第二話 桜
2024年6月
1
その日、わたしは会社から出ると、傘を差し、幹線道路沿いに北へと向かって歩き出した。
夕方の六時ごろだった。街は藍色に染まっていて、街全体が雨で濡れていた。両側二車線の道路の一方は、車で鮨詰めのようになっていた。
ランドセルを背負った男の子二人が、傘を差しながら、私の横を走り抜けていった。わけもなく楽しそうに。
ランドセルに下げたキー・ホルダーが、大きく左右に揺れていた。
わたしはいつものように少しだけ遠回りをして、駅へと向かった。アーケード街の歩道は狭く、その上通行人が多かったからだ。おまけに今日は皆、傘まで差していた。
わたしは河原の堤防の上を歩いていった。河の水位が異様なほどに上がっていた。流れが恐怖を催すくらいに速くなっていた。
河の向こう岸にある高速道路の高架からは、車の走行音やエンジン音が、遠い海鳴りのように街に響き渡っていた。ゴォ……と。
線路の高架下沿いを歩いていき、駅前のデパートの裏にあるT字路を横切ろうとしたときだった。やってきた原付に撥ねられた。
その原付は、横向けでスライディングするかのように、こちらに向かってきた。急ブレーキをかけたのだろう。
それでわたしは、雨で濡れたアスファルトの上に投げ出された。
わたしは一瞬、気を失ったあとで目を覚ますと、目の前に誰かが立っていることに気がついた。
その「誰か」は、その背後のヘッドライトでシルエットのようになっていた。
わたしは路上に横たわっていた。アスファルトはやはり雨で濡れていて、ひんやりと冷たかった。
辺りはすでに真っ暗になっていた。
「だいじょうぶですか?」と声が降ってきた。その声の持ち主は、わたしの目の前のシルエットからのようだった。
低い声だった。どこか間の抜けたような……
目が慣れてきて、そのシルエットの人物像が、薄ぼんやりと浮かんできた。暗闇のなかで。
若い男だった。二十歳前後ほどの。
髪は茶色に染まっていた。中性的な雰囲気で、背がひょろりと高い。
そのとき、わたしと彼は目が合った。
小雨だったそれが、不意に本降りとなった。ザァッ……と。タライの水をひっくり返したみたいに。
雨脚はさらに強くなっていった。
遠くのほうから、救急車とパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。そのあたりで、わたしの記憶はまた途切れた——
2
そこは白い壁に囲まれた部屋だった。
窓の外ではやはり雨が降っている。
わたしはぼんやりと窓の外を眺めていた。
空全体が、少しグレーがかった白い雲で覆われていた。
そして町に、細やかな柔らかい雨が降り注いでいた。病院の周囲には緑が多いが、その向こう側には、ビルやマンションばかりが目立った。
僅かに開かれた窓からは、湿った冷たい空気が、室内に入り込んできた。部屋の澱んだ空気のおかげで、それはより澄んだものに感じられる。
わたしは吐息をついて、ベッドの傍にある小机の上から一冊の本を手に取り、それを読み始めた。『百年の孤独』だった。ガブリエル・ガルシア=マルケスの。こんな缶詰みたいな状況でなければ、とても読み通せる自信がなかったのだ。プルーストの『失われた時を求めて』を持ってきてもよかったかもしれない——
コンコンと、不意にノックの音が、部屋に響いた。
はい、とわたしはドアのほうを向いて答えた。「どうぞ——」
ガチャリとドアが開くと、そこには彼が立っていた。
わたしの加害者だった。例の事故の——
3
「こんにちは」と彼は微笑んだ。
一方の手には傘 (ビニール袋に入れられている) が、もう一方の手には小ぶりな白い箱 (有名な洋菓子店の) が提げられていた。
「こんにちは」とわたしも無感情に答えた。正確にはそれを装って——。それから持っていた本を閉じた。
