第四話 伊豆にて
2027年11月
1
身体にコートを巻きつけて、事務所の入ったビルから出たのは、夜の11時過ぎだった。
ほとんど人気のない幹線道路に沿って、北へと向かって歩き出した。
交差点を折れて、アーケード通りを抜ければすぐに駅なのだが、今日はそのまま突っ切ることにした。
最終電車までには、まだ少し時間があった。
*
熱い缶コーヒーのプルタブを開けると、飲み口から白い湯気が薄っすらと立ち昇った。
一口飲むと、甘さと苦みとが溶け合った味が、口のなかに広がった。
やはり吐く息は白い。
河原のベンチに、一人で座っていた。
それから、川向かいの高速道路を眺めた。自動車のヘッドライトとテールライトが高架を流れていた。
彼らも家へと帰るのだろうかと思った。あるいはどこか遠い街へと向かうのだろうか……
その人たちのほとんどが、今後もわたしの人生と直接触れ合うことはないのだった。そう考えると、なんだか不思議な気もしたし、なんだかもの哀しい気もした。
このところ、残業続きだった。
ここ数ヶ月、定時に帰れたためしがなかった。ただでさえ人数の少ない個人事務所だったのに、多くの人たちがやめていったからだ。
新しい人たちもなかなか入ってはこなかった。アルバイトの子たちでさえも。
もちろん、そのシワ寄せは残った従業員たちへと向かった。わたしの仕事は3倍近くにまで膨れ上がっていた。
下訳に関しては、LLMに丸投げすることができたが、それだけでは使い物にはならなかった。そこには、どうしても人間の手を加えなくてはならなかったのだ。
人間の心までは、LLMは理解してくれないからだ。
言葉というのは、概念とセットになっているが、一方で想念もセットになっている。
論文のように、ほとんど概念だけで構成されているような文章の翻訳なら、LLMは大活躍だった。
しかしエッセイや詩のような想念も絡んでくる文章の場合、それはからっきしで駄目なのだった。
文章の根底にある、心の流れが理解できていないから、なんだか頓珍漢な訳になってしまうのだった。どうしても、人間の目や手が必要になってくる。
だからこそ、わたしたちは、まだ仕事にあぶれずに済んでいるのだったが……
人間と全く同じような訳ができるLLMが登場したのであれば、それはLLMなどではなく、それを超えた何かなのだろう。
2
その日もやはり、11時過ぎに事務所を出た。
その夜も幹線道路の交差点を突っ切り、河川敷へと歩いていった。
河原のベンチに座り、缶コーヒーのプルタブを開けると、飲み口から白い湯気が薄っすらと立ち昇った。
夜の空気は、痛いほどに凍てついていて、そして清浄だった。
川向かいの高架線を、赤と白の光が流れていた。
思い出されるのは、「彼」のことだった。
伊東のことだった。
もうあれから10年も経っているのに、なぜ今さら彼の姿が脳裏に甦ってくるのだろう。
酷い別れ方をしたな、と思った。
それから、自分は嫌なヤツだと……
わたしたちは、相思相愛だった。
彼はわたしを好きだといった。わたしも彼のことが好きだった。
なのに、わたしは彼のもとから逃げ出したのだ。
彼のことを、わたしは父親にしていたのだ。
彼のなかに、「父」を見ていたのだ。わたしの実の父親とは似ても似つかないのに――
わたしには、それが間違ったことのように思えた。近親相姦的な罪悪を覚えたのだ。
しかし、その一方で、わたしには他の動機もあった。
彼のことを否定して、傷つけてやりたかったのだ。
それは自己無価値感から来るものであり、そして、サディズムからやってくるものでもあった。
わたしは、彼に価値を感じていた。
とても価値のある存在なのだと思っていた。わたしなんかよりも、遥かに――
その価値ある存在を否定することで、拒絶することで、わたしは相対的に、自分の価値を手に入れようとしていたのだ。
自分自身の価値を感じようとしていたのだ。
それらの感情を、わたしは認めたくなかった。つまり、その自己無価値感とサディズムを――
