■Scene 10 悪友【Friend】
神殿の大広間に通じる階段を上りきったところ、そこから大きな声で怒鳴った女性……というより少女の顔は、彼女の名を呼んだもう一人の少女、美咲華蓮の顔をにらみつけていた。
華蓮との距離を縮めるその少女は、見れば見るほど。
「栄子、なんでここにいるの?」
北川栄子にそっくりであった。そっくりというより、服装をのぞけば栄子本人としか言いようがない。
特に、怒っている表情などは。
まさに目の前の栄子モドキは、華蓮に向けて「憤怒」と言ってよい表情を見せていた。
「その名を呼ぶなと言っているだろうが!」
女兵士は腰から引き抜いた棒状の物の、片端に近い位置にある取っ手を握った。華蓮が武術に明るければ栄子モドキが手にしている武器がトンファに似ていると思えただろう。
トンファの長さは成人男性の指先から肘までだが、今女兵士が構えているそれは肩に届くほどである。
また棒の両端が剣のように薄く加工されていた。
材質は石だろうか。鉄器や木の素材感はない。
ともかく武器らしき物を右手に持ち、自分の前に仁王立ちする彼女。
なぜそんなに怒るのか、華蓮にはとんと見当が付かなかった。
そのためその原因を連呼する。
「ちょっと、何をそんなに怒ってるのよ栄子」
「忌み名を呼ぶなと言っているだろうが!」
兵士の手首が返った。その動き自体は非常に小さいのに手にしている武器の、腕に隠れていた先端がうなりをあげて華蓮の頭上に振り下ろされた。
とっさに後ろに一歩飛んでそれをよける華蓮、棒が空気を切り裂く音が響いた。
「あ、危ないぢゃない!」
「ふっ、あたしのヴァ・ルオラを避けるとは、なかなかやるな」
にやりと笑ってみせる兵士の顔、だが本心からの笑顔ではないようだ。
華蓮はそばにいたトールに耳打ちした。
「ねえ、なんであんなに怒っているの?」
「‘あ・り・す’様が名前を呼ぶからですよ」
「どうして名前を呼んだらいけないのよ」
「忌み名ですよ」
忌み名? そう言えば彼女もそんな事を言っていた。
「この世界では他人が発音してはいけない名前というのが有るんです」
「じゃああの女の子の名前は……」
「女の子とはなんだ、あたしはこのネボの神殿を守る衛兵長、フィエル=エーコだ」
「なんだ、やっぱり栄子なんだ」
「言うなって」
ここですでに華蓮に向けて一歩踏みだし、
「言っているだろうに!」
彼女に向けヴァ・ルオラを振り下ろした。
迫り来るそれを右腕で受け止めようとしたが……
「ダメです、‘あ・り・す’様、避けて下さい!」
トールの叫び声に反応しまた後方に飛んだ。
なんと、エーコの扱うヴァ・ルオラの切っ先が床に敷き詰められた敷石を深々と切り裂いていたのだ。
つつっと冷や汗が額を流れる華蓮、逆ににやりと笑うエーコ。
「ちょちょちょちょっと、トール、この世界には鉄器がないんでしょう!」
「そうですよ」
トールはしらっと答えて見せた。
「なんでたかだか石の棒があんな堅そうな敷石を切り裂けるのよ! おまけにあんなに薄いのに!」
「この世界では鉄器が無い代わりに石器が発達しているんですよ。あの武器に使われている石器もミクロン単位まで細かくした石を、高圧・高熱で圧縮成型したものですから、硬度は‘あ・り・す’様の世界のダイヤモンド並です」
「それって、ファインセラミックって素材?」
「よくご存じで」
「冗談じゃないわよ!」
セラミック製の包丁なら新しもの好きの母親が、発売されたらすぐに買ってきていた。刃も背も真っ白なそれはとても切れそうにないという印象を与えるくせに、いざ扱ってみると普通の主婦が扱うには危ないほどの切れ味があり、しかも歪んだり刃が欠けたりしない。
