■Scene 11 女王【Queen】
鏡の前にいる自分は美咲華蓮ではなくネボの世界の‘あ・り・す’。
アールマティに用意された服を身につけながら、華蓮は自分がいま置かれている境遇に戸惑っていた。
〈女王様……か〉
正確には『世界を支配する者』という意味。
〈わたしがこの美しい世界を支配する? そんなことをして何の意味があるのだろう……自分の目的はたったひとつなのに〉
今彼女が身につけている服装は雨の日、水晶の中で見たドレスだ。
フリルも宝石もなくただ真っ白なドレス。
〈あの時の服の色は白だったのね〉
栄子からほうきと呼ばれている髪を解いて全てを背中に流す。
それなりにドレスに合う髪型になったが、如何せん童顔だけはどうしようもない。
「‘あ・り・す’様、準備は出来ましたか?」
戸口から聞こえてきたのはトールの声だった。
「お似合いですね」
「トールでもお世辞が言えるんだ」
「わたしは本当の事しか言いませんが」
まあそれでも悪い気はしない。
鏡に映る自分、エーコとの言い合いではないが何となく胸の部分のボリュームに欠けるように思っていたからだ。
〈この世界でも女の人の胸って大きい方がウケるのかしら……〉
鏡に横向きの姿が映らないようにすり足してトールの後を追った。
お城にドレスに舞踏会といえばおとぎ話に登場するお姫様のための必須アイテム。華蓮も母親の影響を強く受け子供の頃から将来はお姫様になるのと真剣に言っていたクチなので、今日のような洋装ができることに頬もゆるみがちだった。
ただドレスという物は、いざ着て歩いてみるとなかなか動きずらく面倒なものである。
スカート丈は地面ぎりぎりだ。構造は巻きスカートである。
前を踏んで倒れないように堅い草で作ったバネが仕込んであるらしい。
生地が広いのとバネのために立って歩くとその重量は腰にずっしりと来る物だった。
かといってそれを着て駆け足をするわけではないために、後々腰に響く事はないだろう。
無地の敷物がひかれた長い廊下、ほぼ二メートル感覚にガスランプの明かりがともる。アールマティの従者であろう女性が華蓮に向かって頭を下げていた。
神殿より馬車で一〇分ほど、ネボの街の北端、巨大な湖の畔の屋敷に華蓮はいた。
ちなみにこの馬が双角獣というのだろうか、白斑の部分に縦に二つ、三〇センチほどの角が出ている。お付きの人々はただ単に『馬車』と呼んでいた。
その屋敷もアールマティの住居ではなく、‘あ・り・す’のための施設であり、普段はほこりがかぶらない程度に掃除されだれも住んでいないという。
屋敷全体の広さを測ることができない。
この街の住居の特徴か、塀や垣根もしくはついたてと言った敷地を区切る物がないのだ。
あって道路、あとは神殿にあった外門である。
‘あ・り・す’の屋敷も外枠が何もなく、考えようによってはネボの街全体が‘あ・り・す’の家と呼べるだろう。
「……ねえトール」
「なんでしょうか?」
彼女を先導して歩くトールは白ウサギのそのままの格好である。彼にもシャツやらベストを着せて「くわばら、くわばら、遅れてしまう」とかしゃべらせれば似合いそうだと思う。
「あの神殿でお魚って言ったら蛇みたいなのが出てきたでしょう」
「水蛇ですね」
「なんで蛇なんだろう」
華蓮は普通の女の子に比べて爬虫類系・両生類系の生物に強かった。
例えば水泳部の練習の時でもプールに紛れ込んだアマガエルと並んで平泳ぎをするくらいである。
それに比べると元の世界の栄子はカエルが大の苦手で、その日は一日プールに入ろうとしなかった。
そんな華蓮でも蛇はちょっと苦手だ。ちろちろと出入りする二股の舌の動きをみると鳥肌が立つ。
ところが今回水で出来た蛇に巻き付かれた時は、不快感は何も感じなかった。二匹が自分に向ける目、それが優しく見えたからかもしれないが。
「‘あ・り・す’様は魚というと『水の中の動物』というイメージがおありでしょう」
「うん」
