天価離婚劇――妻が二億円の会社資金を年下ヒモ男につぎ込んだ
フューチャーリンクテクノロジー株式会社が東証グロース市場に上場した夜、創業者夫婦である僕と妻は、本来なら並んで祝賀会に出席するはずだった。
東京・丸の内の高級ホテルの宴会場は、白く冷たい照明に照らされ、シャンパンタワーがきらきらと光を反射していた。投資家、メディア、提携先、社員たちが集まり、僕は創業者として壇上に立っていた。だが、隣にいるはずの妻、白石怜奈の席だけが空いていた。
三時間前、怜奈は僕に電話をかけてきた。声はいつものように冷たかった。
「悠真、今夜の祝賀会は一人で何とかして。大阪へ行って、重要な経済事件の証拠を取らなきゃいけないの」
「フューチャーリンクの上場より、大事なのか?」
電話の向こうで、怜奈は一瞬だけ黙った。それから、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「佐伯悠真、あなたはもう子どもじゃないでしょう。会社の上場はあなたの仕事。私の依頼人にも、私の人生があるの」
それだけ言うと、彼女は一方的に電話を切った。
僕はスマホを握ったまま、宴会場の入口でしばらく立ち尽くしていた。五年の結婚生活で、彼女の冷淡さには慣れていた。自分の仕事、自分の体面、自分の友人を、僕より前に置くことにも慣れていた。
けれど、彼女の言う「重要な証拠取り」が、まったく別の画面に映るとは思わなかった。
酒が回り始めた頃、青山キャピタルのパートナーである榊原航が、妙な顔でスマホを差し出してきた。彼は口を開きかけては閉じ、見せていいものか迷っているようだった。
「悠真、これ……東京のローカルニュースの生配信なんだけど、見たほうがいい」
画面では、記者が北千住の古い商店街にある、急に話題になった豚角煮丼の小さな店を取材していた。入口から厨房へとカメラが流れ、湯気、油煙、甘辛いタレの匂いまで伝わってきそうな狭い作業台が映る。丸の内のシャンデリアとは、あまりにも違う世界だった。
そして僕は、そこに白石怜奈を見つけた。
潔癖症で、居酒屋の割り箸さえ嫌がる僕の妻が、安物のエプロンを着て、両手をタレで汚しながら厨房に立っていた。彼女は若い男のために、柔らかく煮込まれた豚角煮を切っていた。頬にタレがついても気にせず、むしろ楽しそうに笑っていた。
その若い男は、怜奈がいつも口にしていた同郷の後輩、森下蒼太だった。
画面の中で、蒼太は笑いながら肉を一切れ箸でつまみ、怜奈の口元へ差し出した。怜奈はためらいもなくそれを噛み、顔を上げて蒼太を見つめた。
その瞳に浮かんでいたのは、僕が一度も向けられたことのない、柔らかな幸福だった。
宴会場は、グラスの縁が触れ合う小さな音だけを残して静まり返った。
僕は画面を見つめたまま、ふっと笑った。
そのままスマホを取り出し、配信番組の視聴者投稿用の電話番号へかけた。回線がつながった時、記者はまだその店を「下町の若者の夢が詰まった場所」と褒めていた。
僕は静かな声で言った。
「記者さん。よろしければ、厨房にいる女性スタッフにも取材してください」
「彼女は僕の妻、白石怜奈です。三時間前、彼女は僕に、大阪へ出張して証拠取りをしていると言いました」
言葉が落ちた瞬間、宴会場は死んだように静まり返った。
配信画面の中も、時間が止まったようだった。記者の笑顔が凍りつき、カメラの中の白石怜奈ははっと顔を上げた。手にしていた包丁が、まな板の上でかすかに跳ねた。
数秒後、彼女から電話がかかってきた。
僕が通話を取ると、聞こえてきたのは、これまで聞いたことのないほど怯え、怒りに震えた声だった。
「佐伯悠真、あなた正気なの? 私を潰すつもり?」
僕は答えなかった。
通話を切り、すでに作成してあった離婚届と離婚協議書を、弁護士へ送った。
どうやら今夜の祝賀会は、フューチャーリンクの上場だけを祝う場ではなさそうだった。
僕が新しい人生を取り戻すことも、同時に祝えばいい。
第一話 女主人のいない祝賀会
電話はすぐにまた鳴った。
白石怜奈は別の番号からかけてきた。通話を取った瞬間、彼女の声が矢のように飛び込んできた。大手法律事務所の敏腕弁護士としての余裕など、どこにもなかった。
「佐伯悠真、あなた病気なの? こんな些細なことで、全東京に騒がせる必要があった?」
「私に今後どうやって依頼人と会えって言うの? 事務所にどう顔を出せって言うの?」
僕は彼女の言い訳を聞く気がなかった。通話を切り、そのまま着信拒否した。
結婚して五年、僕が彼女の電話を切ったのは初めてだった。
そして、おそらく最後だった。
宴会場へ戻ると、全員の視線が僕に向けられた。同情、嘲笑、野次馬根性、そして隠しきれない興奮。あらゆる感情が探照灯のように僕を照らし、逃げ場を奪っていた。
ホテルの支配人が、恐る恐る近づいてきた。
「佐伯社長、この祝賀会は……続けられますか。白石先生の件もありますし……」
僕は主賓席に置かれた、空っぽの椅子を見た。冷たい笑みが自然に漏れた。
「続けます」
「今日から、フューチャーリンクに女主人はいません。シャンパンは開けてください。少し早いですが、僕の独身復帰祝いということで」
そう言った直後、榊原航のスマホがまた光った。彼は画面を僕に見せた。会社の役員グループに、白石怜奈のアシスタントからメッセージが届いていた。
「皆さま、このたびは本当に申し訳ございません。白石先生は、森下さんの起業が大変だと知り、急きょ手伝いに行かれただけです。ご本人に不適切な行為は一切ありません。誤解なさらないでください」
「今回の件は、私のスケジュール管理の不手際です。番組側にはすぐ連絡し、該当箇所の削除を依頼いたします」
僕はその文面を見て、口元を引きつらせた。
これは謝罪ではない。白石怜奈に「後輩を支える優しい弁護士」という看板をかけるための文章だった。
ほどなく、怜奈本人もグループに一言だけ投稿した。
「清い者は清い。心が汚れている人には、何を見ても汚れて見えるのでしょう」
「泥の中から這い上がった人ほど、他人の清らかさを許せないものです」
普段から彼女に媚びている役員たちが、すぐに反応した。
「白石先生が後輩思いなのは、皆さんご存じです」
「佐伯社長、今回ばかりは少し感情的すぎたと思います。夫婦の問題を公にするべきではありません」
「会社は上場したばかりです。大局を見ていただきたい」
僕はその文字列を見つめながら、可笑しくなった。
彼らの目には、この会社を創った僕こそが、大局を壊す人間に映っているらしい。
僕は白石怜奈のアシスタントを役員グループから外し、短く一文を送った。
「どれほど上等なスープでも、ネズミの死骸が一匹落ちれば、鍋ごと捨てるしかありません」
グループは一瞬で沈黙した。
