第五話 伊豆にて
1
その職場の天井の辺りに、わたしは浮いていた。
わたしは机の前に突っ伏す、わたし自身を見下ろしていた。
机の上のマグ・カップが倒れていて、黒い液体がジワジワと広がっていった。
変だな、と思った。わたしはここにいるのに、どうしてわたしの身体はそこにあるのだろう?
そもそも、なんでわたしは、こうして浮いているのだろう?
例の後輩の子が、わたしの異変に気がついて、わたしの背中を揺さぶっていた。
続いて、ほかの従業員たちも、わたしの前に集まってきていた。救急車!!と誰かが叫んでいた。
わたしは、あの後輩の子の、動揺と哀しみとを、まるで自分の感情のように感じ取ることができた。
それは、推察などではなく、本当にそのときの彼女の感情が、わたしの意識へと流れ込んできているかのようだった。
心配することなんてないのに、とわたしはぼんやりと思った。わたしはここにいて、こうして元気でいるのだから……
あの刺すような頭痛は、嘘のように消え去っていた。
少しして、わたしの視界が、徐々に黒く塗潰されていった。
そして、目の前が真っ暗になった。
それから、わたしの身体が、不意に上昇を始めたかのように感じた。
わたしの身体が、何かの境界を越えていく感覚がする。
そのとき、耳元で「ブーン」という、何か低い音がした。蜂の羽音のようなそれに聞こえなくもなかった。
それは、警告音だったのかもしれない。
2
気がつくと、わたしは、どこかの平原に、ひとり立っていた。
「ここは――」そうわたしは呟いた。
辺りを見渡すが、四方八方、何もなかった。ただただ、丈の短い草が広がっていた。
その世界は、夜だった。
天高くに、欠けた月が浮かんでいた。蒼白く光るそれだった。どこにも雲は見えなかった。
ふいに風が吹き、平原の草をさざめかせた。
あの世?とわたしは思った。
これまでイメージしてきたあの世のそれとは違っていた。そこには花畑も広がっていなかったし、蝶の群れも飛んでいなかった。
しばらくそうして、そこに佇んでいた。ときおり風が吹き、草原とわたしの髪とをなびかせた。
いつまでも、こうしているわけにもいかないだろう、とわたしは思った。どこへ行けばいいのかわからないけれど、とにかく足を踏み出さなくてはならない……
夜空の星々のなかに、一際輝く星があった。蒼白く光るそれだった。北極星なのかもしれない。
その星の方角を目指して、歩き始めることにした。どこへと辿り着くのかはわからなかったけれども。
月明かりの下で、風が平原の草を波打たせる光景は、どこか荘厳で圧倒的だった。
3
どれくらい歩いただろうか。
十五分くらいにも思えたし、一時間くらいにも思えた。
わたしのなかから、時間の感覚が失われていた。手元にあったスマートフォンも腕時計も姿を消していたので、時刻の確かめようがなかった。
気がつくと、河原にわたしは立っていた。
そこは船着き場だった。木製の桟橋が、河のほうへと向かって延びていた。
その河は、荒川や江戸川のようなそれではなく、もっと広大なそれだった。むかし教科書で目にした、黄河をどこか思わせた。それは夜空を反映していて、深い闇を湛えていた。
その向こうは、白い霧で霞んでいた。闇のなかに浮かぶそれは、どこか幻想的に見えた。
遠くから、チャプチャプ……という小さな音が聞こえてきた。
その音のするほうから、小さな舟が見えてきた。
その小舟は、こちらへと近づいてきた。
「乗るかい?」と船頭がいった。
見知らぬ男だった。年齢は70代くらいだろうか。深く笠を被っていて、白い半纏と黒い穿きものという格好だった。
「渡し賃は?」そうわたしは訊ねていた。
その男は、スッとわたしの胸の辺りを指さした。心臓の位置だった。
「あんたの命だよ」と彼は平坦な声で答えた。
「命……」そうわたしはいった。
「ここは『生と死の境界』だ」と彼は続けた。「ここを渡ったら、もう引き返せない」
やや躊躇ったあとで、「乗ります」とわたしは答えた。
4
わたしを乗せた小舟は、岸辺から離れていった。
白い霧によって、やはり前方は何も見えなかった。
船頭は何もいわず、艪で舟を漕いでいた。
わたしは遠くを眺めていた。夜空と河の、不明瞭な境目を。
これでいいんだ、とわたしは思った。これでいいんだ……
ちゃんと別れを告げられなかった人たちがいるけれど、それはもう仕方がない……