「ネボの世界の水の中に魚は居ないのです。それどころか水生植物はありますが動物は生息していません」
「……ならあの大きな湖の中にも動物は居ないの?」
「はい。湖の中には無数の聖霊がいて、その中に身体を浸けるのは神聖なる者だけなのです」
「それで魚が空を飛んでいるんだ」
「‘あ・り・す’様は『魚』という単語で無意識のうちに水の中の生物をイメージしていたんですよ。水晶はそれに呼応し水蛇を呼び出したのです」
トールにそう説明され改めて水晶を見る。
いま着ているドレスにポケットは無い。水晶は華蓮の右手の中にあった。今は自ら光を放つこともなくガスランプの明かりを反射していた。
「着きましたよ」
トールの言葉に我に帰る。開け放たれたドアの向こうはさほど広くない部屋があり、そこの入り口にアールマティが立ち華蓮を向かえていた。
「さあ‘あ・り・す’様」
未だ自分の事を言われていると思えない華蓮は、トールと二人その部屋に入っていった。
§
この世界での食事風景はどちらかというと畳の上にちゃぶ台という日本的な物であった。
畳の変わりに毛足の長い絨毯、ちゃぶ台の変わりに畳大の一枚岩を切り出したテーブルと、調度品の違いが大きく雰囲気を変えていた。
テーブルの下は床を半球状にくり抜き掘りごたつのようになっている。そのため床に腰掛けながら足をゆったりと伸ばせた。
華蓮とアールマティは向かい合わせに座っていた。トールは華蓮のとなりにちょこんと腰掛けている。
テーブルの上に飾られた料理は元居た世界のそれとあまり変わりが無いようである。
シチュー鍋がテーブルの真ん中にどすんと据えられ、大きなボールにサラダが盛りつけられている。その横には穀物から作った麺類に、赤いソースがかけられていた。
「お酒のたぐいは大丈夫なのですか?」
アールマティの問いかけに華蓮は恥ずかしそうに首を振る。
飲んだことはある。去年の合宿の時、一年生みんな栄子にそそのかされワインを空けたことがあったが、その場で唄うわ踊るわの大騒ぎのあと酷い二日酔いで練習にならなかった。
よく顧問に見つからなかったものである。
多分ここの酒もアルコールを含んだ酒なのだろう。まさかこの場でお得意のヒットチャートを唄うわけにもいくまい。
アールマティは微笑んで、華蓮の目の前のグラスにオレンジ色の飲み物を注いだ。
とりあえず一口飲んでみると、柑橘系の生ジュースのようである。程良く酸味が利いたそれは食前酒に近い物かもしれない。
ここでの食事方法が判らない華蓮だが、
「あまり作法には気を使わずに食べて下さいね」
そうアールマティに言われ目の前に用意されたスプーンとフォークを取り上げた。
よく考えたら昨日の晩のグラタン以来食事をとっていない。
目の前の料理はみるみる減っていく。減っていくそばから追加がされるので、ついつい食べてしまう。
食べていて気がついたのは、肉類がまったく無いことだった。
「この世界ではどんな動物でも草食なのです」
トールは人参モドキをかじりながら華蓮にそう言った。
「もちろん人も例外ではありません」
「それで魚があんなに人なつっこいのね、食べられる心配がないから」
「まあ、それは近づく人にもよりますが……」
幸い華蓮はどちらかというと肉よりも野菜が好きだったので、献立に何の問題もなかった。
ゆっくりとした食事時間が過ぎ、テーブルの上にはお茶らしきものと干し柿のようなお菓子が並べられていた。お茶は紅茶のようだが、若干甘めである。
耳を澄ませば音楽が聞こえてくる。ハープとピアノの演奏に似たそれは、静かな旋律を奏でていた。
「……どうでしたか、食事は満足できましたか?」
「はい、とても」
華蓮がそう答えるとアールマティも微笑んでみせる。
それがすぐに真顔になって見せた。
「‘あ・り・す’様はご自分の現状に疑問を抱えていると思います」
「はい……」
「わたしも自分の役目としてそれを全て説明しなければいけません。ただ、わたしだけでは説明できない事もあるのです」
「例えば?」
