第四話 頭痛
2027年11月
1
身体にコートを巻きつけて、事務所の入ったビルから出たのは、夜の11時過ぎだった。
ほとんど人気のない幹線道路に沿って、北へと向かって歩き出した。
交差点を折れて、アーケード通りを抜ければすぐに駅なのだが、今日はそのまま突っ切ることにした。
最終電車までには、まだ少し時間があった。
*
熱い缶コーヒーのプルタブを開けると、飲み口から白い湯気が薄っすらと立ち昇った。
コーヒーを一口飲むと、甘さと苦みが溶け合った味が口のなかに広がった。
やはり吐く息は白い。
河原のベンチに、一人で座っていた。
それから、川向かいの高速道路を眺めた。自動車のヘッドライトとテールライトが高架を流れていた。
彼らも家へと帰るのだろうと思った。あるいはどこか遠い街へと向かうのだろうか……
その人たちのほとんどが、今後もわたしの人生と直接触れ合うことはないのだった。そう考えると、なんだか不思議な気もしたし、なんだか物哀しい気もする。
このところ、残業続きだった。
ここ数ヶ月、定時に帰れたためしがなかった。ただでさえ人数の少ない個人事務所だったのに、多くの人たちがやめていったのだ。
新しい人たちもなかなか入ってはこなかった。アルバイトの子たちでさえも。
もちろん、そのシワ寄せは残った従業員たちへと向かった。わたしの仕事は3倍近くにまで膨れ上がっていた。
下訳に関しては、LLMに丸投げすることができるが、それだけでは使い物にはならない。そこには、どうしても人間の手を加えなくてはならないのだ。
人間の心までは、LLMは理解してくれないからだ。
言葉というのは、概念とセットになっているが、一方で想念もセットになっている。
論文のように、ほとんど概念だけで構成されているような文章の翻訳なら、LLMは大活躍だった。
しかしエッセイや詩のような想念も絡んでくる文章の場合、それはからっきしで駄目なのだ。
文章の根底にある、心の流れが理解できていないから、なんだか頓珍漢な訳になってしまうのだった。どうしても、人間の目や手が必要になってくる。
だからこそ、わたしたちは、まだ仕事にあぶれずに済んでいるのだったが……
人間と全く同じような訳ができるLLMが登場したのであれば、それはLLMなどではなく、それを超えた何かなのだろう。
2
その日もやはり、11時過ぎに事務所を出た。
その夜も幹線道路の交差点を突っ切り、河川敷へと歩いていった。
河原のベンチに座り、缶コーヒーのプルタブを開けると、飲み口から白い湯気が薄っすらと立ち昇った。
夜の空気は、痛いほどに凍てついていて、そして清浄だった。
川向かいの高架線を、赤と白の光が流れていた。
思い出されるのは、「彼」のことだった。
伊東のことだった。
もうあれから10年も経っているのに、なぜ今さら彼の姿が脳裏に甦ってくるのだろう。
酷い別れ方をしたな、と思った。
それから、自分は嫌なヤツだと……
わたしたちは、相思相愛だった。
彼はわたしを好きだといった。わたしも彼のことが好きだった。
なのに、わたしは彼のもとから逃げ出したのだ。
彼のことを、わたしは父親にしていたのだ。
彼のなかに、「父」を見ていたのだ。わたしの実の父親とは似ても似つかないのに――
わたしには、それが間違ったことのように思えた。近親相姦的な罪悪を覚えたのだ。
しかし、その一方で、わたしには他の動機もあった。
彼のことを否定して、傷つけてやりたかったのだ。
それは自己無価値感から来るものであり、そして、サディズムからやってくるものでもあった。
わたしは、彼に価値を感じていた。
とても価値のある存在なのだと思っていた。わたしなんかよりも、遥かに――
その価値ある存在を否定することで、拒絶することで、わたしは相対的に、自分の価値を手に入れようとしていたのだ。
自分自身の価値を感じようとしていたのだ。
それらの感情を、わたしは認めたくなかった。つまり、その自己無価値感とサディズムを――
そして、それらの感情を抑圧していた。それらを、無意識領域へと押しやっていたのだ。
だから、それらの感情にわたしは操られていたのだ。それらの感情は無意識的な要請となり、わたしは知らず知らずのうちに合理化を弄し、それらに従った言動を取ってしまっていたのだ。
それらの感情を抑圧したところで、消えて無くなるわけではないのだ。それらは「意識できなくなった」というだけで、確かにそこに存在するのだから。
あのとき、わたしのするべきだったこととは、それらの感情を意識化した上で、それらに従わない言動を取ることだったのだ。
自分のなかの悪を否定せずに、それでいてそれに与せずに生きることだった。
それは、一種の弁証法だった。
ただ、今さらそのことに気がついたところで、覆水盆に返らずなのだったが……
凍りついた空き缶を片手に、わたしはベンチから立ち上がってその場を離れた。
辺りには誰の姿もおらず、ただただ冷たい風が吹いていた。
3
そのころ、頭痛が頻繁に起こるようになっていた。