今目の前のエーコが振り回しているのは、見た目よりも凶暴な堅さと切れ味を持っているのだ。
おまけにそれを手にしている人物もかなり危険であった。
エーコは敷石に刺さったヴァ・ルオラを引き抜くと、手首を回転させて腕で隠す基本的な構えに戻す。
「おらおらおらおらおらおら!」
踏み込むと同時に手首を回転、切っ先を華蓮に向けて突きを繰り返す。
華蓮に出来ることといえば後退することである。
目の前喉まで迫る真っ白な剣の先、それに触れないようにするのに精一杯であった。
§
「止めなくてよろしいのですか、アールマティ様」
従者の女性がアールマティのそばに歩み寄りそっと耳打ちした。
彼女は華蓮の事よりエーコのヴァ・ルオラの切っ先が主の身体をかすめないかそれを心配しているようである。
「エーコ殿は剣術の名手、いくらあの方が‘あ・り・す’様でも……」
「大丈夫です、心配いりません」
アールマティの言い方、そして彼女の表情は自信に満ちていた。
「ですが」
「止める必要があるのはエーコではなくて‘あ・り・す’様かもしれません」
「それは?」
「もし、そのお力が解放されたとしたら……」
やや蒼白になるアールマティは華蓮に恐怖を感じていた。
§
「おらおらおらおらおらおら!」
エーコの声とヴァ・ルオラの切っ先が踊る音が、相変わらず続いている。
当然の事ながら華蓮は防戦一方だ。この状況をどう打開するか考えていた。
しかし身体を動かすことに精一杯のため血の巡りが非常に悪くなっている。
なにしろエーコの攻撃はまさに息をもつかせぬもので、華蓮の頭の中も酸素不足に陥っているのかもしれない。
繰り出されるヴァ・ルオラ、それを紙一重で避ける華蓮。
〈……な、なんか進展無いわ!〉
華蓮は次の一撃の引きを待ってありったけの力を込めて後ろに飛んだ。
エーコとの間合いをとる、少なくとも二メートルは離れないとすぐさま攻撃が始まってしまう。
さしもの女兵士も連続攻撃の疲れがあったのか、それとも少しは自分を取り戻しつつあったのか、ヴァ・ルオラを回転させ直立し華蓮を見た。
その表情には余裕がありそして明らかに華蓮を見下した目をしている。
〈まるであの時みたいぢゃない〉
確か中学二年、学校のプールにて隣り合うスタート台に立ち栄子は冷ややかな目でわたしを見ていた。
それが二人の最初の勝負。
〈あの時の目と同じ。なんて人なのよあんたわ〉
そう思いながら華蓮もその時と同じような目でエーコを見ていた。
つまり十分目つきが悪い。
「第一さ」
華蓮の独り言である。本人はトールに聞こえるくらいの音量と思ってつぶやいているのだが、存外フロア中に聞こえるような声であった。
「名前呼んだくらいであんなに怒ることないと思わない?」
「しかし‘あ・り・す’様、わたしはきちんと警告しましたよ」
「そもそもなんでトールはそうやって冷静に解説しているだけなのよ」
「わたしは頭脳労働専門ですから」
「染太郎かあんたわ!」
「何をブツブツ言っているのだ!」
右足を一歩前に出し踏み込む構えを見せるエーコ。
「それともあたしに臆したのか!」
「うるさいわね、ちょっと静かにしてよ」
「な、なに?」
「わたしはあんたみたいに体力勝負な女ぢゃないんだから」
「き、貴様……女と言うには未発達な身体をしているくせに!」
プッツン。
華蓮の頭の中で何かが切れた音がした。
「人のことが言えるの、このデベソ!」
プッツン。
対するエーコの頭の中でも何かが切れた音がした。