「この世界の構造、そして‘あ・り・す’様の役目」
「それはどこで聞けば良いのでしょう」
「ネボの街より東に二レオグ(約三〇キロ)、祠があります。そこに住む預言者に逢って下さい。もちろん、‘あ・り・す’様お一人では危険ですから共の兵を付けます」
アールマティはテーブルの上の呼び鈴を鳴らした。
戸口から入ってきたのは。
「もうご存じですね。神殿の衛兵長フェイル=エーコ」
「よろしくお願いします」
エーコはぶすっとした表情で頭を下げた。
「こちらこそよろしく……ええと」
「あたしを呼ぶときはエーコで構いません」
「よろしく、エーコ」
イヤそうにお辞儀をするエーコを見て華蓮は吹き出すのをこらえるのが精一杯だった。
「あと一人兵士がつきますがそれは明朝紹介しましょう。ではエーコ、下がってよろしいですよ」
「はっ!」
エーコはさっそうと部屋から出ていく。その広い背中と流れる長髪を見送っていた華蓮だが。
「……水晶はあなたを選んだのです」
「選んだ……じゃあ別の子を選ぶ可能性もあったんですか?」
「いえ、水晶が選ぶのは必ず‘あ・り・す’様です。問題はどこの世界の‘あ・り・す’様の手に水晶がわたるかでした」
「わたし以外にも‘あ・り・す’と呼ばれる人が居るんですね」
「そうです。例えばこのネボの世界、そしてあなたが捜していらっしゃる男性の居るマルドゥックの世界」
「草薙くんはそこに居るんですか」
華蓮は腰を浮かせた。
「おそらくそうでしょう。そしてそのマルドゥックの‘あ・り・す’様を水晶は選ばなかったのです。わたしが世界に投じた水晶はネボの‘あ・り・す’様であるあなたの手元に舞い降りたのです」
「でもこの水晶は一度壊れてしまいました」
華蓮は水晶を差し出した。
アールマティは金のネックレスを外すと華蓮の水晶にそれを重ねた。すると、ネックレスにわずかに痕跡として残っていた金具が、自然と華蓮の手のひらの水晶を取り込んだのだ。
アールマティがネックレスを手放すとそれは華蓮の手の中にすっぽりと収まった。
「これからはそれを付け肌身外さず持っていて下さい」
「……これをですか?」
「水晶が壊れたのは‘あ・り・す’様の手によって再生されるのを望んだ結果です。それは間違いなくわたしが持っていた水晶の生まれ変わりです」
華蓮は水晶が付いたネックレスをそっと身につけた。丁度彼女の胸骨の位置に蒼く光るそれがある。
「……これでわたしの役目の半分が終わりました」
華蓮の様子を見てアールマティはため息を付くようにそう言った。
§
その後、ネボの世界の事について一時間ほど質問し、テーブルの前のお菓子が無くなった頃を見計らってその場はお開きとなった。
時計がないため時間が判らないが夜もだいぶふけているらしい。華蓮は従者に導かれ寝所に案内された。
その部屋も広さも内装もごく普通の部屋だ。ヨーロッパ中世貴族の超豪華な部屋を想像した彼女にとってはややがっかりであり、しかしごく普通の部屋で一安心と言うところだ。
この世界でははっきりとした四季がなく、雨もあまり降らないらしい。
飲み水については湖や井戸があちらこちらに有るため困らず、農作物についてもタネをまけば一年中育つという。
〈……楽園ってこういう国をいうのかな〉
華蓮はベランダに据え付けられたイスに座って夜空を見ていた。
空の色は真っ黒で昼間と同じ位置に燐光がゆらゆらと輝いている。
星の瞬きが無いのが残念だが、燐光に照らされた山や森や湖がうっすらと見えて闇の恐怖を感じさせない。
星が出ていないのは元の世界も同じではないか。華蓮にせよきちんとした星空を見たことがあるのはプラネタリュームの中だけだった。
〈……プラネタリューム、そう言えば小学校の頃は蘭姉ぇとよく見に行ったっけ〉
夜空を見ている内に華蓮は家族の事を思い出していた。
〈今日のご飯のおかず、何だったんだろう……〉
父親の顔、母親の顔、そして姉の顔。まだ二四時間くらいしか離れていないのに、なんとなく懐かしい。