頭痛は、わたしには珍しいことではなく、どうせ仕事のストレスが原因なのだろうと考えていた。つまり、読み書きや思考のし過ぎが理由なのだろう、と……
しかし一方で、漠然とした体調不良があった。何か身体全体が重いのだった。
それから頭のなかが――脳が腫れているかのような感覚を覚えていた。
おそらく、風邪気味なのだろうと思った。寒空の下で、河原のベンチなんかに座っていたからなのだろう。そういえば、喉の奥も少しだけ痛んでいた。
しかし後者は――つまり頭のなかの腫れのような感覚は、風邪では説明がつかなかった。
何か、嫌な予感がしていた。
しかし、あまりにも忙し過ぎて、病院で検査をする時間など取れなかった。年末年始すら、休暇をとれるかどうか怪しいのに……
頭痛はさらに増していった。頭を少し振っただけで、鋭い痛みがするほどまでに。割れてしまうのではないかと思うほどに。
*
「さいきん、痩せましたよね?」と彼女がいった。
「そう?」とわたしは答えた。
その夜、仕事の後輩と、職場の最寄り駅にあるデニーズで、食事を取っていた。
その日は、早くに会社を出ることができたので、彼女と夕食を食べることにしたのだ。
「ぜったい痩せました」と彼女はハンバーグ・ステーキをナイフとフォークで切り分けていた。「まさかダイエットですか?」
「まさか」とわたしは笑って、カルボナーラをフォークで巻きつけていた。この勢いだと、そろそろ40キロを切りかねないというのに……
「さっきから全然食べてないし」彼女が目ざとく指摘した。「パスタをフォークに巻きつけてばかりじゃないですか」
「食欲がないの」わたしは吐息をつき、フォークを皿の上に置いた。「ちょっと風邪気味でね……」
「今日は誘わないほうが良かったですね……」彼女が急にシュンとなった。
わたしは微笑んで首を振った。「帰っても食事しなかっただろうから、むしろ誘ってくれて良かった」
ほとんど店内は満席で、居酒屋として利用している会社員や若者がいて、騒がしかった。さいわい今日は、頭痛が引いていた。
「最近、頭がずっと痛いんだ」とわたしはパスタを半分残して、熱いコーヒーを飲んでいた。「ほんとに割れるんじゃないかってぐらいに……」
彼女のほうはといえば完食し、食後のデザートにチョコレート・パフェを食べていた。
「それも風邪が原因ですか?」と彼女が訊ねた。
彼女の口許に、小さくチョコがついている。パフェを完食したあとで指摘しよう、とわたしは思った。どうせまたつくのだろうから。
たぶんね、とわたしは応じた。「ただ、ちょっと変なの」
「ヘン?」と彼女。
「なんだが、頭のなかが腫れぼったいんだ」
「脳が……ってことですよね」
「そうだと思う」
彼女は不意に深刻そうな顔をする。
「どうしたの?」とわたし。
「吐き気とかってします?」そう彼女が質問してきた。
「吐き気?」
「ええ」
「いや、吐き気はしないな」とわたしは答えた。
「本当に?」彼女は深刻な顔つきのままで、そう訊いてきた。
「本当だよ」とわたしは微笑んだ。「嘘ついてどうするの」
わたしがそういうと、彼女はホッとしたような表情を浮かべた。「わたしの母親が、脳卒中で倒れたんです」
「えっ」とわたし。
「もう亡くなってしまったんですけど」と彼女は続けた。「倒れる前に、頭痛と吐き気に襲われていたんですね……」
わたしは黙って、その話を促した。
「だから先輩もまさか……って思ったんですけど、吐き気がないのであれば、ただ仕事のし過ぎと風邪が理由なのかもしれないですね」
そういって、彼女はニコッと微笑んだ。ちなみに、口許にはチョコがついたまんま。
その店を出たあと、彼女と駅で別れた。わたしは地下鉄を、彼女はつくばエクスプレスを利用していたからだ。
電車の座席で揺られながら、わたしはホッと胸を撫で下ろしていた。なんだ取り越し苦労かと……
死ぬことはそれほど怖くはなかったけど、痛みや苦しみを感じるのは嫌だったし、後遺症を抱えたまま生きるのは、もっと辛いことのようにも思われた。
しかし、それは杞憂などではなかったのだ。
4
あまりにも頭痛が酷くて起き上がれず、一日休んだあとで、職場に復帰した。
わたしのデスクの前には、休んだ分のタスクが溜まっていた。仕方がなかった。誰しもが、自分の手持ちでいっぱいいっぱいなのだ。
小さく吐息をついて、デスクトップの前に座った。横文字の文章が一杯に並んだ、原書を開く。その横には、濃く作ったコーヒー。度々頭痛で意識が飛びそうになるからだった。
出がけに、頭痛薬を呑んできたが、大して効きはしなかった。市販のものでは駄目になってきていた。そろそろ、本当に病院に行かなくては……
少しして、わたしは気を失った。
憶えているのは、これまでの比ではない、刺すような頭の激痛と、そのあとで目の前が真っ暗になったことだった。
それからのことは何も知らない。
だけど、わたしは夢を見ていた。奇妙な夢だった。
その夢は、現実の延長であるかのようにも思えた。
あるいは、それは夢などではなく、いわゆる臨死体験だったのかもしれない。
そのあいだ、わたしは、こちらの世界にはおらず、あちらの世界へと行っていたのかもしれない……