僕はスマホを伏せ、シャンパンを手に取って、会場中の客に向かってグラスを掲げた。
その瞬間、胸の奥に残っていた最後の迷いも、泡と一緒に消えていった。
翌朝、僕は狂ったようなドアのノックで目を覚ました。
玄関の外から、白石怜奈の怒鳴り声が響いていた。
「開けなさい! 佐伯悠真! 私の顔を潰しておいて、自分だけよく眠れたわね?」
ドアを開けると、彼女は真っ青な顔で立っていた。目には血走った赤い筋が浮き、足元には小さなスーツケースが置かれている。北千住から夜通し戻ってきたのだろう。僕に文句を言うためだけに。
僕の目に浮かんだ嘲りを見た瞬間、彼女の怒りはさらに燃え上がった。
「何を見ているの? 昨日あなたが騒がなければ、私が徹夜で戻る必要なんてなかったのよ」
僕はドア枠にもたれ、冷たく彼女を見た。
「フューチャーリンクが上場する夜は、一生に一度しかない。その一番大事な夜に、君は外の男のためにあんな茶番を演じた」
「白石怜奈。僕は今まで、君に顔を立てすぎていたのかもしれない」
五年間で、僕が彼女に本気で怒りを向けたのは初めてだった。
怜奈は一瞬だけ怯んだ。自分にも非があることは分かっているのだろう。けれど、すぐにいつもの高慢な顔に戻った。
「今回は私も配慮が足りなかった。でも、あなたにも非がある」
「あなたは声明を出して、世間と番組と私に謝罪しなさい」
「数日後、株主と双方の親を呼んで食事をするわ。その場できちんと話せば、この件は終わりにできる」
彼女は軽く言った。まるで、自分が僕に許しを与えてやる立場だと信じて疑っていないようだった。
僕は返事をする気にもならなかった。
黙っている僕を見て、怜奈の顔がまた冷えた。
「佐伯悠真、いつまで拗ねているつもり?」
「忘れないで。青山キャピタルの投資は、誰がつないだと思っているの?」
彼女はバッグから小さなギフトボックスを取り出し、僕の前に投げた。
「昨夜、あなたがまだ完全にはやりすぎなかったことに免じて、これをあげる」
箱の中に入っていたのは、限定モデルのカフスだった。
先月の誕生日、僕が何気なく欲しいと言ったものだった。その時の彼女は、顔も上げずに「忙しい」と言ったくせに、今さら思い出したらしい。
僕はカフスの金属台座を見たが、手を伸ばさなかった。
僕が特定の金属でアレルギーを起こすことを、彼女は知らないわけではない。
僕は笑った。
「いらない。森下蒼太にでもあげたらいい」
「洗いざらしのTシャツを着ていたし、少しは格好がつくんじゃないか」
白石怜奈の顔が完全に曇った。
彼女はギフトボックスを床へ叩きつけた。カフスが飛び出し、僕の足元へ転がる。反射的にそれを拾おうとした瞬間、金属の縁が手首をかすめ、皮膚が赤く腫れ始めた。
けれど怜奈は、それを見ても何も感じないようだった。彼女は僕の鼻先を指さして罵った。
「本当に話にならない」
「佐伯悠真、上場会社の社長になったからといって、自分が上等な人間になったつもり?」
「私がいなければ、あなたは今でも東京郊外の古いアパートで、外注の図面を描いていたはずよ。あなたが今持っているものは、全部私が与えたもの」
「私があなたを持ち上げた。だから、泥の中に戻すことだってできる」
僕は黙って聞いた。
胸の中で燃えていた怒りは、彼女の言葉で完全に冷めた。残ったのは、灰のような虚しさだけだった。
僕は書斎へ行き、印刷済みの離婚届と離婚協議書を取り出して、彼女の前へ叩きつけた。
「言いたいことは終わったか?」
「終わったなら、署名して出ていけ」
第二話 破り捨てられた離婚届
白石怜奈は数枚の紙を乱暴につかんだ。
そこに「離婚届」と「離婚協議書」の文字を見つけた瞬間、彼女の目つきが一気に険しくなった。法廷で常に冷静で美しい顔を保っていた彼女が、今は見知らぬ人間のように歪んでいた。
「佐伯悠真、あなた本当におかしくなったの?」
「昔、私を追いかけていた頃は捨て犬みたいだったくせに。会社が上場した途端、偉くなったつもりで離婚を盾に私を脅すの?」
僕は冷たく聞き返した。
「脅しているのは、どっちだ?」
怜奈は鼻で笑い、離婚届をびりびりに破った。
紙片が彼女の手から落ちる様子は、安っぽい雪のようだった。
「離婚? 私が電話一本かければ、青山キャピタルはすぐ撤退するわ」
「あなたのフューチャーリンクなんて、明日には空っぽの殻になる」
彼女は僕に詰め寄り、手首をつかんだ。腫れた皮膚に指が食い込み、思わず息をのむ。そこでようやく、彼女は僕の手首の赤みに気づいた。
「その手……」
怜奈の顔に浮かんだ動揺は、作り物には見えなかった。彼女は反射的に僕の腕を引き、外へ連れて行こうとした。
「病院へ行くわ」
その時、彼女のスマホが鳴った。
着信音は特別なものだった。森下蒼太専用に設定した音だと、僕はすぐに分かった。
白石怜奈は電流に打たれたように僕の手を離した。通話を取ると、森下蒼太の泣きそうな声が聞こえてきた。
「怜奈姉さん、大変なんだ。保健所の人が店に来て、衛生状態が悪いから営業を止めるって言われて……」
「僕、本当にどうしたらいいか分からない。来てくれない?」
白石怜奈の眉が一気に寄った。
彼女は車の鍵をつかみ、ほとんど迷わず玄関へ向かった。ドアの前まで行って、ようやく家に僕がいることを思い出したらしい。
「悠真、下のドラッグストアに薬があるから、自分で買って塗って」
「蒼太のほうは……本当に急ぎなの」
僕は、まるで火事場へ向かうような彼女の背中を見て、思わず笑った。
「早く行けばいい」
「遅れたら、その豚角煮丼の店が、君という敏腕弁護士のせいで潰れるかもしれないからな」
彼女は拳を握り、苦々しい顔をした。
「どうしてそこまで嫌な言い方をするの?」
僕は答えなかった。
怜奈は結局、ドアを叩きつけるようにして出て行った。
彼女が去ったあと、僕はすぐに弁護士へ連絡し、正式な離婚手続きの準備を進めるよう伝えた。長い争いになる覚悟はできていた。
けれど意外にも、翌日、弁護士からの連絡はあっさりしたものだった。白石怜奈側は離婚に同意し、フューチャーリンクに関する彼女のすべての権利も放棄するという。彼女の要求はただ一つ、これ以上騒ぎを広げず、早く終わらせることだった。
僕はそれを聞いて、ただ可笑しかった。
彼女はきっと、青山キャピタルを失えば僕の会社がすぐ崩れると思っている。今きれいに身を引いておけば、後日、高い場所から僕の転落を笑えると考えているのだろう。
彼女にとって、フューチャーリンクは気まぐれで支えてやった玩具にすぎなかった。
そして森下蒼太の、煙の匂いのする小さな店こそが、本当に守りたい「夢」だった。
僕が成功してから現金で買った湾岸の高層マンションは、夜になるとレインボーブリッジが見える場所にあった。内装はすべて白石怜奈の好みに合わせ、食器も香りも彼女の好きなブランドでそろえた。
