だけに及ばず全国区でも十分通用する物で、それを認識していないのは彼本人だけと言われている。
剛史の興味はもっぱら絵だ。
数学も物理もちょっと気合いを入れれば『飛び入学』で大学に通えそうなものなのに、
「そりゃCGとかでマンデルブロとかフラクタルとかポリゴンのリアルタイムレンダリングでもやりたいのなら別だけどさ、俺は筆でぺたぺた塗るのが好きなんだよ」
と華蓮には七五パーセントは理解できない言葉を並べて全く相手にしない。
彼が描く絵は写実画だ。華蓮が見ても十分評価できる。
高校に進級した記念に慧香高校のブレザー姿を水彩画で描いて貰ったことがあるが、今では額縁に入れて彼女の部屋の勉強机の上に飾られていた。
そういえば、水着姿も描かせろと言われていた。
『ああ、こいつも一著前に男なんだ』
その時はそう思い「草薙のエッチ」と言おうとしたが、「女の子の身体の線って難しいんだよ」と真剣に悩んでみせる彼を見て、意外と本当に『絵』の事の興味なのかと思い、ちょっとだけ寂しい思いをしたものだ。
正反対に体力勝負にはからっきし弱い。
男女混合で水泳の授業をするときなどその上半身を見ても、ひ弱には見えず水泳をやらせても十分早そうなのだが、肺活量はおろか握力・背筋力も栄子はもちろん華蓮より下、前屈はマイナスで上体そらしも一〇数センチのレベル、もちろん懸垂はゼロで腕立ても二桁には行かない。
いつぞやか図書室から教室に本を運ぶ彼が、あまりに足下をふらつかせているので、可哀想になって華蓮が代わりに持ったほどなのだ。
彼は「一般の生活には支障無いよ」と言うのだが。
「なあ、美咲」
汗だくになって本を運んでいた剛史の様子を思い出していた華蓮は、彼の微妙なタイミングで投げかけられた声に反応してほんの少し驚いて見せた。
「なに?」
「……いや、いいや」
「なによ、途中で止めるなんて男らしくないわ」
「今年は残念だったな」
ややあって華蓮は小さくうなづいた。
かき氷の器が汗をいっぱいかいている。さわやかな風がそれをひとまとめにして、テーブルの上に水たまりを作っていた。
§
翌日、華蓮の家に朝早く来客があった。
暑さしのぎにプールにでも出かけようかと思った矢先、チャイムが鳴ったと思ったらすぐに扉が開き階段を上がる足音がする。
華蓮が部屋のドアを開けると同時に、
「よ、おはよ」
そう挨拶して部屋の中に入ったのは二年生のもう一人のオレンジライン、栄子だった。
「いつ帰ったの?」
「ついさっきだよ。あっちを午前八時の電車で出てさ、そしたら一時間もしないうちにこっちに着くだろう」
栄子はスポーツバッグを部屋に放り投げ、ベットの上にうつぶせにダイビングする。華蓮には少し大きめのベットも栄子にとってはぎりぎりのサイズのようだ。
飛び込むと同時にぎしぎしとスプリングが悲鳴を上げていた。
「なんかとんでもない強行軍ね」
「こっちは東京見物で遊び疲れているっていうのにさ」
華蓮はエアコンのリモコンを取り上げ『冷房』のスイッチを入れた。
「家には帰ったの?」
「いんや。こっちの方が駅から近いじゃないか」
「あきれた」
「それにさ、家に帰るとうるさいんだよ。ここで一休みさせてくれ」
栄子の横顔をちらりと見ると、彼女は気持ちよさそうに両目を閉じていた。寝付きの良い方だからすでに意識は無いのかもしれない。
そんな彼女に。
「……残念だったね」
華蓮は一言つぶやいた。もしかしたら聞こえていないかもしれない、そう思いながら。
「仕方ないさ」
栄子は目を閉じたままそう言って笑って見せた。
「……やっぱりさ、華蓮がいないと張り合いがないだろう?」
「わたしのせいにするの?」
「そうさせといてくれよ」
「しょうがないわね」
栄子の父親はオリンピックの元水泳選手だ。小さな時からいわゆる英才教育を施されてきたため期待が大きい。
第四位という成績は賞賛される物ではないのである。
反面華蓮の父親はごく普通の会社勤めであり、母親が小学校の頃病弱だった彼女を心配して、通わせたスイミングスクールから才能が開花していった。
華蓮にはふたりの姉がいたが、どちらも泳ぎの才能は人並みであり、母親も子供に才能を譲ると言うほど泳ぎが達者でない。
父親は浮く程度であり「金槌」の一歩手前だった。