ベランダの手すりに腕をのせてぼうっとしてると、どうも目の前の風景がぼやけて見える。暗闇の部分がゆらゆらと揺れて見えるのだ。
なんだろう、目をぱちぱちさせながらじっと見ると、何とそこには体長二〇メートルある巨大な魚がふわふわと浮いていたのだ。
「こんばんは、‘あ・り・す’様」
その魚は身体が示すように非常に野太い声でそう言った。
「こ、こんばんわ。あなたは誰?」
「わたしはオオアオハンテンザメです。以後お見知り置きを」
確かに身体の形は魚類図鑑やテレビで見たサメそのものだった。
「……こんな大きなサメさんだったらわたしなんか一飲みされそう」
「とんでもない。わたしがいつも食べているのは野に生える草ですよ」
「そうだったわね。ごめんなさい、わたしが居た世界ではサメって恐い生き物の代表なの」
「そうなのですか? それは心外ですね。わたしはここに来たみんなにいつも苛められるくらい気弱なんですよ」
「みんな?」
ハンテンザメの声と華蓮の声につられて何百何千匹もの魚たちが姿を現した。その形はエイでありコイでありサバやマグロやマンボウのような魚も居た。
そして彼らは口々に「こんばんは」と挨拶を繰り返すのだ。
「みなさんこんばんわ」
華蓮はイスから立ち上がってぺこりと頭を下げた。
「でも、どうしてここへ?」
「それはですねえ」
口を開いたのは華蓮の足下にいたアンコウだった。
「さっきから‘あ・り・す’様の様子を見ていたフナの野郎が、お元気がないってんでやってきたんでやんす」
「あ、あ、あ、あのう……」
と目の前にフナがいる。アンコウに比べれば口が重いようだ。
「せ、せっかく、いらっしゃったのに、げ、元気がないと、なんだな……」
「ありがとう、フナさん、アンコウさん」
フナとアンコウを皮切りに魚たちがみんな華蓮を励まそうとする。その様子を見て少し涙腺がゆるんでいた。
§
衛兵長であり旅の共を仰せつかったエーコは、昼間のことについて華蓮と話しがしたかった。
またケンカになるかもしれないがある程度心を許しておかなければ、旅など出来た物ではない。
そこで失礼かもしれないが華蓮の寝所を訪れたのである。
まだ寝てはいないだろう。そう思って部屋の呼び鈴をならすがなんの応答もない。何かあったのだろうか、エーコはそのまま部屋の中に入った。
明かりはそのままだ。ベットの上にも華蓮はいない。
どうしたのだろうと部屋を見回すと、ベランダのイスに座ってそのまま寝ている彼女を見つけたのだ。
それと彼女の周りを取り巻く、無数の魚たち。
普段は目にすることがないネボの街の主とも言えるハンテンザメも居るではないか。
魚たちはエーコが部屋に入ってきたのも気にせず、華蓮のそばで子守歌のようなハミングを奏でていた。
華蓮の身体をベットに移すべきかエーコは考えた。そこに。
「……魚たちに見守られているのです。そのままでよいでしょう」
「アールマティ様」
いつの間にか、アールマティも華蓮の寝所の中に入ってきており、魚たちと同じようにじっと華蓮の寝顔を見ていた。
エーコはアールマティの横に並んで小さな声で話しかけた。
「寝顔を見ているとただのこどもですね」
「……だから‘あ・り・す’様に課せられた運命を考えると」
「運命?」
「やがて各世界の‘あ・り・す’様と出逢うことになるでしょう。そして世界の本質を見てイシュタルへの道を見いだすとき……誰よりも辛く悲しい選択をしなければいけないのです」
いつの間にかアールマティの顔に悲しみの表情が浮かんでいた。
「その時、わたしは‘あ・り・す’様にどのような顔を向けて良いか判りません」
「どういうことなのです?」
「エーコ……あなたはせめて‘あ・り・す’様を守って上げてください。‘あ・り・す’様に勇気を与えて上げて下さい」
「……判りました」
エーコは何の質問をすることなくそう答えた。
魚たちの子守歌はゆっくりと夜のネボの街に流れていった。
■Scene 12 許嫁【Steady】に続く