■Scene 16 面影【Memory】
華蓮の目の前に迫りつつあるのは水蛇。
しかもネボの神殿で偶然に召還できたそれより身体が長くスピードも速い。だが、大きな違いがあった。
召還主である華蓮に牙をむける、それは怒れる聖獣である。
「‘あ・り・す’様、伏せて下さい!」
トールが叫ぶ声が聞こえた。自分を飲み込んでしまうのではないか、大きく空いた顎、透明な身体のはずなのに喉の奥に闇を見せている水蛇に、華蓮の身体は硬直していた。
そんな彼女を突き飛ばしたのはマナフだった。
彼の背中越に聞こえる轟音、それは水蛇が通り過ぎていく音だがそれに混じってうめき声が聞こえた。
「マナフ?」
「だ、大丈夫です」
咄嗟に彼の身体をわずかにずらし背中を見ると、そこは巨大な牙によって引き裂かれ赤く染まりつつあった。
それから目を背けようとしても離れない。だが水蛇も消えたのではないのだ。
祠の入り口に水蛇が体当たりする。一瞬に水蛇によって砕かれた岩と水飛沫があがるが、飛沫した水は空中でまた固まり大きさはそのままそして狂暴な目のままの蛇に戻ったのである。
まるで何かを呪うかのようにうなり声をあげるそれは、木につないであった双角獣に襲いかかった。
逃げる暇も恐怖に震える時間もなかったのだろう。水蛇の牙が三頭の双角獣の背中に牙を食い込ませるのに、一秒も必要なかった。
華蓮の目の前に展開されるのはまさに悪夢。蒼く光る水晶を握り締めながら彼女のあごもかちかちと細かく震えていた。
水蛇の次の目標は……ローブを纏った赤い髪の少女、タローマティである。
本来の敵である彼女、しかしタローマティは慌てることなくローブから伸びた細い両腕をへその位置で交差させる。
水蛇は顎を引き千切るかのように開き、大気を切り裂き咆哮と共に水飛沫を纏いながら少女に向かって飛んだ。
タローマティの両腕がクロスしたまま頭上に振り上げられる、その瞬間に地面から『火の壁』が吹き上がった。
そこに突っ込む水蛇。火の壁を乗り越えようとそして食い破ろうと顎を動かし、牙がかみ合う音が響く。
赤毛の少女の額にも汗がにじむ。目を大きく見開き、だが笑みを浮かべて。
「破っ!」
タローマティの気合いが響いた。それと同時に腕を大きく開いたのだ。
火の壁が大きく広がる、そして水蛇をぐるりと取り込んだ。
悲鳴を上げる蛇、荒れ狂う炎。水と炎とが自分の存在を主張し相手の存在を否定する。しかし。
炎も水もどちらも勝者とは成り得なかった。
しゃがんでいる華蓮の身体をも揺るがす爆発が起きたのだ。
肌を焦がすような水蒸気の風が辺りの木々を揺らし大地を震わせた。華蓮も右手で自分の顔をカバーしそこに発生したエネルギーの余波を受け流すしかない。
〈……水蛇がやられた?〉
爆風も収まり視界が元に戻るのと同時に目の前で次の攻撃を仕掛けるであろう赤毛の少女の姿を追った。
だがタローマティも跪き肩で息をしていたのである。
華蓮より幼い顔はにらみつけるように自分の顔を見ていた。
「さすが、‘あ・り・す’と呼ばれるだけあるわね」
少女はゆっくりと身体を起こした。わずかに残る熱風が彼女の髪を揺らしそれは、炎がそのままその身体に乗り移ったように思えた。
「『爆炎の赤毛』……覚えて置いて欲しいわね。またいずれ逢うことがあるでしょうから」
「逃げるの?」
いま剣で斬りつけられれば藁束のように一息で斬られてしまうほどの華蓮、せめてもの強がりである。それが伝わっているのか、少女は微笑んでいた。
「……ええ逃げるわ。わたしは自分に不利な闘いはしないから」
その言葉が終わらないうちにタローマティの身体が薄くなり彼女の背景が見え隠れする。
足下から指先から風景にとけ込み、最後に頭、顔、口元をのこして。
「ネルガルにはきちんと来てね」
最後に残った唇がにやりと笑って消えた。
風が穏やかになる。時間が普通の流れに戻ったように思えた。
しかし周りの惨状は変わらない。
かろうじて無傷なのは華蓮とトールだけなのだ。背中を引き裂かれ血に染まっているマナフ、もはや息をしていると思えない双角獣たち。
地面に寝かされながら動かない伝令の兵士、そしてエーコ。
「エーコ、背中は……」
「あたしは大丈夫です、それより神殿に急がないと」