だが、彼女は一年のうち何日もそこに住まなかった。
離婚するなら、残しておく意味はない。
不動産会社へ電話をかけ、僕は淡々と言った。
「僕名義の湾岸の高層マンションを売りたい」
「急ぎでお願いします」
翌朝、僕は会社へ行った。
オフィスには、白石怜奈の痕跡があちこちに残っていた。彼女がたまに来た時に使っていたカップ、僕が用意していた胃薬、会議が長いと彼女がつまんでいた菓子、書棚に置きっぱなしの法律雑誌。
どれも目障りだった。
社員たちは妙な目で僕を見ていた。三人、四人で集まり、声を潜めて噂している。同情する者もいれば、僕が倒れるのを待っている者もいた。すでにどちらにつくか計算している者もいただろう。
僕は彼らを無視してオフィスへ入った。
白石怜奈はいない。ちょうどよかった。
僕は菓子も薬も雑誌も、五年間の未練も、まとめて段ボールに掃き込んだ。
給湯室の前を通りかかった時、若い男の声が僕を呼び止めた。
「佐伯社長?」
振り向くと、そこに立っていたのは森下蒼太だった。
第三話 給湯室の豚角煮スープ
森下蒼太は、僕が抱えている段ボールを見ると、大げさに目を見開いた。
「佐伯社長、それ、何を捨てるんですか?」
「まさか、怜奈姉さんの私物じゃないですよね?」
声は大きすぎず、小さすぎず、ちょうどオフィス全体に届く音量だった。
社員たちの視線が一斉に集まった。
給湯室のソファのそばには、白石怜奈が座っていた。森下蒼太はさっきまで、豚角煮のスープを一口ずつ彼女の口元へ運んでいたらしい。二人の距離は近く、まるで新婚夫婦のようだった。
怜奈は僕を見るなり、顔を曇らせた。
「佐伯悠真、また会社で何を騒いでいるの?」
その言い方に、僕は思わず笑った。
「僕が来なければ、君の同郷の後輩が、会社まで追いかけてきて食事をさせているところを見られなかったな」
「僕の金では足りないのか? それとも会社の食堂では満足できないのか?」
「どうしてわざわざ、他人の唾が混じったものを食べたいんだ?」
白石怜奈が口を開く前に、森下蒼太の目が赤くなった。
彼はスープの椀を両手で持ち、震える声で言った。
「佐伯社長、誤解です」
「僕と怜奈姉さんは本当に何もありません。最近、姉さんが疲れているように見えたから、少しでも元気になってほしくて持ってきただけなんです」
そう言って、彼は椀を持ったまま僕へ近づいた。
すれ違う瞬間、彼の顔から委屈な表情が消えた。彼は耳元で低く囁いた。
「仕事しか知らない男に、怜奈姉さんの居場所なんて作れませんよ」
「僕といる時だけ、本当に生きている気がするって、姉さんは言ってました」
次の瞬間、彼は足を滑らせたふりをして、まっすぐ僕にぶつかってきた。
熱いスープが段ボールに降りかかり、中の物は一瞬でぐちゃぐちゃになった。カップは割れ、雑誌は濡れ、薬の箱も油だらけになった。
森下蒼太は大げさに悲鳴を上げ、半歩下がった。
「佐伯社長、いくら僕が嫌いでも、僕の気持ちまで踏みにじることないじゃないですか」
白石怜奈は反射的に駆け寄ってきた。
そして、何も確かめずに僕の頬を叩いた。
「佐伯悠真、いい加減にして」
「今すぐ蒼太に謝りなさい」
頬は熱く痛んだ。
けれど本当に冷えたのは、心だった。
森下蒼太に関わると、彼女はいつも善悪を見失う狂人になった。
僕は彼女を見て、冷たく笑った。
「僕は両手で段ボールを抱えていた。何で彼を押すんだ?」
「頭上に監視カメラがある。確認してみるか? 君の大事な後輩が、どうやって転んだのか、みんなで見ればいい」
白石怜奈の眉がわずかに動いた。
だが森下蒼太は、絶妙なタイミングで口を開いた。
「もういいよ、怜奈姉さん」
「たかがスープ一杯です。佐伯社長みたいな大物が、僕らみたいな田舎出身の人間を見下すのは仕方ないですから」
「僕のために喧嘩しないでください。お二人には長い時間があるんです。僕のせいで壊れてほしくないんです」
その一言一言が、白石怜奈の怒りに油を注いだ。
彼女は僕を、弱者をいじめる悪人でも見るような目で見た。
「離婚だの何だのと騒いだ上に、会社でまで暴れるのね。佐伯悠真、蒼太を追い出すためなら本当に何でもするのね」
僕は笑い出しそうになった。
離婚に真っ先に同意したのは彼女のほうなのに、いつの間にか僕が彼女を追い詰めていることになっている。
僕はスープまみれになった段ボールを抱えたまま、すべてが汚くて滑稽に思えた。
「どいてくれ」
「さっさと離婚手続きを終わらせよう」
僕が背を向けようとすると、森下蒼太が腕をつかんだ。
「佐伯社長、待ってくださいよ」
「その箱、まだ確認してません。万が一、怜奈姉さんの私物が入っていたら……」
彼の作り物の無垢な顔を見た瞬間、僕の最後の忍耐が切れた。
次の瞬間、僕は段ボールごと、中身を彼の頭にかぶせた。
油の混じったスープが髪から滴り、菓子の包装紙や破れた紙が顔に貼りついた。
僕は淡々と言った。
「これでいい」
「ゆっくり確認しろ」
そう言い残し、僕は振り返らずにその場を離れた。
背後から、白石怜奈の怒鳴り声が追いかけてきた。
「佐伯悠真、待ちなさい!」
会社を出て車に乗り込むと、すぐに森下蒼太から電話が来た。
同時に、数枚の写真が送られてきた。
写真には、彼と白石怜奈が一緒にベッドに横たわっている姿が写っていた。光は薄暗く、距離は近すぎた。どんな言い訳も通用しない写真だった。
続いて、電話口から森下蒼太の声が聞こえた。勝ち誇った小物の声だった。
「怜奈姉さんは、僕こそ魂の伴侶だって言ってました」
「あなたは彼女の人生の失敗でしかないんです」
「離婚手続きは、姉さんがもう弁護士に任せています。佐伯社長、分かったらさっさと消えてください」
僕は彼の挑発を聞きながら、録音ボタンを押した。
そして静かに返した。
「人に甘やかされて壊れた女を、君が拾いたいなら好きにしろ。僕はもういらない」
彼が反応する前に、僕は電話を切った。
そのままアクセルを踏み込み、区役所へ向かった。
離婚届はすでに受理された。
職員から受理証明書を渡された瞬間、僕はその薄い紙を見つめ、奇妙なほど軽くなった気がした。
五年の結婚生活も、最後は紙一枚だった。
夜、母からメッセージが届いた。白石怜奈が今夜、両家で食事をしたいと言っているらしい。僕の誕生日を改めて祝い、この数日の誤解もきちんと解きたい、という名目だった。
僕は手元の離婚届受理証明書を見て、笑った。
その誕生日会は、別の主題に変わるだろう。
第四話 最後の晩餐のケーキ
個室の前に着いた時、中から森下蒼太のすすり泣く声が聞こえた。
扉越しに、白石怜奈の父、白石健吾がテーブルを叩く音が響いた。
「佐伯悠真という男は、どんどん非常識になっている」
