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  作者: 増瀬 司
3/4

第三話 隠されたルサンチマン

 1


 11月。その日は小雨が降っていた。みぞれ混じりの雨だった。

 ちょうど仕事が休みで、わたしはアパートのリビングで温かいココアを飲んでいた。

 雨は相変わらず好きだった。屋内にいるときだけに限られていたけれども。

 ようするに、部屋のなかで雨降りを眺めていることが好きなのだ。軒先からの雨垂れの音や、雨どいから流れ落ちる雨水の音を聴いていることが。それから、窓越しの、藍色に染まった世界を眺めていることが――

 何か勉強でもしようかと考えていたとき、インターホンの鐘が部屋のなかに鳴り響いた。

 わたしは室内のカメラ越しに玄関先を見やった。

 男が立っていた。ひょろ長い身体の。

 桜だった――


 *


 「一体、どうしたの?」わたしは呆れ声を出して、彼にタオルを手渡した。「こんな日に……」

 桜は三和土の上で、タオルで顔を覆いながら言った。「追い出されたんですよ……」

 「えっ?」とわたし。

 「家から追い出されたんです」桜は栗色の髪を拭きはじめた。「父親とケンカしてね」

 「どうしてまた……」

 「大学をやめたんですよ」彼は湿ったタオルをわたしに返してきた。


 「本当にやめたんだ」わたしは新しく作ったココアを啜った。

 桜とわたしは、小机をはさんで向かい合っていた。

 彼はわたしの、グレーのヨット・パーカーを着て、二本の白い縦線が走った黒のスウェットを穿いていた。

 彼の身体からすれば、わたしの服はかなり短かったけれど、彼は線が細いので、それほど窮屈そうには見えなかった。

 「君、友達とかいないの?」わたしはそう訊ねてみた。

 「いないことはないんですけど――」桜もココアの入ったマグカップを口許に持っていった。「あんな状態じゃ、誰も上げてくれないですよ……」

 「その人たち、たぶん『友達』じゃないよ」と思ったけれど、あえて口にはしなかった。「てゆうか、わたしなら上げてもらえると思ったの?」

 「自信はありましたね」と彼は微笑んだ。 

 「自信ねぇ……」わたしは頬杖をついた。

 「それで、これからどうするの?」わたしは戸棚から持ってきたチョコ・チップ・クッキーを一つ摘んで食べた。

 ココアじゃなくて、コーヒーを淹れればよかった。甘いものと甘いものの組み合わせはちょっとツラい……。寒い日には、熱いお茶が飲みたいし、暑い日には、冷えたサイダーが飲みたい。

 「しばらく泊めてもらえませんか?」と彼が頼んできた。

 「やれやれ」とわたしは言った。「そう来ると思ったよ」

 「いいよ」とわたしは冷たくなったココアを飲み干した。「ただし条件が一つだけあるけれど……」

 「なんですか?」

 「毎日じゃなくてもいいから、ウチにいるあいだ、ここのそうじ等をすること」 

 「このまえ言ってたことと、矛盾してません……?」彼もココアを飲みながら、わたしのほうを恐る恐ると見た。

 それとこれとは、話がべつ、とわたしは答えた。どうべつなのかは、わたしにもわからなかったけれども――


 2


 思いの外、彼はかいがいしく働いてくれた。

 わたしがアパートに戻ってくると、洗濯も掃除も手抜かりなく終えられていた。

 洗濯ものはきちんと畳まれていて、ブラウスにはアイロンまで掛けられてあった。

 床も掃除機で埃を吸い取ったあとで、雑巾がけがなされていた。部屋全体が比喩ではなくピカピカに輝いていた。

 食事の準備までしてあるのを見たときには、目から何か熱いものが滲み出てくるのを感じた。普段は、食事はそとで済ませるか、あるいは、コンビニの弁当で間に合わせていたからだ。

 「ヒモというより、君は主夫だよね」わたしは煮物を箸で摘みながら言った。

 その煮物は、やさしい味わいがした。どこか酷く懐かしい味さえもした。不思議なのは、わたしの母親の料理の味とは似ても似つかないところだった。

 「父親はだいたい出張で、母親はパートで家を空けていたことが多かったんですよ」桜はだし巻き卵を箸で二つに割きながら答えた。

 その卵焼きは薄味の関西風だった。たぶんカツオだしは使っておらず、昆布だしのみを使っていたのだろう。

 「姉とかもいないし、それで必然的に、家のことは自分である程度はするような流れになったんですよ」と彼は続けた。

 「普通、そうならないと思うんだけどなぁ……」とわたしはみそ汁を飲んだ。みそ汁なんだから音を立てたっていいのかもしれないけれど、いちおう相手がいるので静かに飲んだ。

