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1-1. 暗殺の失敗





街道沿いの森は、月光も届かぬ深い闇に覆われていた。



リオヴェンは、その闇と同化していた。


黒装束と影操作の魔法が、彼の存在を周囲の景色から完全に削ぎ落としている。彼は息さえも「闇」に変え、標的――元ブリガント国の文官、シリル――の足音だけを頼りに追っていた。





依頼は「標的の静かな排除」。報酬は破格。何より、腐敗した貴族からの依頼であり、この排除は国政を安定させる必要な悪だと、リオヴェンは自分に言い聞かせていた。


シリルは眼鏡をかけた、戦闘とは無縁の女だ。護衛は、体格の良い新人冒険者ガレオン一人。国から追放され、隣国に脱出してから見つけたと言う護衛は思ったより厄介な様だが、リオヴェンにとってこれは散歩同然の簡単なミッションのはずだった。



獲物の背後、わずか十メートルの距離。



「今だ」


リオヴェンは、シリルが小石を踏んだわずか1秒の足元の乱れを合図に、静寂を破った。闇魔法が彼の身体を弾丸のように加速させ、影の中から飛び出す。ナイフはシリルを、心臓を狙って最短距離で捉える――。



しかし、その瞬間、リオヴェンの予測を裏切る事態が発生した。



リオヴェンがシリルに達する一瞬前、隣を歩いていたガレオンの体躯が、まるで訓練された獣のように動いた。ガレオンはシリルを庇うように一歩踏み出し、武器を持たない拳を、凄まじい精度でリオヴェンのナイフを持つ手首に叩きつけた。


キン、という乾いた音と共に、リオヴェンの手からナイフが弾き飛ばされ、地面に突き刺さる。



「…ッ!」



リオヴェンは即座に態勢を立て直し、ガレオンから距離を取ろうとした。しかし、その時、ガレオンの後ろで庇われていたはずのシリルが、一歩前に出る。



眼鏡の奥の瞳が、僅かな月明かりを反射した。シリルの口元が、静かに、そして皮肉な笑みを浮かべた。


「『斥候スカウト』のリオヴェン。君の呼吸の間隔、ナイフを握る際の指の力の入り方。攻撃開始に『一瞬だけ硬直する癖』を示していた。その癖を読み、私はガレオンにいち早く合図を出した」


まるで魔術師の詠唱のように、シリルは静かに種明かしをした。



リオヴェンは全身に戦慄が走るのを感じた。自身の存在を消す闇の技術が、戦闘力のない文官の観察と計算によって破られた。それは、暗殺者としてのプライドを粉砕する、信じがたい屈辱だった。


「君の情報は少し古いね。私は今賢者様から魔法を学んでいる。それを考慮すべきだった」



シリルはなんらかの魔法を習得し、それにより攻撃を防いだようだ。

リオヴェンは次の一手を考えた、迂闊に手を出してもまた防がれる……。



「逃げるぞ、ガレオン!」


シリルが叫んだ。



リオヴェンは、このまま追撃してもガレオンの素手戦闘に引きずり込まれることを悟った。彼は即座に影操作を発動し、周囲の闇を束ねて目眩ましを作る。その隙に、リオヴェンはナイフを回収する代わりに、ガレオンの無防備な側腹を蹴りつけた。しかし、ガレオンはそれを受け身と体術でいなし、ほとんどダメージを受けない。



「逃がすか!」


ガレオンの拳が追撃する。


それは体に当たることはないが、風の衝撃波となってリオヴェンを襲った。

リオヴェンは身を翻し、森の深い場所へ逃走を試みた。ガレオンは彼の追跡を試みるが、斥候の闇魔法による森の中のスピードには勝てず、諦めた。




「……失敗だ。屈辱だ」


リオヴェンは歯を食いしばった。だが、安堵は一瞬で消えた。ガレオンの最初の拳を避けようと反射的に動いた際、リオヴェンは背中の古傷を大きく開いてしまっていた。そして最後の風の衝撃波、激しい出血と、全身を駆け巡る魔力の消耗。



