古い考えなのかもね
最近、あまりにも理解力のある人間と、理解力のない人間の差が開きすぎている気がしている。
知識量の話じゃない。頭がいいとか悪いとか、そういう単純な分類でもない。もっと手前の、話が「通じるかどうか」の地点で、すでに別の生き物みたいに感じることが増えた。
同じ日本語を使っているはずなのに、こちらが何かを言うと、相手は言葉の表面だけをなぞって返事をする。意図や前提、言外に含めた空気みたいなものが、きれいに抜け落ちたまま戻ってくる。
まるで文章を一行ずつではなく、一文字ずつ読んでいるような会話だった。
最初は、単に相性が悪いのだと思っていた。
価値観の違い、育った環境、世代差。便利な言葉はいくらでもあった。
でも、そうやって片付けるには、同じ違和感に遭遇する回数が多すぎた。
理解力のある人間と話すとき、会話は少し曖昧で、少し不完全なまま進む。
「たぶんこういうことだよね」とか、「完全じゃないけど、ニュアンスは分かる」とか、そういう中途半端な地点でちゃんと手を取り合える。
一文で説明しきれない感情や、結論の出ていない考えを、そのまま置いておける。
理解力のない人間との会話は逆だ。
曖昧さを許さない。
白か黒か、正しいか間違っているか、役に立つか無駄か。
こちらがまだ考えている途中の話をすると、「で、結局何が言いたいの?」と聞かれる。
結局も何も、今そこに来るまでの話をしているのに。
あるとき、何人かと話していて、ふと共通点に気づいた。
理解力のある人間は、だいたい活字を読む。
今も読んでいるか、少なくとも過去に、かなりの量を読んできた人間だ。
小説でも、エッセイでも、新聞でもいい。
画面の速さじゃなく、紙か、紙に近い速度で、文字を追ってきた人間。
逆に、理解力のない人間は、驚くほど活字を読んでいない。
「本は苦手」「文字多いと無理」「要約でいい」
そういう言葉を、悪びれもせずに使う。
もちろん、全員がそうだとは言わない。
本を読んだからといって、必ず理解力が育つわけでもない。
でも、体感として、無視できない差は確実にあった。
活字を読むという行為は、即効性がない。
読んだからといって、すぐに役に立つわけでもない。
読んでいる間、誰かが答えをくれるわけでもなく、動画みたいに親切な編集もされていない。
その代わり、読書は、他人の思考の「途中」を覗かされる。
結論に至るまでの逡巡や、言い切れなかった感情や、矛盾したまま放置された考えを、全部そのまま引き受けさせられる。
たぶん、理解力って、その耐久力なんだと思う。
はっきりしないものを、はっきりしないまま抱えていられる力。
すぐ答えが出なくても、話を途中で切らずに聞き続けられる力。
活字を読んできた人間は、それを長年、無意識に訓練している。
理解できない文章を、すぐに「つまらない」で切り捨てず、何度も読み返す。
分からない登場人物の気持ちを、分からないままページをめくる。
理解力のない人間は、その訓練をしてこなかっただけなのかもしれない。
頭が悪いわけじゃない。
怠けているとも限らない。
ただ、分からないものと一緒にいる時間に、耐えてこなかった。
だから会話でも、分からなくなった瞬間に切る。
理解できない話を「意味がない」と判断する。
相手が悪い、説明が下手だ、と結論づけて終わる。
最近、会話の途中でふと諦める瞬間が増えた。
この人には、ここから先は届かないな、と感じてしまう瞬間だ。
それは相手を見下しているというより、自分の言葉を無駄にしたくない、という感覚に近い。
活字を読んできた人間と、読んでこなかった人間。
その差は、知識じゃない。
理解しようとする姿勢でもない。
「分からない状態」に耐えられるかどうか、その一点だけだ。
そしてその差は、思っている以上に、もう埋まらないところまで来ている気がしている。