そして、それらの感情を抑圧していた。それらを、無意識領域へと押しやっていたのだ。
だから、それらの感情にわたしは操られていたのだ。それらの感情は無意識的な要請となっており、わたしは知らず知らずのうちに合理化を弄し、それらに従った言動を取ってしまっていたのだ。
それらの感情を抑圧したところで、消えて無くなるわけではないのだ。それらは「意識できなくなった」というだけで、確かにそこに存在するのだから。
あのとき、わたしのするべきだったこととは、それらの感情を意識化した上で、それらに従わない言動を取ることだったのだ。
自分のなかの悪を否定せずに、それでいてそれに与せずに生きることだった。
それは、一種の弁証法だった。
ただ、今さらそのことに気がついたところで、後悔先に立たずなのだったが……
凍りついた空き缶を片手に、わたしはベンチから立ち上がってその場を離れた。
辺りには誰の姿もおらず、ただただ冷たい風が吹いていた。
3
そのころ、頭痛が頻繁に起こるようになっていた。
頭痛は、わたしには珍しいことではなく、どうせ仕事のストレスが原因なのだろうと考えていた。つまり、読み書きや思考のし過ぎが理由なのだろう、と……
しかし一方で、漠然とした体調不良があった。何か身体全体が重いのだった。
それから頭のなかが――脳が腫れているかのような感覚を覚えていた。
おそらく、風邪気味なのだろうと思った。寒空の下で、河原のベンチなんかに座っていたからなのだろう。そういえば、喉の奥も少しだけ痛んでいた。
しかし後者は――つまり頭のなかの腫れのような感覚は、風邪では説明がつかなかった。
何か、嫌な予感がしていた。
しかし、あまりにも忙し過ぎて、病院で検査をする時間など取れなかった。年末年始すら、休暇をとれるかどうか怪しいのに……
頭痛はさらに増していった。頭を少し振っただけで、鋭い痛みがするほどまでに。割れてしまうのではないかと思うほどに。
*
「さいきん、痩せましたよね?」と彼女がいった。
「そう?」とわたしは答えた。
その夜、仕事の後輩と、職場の最寄り駅にあるデニーズで、食事を取っていた。
その日は、早くに会社を出ることができたので、彼女と夕食を食べることにしたのだ。
「ぜったい痩せました」と彼女はハンバーグ・ステーキをナイフとフォークで切り分けていた。「まさかダイエットですか?」
「まさか」とわたしは笑って、カルボナーラをフォークで巻きつけていた。この勢いだと、そろそろ40キロを切りかねないというのに。
「さっきから全然食べてないし」彼女が目ざとく指摘した。「パスタをフォークに巻きつけてばかりじゃないですか」
「食欲がないの」わたしは吐息をつき、フォークを皿の上に置いた。「ちょっと風邪気味でね……」
「今日は誘わないほうが良かったですね……」彼女が急にシュンとなった。
わたしは微笑んで首を振った。「帰っても食事しなかっただろうから、むしろ誘ってくれて良かった」
ほとんど店内は満席で、居酒屋として利用している会社員や学生がいて、騒がしかった。さいわい今日は、頭痛が引いていた。
「最近、頭がずっと痛いんだ」とわたしはパスタを半分残して、熱いコーヒーを飲んでいた。「ほんとに割れるんじゃないかってぐらいに……」
彼女のほうはといえば完食し、食後のデザートにチョコレート・パフェを食べていた。
「それも風邪が原因ですか?」と彼女が訊ねた。
彼女の口許に、小さくチョコがついている。そのパフェを平らげたあとで指摘しよう、とわたしは思った。どうせまたつくのだろうから。
たぶんね、とわたしは応じた。「ただ、ちょっと変なの」
「ヘン?」と彼女。
「なんだが、頭のなかが腫れぼったいんだ」
「脳が……ってことですよね」
「そうだと思う」
彼女は不意に深刻そうな顔をする。
「どうしたの?」とわたし。
「吐き気とかってします?」そう彼女が質問してきた。
「吐き気?」
「ええ」
「いや、吐き気はしないな」とわたしは答えた。