「蒼太君は怜奈が面倒を見ている後輩だ。それを会社中の前で恥をかかせるとは、男としてどうなんだ」
「少し金を稼いだだけで、恩を忘れるとはな」
白石怜奈の母、美智子も鼻で笑った。
「私は最初からこの結婚には反対だったのよ」
「見てごらんなさい。あの人のどこが怜奈にふさわしいの? 結婚して五年、家に少しの温かさもなかった。怜奈は彼といると、まるで生きながら独り身みたいだったわ」
僕は扉の外で、ドアノブを握る手に力を込めた。
これが、僕が五年間、心を尽くして大切にしてきた義父母の本音だった。
森下蒼太の声が、すぐに続いた。柔らかいが、鈍い刃のような声だった。
「おじさん、おばさん、そんなふうに言わないでください」
「怜奈姉さんから聞いています。佐伯社長はいつも忙しかったそうです。きっと彼にもプレッシャーがあるんだと思います。ただ、女性には時々、支えられたい瞬間があるんです」
「もし僕でよければ、これからもずっと怜奈姉さんのそばにいます」
個室の中で、美智子の満足げな笑い声がした。
「本当にいい子ね。あなたみたいな人に最初から出会っていたら、怜奈はもっと幸せだったでしょうに」
白石怜奈が疲れた声で遮った。
「お父さん、お母さん、もうやめて」
だがその声に、本気で否定する力はなかった。
美智子は続けた。
「あなたは結婚が早すぎたのよ」
「お母さんは、あなたが本当の幸せを探すことに賛成よ。人生は長いの。冷たい男に縛られる必要なんてない」
僕は扉の外で笑った。
もう、聞く価値はなかった。
扉を開けると、個室の中の人間が一斉に固まった。
最初に反応したのは森下蒼太だった。彼は引きつった笑みを浮かべて立ち上がった。
「佐伯社長、いらっしゃったんですね。どうぞ、よければ僕の席に……」
僕は彼を見もせず、反対側の椅子を引いて座った。
白石怜奈は、僕への当てつけのように森下蒼太を押さえた。
「座っていて」
「佐伯社長は上場企業の社長ですもの。私たちみたいな普通の人間を、もう見下しているのよ」
彼女は僕を見た。声は冷たかった。
「離婚だの、私の物を捨てるだの、あなたは一体誰を脅しているつもり?」
僕はポケットの中にある離婚届受理証明書に触れたが、何も言わなかった。
先に口を開いたのは白石美智子だった。
「うちの怜奈が内助の功を尽くしたから、あなたの会社は上場できたのよ」
「それなのに今さら偉そうにして、白石家の人間をいじめるの?」
白石健吾も机を叩いた。
「あとで君のご両親が来たら、どういう教育をしたのか聞かせてもらう」
森下蒼太は慌てて手を振り、また目を潤ませた。
「おじさん、おばさん、怒らないでください」
「佐伯社長は今、周りから持ち上げられているから、僕らを見下してしまうのも仕方ありません」
白石美智子はさらに怒った。
「あなたに少しでも良心があるなら、怜奈と離婚して、財産を置いて出ていきなさい」
白石怜奈は一瞬だけ僕を見た。少し後ろめたそうだったが、すぐに咳払いをした。
「そこまで離婚にこだわる必要はないわ」
「あなたのご両親が来たら、皆の前で蒼太に謝りなさい。それでこの件は終わりにしてあげる」
彼女は少し間を置き、施しのような口調で付け加えた。
「それができないなら、この結婚は本当に終わりよ」
「いいですね」
僕は静かに聞き終え、ゆっくり拍手した。
その拍手が止まった時、個室の扉が再び開いた。
ホテルの支配人が、スタッフと一緒に三段の大きなケーキを押して入ってきた。ケーキの表面には、赤いソースで大きくこう書かれていた。
「佐伯悠真様、苦海脱出と新生を祝して」
個室は静まり返った。
全員が呆然とする中、僕は新しい離婚届受理証明書を取り出し、テーブルに叩きつけた。
さらに、白石怜奈の前へ封筒を投げた。
「誕生日おめでとう」
「これが、僕から君へのプレゼントだ」
封筒の中には、彼女が会社口座を使って森下蒼太の店へ送金した記録がすべて入っていた。一つ一つの銀行流水、口座名義、送金先は、はっきり残っていた。
さらに、森下蒼太が僕に送ってきた写真もあった。
僕はわざわざ大きく、鮮明にプリントしておいた。
立ち上がった僕は、白石家の人間を見下ろした。
「これは誕生日会じゃない」
「最後の晩餐だ」
「あなた方はゆっくり食べればいい。この芝居も、最後まで好きに演じてください」
「僕は、もう付き合わない」
第五話 存在しなかった後ろ盾
僕の言葉が落ちると、個室の空気は凍りついた。
白石健吾の顔がみるみる赤くなり、指先が震えた。
「恩知らずの白眼狼め!」
「うちの怜奈がどれほど君に尽くしたと思っている」
白石美智子は悲鳴を上げ、テーブルにある離婚受理証明書を奪おうとした。
「うちの怜奈が、どうしてこんな男と結婚してしまったの」
僕が身を引くと、彼女は勢い余って床に倒れ込んだ。
白石怜奈の顔は真っ白だった。彼女は封筒を睨み、まるで僕を噛み殺すような目をしていた。数秒後、彼女は叫んだ。
「佐伯悠真、その資料をしまいなさい」
「ちゃんと話しましょう」
森下蒼太も固まっていた。怜奈を見て、僕を見て、表情は公衆の面前で服を剥ぎ取られた男のように惨めだった。
「佐伯社長、怜奈姉さん、これはきっと何かの誤解です」
彼は取りなそうとしたが、僕が視線を向けるとすぐに縮こまった。
僕は白石怜奈を見て、一語ずつ言った。
「ちゃんと話す?」
「会社の資金を使って森下蒼太の店を支えた時、なぜ僕とちゃんと話さなかった?」
「彼のベッドにいた時、なぜ僕とちゃんと話さなかった?」
「証拠を突きつけられた今になって、ようやく話したくなったのか?」
言葉を重ねるたび、白石怜奈の顔から血の気が引いていった。
その時、個室の扉がまた開いた。
僕の両親が入ってきた。
中の惨状を見て、母は顔色を変えた。
「悠真、これはどういうこと?」
白石美智子は助け舟を見つけたように、母へ泣きついた。
「親家のお母さま、どうか息子さんを止めてください」
「どこから集めたか分からないものを持ってきて、怜奈が裏切っただの、離婚だのと言っているんです」
父は眉をひそめ、僕を見た。
僕は説明せず、封筒をテーブルの中央へ押し出した。
父が中の写真と送金記録を取り出す。ひと目見ただけで、父の顔は重く沈んだ。
彼は資料をテーブルに叩きつけた。
「なるほど」
「これが白石家の育てた立派な娘か」
白石健吾は顔を赤くしながら、なおも強がった。
「これは何かの間違いだ」
「この男が偽造したのかもしれない」
僕は冷笑した。
「銀行の送金記録が偽造できると?」
「法律事務所の調査記録も偽造できると?」
「必要なら動画も流しましょうか。叔父さん叔母さんに、娘さんのご活躍をじっくり見てもらえます」
その一言で、白石怜奈の最後の血色も消えた。
僕が冗談を言っていないと、彼女は分かっていた。