どうやら元の世界の北川栄子と身体的な特徴は同じであったようである。
さらにその特徴を示す単語と、それに対する本人の認識も同じのようであった。
エーコの顔が笑っていた。
「よ、よく言ったな……誰も知らないはずの秘密を」
「へえ、名前が同じだけあってそんなところまでそっくりなの。だからそんな風にお腹を隠しているのね。せくしーるっくなんて絶対無理よ」
「おまえこそそんな貧弱な胸では子供もまともに育てられまい!」
「あんたみたいにでっかすぎるお尻して、着る物が全然合わないよりましよ!」
「たれた目の女の言うことなどなんの信憑性もないわ!」
「こーんな目よりましよ!」
華蓮は両目じりを人差し指で引っ張った。
「なに! 大体だなあ、そのちゃらちゃらした服装は……」
「まったくあんたの格好なんか男よ男、そもそも……」
二人の言い合いは続いた。
あまり悪口のボキャボラリーは無いようで最後はお互いの胸とへそに焦点が絞られていく。おまけに二人とも頭に血が上っているのかおなじ事を繰り返して怒鳴り合っていた。
はたから見れば非常にレベルの低い闘いだった。
それが……
「ええい、問答無用!」
ついに悪口のネタが切れたのかヴァ・ルオラを振り回し華蓮に迫った。その鬼のような表情にふと我に帰る華蓮だが。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「待てるか!」
棒の部分が長くさらに両端に刃がついているトンファを、自分の身体にかすることなく振り回すのは実に高度な技術である。
特にエーコは連続的に突き、浮いた足場を狙って払い切る。またもや防戦一方の華蓮だ。
「わたしは素手なのよ!」
その時、華蓮の左胸に何か温かい感触が。
ひょっとしたらエーコの剣で肩口が切れたのか、そう思って俯いた彼女が見たのはブラウスの胸ポケットの蒼い光だった。
〈……水晶?〉
華蓮はエーコのヴァ・ルオラが基本姿勢に戻った瞬間にポケットから水晶を取りだした。
手のひらの中で蒼く光る水晶、それは今までの美しさより、怪しく輝いている。
確かにこの前のプールではこれのおかげであの男を退けることが出来た。だが今回は。
「‘あ・り・す’様、『壁』であの勢いを止めることはできません」
少し離れた位置からトールの声が聞こえる。
「あと『鏡』では呪術的なエネルギーの反射しかできません」
「わ、判ってるわよ!」
そこまで言わなくてもいいぢゃない! かと言ってトールをにらみつける余裕も今の華蓮にはない。
「で、どうすればいいのよ!」
「後は‘あ・り・す’様がお考えになるしか……」
「役立たず!」
大声で怒鳴りエーコの攻撃を避けたが、後退した華蓮の踵がつるっと滑りそうになる。
振り返って見れば自分のすぐ後ろには水路があって、その後ろは壁。
いつの間にかすっかり追いつめられている。
目の前に迫るエーコの表情は華蓮の話し合いの申し出など受け付けるように思えなかった。
〈じ、自分で考えろって言っても……〉
何も思い浮かばない華蓮。できれば援軍でも欲しいのだけれど。
〈そうだわ、誰か手助けしてくれる者を考えれば〉
しかし余裕がない。
エーコの手首で回転していたヴァ・ルオラの切っ先が華蓮の眉間に照準を定めたようだ。
〈いやーん、何にも浮かんでこない!〉
そこにぽっと一つの生物が。
だがそれは情けないことに空をぷかぷか泳いでいた魚だった。鮒にちょっとにて胸びれが大きいそれ。
非常に印象に残っていたらしい。
「覚悟しろ!」
腕を突き出すエーコ、ええい、もうどうなってもいいわ!