「本当に?」彼女は、その顔つきのままで訊いてきた。
「本当だよ」とわたしは微笑んだ。「嘘ついてどうするの」
わたしがそういうと、彼女はホッとしたような表情を浮かべた。「わたしの母親が、脳卒中で倒れたんです」
「えっ」とわたし。
「もう亡くなってしまったんですけど」と彼女は続けた。「倒れる前に、頭痛と吐き気に襲われていたんですね……」
わたしは黙って、その話を促した。
「だから先輩もまさか……って思ったんですけど、吐き気がないのであれば、ただの仕事のし過ぎと風邪が理由なのかもしれないですね」
そういって、彼女はニコッと微笑んだ。ちなみに、口許にはチョコがついたまんま。
その店を出たあと、彼女と駅で別れた。わたしは地下鉄を、彼女はつくばエクスプレスを利用していたからだ。
電車の座席で揺られながら、わたしはホッと胸を撫で下ろしていた。なんだ取り越し苦労かと……
死ぬことはそれほど怖くはなかったけど、痛みや苦しみを感じるのは嫌だったし、後遺症を抱えたまま生きるのは、もっと辛いことのようにも思われた。
しかし、それは杞憂などではなかったのだ。
4
あまりにも頭痛が酷くて起き上がれず、一日休んだあとで、職場に復帰した。
わたしのデスクの前には、休んだ分のタスクが溜まっていた。仕方がなかった。誰しもが、自分の手持ちでいっぱいいっぱいなのだ。
小さく吐息をついて、デスクトップの前に座った。横文字の文章が一杯に並んだ、原書を開いた。その横には、濃く作ったコーヒー。度々頭痛で意識が飛びそうになるからだった。
出がけに、頭痛薬を呑んできたが、大して効きはしなかった。市販のものでは駄目になってきていた。そろそろ、本当に病院に行かなくては……
少しして、わたしは気を失った。
憶えているのは、これまでの比ではない、刺すような頭の激痛と、そのあとで目の前が真っ暗になったことだった。
それからのことは何も知らない。
だけど、わたしは夢を見ていた。奇妙な夢だった。
その夢は、現実の延長であるかのようにも思えた。
あるいは、それは夢などではなく、いわゆる臨死体験だったのかもしれない。
そのあいだ、わたしは、こちらの世界にはおらず、あちらの世界へと行っていたのかもしれない――
5
その職場の天井の辺りに、わたしは浮いていた。
わたしは机の前に突っ伏す、わたし自身を見下ろしていた。
机の上のマグ・カップが倒れていて、黒い液体がジワジワと広がっていった。
変だな、と思った。わたしはここにいるのに、どうしてわたしの身体はそこにあるのだろう?
そもそも、なんでわたしは、こうして浮いているのだろう?
例の後輩の子が、わたしの異変に気がついて、わたしの背中を揺さぶっていた。
続いて、ほかの従業員たちも、わたしの前に集まってきていた。救急車!!と誰かが叫んでいた。
わたしは、あの後輩の子の、動揺と哀しみとを、まるで自分の感情のように感じ取ることができた。
それは、推察などではなく、本当にそのときの彼女の感情が、わたしの意識へと流れ込んできているかのようだった。
心配することなんてないのに、とわたしはぼんやりと思った。わたしはここにいて、こうして元気でいるのだから……
あの刺すような頭痛は、嘘のように消え去っていた。
少しして、わたしの視界が、徐々に黒く塗潰されていった。
そして、目の前が真っ暗になった。
それから、わたしの身体が、不意に上昇を始めたかのように感じた。
わたしの身体が、何かの境界を越えていく感覚がする。
そのとき、耳元で「ブーン」という、何か低い音がした。蜂の羽音のようなそれに聞こえなくもなかった。
それは、警告音だったのかもしれない。
6
気がつくと、わたしは、どこかの平原に、ひとり立っていた。
「ここは――」そうわたしは呟いた。
辺りを見渡すが、四方八方、何も見えなかった。ただただ、丈の短い草が広がっていた。
その世界は、夜だった。
天高くに、欠けた月が浮かんでいた。蒼白く光るそれだった。どこにも雲は見えなかった。