彼女は椅子に崩れ落ち、目には混乱と絶望が浮かんだ。しかしすぐ、最後の救命綱にすがるように僕を睨んだ。
「佐伯悠真、私を追い込まないで」
「私が電話一本かければ、青山キャピタルは撤退するのよ」
「そうなれば、あなたのフューチャーリンクも、上場会社の社長という肩書きも、全部泥に戻る」
それを聞いた瞬間、森下蒼太の目にも得意げな光が戻った。
僕は、追い詰められてなお口だけは強い彼女を見て、心底可笑しくなった。
「青山キャピタル?」
僕はスマホを取り出し、全員の前で榊原航へ電話をかけた。スピーカーに切り替える。
すぐに電話がつながった。
「悠真、最後の晩餐は終わったか?」
僕は淡々と言った。
「榊原、元妻が君を使って僕を脅している」
「彼女が電話一本かければ、君はフューチャーリンクから撤退すると言っている」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
次の瞬間、榊原航は隠しもしない笑い声を上げた。
「彼女が?」
「白石怜奈に、いったい何の価値があるんだ?」
「悠真、そもそも君の顔を立てたから彼女と会っただけだ。そうでなければ、面会すらしなかった」
彼の声は、すぐに冷たくなった。
「青山キャピタルが投資したのは、佐伯悠真という経営者と、フューチャーリンクの技術力と将来性だ。白石怜奈とは何の関係もない」
「彼女が今後も青山キャピタルの名を騙って外で格好をつけるなら、うちの法務部が直接話をしに行く」
一言一言が、白石怜奈と彼女の両親の顔を叩く平手打ちのようだった。
怜奈の表情は、不信から崩壊へと変わっていった。
彼女が最大の後ろ盾だと思っていたものは、最初から存在しなかった。
僕は通話を切り、離婚受理証明書を手に取った。
「ケーキは皆さんで分けてください」
「白石家の断頭飯だと思えば、味も少しは濃くなるでしょう」
僕は白石怜奈を見て、平静な声で続けた。
「それから、会社資金の私的流用は、業務上横領の疑いがあります」
「白石弁護士なら、僕よりよく分かるでしょう」
「弁護士からの通知を待っていてください」
そう言って、僕は両親を連れて個室を出た。
背後では、白石美智子の泣き叫ぶ声、白石健吾の怒鳴り声、そして白石怜奈の恐怖に満ちた叫びが響いていた。
「悠真――……」
だが、もう遅い。
第六話 取締役会の清算
ホテルを出たあと、両親はしばらく何も言わなかった。
車に乗ってから、母がようやく目を赤くして口を開いた。
「悠真、この何年も、つらかったでしょう」
「私たちが見誤ったのね」
父は重く僕の肩を叩いた。
「離婚して正解だ」
「そんな女は、お前にふさわしくない」
少し間を置いて、父は不安げに聞いた。
「会社のほうは大丈夫なのか。青山キャピタルは本当に問題ないのか?」
僕は車を発進させた。東京の夜景が窓の外を滑っていく。心はかえって、これまでにないほど落ち着いていた。
「父さん、母さん、心配しないで」
「フューチャーリンクは僕が一から作った会社です。誰がいなくなっても動きます」
「白石怜奈は、すぐに自分のしたことの代償を払うことになります」
翌日、僕と白石怜奈の離婚、彼女の不倫、そして会社資金の私的流用疑惑は、社内で爆発的に広まった。
会社へ入った瞬間、あらゆる視線が針のように刺さった。これまで白石怜奈に取り入り、僕には面従腹背だった役員たちは、僕を見ると一様に目を伏せた。
アシスタントの小野が心配そうに近づいてきた。
「佐伯社長、株主たちが緊急取締役会を求めています」
「白石先生側の人間も何人かいます。かなり荒れるかもしれません」
僕は頷いた。
「全員に通知して。九時、会議室」
「一人も欠けさせるな」
会議室に入ると、空気は葬式のようだった。
副社長であり、白石怜奈の遠縁の叔父でもある藤原宏を中心に、数人の株主が険しい顔で座っていた。僕が席につくなり、藤原宏が机を叩いた。
「佐伯悠真、いったい何をしているんだ」
「会社は上場したばかりだ。こんな醜聞を起こして、株価はすでに揺れている。投資家にどう責任を取るつもりだ」
別の株主も、すかさず嫌味を重ねた。
「夫婦のことなら、家の中で解決すればいいでしょう」
「ネットやメディアにまで騒がせて、今度は白石弁護士が会社を離れた。青山キャピタルが問題視したら、誰が責任を取るんですか」
彼らは口々に僕を責めた。
まるで会社を壊したのが、僕であるかのように。
僕は静かに聞き、全員が言い終えるのを待ってから、会議机の上に一冊のファイルを投げた。
「これは、白石怜奈が会社資金二億円を私的に流用した証拠です」
「そしてこれが、僕と彼女の離婚届受理証明書です」
「ゆっくり確認してください」
ファイルは爆弾のように会議室を揺らした。
株主たちの顔色が、怒りから疑惑へ変わった。
藤原宏はファイルを奪うように取り、読み進めるほど手が震え、顔が白くなった。
「ありえない」
「これは偽造だ」
僕は冷ややかに彼を見た。
「偽造かどうかは、裁判で分かります」
「今日、皆さんを呼んだのは僕の家庭問題を議論するためではありません。会社の問題を処理するためです」
僕は指を一本立てた。
「第一に、白石怜奈のすべての顧問職を本日付で解除します。同時に刑事告訴と民事請求の手続きを開始し、流用された資金を回収します」
続けて、二本目の指を立てた。
「第二に、今回の件で生じた短期的な株価変動については、僕個人が必要な範囲で支えます。ここにいる皆さんの利益は守ります」
会議室は静まり返った。
それでも藤原宏は、最後の抵抗をした。
彼は顔を赤くして怒鳴った。
「何の権限でそんなことをする」
「白石怜奈は青山キャピタルを引き入れた功労者だ。今さら使い捨てにする気か」
「青山キャピタルがなければ、フューチャーリンクはただの空っぽの会社だ」
僕は彼らを見て笑った。
そして小野に目配せした。
小野はすぐにプロジェクターを起動した。
スクリーンに、榊原航の顔が映った。彼は青山キャピタルの会議室に座り、真剣な表情をしていた。
「フューチャーリンクテクノロジーの株主および関係者の皆さま。青山キャピタルの榊原航です」
「最近、青山キャピタルとフューチャーリンクの関係について事実と異なる噂が流れているため、正式に説明いたします」
「青山キャピタルがフューチャーリンクへ投資したのは、佐伯悠真氏の経営能力、同社の技術力、そして将来性を高く評価したためです」
「この投資判断は、白石怜奈氏とは直接の関係がありません」
「また、白石怜奈氏が青山キャピタルの名を無断で利用し、私的利益を得ようとした疑いについて、当社は強く非難し、法的責任を追及する権利を留保します」
「最後に、青山キャピタルは今後も佐伯社長、およびフューチャーリンクテクノロジーを変わらず支援します」