「お魚さん、助けて!」
華蓮は水晶を握り締めそう叫んだ。
それを断末魔と聞いたのかエーコが微笑んで斬りかかる、だが。
華蓮の真後ろ、水路から爆発音とともに二本の水柱が沸き上がった。
危険を察してかエーコはヴァ・ルオラで右腕をカバーしながら後方に飛ぶ。
水柱は円柱形で直径が二〇センチほど、高さは二メートルほどである。
それは中心から水を吸い上げては外側から水面に落としていく噴水のようだったが、華蓮とエーコが見ている目の前で外見を変化させていった。
まるで彫刻家が氷の柱を削るように水柱は細くなっていく。細くなりながら顎・目・鱗をあらわにする。
魚と言うより蛇を思わせるそれは、形が完成した直後顎を裂くように開き獣の咆吼を上げる。
そして水路から跳ね上がり広間をジグザグにすさまじいスピードではい回り、華蓮の身体に取りついた。
一匹は華蓮の右腕に巻き付き頭を背中から右肩の上に出す。
もう一匹は華蓮の胴体に巻き付き頭を背中から左肩の上に出す。
彼女が攻撃されたわけではない。その証拠に巻き付かれた部分はなんの締め付けも感じずさらに濡れている感触もない。
二匹の蛇は鎌首をもたげ目の前のエーコをにらみつけていた。
「……水蛇[すいじゃ]」
アールマティの声が聞こえた者はいない。
エーコはヴァ・ルオラを構えなおし華蓮に踏み込んだ。
「そんな水の蛇など!」
それに反応したのは華蓮の胴に巻き付いている蛇である。音もなく感触もなく華蓮の身体から離れると、まっすぐエーコの顔面に向かって飛んだ。
当然ヴァ・ルオラでそれを突き切ろうとする。
ひとふりで何の抵抗もなく切れる水蛇、だが切れたそばから切断面が合わさり元に戻っていく。
水蛇は速度をゆるめず、エーコの顔面に向かう、エーコは剣を盾に顔面を守ろうとした。
そのヴァ・ルオラに水蛇が噛みつく。ダイヤモンド並の硬度を持つその剣が水蛇の顎でまっぷたつに折れたのだ。
エーコの叫び声、それに呼応するように華蓮の右腕に巻き付いていた水蛇も動いた。
動揺して身動きのとれないエーコの喉元に水蛇は一直線に飛ぶ!
“終わりよ”
華蓮の耳元で誰かがささやいた。
そう、このままでは……
「やめて、もういいわ!」
彼女の声に従うように二匹の水蛇の動きが止まった。
右腕からエーコの喉元を狙っていた水蛇は、その目標までの距離をあと一センチ残して止まった。
握り締めていたヴァ・ルオラの柄が床に滑り落ち、そしてエーコも尻餅をついてその場から動けなくなっていた。
水蛇は素早い動きで音もなく華蓮に近づき、彼女が差し出した両腕に巻き付いていく。鎌首をもたげているが、まるで飼い主にじゃれ合うような視線を送っていた。
「ありがとう……もう帰っていいわ」
二匹は腕からはなれ水路の中に戻っていった。
華蓮は折れたヴァ・ルオラの剣先を拾いエーコに近づいた。
彼女はまだ腰を落としたまま、そして俯いたままであった。
「……あたしの負けだ」
エーコの声が静かになった広間に響く。
「右腕でも左腕でも、腱を切るがいい」
どうやら、そうすることがこの世界の礼儀らしい。華蓮は静かに首を振った。
「わたしはこの世界での礼儀を知らないわ。だから……」
拾った剣先を差し出す。
「あたしに自分で腱を切れと……」
「ううん。ごめんなさい、これ壊しちゃって」
「な、情けをかけるつもりか!」
「そうじゃなくて……あなたはわたしが元居た世界の友だちにそっくりなの。あんまり似ているから名前で呼んでしまってごめんなさい」
エーコが舌打ちする音が聞こえた。
「見事ですエーコ。そして、‘あ・り・す’様」
気がつけばすぐそばにアールマティが近づいていた。
「まさか……水蛇を召還できるとは思っても見ませんでした」
「あ、それはその……」
照れ笑いを浮かべることも出来ず緊張する華蓮だったが、ぺこりと頭を下げた。
「すいません、女王様の前でこんな……」
「わたしは女王ではありません」
華蓮が驚いて顔を上げるとアールマティは静かに微笑んでいるだけだった。
「え、でも……」
「わたしは女王の代理人、そしてこの神殿の管理者にすぎません」
「そうなんですか。では、女王様はどこに?」
華蓮の問いにアールマティは彼女を見ていた。
その視線が気になる。
「あの……まさか」
「あの水晶をお使いになれる方、それがすなわちこの世界の女王様です」
「……わたし?」
目が点になっている華蓮、すっと頭を下げるアールマティ。
「お待ちしておりました、ネボの‘あ・り・す’様」
「あ、あの……」
「トールから聞いていなかったのですか、‘あ・り・す’とはその世界を支配する者に与えられる代名詞であることを」
確かに代名詞であることは聞いていた。しかしその役割がまさか……
「女王様?」
素っ頓狂な華蓮の声に広間にいた全ての者が深々と頭を下げたのだ。
■Scene 11 女王【Queen】に続く