確かにその通りだ。アールマティが防いでいるとしてもこの世界の人々がマルドゥックの兵士に比べて訓練されておらず、防戦にすらならないのは目に見えている。
だが神殿に急ごうにも双角獣は動くことができない。山道の二レオグはどんなに急いでも日没には間に合わないだろう。
さらにエーコは背中一面に打撃を受けている。気丈なこの少女は表情を歪ませながらヴァ・ルオラを杖に身体を支えていた。
厚手の服装が幸いしてか火傷はしていないようだが、爆発は彼女の背骨に直接的なダメージを与えている。
華蓮は自らの手の中の水晶を見つめた。
「……どうして水蛇があんな事に」
「心に迷いがある時に聖獣を呼んだとしてもそれを制御することはできません」
華蓮の傍らに立つトールである。
「特に今回は水蛇を呼び出したとき、召還主の姿を間近で見せていなかったのですから」
「そんな事を言っている場合ではないだろう!」
エーコはトールをにらみつけ、そして華蓮を見た。
「姫……ここはお一人でもすぐに神殿に」
「でもエーコやマナフは? そんな酷い怪我をしているのに」
「あたしたちは神殿を守る衛兵です。神殿とアールマティ様をお守りできるので有れば命をかけても悔いありません!」
「いけないよ、そんな……」
「姫!」
駆け寄ろうとしたエーコの表情が苦痛に歪む。やはり身体を動かすのも困難なのだ。
その時、トールが右耳をぴんと立てて見せた。
「‘あ・り・す’様……本来、水は命の証。水を管理するネボの水晶の力は攻撃する力ではなく、生命を守るための物です」
「これでみんなを助けられるの?」
「それは‘あ・り・す’様次第です」
水。命の水。
わたしを包みみんなを包み……生命を宿し育む水。
〈……お願い、みんなを助けて〉
自分の不注意でこんなに酷い怪我をさせてしまった、だから、もし水晶の本当の力を引き出せるので有れば。
華蓮は蒼い水晶を握り締める、自分の体温を人魚姫の涙の結晶に分け与えた。
すると不思議なことに……水晶が振動する、いやそれはまるで心臓が鼓動を打つようにゆっくりと力強く。
「さあ水晶よ。ここに或る命を救いたまえ、怪我を癒したまえ」
手のひらの奥から光が漏れる。華蓮の指の間から幾条もの青白い光が清らかな水面、大いなる海を連想させる光がもれ、そして華蓮の身体を包み内側に光球をぽこぽこと生み出していた。
それが飛ぶ。夜に浮かぶ蛍のように長い尾を引きながら、エーコに、マナフに、伝令兵に、そして双角獣に飛んだ。
光球が彼ら彼女らの身体の中に吸い込まれると、それはそのままオーラのように身体を取り巻きそしてゆっくりと消えた。
エーコの背中の痛みも消え、マナフの傷口もふさがり、息も絶え絶えであった伝令兵も安らかな寝息を立てている。
双角獣もまず後ろ足をたて、ついで前足を立てて頭を振った。
〈傷が癒された、この力で〉
「姫!」
華蓮に近づこうとしたエーコ、だがその華蓮が……
エーコの元気な姿に微笑みを返そうとした瞬間目の前の風景が歪んだ。
身体を支えるための力を足に送ることができない。自分の身体の位置状態を把握することができなかった。
華蓮が地面に伏しそうになる直前に、エーコはその小さな身体を抱き止めた。
「トール殿、これはどういうことか!」
「……力を使いすぎたのでしょう」
「力……みんなを治癒するための力か!」
「そうです。治癒の力は自分の生命力を分け与えること、水晶の増幅力があっても、‘あ・り・す’様にはかなりの負担が……」
「なぜ、なぜそれを先に姫に言わない! こうなることが判っていながら」
「いいんだよ、エーコ……わたしが決めたことなんだから」
華蓮はエーコの腕の中に居ながらそうつぶやいていた。
「姫、しかし……」
「それより、早く神殿に行こうよ。みんなの様子が気になるから」
華蓮の力で双角獣も動けるようになったとはいえ、やはり神殿に行き着くまでに夜になってしまうだろう。
その時、急に空が暗くなった。
何事かと華蓮もエーコも天を仰ぐと、そこには。
「‘あ・り・す’様、お迎えに上がりました」
空一面を覆い隠すような巨大な影、それはアールマティとの晩餐会の夜、華蓮の寝所に訪れた巨大なサメ、オオアオハンテンザメだった。
「……サメさん」
「さあ‘あ・り・す’様。お仲間と一緒にわたしの背中にお乗り下さい。わたしなら神殿まで一瞬で行くことが出来ます」