小舟は、ゆっくりと河面を進んでいった。やはり、男は無言で舟を漕いでいた。
不意に、わたしの脳裏を彼の姿がかすめていった。
伊東だった。
今の今まで思い出さなかったのに、どうしてこのタイミングで思い出してしまうのだろう……
走馬灯のように、彼の姿が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
高校の図書室で、本を読むわたしの前に現れた彼。
あのとき、彼はわたしを咎めたのだ。
上野の博物館の近くにあるカフェで、黒田清輝の絵について語る彼。
彼は、とても嬉しそうだった。
夏休みの美術室で、わたしの絵を描く彼。
夜の千倉の海辺で、わたしの隣を歩く彼。
そして、あの日の放課後へとわたしは引き戻された――
「僕は、君が好きだ」と伊東はわたしにいった。
雨が降っていた。わたしたちは傘を忘れて、昇降口の前で雨宿りをしていた。
「ごめん」とわたしは答えた。
「どうして――」と彼。
わたしは何もいえなかった。
彼はわたしのことが好きだった。本当はわたしも彼のことが好きだった。
わたしは、彼のもとから逃げ出したのだ。そこには、多くの理由があり、カオスの様相を呈していた。
だけど本当は――それは初めからわかっていたことなのだけど――ただしあわせになることが怖かっただけなのかもしれない。
変化することを、わたしは怖れたのだ。自分自身や、自分を取り巻く世界が変わってしまうことを。
まるで、自分の存在がいなくなってしまうようで――
きっと、わたしが執着していたのは、蝶が羽化したあとに残る、サナギの殻に過ぎなかったのだ。
だからわたしは、歪んだ自分と自分の世界のほうを選んでしまった。
幼いころから泥水を飲んできた人が、とつぜん綺麗な水を差し出されても、それに抵抗を覚えるみたいに……
それは間違ったことだった。
わたしは、彼のもとから離れてはいけなかったのだ。
たとえ、怖くとも――
「引き返せませんか?」とわたしは船頭にいった。
背中を向けたまま、男は何も答えず、ただ舟を漕ぎ続けていた。
「引き返してください」わたしはさっきよりも、ハッキリとした口調でいった。
「できないな」そう男は、振り返りもせずに答えた。
「なぜ……」
「霧で見えないが、彼岸はもうすぐそこだ」と男はいった。「それでも引き返すというなら、もうひとり分の命が必要になる。だけど、お前の命は一つしかない……」
「どうしてもですか」わたしは訊いた。
「ああ」と男は答えた。「駄目だ」
「わかりました……」そうわたしはいった。
その場からわたしは立ち上がった。
それから回れ右をして、その河へと頭から飛び込んだ。
5
わたしは水面から顔を出した。
河の水は、氷のように冷たい。
わたしは泳いで、さっきの岸辺へ向かっていった。あの北極星と逆の方向へと泳いでいけばいいのだ。
どれくらい経っただろう。泳いでも泳いでも、岸辺は見えてはこなかった。
おかしい、とわたしは思った。方角は間違えていない筈なのに……
やがて、体力も尽きてきた。
あまりの水の冷たさで、身体の感覚がなくなってきた。
ああ、全部遅すぎたのだ、とわたしは思った。薄れてゆく意識のなかで。
わたしの人生は、あの日、あの場所で、きっと終わっていたのだ。彼を選ばなかったことで。彼から逃げてしまったことで……
それからの人生は、エンド・ロールだったのだ。長い長いそれだった。音楽だけが、ただ鳴り響いていたのだ……
そして、これで本当に、わたしの映画は終わってしまうのだろう。
これで、とうとうジ・エンドだ。
くだらない映画だったな、とわたしは思った。
とてもくだらない映画だった。四流、五流クラスの映画だ。まるで、観る価値なんてない作品――
わたしの隣に、君がいなかったから。
すべて身から出たサビだった。全部わたしが悪かった。わたしが馬鹿だった……
やがて力尽きたわたしは、河底へと沈んでいった。
わたしの身体が、闇のなかへと堕ちていった。
だけど、そのときわたしが見たものは、光だった。
闇の先に、光を見たのだ。淡くやさしく、そして暖かい光だ――
それからわたしは、その光のなかへと溶けていった。
6
気がつくと、目の前に天井があった。
見知らぬそれだった。クリーム色の天井で、細長い蛍光灯が見えた。
横に目をやると、よくわからない機器のようなものがあり、何かアームのようなものがついていた。
傍に誰かが立っていた。
全身が真っ白だった。