動画が終わると、会議室は死んだように静かになった。
藤原宏と騒いでいた株主たちは、血の気を失って椅子に沈み込んでいた。まるで骨を抜かれたようだった。
彼らの言う後ろ盾は、崩れた。
いや、最初からそこには何もなかった。
僕は立ち上がり、会議室を見渡した。
「藤原副社長、まだ意見はありますか?」
藤原宏の唇は震えたが、一文字も出なかった。
僕は他の株主にも視線を向けた。
「皆さんは?」
「僕の決定に反対する方はいますか?」
誰も答えなかった。
僕は机のファイルを取り、扉へ向かった。
「よろしい」
「会社に残りたくない人は、株を僕に売ってください。取得価格で買い取ります」
「僕についてくるつもりがあるなら、余計な計算をやめて、仕事に集中してください」
扉の前で立ち止まり、僕は彼らを振り返った。
「フューチャーリンクは、僕がいなければ成り立たない」
「しかし、害虫がいなくなれば、もっとよくなります」
そう言って、僕は扉を開けた。
全員の視線を背に、会議室を出た。
この瞬間から、この会社は本当の意味で僕のものになった。
第七話 彼女は雲の上から墜ちた
会社の後始末に、長い時間はかからなかった。
白石怜奈は完全に排除され、藤原宏たちの問題も洗い出して一掃した。フューチャーリンクの株価は一時的に下落したものの、青山キャピタルの公的な支持と、僕の迅速な改革によってすぐ回復した。それどころか、過去最高値を更新した。
白石怜奈への報いは、そこから始まった。
彼女が所属していた大手法律事務所は、スキャンダルが明るみに出た直後、彼女との契約解除を発表した。事務所は名声を守るため、弁護士会にも事情を報告した。
一夜にして、華やかな敏腕弁護士だった白石怜奈は、業界で誰も関わりたがらない厄介者になった。
彼女は仕事を探した。だが、どの法律事務所も門を閉ざした。
業務上横領の疑いがあり、評判が地に落ちた弁護士を雇うところなどなかった。かつて彼女が人脈と呼んでいた人々は、彼女が倒れると誰よりも早く逃げた。中には、自分の潔白を示すために、彼女を踏みつけようとする者までいた。
仕事を失い、地位を失った彼女が頼れるのは、森下蒼太だけだった。
だが彼女はすぐに知る。魂の伴侶など、結局は頼りにならないヒモ男でしかなかったのだ。
北千住の商店街にあった豚角煮丼の店は、白石怜奈の金と人脈を失うと、たちまち衛生問題と手続き不備で営業停止になった。森下蒼太は「下町で夢を追う若者」から、また何も持たない貧しい男に戻った。
金がなくなると、彼の態度は百八十度変わった。
「怜奈姉さん、家賃を払わないといけないんだ。少し送ってよ」
「怜奈姉さん、スマホが壊れた。まだ貯金あるでしょ?」
「怜奈姉さん、どうして仕事が見つからないの? すごい弁護士だったんじゃないの? 今は何の役にも立たないんだね」
白石怜奈は彼に振り回され、疲れ切っていった。
彼女の貯金は、すぐ森下蒼太に吸い尽くされた。
どうしようもなくなった彼女は、身を低くして白石家へ戻り、両親に助けを求めた。
しかし白石健吾と白石美智子は、娘が完全に終わり、白石家の名まで汚したと知ると、冷たく突き放した。
「よく顔を出せたな」
「外で何と言われているか知っているの? 白石家は娘の教育もできず、男にだらしなく、会社の金に手をつける女を育てたと言われているのよ」
「金はない」
「自分で作った問題は、自分で片づけなさい」
両親に追い返された日、白石怜奈は門の前で、初めてすべての味方を失う感覚を知った。
さらに彼女を絶望させたのは、フューチャーリンクからの訴状だった。
二億円の会社資金流用に加え、会社の信用と経済的損害を合わせ、請求額は五億円にのぼった。彼女名義の銀行口座、車、不動産は、裁判所により保全手続きが進められた。
彼女は、本当に一文無しになった。
追い詰められた彼女は、ようやくまた僕を思い出した。
白石怜奈は、狂ったように電話やメッセージを送ってきた。
最初は、ヒステリックな罵倒だった。
「佐伯悠真、この恩知らず」
「勝ったつもり? 私が不幸なら、あなたも幸せにはさせない」
僕は相手にせず、すぐにブロックした。
脅しが通じないと分かると、彼女の声は急に弱くなり、哀願に変わった。
「悠真、私が悪かった。本当に悪かったの」
「五年間夫婦だったことに免じて、許してくれない?」
「刑務所になんて行けない。訴えを取り下げてくれるなら、何でもする」
僕はそのメッセージを見て、ただ皮肉だと思った。
なぜ、あの時に止まらなかったのか。
僕はスクリーンショットを弁護士に送り、一言だけ伝えた。
「法廷で会うと伝えてください」
彼女へ残した最後の情けは、法律の前で公正な裁きを受けさせることだった。
彼女に、僕の許しを受ける資格はない。
永遠にない。
第八話 年下男の正体
白石怜奈の絶望は、森下蒼太の同情を一滴も引き出さなかった。
むしろ、彼女からもう金を搾り取れないと分かると、彼はためらいなく本性を現した。
夜帰らない日が増え、彼女の最後の金で外食や遊びに出かけた。白石怜奈が問い詰めると、彼は開き直った。
「僕が何をしたっていうの?」
「金を稼ぐ方法を探しているんだよ」
「今の怜奈姉さんは、ただのくたびれた女だろ。君を当てにしていたら、二人とも飢え死にする」
白石怜奈は怒りに震えた。
「蒼太、私はあなたのために、全部失ったのよ」
森下蒼太は冷たく笑った。
「それは君が馬鹿だっただけだ」
「まだ高飛車な白石弁護士のつもりなの? 目を覚ましなよ」
「君は今、男に捨てられて、訴訟まで抱えた面倒な女でしかない」
その言葉は、白石怜奈の心を一刀ずつ切り裂いた。
彼女はようやく、自分がこの男のために何を捨て、何を得たのかを知った。
得たものは、侮辱と裏切りだけだった。
ある夜、森下蒼太はまた一晩帰らなかった。
白石怜奈は彼の上着のポケットから、銀座の高級レストランのレシートを見つけた。裏には真っ赤な口紅の跡がついていた。
彼女は半狂乱になって、そのレストランへ向かった。
案の定、窓際の席に森下蒼太がいた。
向かいには、宝石を身につけた年上の女性が座っていた。森下蒼太は腰を低くして彼女のためにエビの殻をむき、顔いっぱいに媚びた笑みを貼りつけていた。その卑屈な姿は、かつて僕の前に現れた時よりさらに惨めだった。
白石怜奈は駆け寄り、彼の頬を思いきり叩いた。
「森下蒼太、この最低男」
「私に申し訳ないと思わないの?」
森下蒼太は頬を押さえ、一瞬呆然としたあと、激しく怒った。
「お前、頭おかしいんじゃないの?」
「こんな場所で何をしているんだよ」
向かいの女性は眉をひそめ、白石怜奈を嫌悪の目で見た。
「蒼太、このおかしな女は誰?」
森下蒼太はすぐに哀れっぽい表情を作った。
「真由美さん、彼女は前に話した元カノです」