彼は森の奥へ、暗殺を失敗したという屈辱と、命を落とすという予感と共に、倒れ込んだ。彼の周りの闇が、彼自身の血で染まり始める。



「…まさか、文官にやられるとは…」



それが、リオヴェンの、最後の意識だった。






頬に伝わる冷たい土の感触と、全身の焼けるような痛みに、リオヴェンは意識を取り戻した。



彼は自分が死にかけていることを理解した。しかし、身体は冷え切った闇の中ではなく、穏やかな温もりに包まれていた。


目を開くと、最初に視界に入ったのは、固い地面、暗い森、そして燃えるような赤髪だった。


「目が覚めましたか。動かないで。傷口を焼いて塞ぎます」


静かで、落ち着いた声。目の前には、黒と赤の衣装を纏った幼い女性がいた。彼女は手に小さな炎を灯していた。それは、熱源というより、癒やしを思わせる不思議な光だった。



「なぜ…」


「私はカグリナ。全くこんなところで倒れているなんて……なんてタイミングいいこと」



リオヴェンは掠れた声で問いかけた。


「俺は…暗殺者だぞ」



カグリナは、リオヴェンが着ていた黒装束と、手首に残る暗殺者特有の痣を見て、全てを察しているようだった。それでも彼女は表情を変えず、静かに言った。



「その手で人を殺したとしても、体の命の炎は、まだ消えるべき時ではない。私は、ここで命が燃え尽きるのを、ただ見過ごすことはできません」




カグリナはそう言うと、持っていた小さな炎をリオヴェンの背中の傷口に当てた。激痛が走るはずが、リオヴェンが感じたのは、ただ温かい熱だった。傷口はたちまち塞がれ、出血が止まった。


「よかった、上手くできたかな」





その静かな優しさが、リオヴェンの凍てついた心を焼き尽くし、新しい感情を芽生えさせた。


「私が素材採取に来てなかったら、貴方は魔獣のエサだったはずだよ」



闇の世界で生きてきた自分を、炎を持つ彼女が、その温もりで救った。それは、リオヴェンにとって、世界観をひっくり返すほどの衝撃だった。


(この人は、光だ。決して、俺のような闇の存在が触れていい人ではない…)



リオヴェンは、カグリナの優しさを受け取るほどに、自分が彼女に抱いてしまった感情が報われない初恋であると、瞬間的に理解した。


カグリナは治療を終えると、リオヴェンの側に参考にしていた魔術の分厚い本を置いた。



「これに懲りたら足を洗うことね」


「はっ。そうだな……」



リオヴェンは思わず笑ったが、体の内側で激痛が走った。どうやら治ったのは表面的な部分だけらしい。




「私の知人たちは、貴方のような闇の力を持つ者を必要としている。闇の力が全て悪いものって訳ではないでしょう? 縁があればまた会うこともあるでしょう。償いをしたいなら、力を使うべき場所を選ぶことね」



彼女はそう告げると、治療に使った薬草を籠に集め、静かにその場を去っていった。



リオヴェンは、傷の痛みよりも、カグリナの残した炎の温もりと、静かな決意に心を支配されていた。




リオヴェンは体は限界だった。

この依頼を最後に暗殺の仕事からは引退、簡単だがかな臭いが故に高額な報酬をもらって逃げようとしていた。


それもここまで、焦りすぎて情報の確認も怠り、新人冒険者にやられ、通りすがりの魔女に助けられた。



ーーシリルと、ガレオンを追うのはもう無理だな。



(そうだ。俺は、償いをしなければならない。元々自分を騙し騙し仕事話受けてきた。心の問題もあったんだろう。そして、彼女の側にいるために、その力を役立てるのだ)




リオヴェンは、元暗殺者としての素性を隠し、ガグリナに近づくことを決意した。それは、彼の贖罪と初恋が、交錯する瞬間だった。






数日後。


リオヴェンは、暗殺に特化した飾りのない黒装束を、できるだけ暗くて地味な旅装束に変えた。


ナイフを隠し、手押し車に少量の薬草と古文書を積んだ行商人として街へ出た。




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