ふいに風が吹き、平原の草をさざめかせた。
あの世?とわたしは思った。
これまでイメージしてきたあの世のそれとは違っていた。そこには花畑も広がっていなかったし、蝶の群れも飛んでいなかったからだ。
しばらくそうして、そこに佇んでいた。ときおり風が吹き、草原とわたしの髪とをなびかせた。
いつまでも、こうしているわけにはいかない、と思った。どこへ行けばいいのかわからないけれど、とにかく足を踏み出さなくてはならない……
夜空の星々のなかに、一際輝く星があった。蒼白く光るそれだった。北極星なのかもしれない。
その星の方角を目指して、歩き始めることにした。どこへと辿り着くのかはわからなかったけれども。
月明かりの下で、風が平原の草を波打たせる光景は、どこか荘厳そうごんで圧倒的だった。
7
どれくらい歩いただろうか。
十五分くらいにも思えたし、一時間くらいにも思えた。
わたしのなかから、時間の感覚が失われていた。手元にあったスマートフォンも腕時計も姿を消していたので、時刻の確かめようがなかった。
気がつくと、河原にわたしは立っていた。
そこは船着き場だった。木製の桟橋が、彼岸へと向かって延びていた。
その河は、荒川や江戸川のようなそれではなく、もっと広大なそれだった。むかし教科書で目にした、黄河をどこか思わせた。それは夜空を反映していて、深い闇を湛えていた。
その向こうは、白い霧で霞んでいた。闇のなかに浮かぶそれは、どこか幻想的に見えた。
遠くから、チャプチャプ……という小さな音が聞こえてきた。
その音のするほうから、小さな舟が見えてきた。
その小舟は、こちらへと近づいてきた。
「乗るかい?」と船頭がいった。
見知らぬ男だった。年齢は70代くらいだろうか。笠を深く被っていて、白い半纏と黒い穿きものという格好だった。
「渡し賃は?」そうわたしは訊ねていた。
その男は、スッとわたしの胸の辺りを指さした。心臓の位置だった。
「あんたの命だよ」と彼は平坦な声で答えた。
「命……」そうわたしはいった。
「ここは『生と死の境界』だ」と彼は続けた。「ここを渡ったら、もう引き返せはしない」
やや躊躇ったあとで、わたしは「乗ります」と答えた。
8
わたしを乗せた小舟は、岸辺から離れていった。
白い霧によって、やはり前方は何も見えなかった。
船頭は何もいわず、艪で舟を漕いでいた。
わたしは遠くを眺めていた。夜空と河の、不明瞭な境目を。
これでいいんだ、とわたしは思った。これでいいんだ……
ちゃんと別れを告げられなかった人たちがいるけれど、それはもう仕方がない……
小舟は、ゆっくりと河面を進んでいった。やはり、男は無言で舟を漕いでいた。
不意に、わたしの脳裏を彼の姿がかすめていった。
伊東だった。
今の今まで思い出さなかったのに、どうしてこのタイミングで思い出してしまうのだろう……
走馬灯のように、彼の姿が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
高校の図書室で、本を読むわたしの前に現れた彼。
あのとき、彼はわたしを咎めたのだ。
上野の博物館の近くにあるカフェで、黒田清輝の絵について語る彼。
彼は、とても嬉しそうだった。
夏休みの美術室で、わたしの絵を描く彼。
夜の千倉の海辺で、わたしの隣を歩く彼。
そして、あの日の放課後へとわたしは引き戻された――
「僕は、君が好きだ」と伊東はわたしにいった。
雨が降っていた。わたしたちは傘を忘れて、昇降口の前で雨宿りをしていた。
「ごめん」とわたしは答えた。
「どうして――」と彼。
わたしは何もいえなかった。
彼はわたしのことが好きだった。本当はわたしも彼のことが好きだった。
わたしは、彼のもとから逃げ出したのだ。そこには、多くの理由があり、カオスの様相を呈していた。
だけど本当は――それは初めからわかっていたことなのだけど――ただしあわせになることが怖かっただけなのかもしれない。