「もう別れたのに、ずっと僕に執着していて……とうとうレストランまでつけてきたんです」
「怒らないでください。すぐ帰らせます」
彼は白石怜奈に向き直り、声を落とした。そこに込められていたのは、毒だけだった。
「白石怜奈、恥というものを知らないのか?」
「今の自分の姿を見ろよ。老けて、貧乏で、みっともない。どこの男が相手にする?」
「はっきり言う。僕は一度も君を愛したことなんてない」
「愛していたのは君の金、人脈、君が僕にくれる店だけだ」
白石怜奈の顔は紙のように白くなった。
森下蒼太は止まらなかった。
「魂の伴侶? 本気でそう思っていたの?」
「笑わせないでくれ。君は僕が上へ行くために踏んだ、ただの踏み台だった」
「もう役に立たないなら消えろ。僕のもっといい人生の邪魔をするな」
その言葉は、鏡のようだった。
かつて彼女も、僕の前に立って同じようなことを言った。僕のすべては自分が与えたものだと。持ち上げたのも自分、泥へ戻すのも自分だと。
今、その言葉が別の男から彼女へ返された。
因果は、正確に巡るものだ。
白石怜奈は森下蒼太を指さし、怒りでまともに言葉が出なかった。
「あなた……あなた……」
森下蒼太は財布から皺だらけの一万円札を数枚取り出し、彼女の顔へ投げた。
「持っていけ」
「これが最後の施しだ」
「二度と来るな。汚らわしい」
そう言って、彼は年上の女性の腰に手を回し、振り返らずに去っていった。
白石怜奈はその場に崩れ落ちた。散らばった紙幣を拾うこともできなかった。周囲の客の視線とささやきが、針のように全身へ刺さった。
彼女が何より大切にしていた体面と尊厳は、その瞬間、森下蒼太に踏み砕かれた。
彼女は負けた。
完膚なきまでに負けた。
第九話 もう入れない高層ビル
森下蒼太に完全に捨てられたあと、白石怜奈の生活は本当に底へ落ちた。
彼女は無一文になり、マンションの大家にも追い出され、スーツケース一つで街をさまよった。生きるために、身につけていた高価な物をすべて売るしかなかった。
かつて誇っていた限定バッグ、ブランドスーツ、ジュエリーは、二束三文でリサイクル店へ渡った。
手に入った金で、東京の端にある古い木造アパートを借りるのが精一杯だった。
部屋は暗く湿っており、壁紙にはカビが浮き、窓の外では電車が通るたびに耳障りな音が響いた。かつて住んだ湾岸の高層マンションとは、別世界だった。
彼女は必死に仕事を探した。
だが、彼女の評判はあまりにも悪かった。
大手法律事務所どころか、普通の会社の法務アシスタントでさえ、彼女を採用しようとはしなかった。何度も断られた末、彼女はついに諦めた。
最後に見つけたのは、小さな印刷店の臨時仕事だった。
毎日、書類をコピーし、資料を製本し、客にお茶を出す。店主は彼女を乱暴に扱い、客が少し不満を言えば、その怒りは彼女に向けられた。
給料はひどく少なく、家賃を払うだけでも苦しかった。
高級レストランの食事も、ブランド服も、もう手に入らない。毎日、コンビニの値引きおにぎり、カップ麺、いちばん安いインスタントコーヒーでしのいだ。
かつて光をまとっていた白石弁護士は、やつれた顔と虚ろな目をした、底辺の臨時職員になった。
ある日、駅前の書店のショーウィンドウで、彼女は最新号の経済誌を見た。
表紙に写っていたのは、僕だった。
写真の僕は濃い色のスーツを着て、フューチャーリンクの新本社ビルの前に立っていた。
見出しには大きな黒い文字で、こう書かれていた。
「フューチャーリンクテクノロジー創業者・佐伯悠真――東証グロースから世界市場へ向かう野心」
雑誌には、僕がどうやって会社を世論危機から立て直したか、新たな技術アップデートをどう実現したか、そしてフューチャーリンクが日本のテック業界で最も注目される企業になったかが詳しく書かれていた。
白石怜奈はウィンドウの前で、手が震えて止まらなかった。
写真の中の男は、かつて彼女の夫だった。
僕が持っているすべてを、彼女も共に持つことができたはずだった。
だが、彼女は自分の手でそれを押しのけた。
激しい後悔と不甘が、毒のように彼女の心を噛んだ。
彼女には分からなかった。
なぜ、自分と別れた僕は、前よりもさらに良くなっているのか。
なぜ、自分だけが、ここまで落ちぶれたのか。
彼女は諦めきれなかった。
僕に会えさえすれば、きちんと頭を下げれば、何かを取り戻せるのではないか。最後の幻想を抱えて、彼女はフューチャーリンクの新本社へ向かった。
それは虎ノ門にある高層オフィスビルだった。
ガラスの壁面は陽光を冷たく反射し、入口を出入りするのはきちんとしたスーツ姿のビジネスパーソンばかりだった。
白石怜奈はそこに立ち、まるでそのビルが前世のもののように感じた。
中へ入ろうとすると、警備員に止められた。
「申し訳ありません。ご予約はございますか?」
彼女はしわの寄った上着を慌てて整え、泣きそうな笑みを作った。
「佐伯悠真に会いたいんです」
「私は、彼の昔の友人です」
警備員は彼女を上から下まで見て、疑わしそうに言った。
「佐伯社長はお忙しいです」
「ご予約がない方はお通しできません」
白石怜奈の顔は真っ赤になった。
彼女は帰ろうとせず、声がだんだん尖っていった。
「白石怜奈が来たと伝えて」
「彼は必ず私に会うわ」
そのやり取りはロビーの監視カメラを通じて、僕のオフィスに映っていた。
僕は画面の中で、髪を乱し、服もくたびれ、まるで狂った女のように入口へすがりつく人影を見た。あれが、かつて高慢だった白石怜奈だとは、すぐには信じられなかった。
小野が横に立ち、慎重に聞いた。
「佐伯社長、私が下へ行きましょうか?」
僕はコーヒーを手に取り、ひと口飲んだ。
「行かなくていい」
「警備に伝えて。帰らなければ警察へ通報すると」
「理由は、不審者による会社秩序の妨害で十分だ」
小野は一瞬だけ固まったが、すぐに頷いた。
「承知しました」
僕は監視カメラの画面を閉じた。
一度失った場所には、二度と戻れない人間もいる。
今日の彼女の結末は、すべて彼女自身が選んだものだった。
第十話 法廷の結末
白石怜奈は最終的に、警備員によってフューチャーリンクのビルから引き離された。
僕に最後に会えるかもしれないという幻想は、そこで完全に砕けた。
数日後、彼女の業務上横領事件が東京地方裁判所で開かれた。裁判所の前には多くのメディアが詰めかけた。かつて華やかだった敏腕弁護士が、どのように被告人席へ落ちたのか、誰もが見たがっていた。
僕は現場へ行かなかった。
その程度の場面に、僕が出向く必要はない。
弁護士チームが、すべてを処理する。
法廷で、白石怜奈は明確な送金記録と会社口座の流水を前に、言い逃れできなかった。資金は一件ずつフューチャーリンクから流出し、さまざまな名目で森下蒼太の店の口座へ入っていた。