「何を読んでいたんですか?」と彼が尋ねた。どことなく寂しげな声で。そして、いくぶん低い声で (それが彼の地の声だった) 。
「『百年の孤独』」とわたしは答えて、その本を小机の上に置いた。「さいきん文庫本が出たから買ったの」
「名前だけは知ってます」と彼は言った。「座っても?」
「どうぞ」とわたしは答えた。やはり無感情を装って。
「さっきまで、警察署にいたんですよ」と彼は言って、ベッド横の丸イスに腰を下ろした。「事情聴取をされてたんです。朝からさっきまで……。もうヘトヘトですよ」
「君が悪い」とわたしは、器具で吊るされた自身の片足を眺めながら言った。その足にはギプスがはめられていた。
「責める意図はないんですよ」と彼は言った。「ただ、出来事を報告しているだけです」
沈黙が流れた。
「これ……」と彼がわたしのまえに、例の白い箱を小さく掲げた。「ケーキです。モンブランとミルフィーユ……。良かったらどうぞ」
「ありがとう」とわたしは答えて、それを受け取った。それからベッド横の小机の上にそれを置いた。
「学校には行かなくていいの?」とわたしは窓の外に目を向けてそう訊いた。しょっちゅう、ここに顔を出しているみたいだけど?」
「休んでます」と彼は答えた。「いまは、休学中です」
「今回の事故が原因?」と彼の顔を見て尋ねた。
「きっかけは」と彼は答えた。「それ以前にも、色々あったんですよ。それらが積もり積もっているときに、今回の事故を起こしてしまって。それでやめるって言ったら、母親に止められて……。とりあえず休学という形をとったんです」
彼の母親のことを、わたしは思い返した。
彼が初めてわたしの病室 (運良く、わたしは個室をあてがわれた) にやってきたとき、彼女も隣にいたのだった。まだ若い、綺麗な人だった。ほっそりとした身体つきで、それでいてどこか品のある——
しばらく会話を交わしたあとで、彼は帰っていった。「また来ます」と最後に微笑んだ。どこか儚げに。
パタン……と、ドアの閉まる音が部屋に鳴り響き、それから静寂が部屋を覆っていった。
彼の名前は「桜」といった。
4
それからも彼——桜は、度々わたしの病室へとやってきた。
特になにをするというわけでもなく。わたしと適当に雑談をしたり、持ってきた本を丸イスの上で黙って読んでいたりしていた。
大学にも行かず、アルバイトもしていないようなので暇だったのだろう。
それから——
「なにを読んでいるの?」わたしは彼にそう尋ねた。少し会話が欲しいと思ったのだ。
「『アミ』です」と桜は言った。「『アミ 小さな宇宙人』」
知ってます?と彼は本を閉じて、その表紙をこちらに向けた。
そこには見覚えのあるイラストが書かれていた。国民的作家の——
「知らない」とわたしは答えた。「だれが書いたの?」
「エンリケ・バリオスって人です」と彼。「チリの作家です」
「それをいつも読んでいたの?」
「それは『アルケミスト』ですね。パウロ・コエーリョの」と彼は答えた。
わたしは彼から『アミ』の話を、かいつまんで教えてもらった。
「『進歩度』って概念が出てくるんです」と彼は言った。
「なにそれ」わたしは笑ってきいた。
「天使か獣に近いかを表す度数です」
「天使に近いとどうなるの?」
「救われるらしいですよ」と彼。「この世が滅びるときに——」
救われるねぇ、とわたしは吐息をついた。一種の選民思想だなと思った。
むかし、興味本位で読んだ『ヨハネの黙示録』を思い出させた。右手か額に獣の刻印を押された人々と、額に子羊の名と子羊の父の名が記された14万4千人の人々――。その14万4千人の人々は救われるのだ。
わたしは、桜の顔をジッと眺めた。
「なんですか」と彼は怪訝そうに言った。
「いや——」とわたしは小さく答えた。
彼は救われるのかな?と思った。
ところで、わたしはどうだろう?