変化することを、わたしは怖れたのだ。自分自身や、自分を取り巻く世界が変わってしまうことを。
まるで、自分の存在がいなくなってしまうようで――
きっと、わたしが執着していたのは、蝶が羽化したあとに残る、サナギの殻に過ぎなかったのだ。
だからわたしは、歪んだ自分と自分の世界のほうを選んでしまった。
幼いころから泥水を飲んできた人が、とつぜん綺麗な水を差し出されても、それに抵抗を覚えるみたいに……
それは間違ったことだった。
わたしは、彼のもとから離れてはいけなかったのだ。
たとえ、怖くとも――
「引き返せませんか?」とわたしは船頭にいった。
背中を向けたまま、男は何も答えず、ただ舟を漕ぎ続けていた。
「引き返してください」わたしはさっきよりも、ハッキリとした口調でいった。
「できないな」そう男は、振り返りもせずに答えた。
「なぜ……」
「霧で見えないが、彼岸はもうすぐそこだ」と男はいった。「それでも引き返すというなら、もうひとり分の命が必要になる。だけど、お前の命は一つしかない……」
「どうしてもですか」わたしは訊いた。
「ああ」と男は答えた。「駄目だ」
「わかりました……」そうわたしはいった。
その場からわたしは立ち上がった。
それから回れ右をして、その河へと頭から飛び込んだ。
9
わたしは水面から顔を出した。
河の水は、氷のように冷たい。
わたしは泳いで、さっきの岸辺へ向かっていった。あの北極星と逆の方向へと泳いでいけばいいのだ。
どれくらい経っただろう。泳いでも泳いでも、岸辺は見えてはこなかった。
おかしい、とわたしは思った。方角は間違えていない筈なのに……
やがて、体力も尽きてきた。
あまりの水の冷たさで、身体の感覚がなくなってきた。
ああ、全部遅すぎたのだ、とわたしは思った。薄れてゆく意識のなかで。
わたしの人生は、あの日、あの場所で、きっと終わっていたのだ。彼を選ばなかったことで。彼から逃げてしまったことで……
それからの人生は、エンド・ロールだったのだ。長い長いそれだった。音楽だけが、ただ鳴り響いていたのだ……
そして、これで本当に、わたしの映画は終わってしまうのだろう。
これで、とうとうジ・エンドだ。
くだらない映画だったな、とわたしは思った。
とてもくだらない映画だった。三流、四流クラスの映画だ。まるで、観る価値なんてない作品――
わたしの隣に、君がいなかったから。
すべて身から出たサビだった。全部わたしが悪かった。わたしが馬鹿だった……
やがて力尽きたわたしは、河底へと沈んでいった。
わたしの身体が、闇のなかへと堕ちていく。
だけど、そのときわたしが見たものは、光だった。
闇の先に、光を見たのだ。淡くやさしく、そして暖かいそれだった。
それからわたしは、その光のなかへと溶けていった。
10
気がつくと、目の前に天井があった。
見知らぬそれだった。クリーム色の天井で、細長い蛍光灯が見えた。
横に目をやると、よくわからない機器のようなものがあり、何かアームのようなものがついていた。
傍に誰かが立っていた。
全身が真っ白だった。
天使?と一瞬思った。
しかし、それは人間だった。
その人は看護婦だった。
わたしの点滴を触っていたその人は、意識を取り戻したわたしに気がつくと、あら、と少し目を大きくした。
「ここは――」とわたしはいった。「天国じゃないですよね?」
彼女はニッコリとやさしく微笑み、「ええ」と答えた。
11
そのあとで、病室にやってきた両親から、事のいきさつを聞いた。
わたしは職場で倒れて、病院へと救急車で運ばれたのだった。
病名は脳出血だった。
あの頭痛はその前兆だったのだ。原因はわからないけれど、たぶん身体に鞭を打ち続けていたことなのではないか……
そのあとで、この病院で手術を受けたのだった。
無事にそれは成功したようだった。何の後遺症もないまま、退院できると医師から聞いて、わたしはホッと胸を撫で下ろしていた。