彼女は責任を森下蒼太に押しつけようとした。
自分は恋に目がくらみ、若い男に騙され、一時的に道を踏み外しただけだと訴えた。
法廷で涙を流し、哀れな被害者を演じた。
同情を引く芝居は、昔から得意だった。
だが今回、彼女は相手を間違えた。
演技が最高潮に達した時、僕の弁護士は法廷で一つの録音を再生した。
録音の中で、森下蒼太の得意げな声が響いた。
「怜奈姉さんは、僕こそ魂の伴侶だって言ってました」
「あなたは彼女の人生の失敗でしかないんです」
「離婚手続きは、姉さんがもう弁護士に任せています。佐伯社長、分かったらさっさと消えてください」
そのあとに、僕の冷淡な声が続いた。
「人に甘やかされて壊れた女を、君が拾いたいなら好きにしろ。僕はもういらない」
これは、あの日たまたま録音していたものだった。
まさか、彼女を最後に押し潰す石になるとは思わなかった。
録音が流れると、法廷はざわめいた。
それは、彼女と森下蒼太の関係が親密であることを示すだけではなかった。彼女の「騙された」という主張が、どれほど滑稽かを露わにした。
白石怜奈の顔色は灰のようになった。
彼女は、自分が終わったと理解した。
最終的に、裁判所は判決を言い渡した。
白石怜奈は業務上横領の罪で有罪となり、五年の拘禁刑を言い渡された。さらに、フューチャーリンクテクノロジーへ経済的損害を賠償することも命じられた。彼女名義の財産は法に従って処分され、会社の損失補填に充てられることになった。
判決が下りた瞬間、彼女は被告席で膝から崩れ落ちた。
かつて誇り高かった彼女にとって、五年の刑務所生活は死よりつらいものだっただろう。
そして、それでも終わりではなかった。
処分された財産だけでは、賠償額に足りなかった。
白石健吾と白石美智子は、白石家の最後の体面を守るため、そして怜奈が過去に残した保証の穴を埋めるため、半生を過ごした世田谷の一軒家を売るしかなかった。
二人は古い集合住宅へ引っ越した。
近所の視線、親族や友人からの冷笑にさらされ、毎日を苦しみながら生きることになった。
彼らは怒りのすべてを、刑務所の中にいる白石怜奈へ向けた。
面会に行っても、慰める言葉はなかった。あるのは罵倒だけだった。
「この疫病神」
「白石家の顔を全部潰したのはあなたよ」
「家も貯金もなくなった。私たちはこれからどう生きればいいの」
「中でしっかり反省しなさい。もう二度と私たちを巻き込まないで」
僕はかつて、彼ら一家にも雲の上から泥へ落ちる味を知ってほしいと思った。
今、その願いは叶った。
僕は汚い手を使っていない。
彼らが最も誇りにしていた法律だけを使って、最も重い一撃を返した。
それこそが、最大の皮肉だった。
第十一話 銀座の厨房での再会
時間はあっという間に三年流れた。
三年の間に、フューチャーリンクテクノロジーは僕の指揮のもと、日本のテック業界を代表する企業になった。時価総額は何十倍にも伸び、僕もメディアからビジネス界の新星と呼ばれるようになった。経済誌もテレビ番組も、競うように取材を申し込んできた。
周囲には、さまざまな女性が現れた。
金を求める者、名声を求める者、優しく献身的で本気に見える者もいた。
だが、僕はすべて距離を置いた。
白石怜奈との失敗した結婚を経て、感情に対する期待はほとんど残っていなかった。
仕事だけが、僕にとって唯一、安定した寄りどころだった。
その夜、僕はある商業晩餐会に出席した。
主催者は東京で有名な飲食グループの真田社長だった。酒が進むと、彼はどうしても新しく開いた銀座の高級海鮮レストランの厨房を見せたいと言い出した。
「佐伯社長、うちの店の厨房は、全東京でも一番きれいだと自負しています」
「食材管理、動線設計、衛生基準、どれを取っても一流です」
断り切れず、僕は彼について厨房へ入った。
確かに、そこは清潔で整っていた。
料理人たちは手際よく動き、銀色の作業台は曇り一つなく磨かれている。空気の中には、淡い海鮮の香りと消毒液の匂いがあるだけだった。
適当に褒めて出ようとした時、僕の視線がふと隅へ向かった。
そこに、灰色の作業服を着て、マスクと帽子をつけた女がいた。彼女は汚れたシンクの前にしゃがみ込み、ブラシで水槽を洗っていた。動きは遅く、苦しそうで、背中は丸まり、風が吹けば倒れそうなほど痩せていた。
なぜか、その後ろ姿に見覚えがあった。
僕は、何かに引き寄せられるように近づいた。
足音に気づいたのか、女が顔を上げた。
マスクで顔の半分は隠れていた。
だが、その目だけは、僕が一生忘れるはずのないものだった。
最初は茫然、次に驚愕、そして恥辱。最後には、濃く沈んだ絶望と哀願だけが残った。
白石怜奈だった。
彼女が、なぜここにいる。
まだ刑務所にいるはずではなかったのか。
隣にいた真田社長は、僕が雑用係を見つめていることに気づき、気まずそうに説明した。
「佐伯社長、申し訳ありません」
「彼女は新しく入った臨時スタッフです。あまり手際はよくないのですが……聞いた話では、刑務所から出てきたばかりだそうで。模範的だったとかで、早く出られたようです」
「かわいそうな人でしてね。仕事が見つからないと言うので、厨房で雑用だけさせています。食べていくくらいにはなるでしょう」
そうか、減刑されたのか。
三年の刑務所生活は、彼女のすべての傲慢を削り落としていた。
髪は枯れたように黄ばみ、目尻には細い皺が刻まれていた。かつて契約書と法令集をめくっていた手は、今ではあかぎれとタコだらけで、赤く腫れて見るに堪えなかった。
彼女は床に座り込んだまま、僕を見上げていた。
唇がかすかに動いた。何かを言おうとしたのだろう。だが、一文字も出てこなかった。
僕は静かに彼女を見た。
心の中には、憎しみも、憐れみも、波紋ひとつもなかった。
まるで、見知らぬ人間を眺めているようだった。
三年前も、場所は厨房だった。
あの時、彼女は安物のエプロンをつけ、両手をタレで汚しながら、森下蒼太のために豚角煮を切っていた。顔には、僕が一度も見たことのない幸福があった。
三年後、彼女は銀座の高級レストランの厨房で、汚れた水槽を洗っている。目に残るのは、麻痺したような虚無と絶望だけだった。
これ以上ない皮肉だった。
僕たちの視線は、十数秒ほど空中で交わった。
結局、僕は何も言わなかった。
僕は真田社長へ向き直り、淡く笑った。
「真田社長の厨房は、評判どおりですね」
「少し用事がありますので、これで失礼します」
そう言って、僕は歩き出した。
一度も振り返らなかった。
背後で、押し殺したような嗚咽が聞こえた気がした。
だが、それが僕に何の関係があるというのか。
割れた鏡は、永遠に元には戻らない。
ある借りは、一生かけて返すしかないのだ。