「そんなばかな」
エーコである。
「ハンテンザメが人間を背中に乗せるなど考えられん」
「若き兵士よ。わたしは‘あ・り・す’様の納めるこの世界の従物に過ぎぬ。‘あ・り・す’様が望めば従うまで、そしてここに集いし仲間たちも」
見渡せば数えることが困難なほどの魚が宙に浮かび、エーコと華蓮を見ていた。
夜行性の魚も、ふだんは森の奥深くにしか居ない魚も。
「さあ‘あ・り・す’様。わたしの背中に」
「……ありがとう。行こう、エーコ、マナフ、トール」
その言葉の直後、華蓮たちの身体がふわりと浮かんだ。
ヘリウムの詰まった風船のように体重をなくした四人はハンテンザメの背中にそっとまたがっていた。
鮫肌という表現に似合わない柔らかな感触、手で触れるとそして足でふれるとそれは暖かさをも感じる。その身体がしなやかに揺れている。
尾を蹴り身体をくねらせ、あっと言う間に宙に浮かんだのである。
加速も減速も感じない。やがて辺りの風景が一望できる高度まで上がると矢のように一気にスピードを上げた。
比較対象物がないため自分がどれほどの速度を出しているのか判らない。
一回だけ栄子のバイクの後ろに乗ったときの比では無いはずだ。それなのに風の力も加速も感じない。
「さあ、行きますよ!」
ハンテンザメの声が響く、真下を見るとそこに広がるのはネボの街だった。
兵士の姿が見えるが幸い戦闘は拡大していないようだ。人々の流れは神殿にあり、そこにはネボの衛兵と見慣れぬ服装の兵士が闘っていた。
「彼らの戦闘を止められる?」
ハンテンザメにそうつぶやく華蓮。彼はつぶらな瞳を華蓮に向けていた。
「おやすいご用で」
急激に高度が下がった。まるで地面に激突しそうな勢いにエーコは背鰭に手をかけて身体を保持している。
地面まであと数センチというところで急激に身体を反転させ爆風をおこして兵士をなぎ倒した。両方の兵士を倒していることになるが特に怪我はないようだ。
つづいて幅八メートルはありそうなエイが数十匹、同じように兵士を威圧する。悲鳴を上げて逃げる者もあれば腰を抜かして動けなくなる者もいた。
「もういいわ、さあ、神殿に行きましょう!」
「承知しました、‘あ・り・す’様」
ハンテンザメは身体の向きをかえ神殿の門をくぐった。
彼に対して槍を突き立てようとした兵士がいるが、その槍も身体に届く前に弾かれ、兵士も彼が通過すると突風に吹き飛ばされた。
神殿の内門の前でハンテンザメは着地した。
「ありがとう」
「さあ、急いで下さい‘あ・り・す’様!」
華蓮たちはハンテンザメの身体からおり神殿の大階段を昇っていく。そして登り切ったところに。
「遅かったようですな、ネボの‘あ・り・す’!」
フロアの中央、天井から差し込むあかりを受けて立つアールマティ、彼女に槍を突きつける兵士、そしてそれを指揮するのは……
草薙剛史を池の奥底に引きずり込んだあの男だった。
§
「あ、あんたは……」
「どうやらわたしの事を覚えていただいたようで。サルワと申します」
「草薙くんをどこにやったの!」
「そんな事より……」
ふっと笑った骸骨のような顔、確かに今は目の前のアールマティだ。
「ごらんのようにこの神殿の守り姫を人質として頂きました」
「卑怯者!」
声を放ったのはエーコである。
「左様。この通り卑怯な手段に出ています。わたしの要求は何か、もう再度言う必要もありますまい」
サルワはローブから筋肉が全くないような細い手を華蓮に伸ばした。
その手が意味する物、すなわち水晶。
華蓮やエーコが動こうとすると、アールマティの両脇に突き立てられている槍がほんの僅かに食い込んで見せた。
「……これ以上この姫に苦痛を与えたいのですか、‘あ・り・す’様。さあ、その水晶をお渡し下さい。あなたにとってそれは無意味なものです」
華蓮は首に手を回し、ネックレスを外して自分の目の前に差し出した。
「姫!」
「‘あ・り・す’様!」
エーコとトールが同時に声を上げる。だが……
「‘あ・り・す’様、お別れです」
アールマティが華蓮に微笑んで見せた、その顔に悲しみを浮かべながら。
「わたしは……あなたに謝らなければいけません。全ての闘いを拒みシャマシュに意識を飛ばされたあなたを、またここに引き戻してしまった罪」
「だまれ、おまえに口を利いて良いとは言っていない!」