ICUから一般病室へと移ってきたあと、職場の人たちが見舞いにやってきてくれた。
「死んじゃったのかと思いましたよ」と、後輩のあの子が、泣きべそをかいていた。
わたしのベッドの傍の丸椅子に、彼女は座っていた。
「年明けに退院できるみたい」とわたしはベッドのなかで、彼女のほうに顔を向けて答えた。「しばらくすれば復帰できるよ」
忙しいときにごめん、とわたしはいい添えた。
そんなことはどうでもいいんですよ、と彼女はなおも涙を流しながらいった。
わたしは、ベッドから片手を伸ばして、彼女の濡れた頬にそっと触れる。
彼女が帰ってしまったあとで、わたしはクリーム色の天井を眺めながら思った。
不思議だった。自分のために誰かが泣いてくれているということが。
そんな人が今まで、わたしの人生に一人でもいただろうか……
いつの間にか「あちら側」へと、わたしは足を踏み入れていたのだろう。とっくにその基準は越えていたのだ。
あの泥水ではなく綺麗な水を、わたしは既に受け入れることができていたのだ。
あるいは、「彼」と出逢った頃からなのかもしれないな、と思う。
「彼」がわたしを変えたのだった。わたしを根本の部分から。そんな自覚は、彼にはないだろうけれど……
*
そろそろ、退院の日が近づいていた。
車椅子に乗って、わたしは廊下の隅にある休憩スペースへと向かっていた。何か飲み物を買おうとしたのだ。
ニットの帽子を被っていた。手術のために、わたしの髪は全部刈られていたのだった。
廊下の角を曲がり、自販機とソファが目に入ったところで、車椅子を動かす手が止まった。
そのソファに、見覚えのある横顔があったからだ。
わたしの存在に気づいて、彼もこちらへと顔を向けた。
すると、彼はミネラル・ウォーターのペットボトルを、手元から落とした。
ペットボトルは、床に転がり、残っていた水を流していた。
それでも、彼は、わたしのほうを見続けていた。ポカンと口を開けたままで。
「伊東」わたしは小さくいった。
「久しぶり――」動揺を隠すかのように、彼は微笑んだ。
ああ、とわたしは思った。
あれから10年も経っているのに、彼はわたしのことがわかるのか……と。
12
新幹線で、わたしと彼は伊豆へと出かけた。
まだ三月だったが、彼岸は過ぎていたので、風はそれほど冷たくはなかった。
「悪かったね」と伊東は笑った。「ついてきてもらっちゃって」
構わないよ、とわたしは答えた。「仕事も落ち着いて、特にすることもなかったし」
わたしと伊東は、町にある小さな喫茶店で遅い昼食をとっていた。
「みんな忙しくって、僕くらいしか見舞いに来られなかったんだよね」と彼はコーヒーを飲んだ。
彼のお祖母さんは病いを得て、わたしがいた病院に入院していて、それから、この伊豆にある療養所へと移ってきたのだった。
「だけど、良かったよ」彼はカップから顔を上げた。
「何が?」わたしも熱いコーヒーを啜った。香り高いコーヒーだった。
「君だって、僕の祖母のようになっていた可能性は充分あったんだから」と彼はいった。「何十年ものあいだ、遠くまで新幹線で足を運ぶのは大変だろう?」
「まるでわたしがそうなっても、わたしから離れないみたいないい方だね」とわたしは彼のことを見て訊ねた。
「当たり前じゃないか」と彼は答えた。さも当然というような顔で。
「当たり前なんだ」とわたしは答えた。
そうか、当たり前なのか……
わたしはどうだろう?と思った。彼がそのような立場になったら、わたしはどうするのだろう。
多分と思った。多分、彼と同じことをするのかもしれない。
*
この近くに海があるらしいので見にいくことにした。
そこには、磯辺があった。
青空が広がっていた。ところどころに、刷毛を引いたような白い雲が見える。
風が強く、わたしたちの髪とコートをなびかせていた。
「ここに来た帰りは、いつも立ち寄るんだ」と伊東がいった。
「海が好きなんだよね」とわたしは微笑んだ。「それも、人のいない海が」