5
わたしは退院し、仕事にようやく復帰した。
職場の人たちが、ねぎらいの言葉をかけてくれた。大半は、本心からの言葉であったように見えた。
「まだ、大丈夫」とどこからか声が聞こえてきたような気がした。「まだ、ここにいられるよ」と。
ただ、それも時間の問題だろう。どうせいずれ、わたしはボロを出す。本性が露呈されてしまう。「こいつは違う」と……。わかっているのだ。
そして、そのコミュニティから追放される。あるいは、それを維持するための、スケープゴートとして使われる。
デスクトップのまえに座り、キーボードを叩き、タスクをこなしていった。
お昼休みのとき、何気なくスマートフォンを覗いてみたら、メッセージが一件入っていた。
わたしは目を見張った。
「彼」からだったのだ。
*
日曜日、わたしは桜と、わたしの住む町の駅前で会った。彼は髪が少しだけ伸びていた。
「なにか食べに行こう」とわたしは提案した。「わたし朝、なにも食べてなかったんだ」
「カレーがいいですね」と彼は笑った。
わたしたちは、駅近くにあるインド料理店に入った。まだ昼前だからか、そんなにお客はいなかった。
わたしたちは一番奥の席に、向かい合って座った。二人とも、もちろんカレーを注文した。
「退院したんですね」と彼は言った。
「見ての通り」とわたし。
「お祝いなので、僕が奢りますよ」
「ありがとう」
沈黙が流れた。外からの喧騒が微かに聞こえてくるだけだった。
窓の外からは遠くに、イトーヨーカドーが見えた。
手持ち無沙汰になった彼は、店内の様子をただ眺めていた。綺麗な顔だな、とわたしはあらためて思った。
どことなく儚げな美しさだった。そんなに美形なら、さぞ人生も楽しいだろう——。そんな皮肉が口を突いて出そうにもなる。
「何のお仕事をされているんですか?」と不意に声が聞こえてきた。
わたしはハッとして、桜のほうを見た。彼はこちらをジッと見ていた。やはり美しい。
「翻訳」とわたしは、グラスの氷水に口をつけた。
「翻訳?」
「翻訳事務所に勤めているの」とわたしは答えた。「小さな個人経営のね。従業員もアルバイトも含めて20人もいない」
「なんの翻訳を?」と彼。
「『どの言語を』ってことだよね?」
「ええ」
「ロシア語」わたしは少し声をひそめて言った。ウクライナでの戦争で、ロシアやロシア的なものがタブーのようになってから久しい——。「忙しいときは、英語のも回されるけどね」
「第二外国語で、ロシア語を?」
「そう」とわたしは答えた。「大学はやめたんだけど、基礎は学んでいたから、自室に引きこもってコツコツとね。学びグセみたいなのが残ってて……。そのあと知人のつてで、その職場を紹介してもらったの」
「ロシア語ってどんな言語ですか?」と桜が尋ねた。「難しいイメージがありますけど——」
「文法はけっこうシンプルだよ」とわたしは言った。「あのキリル文字のせいで、とっつきにくいイメージがあるけれど……。たとえば、英語でいうbe動詞は使わないし、日本語でいう助詞もない。主語と述語が直接結びつく。『これ、ペン』みたいな……。それは現在形だけに限られるんだけど」
「へぇ」と桜はちょっと目を丸くした。少しだけ興味をもったみたいだ。
「時制も、現在形・過去形・未来形の三つしかない。動詞のアスペクトで、微妙な時制のニュアンスを表現できるけど。あと、英語で面倒な冠詞もない。つまり、theとかaとかが」
「それはラクですね」と彼が笑った。
「ただロシア語は、語尾変化がうんざりするほどやっかいだけどね。一つの単語——名詞、代名詞、動詞、それから形容詞までもが、5〜30通りくらいに変化する」
日本語学習者の外国人から見れば、日本語の活用というのは、きっとこんな感じなのかな……と、わたしは常々思っている。わたしたちは普段、何気なく使いこなしているけれど。
「はぁ——」彼は呆けたように、口を小さく開けていた。
「こんな話でいいなら、いつでもしてあげるよ」とわたしは言った。
「いや、もう語学の話はけっこうです」彼は苦笑して、グラスの氷水を飲んだ。「頭が痛くなってくるんで……」
「いつでも?」とわたしは不意に思った。何かそう、口を突いて出てしまったのだ……
注文したカレーがやってきた。カレーの横には大きなナンが横たわっていた。わたしたちはそれを黙って食べた。
カレーはあっさりとした味で、とても美味しかった。リピーターになろうと思った。
わたしたちは、駅前のドトール・コーヒーへと移った。
「大学にはまだ行ってないの?」とわたしは尋ねた。
「ええ」と桜は答えた。
わたしたちはテラス席で向かい合っていた。わたしはコーヒーを、彼はお茶を飲んでいた。
駅前は、大勢の人たちで行き交っていた。家族連れたちや若いカップルたちが目立った。みんなどこか嬉しそうに見えた。
「もう、戻るつもりはないんです」と彼はティー・カップを口許に持っていった。
沈黙が流れた。
駅前の広場では、アイドル・グループの子たちが、ステージ台の上で、歌をうたったり踊ったりしていた。大勢の人たちがその周りを取り囲み、人山を築いていた。
リーダーの子の名前は、たしか「伊藤」といった。
「やめてどうするの?」とわたしは尋ねた。
「働きますよ。どうせ家にはいられなくなるでしょうし……」あるいは主夫にでもなりますよ、と彼は付け足した。
「主夫?」わたしは噴き出しそうになった。「ヒモじゃないんだ?」
「僕にそんな才能はありませんよ」と彼は言った。
「ヒモに才能とかあるの?」わたしはまた笑った。
久しぶりに笑った気がした。最後に笑ったのはいつだったっけ?