 そのみそ汁も美味しかったけれど、やはりどこか懐かしい味わいがした。いつか何処かで、味わったかのような……

 「普通そうならないだろう」とわたしは頭のなかで復唱した(みそ汁の話ではなくって)。たぶん普通はグレたりするものだろう。

 彼は素直なんだろう。あるいは真面目なんだろう……。もちろんいい意味でだ。

 彼に対して、より好感を持てた気がした。


 3


 休日には、彼とよく出かけた。

 場所は決まっていて、神保町と上野だった。わたしが都内で出かける場所といえば、その二つの街に限られていたからだ。

 桜はルックスがいいくせに、身なりには無頓着なようで、原宿にも表参道にも出かけないようだった。

 彼はだいたいは、UNIQLOで服を済ませていた。見た目がいいと、どんなものを身につけても、様になってしまうから羨ましかった。一応書き添えておくけれども、皮肉の意図はなくフツーに本心である。

 三省堂書店と東京堂書店で、仕事の本と趣味の本を買ったあとで、わたしたちは書店に併設されたカフェでお茶をした。

 「何の本を買ったの?」そうわたしは訊ねて、熱いコーヒーを飲んだ。コートを脱いだからか、身体がとても軽かった。

 「『神との対話』です」と桜は答えた。「ドナルド・ウォルシュの――」

 「好きだね、そういう本が」わたしは半ば呆れて、半ばからかって笑った。

 どうもそちらのジャンルに行くのは、わたしには昔から抵抗があった。ごく稀に、キリスト教や仏教関連の本をパラパラとめくってみたりはするけど、それくらいなもんである。

 「何の本を?」と桜が訊ねてきた。

 「仕事の本と、食べ物のエッセイ」わたしはフルーツケーキの苺を、フォークで口許へと運んだ。

 「仕事の本は、翻訳の?」彼がお茶を一口すすった。

 「そう」正確には、ロシア語の不完了体と完了体に関する語学書だった。

 「ロシア語が好きなんですよね?」と桜が訊ねてきた。

 「そうなんだと思う」わたしはまたコーヒーを飲んだ。なぜか、好きだと言い切れなかった…… 

 「なぜ、ロシア語を?」彼は続けて訊ねた。「これはべつに他意はなく、純粋な質問なんですけれども――」

 「ロシア語に限らず、外国語自体に興味があるんだよ」とわたしは答えた。「どうしてロシア語なのかと言えば、あのキリル文字に惹かれたから――」

 ここまで説明して、あれ?これ前にも彼に説明したことがあったな……と気がついた。だけど面倒くさかったので、そのまま続けた。彼はすっかり、忘れてしまったようだし。

 「どうして外国語が好きなのかといえば……」わたしは窓の外の景色を眺めた。「たぶん、わたしは他者になりたいんだよ」 

 ようするに、自分のことが嫌いなのだった。


 *


 「でも、僕はあなたのことが好きですよ」と彼は言った。

 「ありがとう」わたしは無感動に答えた。

 また上野公園のスターバックスに、わたしたちはいた。テラス席でテーブルを挟んで、また熱いコーヒーとお茶とを飲んでいた。お互いコートを着込んで……

 なぜこの寒空の下、テラス席でコーヒーなんか飲んでいるのかといえば、なかが満員御礼だったからだ。

 「どうして自分のことが、そんなに嫌いなんですか?」桜は噴水のほうを眺めながら訊いてきた。噴水は視界に入るだけでも冷え冷えとした。

 「容姿だよ」とわたしは短く答えた。そんなことを言わせるな、というニュアンスを込めて――

 「僕はあなたの顔が好きですけどね」と彼はわたしのことを見て言った。「頭から爪先まで全部ね……。多分、あなたがコンプレックスだと感じているところまで」

 「ふぅん」とわたしはコーヒーを飲んだ。今度は、儀礼的なことは口にはしなかった。

 怒っていたからだ。

 「『ふぅん』って何ですか」と彼。

 「信じられないんだよ」とわたし。

 「でも、本当にお世辞じゃないですよ」と桜は続けた。「僕はむかしから、あなたのような顔立ちが好きだった。それからあなたのような身体つきがね。あなたに会う、ずっと前から――」

 わたしは黙っていた。


 そのころわたしは、ある一つの仮説を持っていた。

 「おそらく美しい人というのは、恋愛相手に対して、外見的な美を求めないものなのではないか?」と。

 なぜ美しい人は、相手に対して美を求めないのか?