「ご明察」と彼は冗談めかすように笑った。「君と同じように」
彼とは、ほとんど趣味や価値観が合わないというか、むしろ正反対なのだったが、静かで人のいない海が好きというところは、数少ない共通点の一つなのだった。
「それでスケッチブックに、この場所を描いてから帰るんだ」
まだ彼は、絵を描いていたのだった。
美大は出たけれど、やはり絵だけで食べていくのは難しいらしくて、美大予備校の講師をしながら描き続けているらしかった。
それで、ギャラリーに自分の絵を置いてもらったり、たまに個展を開いてもらったりするのだとか。
「そういえば」と伊東はいった。「君、小説は書いてるの?」
「小説?」とわたしは訊ねた。
「高校生のころ、千倉の海辺で話していたじゃないか」と彼は続けた。
「そんなもの書いてないよ」わたしは風で乱れる髪を、何度も耳にかけようとしては失敗した。
実は、一時期書いていたのだった。大学をやめて、自室に引き籠もっていたときに。
が、自分の才能に見切りをつけて、とっくに書くのをやめていた。
「また書いてみたらいいのに」と伊東はいった。
「そんな暇なんてないから」仕事は落ち着いたとはいえ、相変わらず、土日以外は八時間拘束されている身なのだ。
「たとえば、朝と夜に一時間ずつ、つまり一日二時間だけでもさ」と彼。「そうすれば、一年間でえぇと……」
「730時間」とわたしはいった。
「そうすれば、二年くらいで長編の一本くらいは書けるんじゃないかな?」
そうかもしれない、とわたしは思った。一日八時間机に向かうとすれば、1460時間は約半年ぶんだ。
だけど、わたしにそこまでの情熱が保てるだろうか……。いうまでもなく、朝は眠いし、夜は仕事でくたびれ果てている。お酒だって飲みたい。
だけど、不思議なのだが、彼にそういわれると、やってみようかな、という気が起きてもくるのだった。
あの千倉の海辺のときもそうだった。結局あのときの情熱は、簡単にひれ伏してしまったのだが……
「そうだ」不意に彼がいった。
「また、変なことでも思いついたの?」とわたしはからかった。
「モデルになってよ」と彼が続けた。「その辺りに立ってて」
「また?」とわたしはいった。
とはいえ、その求めにわたしは応じてしまうのだったが。
彼がわたしを描いてくれることが、わたしには嬉しいことなのだった。多少くすぐったくはあったけれども。
シンガー・ソングライターは恋人を歌に、作家は恋人をヒロインに、そして画家は恋人を絵にするのだった。
わたしから少し離れたところに立って、伊東は鞄から出したスケッチブックに、鉛筆を走らせ始めた。
わたしはぼんやりと、沖合のほうを眺めていた。
そこには、既視感があった。彼がわたしの絵を、千倉の海岸で描いていた記憶だった。
たぶんこれから先も――五年先、十年先、そして二十年先も、彼とこうしているのかもしれない。
それは、とても幸福なことのように思えた。
おそらく、彼と逢えない期間がなければ、そのことにしあわせを感じることもなかったのかもしれない。
それが当たり前になってしまうから。日常に侵食されてしまうから。
それが当たり前にならないように、わたしには、彼と離れ離れになる期間が必要だったのだろう。
それは、わたしと彼の関係を揺るがないものにするための、確かな基盤となったのだ。
だから、あの日のわたしの選択は間違っていなかったのだろう。結果的には、ということだけれども――
「できたよ」と彼がわたしに声をかけた。
わたしは彼のほうへと歩いていき、そのデッサンを見せてもらった。
わたしの人生は間違いだらけだったように思えたけれど、その先に今があるのだった。
彼がいるのだった。
そのどれか一つでもずれていたら、今このときには至れなかったかもしれないのだ。
だから、わたしのこれまでの人生は、大筋のところでは間違っていなかったのだ。
だから、これから先もたぶん大丈夫なのだろう。
それにこれからは、わたしはもう独りではないのだ。
《了》