突然変異的に発生した華蓮の才能に対して両親姉妹はだれも興味を抱かない。一番上の姉、蘭に至っては最近になって、「あんまり泳ぎすぎるとずんどうになるわよ」と笑ったくらいだ。
さすがにその時は壮絶な姉妹ゲンカになった。自分の身体の発育が同世代の女の子に比べてやや劣ることを自覚しているが、それを露骨に言われたくない。
止めに入った次女の百合にまで「……今は貧乳がはやりなんだし自慢すれば?」といわれ、さらにケンカが酷くなった。
体型については栄子に対してもコンプレックスを持っていた。栄子の胸も大きい方ではないが、バランスのとれた人並みのサイズを保っていたからだ。
だからふたりで更衣室に入って着替えをしていると、ついつい自分の胸を隠してしまうのである。
華蓮は知らず知らず、栄子の形の整った少し大きめのお尻を眺めていた。
「……撮れなかったなあ」
「なにが?」
栄子は身体を起こしカバンを引き寄せた。
「ジャニーズの写真、撮れなかったよ」
「当たり前よ」
「なんだよ、華蓮だって期待していたんだろう?」
華蓮はほんの少し考えて、「ちょっとね」と苦笑いを浮かべた。
「代わりにおみやげ買ってきたんだよ。しかも二つだぜ」
カバンから取りだしたのは一冊の本だった。サイズは新書、タイトルは『眠れる森の少女』。
「……『眠れる森の美女』じゃないのね」
「そうなんだ。タイトルよりも中身でさ」
華蓮は裏表紙からぱらぱらとめくり、ある挿し絵でぴたりと止めた。栄子の言いたいことが大体判ったのだ。
「な、そっくりだろ」
「この子が?」
挿し絵にはベットに横になって上半身だけを起こし、窓の外に目を向ける女の子が居た。その子は自然にウエーブがかかった髪をお下げにして肩から胸元に落としている。
つまり普段の華蓮の髪型にそっくりなのである。おまけに絵の中の彼女の後ろ姿も華蓮の雰囲気を醸し出していた。
さらにページを進めると今度は正面を向いた絵が現れた。それを見るとまさしく華蓮の特徴ともいえる広いオデコと大きくてやや垂れた瞳があった。
「おまけにさ、その主人公の女の子の名前が『華恋』なんだ」
「カレン?」
「ただし、レンは恋愛の恋だぜ」
偶然にしてもよく似たものだった。
ただ、この本の中の華恋は本を見ている華蓮と決定的に違う箇所がある。
「わたし入院したこと無いわよ」
「そうなんだよ。よく似ているんだけどさ、そこだけは違うなあって他の連中とも話していたんだ」
けなされている訳ではないのだが、誉められてもいない。眉をひそめながら華蓮はじっと本を見ていた。
「それともう一個」
栄子はさらにカバンの中をあさって取り出した箱を華蓮の前に放り投げた。
「なにこれ?」
「代々木の露店でさ、売ってたんだ」
華蓮が包装をとくと中から出てきたのは一枚のハンカチだった。
「そのさ、四隅を見てみろよ」
栄子に言われるままに折り畳まれたハンカチを広げ、コーナーを見るとウサギの刺繍が入っていた。
「あら、これって……」
「な、トールにそっくりだろう?」
栄子は枕元にあった大きなウサギのぬいぐるみを引き寄せた。女の子の腕一抱えほどの大きさのそれは、右の耳が途中で垂れ下がっておりきゅっと閉じた口が笑っているように見える。
小学校の三年生の時、父親が誕生日プレゼントに買ってきたぬいぐるみだ。その時は真っ白な色だったがいつの間にかどこかあせていた。
それに付けた名前が「トール」である。
ただ瞳の朱だけは非常に鮮やかであり、宝石が埋め込まれているかのように錯覚させる。
華蓮が手にしているハンカチの刺繍のウサギも右耳が途中からたれており、そしてその口は笑っているように見えた。
「華蓮ってウサギが好きだろう。そのハンカチならトールともお揃いだからいいと思ってさ」
「ふうん、こんなデザインが流行っているのかしら?」
「さあな。あたしはそんな幼い趣味無いからわかんねえよ」
「悪かったわね!」
と、舌を出す華蓮。
そしてハンカチの中のウサギをまじまじと見た。
“……こんにちは”
「え?」
華蓮は思わず声を上げていた。
「どうしたんだ?」
「……その、声がね」
「声?」
華蓮が不思議そうにハンカチを凝視すると、まるでそれに答えるように刺繍のウサギが振り向いて見せた。
“お久しぶりです、人魚姫様”
そう言ったあと、垂れていた耳をぴんと立てて見せたのだ。
■Scene 2 水晶【Crystal】に続く