天使?と一瞬思った。
しかし、それは人間だった。
その人は看護婦だった。
わたしの点滴を触っていたその人は、意識を取り戻したわたしに気がつくと、あら、と少し目を大きくした。
「ここは――」とわたしはいった。「天国じゃないですよね?」
彼女はニッコリとやさしく微笑み、「ええ」と答えた。
7
そのあとで、病室にやってきた両親から、事のいきさつを聞いた。
わたしは職場で倒れて、病院へと救急車で運ばれたのだった。
病名は脳出血だった。
あの頭痛はその前兆だったのだ。原因はわからないけれど、たぶん身体に鞭を打ち続けていたことなのではないか……
そのあとで、この病院で手術を受けたのだった。
無事にそれは成功したようだった。何の後遺症もないまま、退院できると医師から聞いて、わたしはホッと胸を撫で下ろしていた。
ICUから一般病室へと移ってきたあと、職場の人たちが見舞いにやってきてくれた。
「死んじゃったのかと思いましたよ」と、後輩のあの子が、泣きべそをかいていた。
わたしのベッドの傍の丸椅子に、彼女は座っていた。
「年明けに退院できるみたい」とわたしはベッドのなかで、彼女のほうに顔を向けて答えた。「しばらくすれば復帰できるよ」
忙しいときにごめん、とわたしはいい添えた。
そんなことはどうでもいいんですよ、と彼女はなおも涙を流しながらいった。
わたしは、ベッドから片手を伸ばして、彼女の濡れた頬にそっと触れる。
彼女が帰ってしまったあとで、わたしはクリーム色の天井を眺めながら思った。
不思議だった。自分のために誰かが泣いてくれているということが。
そんな人が今まで、わたしの人生に一人でもいただろうか……
いつの間にか「あちら側」へと、わたしは足を踏み入れていたのだろう。とっくにその基準は越えていたのだ。
あの泥水ではなく綺麗な水を、わたしは既に受け入れることができていたのだ。
あるいは、「彼」と出逢った頃からなのかもしれないな、と思う。
「彼」がわたしを変えたのだった。わたしを根本の部分から。そんな自覚は、彼にはないだろうけれども――
*
そろそろ、退院の日が近づいていた。
車椅子に乗って、わたしは廊下の隅にある休憩スペースへと向かっていた。何か飲み物を買おうとしたのだ。
ニットの帽子を被っていた。手術のために、わたしの髪は全部剃られていたのだった。
廊下の角を曲がり、自販機とソファが目に入ったところで、車椅子を動かす手が止まった。
そのソファに、見覚えのある横顔があったからだ。
わたしの存在に気づいて、彼もこちらへと顔を向けた。
すると、彼はミネラル・ウォーターのペットボトルを、手元から落とした。
ペットボトルは、床に転がり、残っていた水を流していた。
それでも、彼は、わたしのほうを見続けていた。ポカンと口を開けたままで。
「伊東」わたしは小さくいった。
「久しぶり――」動揺を隠すかのように、彼は微笑んだ。
ああ、とわたしは思った。
あれから10年も経っているのに、彼はわたしのことがわかるのか……と。
8
新幹線で、わたしと彼は伊豆へと出かけた。
まだ三月だったが、彼岸は過ぎていたので、風はそれほど冷たくはなかった。
「悪かったね」と伊東は微笑んだ。「ついてきてもらっちゃって」
構わないよ、とわたしは答えた。「仕事も落ち着いて、特にすることもなかったし」
わたしと伊東は、町にある小さな喫茶店で軽い食事をとっていた。
「みんな忙しくって、僕くらいしか見舞いに来られなかったんだよね」と彼はコーヒーを飲んだ。
彼のお祖母さんは病いを患い、わたしがいた病院に入院していて、それから、この伊豆にある療養所へと移ってきたのだった。
「だけど、良かったよ」彼はカップから顔を上げた。
「何が?」わたしも熱いコーヒーを啜った。香り高いコーヒーだった。
「君だって、僕の祖母のようになっていた可能性は充分あったんだから」と彼はいった。「何十年ものあいだ、遠くまで新幹線で足を運ぶのは大変だろう?」
「まるでわたしがそうなっても、わたしから離れないみたいないい方だね」とわたしは彼のことを見て訊ねた。
「当たり前じゃないか」と彼は答えた。さも当然というような顔で。
「当たり前なんだ」とわたしは答えた。
そうか、当たり前なのか……
わたしはどうだろう?と思った。彼がそのような立場になったら、わたしはどうするのだろう。
多分と思った。多分、彼と同じことをするのかもしれない。