 それは、美しいものを求めたい欲求が、自分の存在自体で、すでに満たされているからなのだろう。

 そのなかには、そのことが当たり前過ぎて、その理屈に気づいていない人たちもいるのではないだろうか。

 もちろん、例外もあるだろう。たとえば、自分自身が美しいのに、自分のことを醜いと思い込んでいる人は、その限りではないのだろう――

 ところで、わたしの仮説が真実なのだとしたら、外見的に美しい人は、恋愛相手に対して、いったい何を求めるものなのだろうか?

 たぶん、とわたしは思った。たぶん、ほかの美しさなのだろう。

 あるいは、美しさ以外の何かなのだろう。

 

 4


 わたしの身体を、桜は求めてはこなかった。

 「わたしはそこまで魅力がないのか……」と落ち込みもしたのだけど、どうも彼は性的なものに対して関心を持たないのではないか?という疑惑を抱き始めてもいた。

 そういう雰囲気も跡も、いっさい見せなかったからだ。

 そんな男が世の中に本当にいるのか?と半信半疑ではあった。そういう人たちは、フィクションの世界か、ごく一部の世界の人たち――たとえば、仏教徒らやキリスト教徒らなどに限られていると思っていたからだ。

 彼は、ベジタリアンでもあった。肉と魚を食べない。卵と乳製品までは、たまに摂っている。

 わたしに焼きジャケや生姜焼きを作ってはくれるけれど、彼自身がそれらを口にすることはまずなかった(味見くらいはするのだろうけれども)。

 そういえば、ガンディーもトルストイも草食主義者だった。ガンディーはヤギの乳まで、トルストイは卵までは摂った。

 彼はどうやら、『アミ 小さな宇宙人』の影響を受けているようだった。 

 さくらももこが表紙を手がけた、あの本だ。


 「ところで――」とわたしは思った。

 では、なぜ彼はわたしを「好き」だと言うのだろうか? なぜ、わたしと一緒にいるのだろうか?

 それは、恋愛感情ではないのだろうか? 女として、わたしを見ていないのだろうか……


 *


 ある夜。わたしは「そのこと」について、それとなく問い質してみることにした。

 「完全になくなるわけじゃないですよ」と桜は言った。

 彼はシャワーから出たあとだった。

 冷蔵庫から出したミネラル・ウォーターを一息にゴクゴクと飲んでいた。

 喉仏が上下しているのが見える――

 汗と水とでてかった首周りが、オレンジの蛍光灯の光を照らしていた。

 真っ白なTシャツに、二本の白い縦線が並んで入った黒いスウェットという姿だった。両肩には、濃いベージュのタオルをかけている。

 「というと?」とわたしは訊ねた。

 わたしはリビングの小机の前で頬杖を突ついて、顔だけは彼のほうへと向けていた。

 テレビではバラエティ番組がやっていた。部屋のなかに出演者たちの笑い声が響いた。

 「ヴィーガンをやっていれば、ほとんど消えますよ。限りなくゼロに近いくらいにね」と彼はミネラル・ウォーターを飲み干してから言った。「だけど僕は、『ラクト・オボ・ベジタリアン』だから、ヴィーガンほどに性欲が消えてなくなるわけじゃない。つまり、たまに卵や乳製品までは摂るから――」

 「前はカレーとか食べてたよね?」とわたしは訊ねた。

 インド・カレーのことはよく知らないけれど、カレーにはブイヨンが使われているはずだ。

 「そのころは、鶏肉と魚までは摂ってもいいことにしていたんですよ」 

 桜はリビングまでやってきて、わたしの斜向かいに腰を下ろした。「あのとき食べたのはチキン・カレーで、メニューの成分表を見ても、鶏以外の肉は使われていないようだったから――」