サルワの脅しもアールマティには無意味だった。
「そしてあなたと草薙剛史を引き離してしまった罪。‘あ・り・す’の伝説が有るというのに……」
「アールマティ……」
「‘あ・り・す’様、あなたにとって運命は過酷で悲劇に満ちた物かもしれません。ですが、その運命を切り開くのもやはりあなたなのです」
サルワの合図に兵士はアールマティに槍を突き立てようとした。
だが、アールマティの身体全体から発する燐光の様な青白い光が、槍の切っ先を透明に変えていく。
それは柄に伝わり、それを握る兵士の身体も透明にする。光に触れた物は水晶に変換されていくようだった。
「‘あ・り・す’様……あなたは選択をしなければいけない。それはどちらを選んだにしてもあなたにとっては……」
「き、貴様!」
サルワは腰の短剣を抜きアールマティの喉元にそれを突き立てようとした。
だが、短剣の切っ先がオーラに触れた途端身体の自由をうしない、兵士と同じように短剣からそれを握る手、肘へと水晶のように透明になっていくのだ。
サルワは自由が利く左手で別の短剣を引き抜き、水晶化する右手の方の付け根で切断した。血が吹き飛び呻きがあがる。
右腕は床に落ちガラス細工のように砕けた。
「今、わたしはあなたに全ての力を託します。わたしがもつ全ての呪術の力。忌まわしきわたしの力」
アールマティは自分の胸の前で腕を組んだ。そこからレーザー光線のような光が華蓮の手の中の水晶に届く。
それと同時にアールマティの身体も手から透明に成っていく。
「アールマティ!」
「……華蓮」
アールマティは名前で呼んだ。華蓮の事を名前で呼んだ。
「わたしはあなたがシャマシュに行ったときから、すぐそばであなたの事をみていた。ハルワタートとして生きていくことを望んだあなたが、新しい世界で希望に満ちた生き方をみていたかった」
その言葉を語る彼女は……その面影は、母親の物だった。
「ごめんなさい。わたしは……きっと許されないでしょう」
「……ママ!」
華蓮の絶叫にアールマティは微笑む。すでに顎まで水晶化している彼女は、最後に。
「……ありがとう華蓮」
「ママ!」
全身が水晶となるアールマティ、そして光を全て吸い取った華蓮の水晶から、円状の光が放たれた。
それは幾重にも幾重にも広がり、華蓮の足下に真っ暗な空間を作ったのだ。
「……チャンネルが開く!」
トールの声。華蓮の耳に目に最後に飛び込んできたもの。
その直後、華蓮はすべての感覚を失っていた。
§
どこかで女の子が泣いている。
大きな声を上げて、大きな木の下で涙を頬に幾筋も流しながら泣いている。そのすぐそばに母親らしき女性が立っていた。
〈……あの子は幹ヶ原池公園にいた女の子に似ている〉
華蓮はその声と映像をみてそんな事を思っていた。
自分がどこに居るのか、どんな状態でいるのかを把握することができない。自分に肉体が有るのかどうかも定かではない。
だが確かに女の子の泣く姿と声を聞くことができるのだ。
〈泣かないで……〉
華蓮の声がエコーして跳ね返る。
しかし女の子は泣いていた。
自分もついさっきまで泣いていた。何でだろう、何が悲しいのだろうか。
自分はどこに行くのだろうか。
ふと足下に小さな光を見ることが出来た。あそこがゴールなのだろうか、行き先なのだろうか。
『……居なくなったの』
女の子の声が聞こえる。何が居なくなったのだろうか?
だがそれを深く考えている余裕もなさそうだ。急に落ちているという感覚が強くなる。
〈身体が引っ張られる、落ちる、恐い、誰か、誰か助けて!〉
ママ!
視界がはっきりした。
自分の身体が有ることも判る、自分の両足が大地を踏みしめていることも、自分の手が何か堅い物に触れていることも。
華蓮はまず自分の手が触れているものを見た。
灰色の柱……そこに書いて有るのは日本語で、『慧香町二丁目』……
「慧香町?」
思わず声を上げた華蓮、周りを見回すと夜だがそこに見慣れた街の風景があった。
〈わたし、帰ってきたの?〉
華蓮の意識が急に遠くなる。それは、懐かしい街に帰ってきたという安堵だろうか、それとも疲労か。
夜の闇に浮かぶ満月は華蓮の身体を優しく照らしていた。
■ Channel 3 Ninib:
■Scene 17 不安【Uneasiness】に続く