*
この近くに海があるらしいので見にいくことにした。
そこには、磯辺があった。
青空が広がっていた。ところどころに、刷毛を引いたような白い雲が見えた。
風が強く、わたしたちの髪とコートをなびかせていた。
「ここに来た帰りは、いつも立ち寄るんだ」と伊東がいった。
「海が好きなんだよね」とわたしは微笑んだ。「それも、人のいない海が」
「ご明察」と彼は冗談めかすように笑った。「君と同じように」
彼とは、ほとんど趣味や価値観が合わないというか正反対なのだったが、静かで人のいない海が好きというところは、数少ない共通点の一つなのだった。
「それでスケッチブックに、この場所を描いてから帰るんだ」
まだ彼は、絵を描いていたのだった。
美大は出たけれど、やはり絵だけで食べていくのは難しいらしくて、美大予備校の講師をしながら描き続けているらしかった。
それで、ギャラリーに自分の絵を置いてもらったり、たまに個展を開いてもらったりするのだとか。
「そういえば」と伊東はいった。「君、小説は書いてるの?」
「小説?」とわたしは訊ねた。
「高校生のころ、千倉の海辺で話していたじゃないか」と彼は続けた。
「そんなもの書いてないよ」わたしは風で乱れる髪を、何度も耳にかけようとしては失敗した。
実は、一時期書いていたのだった。大学をやめて、自室に引き籠もっていたときに。
が、自分の才能に見切りをつけて、とっくに書くのをやめていた。
「また書いてみたらいいのに」と伊東はいった。
「そんな暇なんてないから」仕事は落ち着いたとはいえ、相変わらず、土日以外は八時間拘束されている身なのだ。
「たとえば、朝と夜に一時間ずつ、つまり一日二時間だけでもさ」と彼。「そうすれば、一年間でえぇと……」
「730時間」とわたしは暗算した。
「そうすれば、二年くらいで長編の一本くらいは書けるんじゃないかな?」
そうかもしれない、とわたしは思った。一日八時間机に向かうとして、1460時間は約半年ぶんだ。
だけど、わたしにそこまでの情熱が保てるだろうか。いうまでもなく、朝は眠いし、夜は仕事でくたびれ果てているし、お酒だって飲みたい。
だけど、不思議なのだが、彼にそういわれると、やってみようかな、という気が起きてもくるのだった。
あの千倉の海辺のときもそうだった。結局あのときの情熱は、簡単にひれ伏してしまったのだが……
「そうだ」不意に彼がいった。
「また、変なことでも思いついたの?」とわたしはからかった。
「モデルになってよ」と彼が続けた。「その辺りに立ってて」
「また?」とわたしはいった。
とはいえ、その求めにわたしは応じてしまうのだったが。
彼がわたしを描いてくれることが、わたしには嬉しいことなのだった。多少くすぐったくはあったけれども。
シンガー・ソングライターは恋人を歌に、作家は恋人をヒロインに、そして画家は恋人を絵のモデルにするのだった。
わたしから少し離れたところに立って、伊東は鞄から出したスケッチブックに、鉛筆を走らせ始めた。
わたしはぼんやりと、沖合のほうを眺めていた。
そこには、既視感があった。彼がわたしの絵を、千倉の海岸で描いていた記憶だった。
たぶんこれから先も――五年先、十年先、そして二十年先も、こうして彼といるのかもしれない。
それは、とても幸福なことのように思えた。
おそらく、彼と逢えない期間がなければ、そのことにしあわせを感じることもなかったのかもしれない。
それが当たり前になってしまうから。日常に侵食されてしまうから。
それが当たり前にならないように、わたしには、彼と離れ離れになる期間が必要だったのだろう。
それは、わたしと彼の関係を揺るがないものにするための、確かな地盤となったのだ。
だから、あの日のわたしの選択は間違っていなかったのだろう。
結果的には、ということだけれども。
「できたよ」と彼がわたしに声をかけた。
わたしは彼のほうへと歩いていき、そのデッサンを見せてもらった。
わたしの人生は間違いだらけだったように思えたけれど、その先に今があるのだった。
彼がいるのだった。
そのどれか一つでもずれていたら、今このときには至れなかったかもしれないのだ。
だから、わたしのこれまでの人生は、大筋のところでは間違ってはいなかったのだ。
だから、これから先もたぶん大丈夫なのかもしれない。
それにこれからは、わたしはもう独りではないのだ。