 「君は最終的に、ヴィーガンになるの?」

 わたしは彼の目を見て訊ねた。

 「わかりませんね」

 彼は横目でテレビを見ていた。

 「君は女性に興味がないの?」畳みかけるように訊いた。

 「ヴィーガニズムや、それに近い生活をしていれば、関心はかなり弱くなりますよ。『性的』な意味ではね……」

 でも――と桜は続けた。「だからこそ、自分が本当に好きな人がわかる。ハッキリとね」

 「プラトニック・ラブ……」わたしは口に出してそう言った。

 「君みたいな人が増えたら、人類が滅ぶ」とわたしは笑った。

 「完全に消えるわけじゃないですよ」と桜はわたしに微笑みかけた。「特に、『本命』の相手に対してはね――」


 5


 その夜。わたしたちはいつものように、リビングで寝た。

 「寝た」といっても、それは比喩などではなく、本当にただ寝るだけだったのだが……

 ただし、その日を除いて――

 わたしはベッドで、彼はソファをベッド代わりにして横たわっていた。

 「起きてます?」と薄闇のなかから、桜の声がした。

 「起きてる」とわたしは瞼を開けて答えた。夜にコーヒーなんて飲むんじゃなかった…… 

 「どうして僕なんかを、ここに入れてくれたんですか?」と彼が訊ねてきた。

 「あの状況じゃ、入れるほかないでしょ……」わたしは暗い天井を眺めながら答えた。

 「僕の友達は、たぶん誰も入れなかったですよ」

 「その人たち、友達じゃないんだよ」と今度は口に出して言った。

 「どうして、いつまでもここに置いてくれるんですか?」桜が続けて訊ねた。

 「顔が良かったから」わたしはやはり、天井をぼんやりと眺めながら答えた。

 部屋がシン……と静まった。たぶん、彼は落ち込んでいるのだろう。

 「というのは、冗談で……」本当は半分くらいはそれが理由なのだけれど、それは黙っていた。

 ただ今になって思うのは、ルックスなんて、本の表紙のようなものなのだ。アルバムのジャケットのようなものなのだ。

 その中身を知ってしまったら――それを愛してしまったら、表紙もジャケットも、それほど重要ではなくなってしまうものだ。

 つまりルックスとは、ただの入り口に過ぎない。

 その頃は、そのことがわからなかったのだ。あるいは、意識できていなかったのだ……

 「君が純粋だったから」とわたしは桜の質問に答えた。

 君が優しかったから。

 「純粋ですか」と彼が訊いた。

 「知らないの?」とわたし。自分のことなのに。

 「自分のことはわからないですよ……」

 「『アミ』や『アルケミスト』や『神との対話』を好んで読む人が、純粋じゃないわけがないじゃん」

 「わかりませんよ」と彼は笑って言った。

 また沈黙が降りてきた。

 「なぜ、純粋な人が好きなんですか?」と彼が続けて訊ねた。

 「わたしがそういう人じゃないからだよ」と答えた。

 「そうなんですか?」

 そうだよ、とわたしは答えた。「わたしは歪んでいる――」

 それはわたし自身のことだから、よくわかった。

 真っ直ぐじゃなく、歪なのだ。澄んでいなくて、濁っている――

 魂と心とが。

 「たぶん人は……」とわたしは言った。「自分の持たないものを持っている人に惹かれるんだよ」

 「わたしが美しい君に惹かれているのも、それが理由――」

 「あなたは基準が高ぎるんだ」と桜は笑った。「あるいは自虐的なんだ……」

 どうかな、とわたしは答えた。どうかな――

 沈黙。

 窓の外からは、遠くの車の走行音が聞こえていた。どこかの幹線道路のだろう。

 遠い風の音のような。あるいは遠い海鳴りのような――

 「僕に惹かれているって、さっき言いましたよね?」と桜が訊ねてきた。

 「言ったっけ……」わたしは白を切った。

 「それなら――」それを無視して彼は言った。「今日はそっちに行ってもいいですか?」

 わたしは少し間を空けたあとで、少し迷った素振りを見せたあとで、身体をずらして彼のためのスペースを作った。


 6


 それからしばらくして、彼とわたしとは別れた。

 理由はいろいろあった。

 それらは複雑に絡み合っていて、カオスの様相を呈していた。

 だけど今から思えば、それらは全て「ヘリクツ」であるように思える。

 無意識のうちに、わたしは理由をでっち上げていたのだ。

 その日は、彼と出逢ったときと同じ6月だった。

 そして、彼と出逢ったときと同じように、雨が降っていた――

 桜は「お世話になりました」とだけ言い残して、彼の少ない荷物を詰めたバックと、新品のビニール傘を持って、わたしの部屋から出ていった。

 リビングで小机に向かっていたわたしは、彼のほうを向かずに、小さく肯いて見せた。

 桜の視線を身に感じた。彼はそのとき、微笑んだかもしれない。

 それは時々彼が見せた、淋しげな微笑だったのだろう。

 冷たい風に吹かれたかのような。

 「わたしは彼の母親にはなれなかったな……」と思った。

 所詮は、「ままごと」に過ぎないのだ。子どもが子どもの親になれるわけがないのだから。

 共依存では、二人はどこにも行けないのだ。

 だけどそれすらもヘリクツであるように思えるときがあった。

 その時には気づかなかったけれども、わたしのなかには、隠されたルサンチマンがあったのだ。彼に対するそれが――

 それをわたしは認めたくなかった。そしてそれは、わたしの無意識の海へと深く沈んでいたのだ。

 わたしはそれを自覚することができなかった。

 だからそれに、わたしは操られたのだ。 

 知らず知らずのうちに。合理化なんかを弄して……

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