「なにもしないことに耐えられないんですよ」と彼は言った。「なにもしないのに受け入れられることが、自分にはどうしても信じられない——」
「家族のなかでも?」とわたしは質問した。
「まあ、そうですね……」と彼。「形の上ではそうじゃないように振る舞ってはいるけれど——」
「それは一度、経験しておくべきことなのかもね」とわたしは言った。「大人になっちゃうと、それを得ることが難しくなるから……」
つまり、社会に出てしまうと、それがほとんど (全くとは言い切れないだろう) 不可能になる。なぜなら、言うまでもなく、大人は大人を甘やかさないからだ。
なにより、大人は他者を疑うものだから。
なにもしなくても受け入れられる——、つまり無条件の愛情は、子ども時代に受け取っておくべきなのだろう。そして、人を疑わない子どものころに。いわゆるマズローの欲求五段階のうちの「愛と所属の欲求」だ。
それが、その人の依存心を解消させていく。愛情が、その依存心を相対化させていく。
そして、人を愛せる人間にする。なぜ彼彼女が人を愛するのかといえば、愛されたことが嬉しかったからだ。
そして、その愛情は本物の愛情でなくてはならない。「愛のための愛」でなくては——。「愛されるための愛」ではきっとダメなのだ。
*
夜の七時ごろ、わたしは駅の改札のまえで、桜を見送った。
彼の細い背中が小さくなっていき、やがてエスカレーターの陰へと消えた。
「わたしは彼の母親にでもなろうとしているのか?」そう、わたしは心のなかで自分自身に問いかけた。
バカバカしいと考えつつ、わたしは夜の住宅街を歩いていた。
それは本当に馬鹿げていた。わたしにそんな資格などなかったからだ。
なぜなら、わたしは……
6
その後もわたしは桜と会うことになった。
ただいっしょに食事をして、そのあと近くのカフェでコーヒーとお茶を飲むだけだったが……
ときどき少し遠出もした。「遠出」といっても、都内に限られていたが——。上野公園や神保町の古書店街を歩いて回った。
街中で彼は目立っていた。ルックスが良かったからだ。おまけに背もヒョロリと高い。女性はもちろん、男性までこちらを一瞥していた。
わたしは自分自身を醜いと思っているので、彼と一緒にいることで、わたしのなかの欠けたなにかが補完されたような心持ちがしたものだ。
「楽しいだろうな」とわたしは彼を見ながら常々思っていた。ルックスが良いというのは——。そこにいるだけで周囲を幸福にもする。おまけに、そのフィードバックまで受け取ることができる。
存在自体が、ある種の恩寵を招くのだ。存在自体で、神から——世界から祝福されている。
ルックスが良ければ嫉妬も受けるだろうし、ストーキングみたいなこともされるのだろう (わたしでさえ「それっぽいこと」をされたことが一度だけあった) 。ただ、それを差し引いても、やはり羨ましいなと思う。
なぜわたしは、美しく生まれることができなかったのだろう?
「なにを考えているんですか?」と声が聞こえ、わたしは我に返った。
前を向くと、桜がテーブル越しにわたしをジッと見ていた。
そこは大型書店のなかにあるカフェだった。
「いや——」とわたしはコーヒー・カップに口をつけた。コーヒーはすでに冷たくなっていた。「べつになんでも……」
ただ——とわたしは思った。
ただその一方で、彼らは彼らなりの地獄を抱えているのだろう。それは、わたし自身を慰めるために、そう考えているわけではないのだが……
たとえば、ルックスが良ければ良いほど、他者の愛情を信用できなくなるのではないか? お金持ちが、他者のそれを信用できなくなるように——
往々にして、美しい人のなかには、独特な影が見受けられることがある。それは、そうではない人にはけっして見られない、独特なそれだ。
そして、彼のなかにも、その影がときどき垣間見えることがあった。
美形でもお金持ちでもない人のほうが、案外……とわたしは思うことがある。そこにはまだ——と。
本当に人生とは、ままならないものなのだろう。
*
上野公園にあるスターバックスから出たあとで、噴水のある広場を桜と横切っていった。
カップルたちや家族連れたちが多かった。噴水の水しぶきが陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。
前方には、博物館が見えた。
わたしの脳裏に、あの日の光景が甦ってきた。
「彼」と、黒田清輝の絵を、あの博物館で見た記憶だった。
そのあとでわたしたちは、博物館の近くのカフェで、その絵について話したのだった。
《メジャーな絵じゃない?》とわたしは言った。
《メジャーじゃないどころか、たぶん習作だ》と「彼」はコーヒーを飲んだ。《デッサンでね。あの『読書』の人がモデルなんだけど……。ネット検索にも引っかからないし、今度画集を持ってくるよ》