第一話 雨の庭
2017年6月
1
そのとき、わたしはまだ高校生だった。
放課後、学校の図書室で本を読んでいた。
今日は閲覧者が普段より多かったけれど、それでも十人にも満たなかった。
窓の外では、雨が降っていた。
それほど強い雨ではなかった。空全体がグレーがかった白い雲に覆われていた。
梅雨にはまだ入ったばかりだった。
少しして、クラスメイトの男子がやってきた。
伊東だった。
「前いいかな?」と伊東が尋ねた。
「どうぞ」とわたしは答えた。
「何を読んでいるの?」手前の席に座りながら彼が尋ねた。
「ヒッチコックの『サイコ』はわかる?」とわたしは訊いた。
「昔、テレビで見たことがあるね」と彼は言った。
「その元ネタの話の本」とわたしは答えた。
「そういう本をよく読むの?」と彼が尋ねた。何か、珍しい虫でも見るみたいに。
「たまにね」とわたしは簡単に言って、再び本に目を落とした。
手持ち無沙汰になった彼は、後ろを向いて、窓の外をぼんやりと見ていた。書棚から本を持ってきて、読むこともせずに。
雨はまだ降り続いていた。一体、何しに来たんだ……
*
次の日の放課後も、わたしは図書室で本を読んでいた。
窓の外では、相変わらず雨が降っていた。やはり空は、グレーがかった白い雲に覆われていた。
窓から入ってくる風は、気持ちがよかった。湿り気を帯びた、ひんやりとした風だった。
わたしは昔から、雨が好きだった。軒からの雨垂れの音も、雨どいから流れ落ちる水の音も、部屋に満ちる雨の匂いと雰囲気も。それから——
そのとき、名前を呼ばれた。
顔を上げると、伊東が目の前に立っていた。「前いいかな?」
「今日は何を読んでいるの?」と伊東が尋ねた。
「サルトル」とわたしは答えた。「フランスの哲学者」
「哲学書なんて読むの?」
「これは小説」とわたし。「サルトルは最初は小説家だったから」
「どんな内容?」と彼が尋ねた。
「人間は自由だということ」とわたしは答えた。「たとえばナイフには、まず本質があって、あとから実存がついて来る。だけど人間の場合には、まず実存がある」
「つまり、人間は何にだってなれるということ」とわたしは続けた。「たとえ、怪物にでも……」
人間が完成するのは、死んだときだけだ。そのときに初めて、その人間の本質が決まる。仮初めで、曖昧模糊だったそれが……。未来とはわからず、そこにはまだ可能性があるから。
それまでは、あくまで過渡期に過ぎない。結論が出るその日まで、わたしたちはただ、仮説を積み重ねていくことしかできない。
大江健三郎の『叫び声』のあの男は、罪を犯し、死刑になることで、自らを怪物として完成させようとしたのだ——
沈黙が流れた。
「でも、自由には責任が伴うとも言うよ?」と彼は静かに答えた。
わたしは黙っていた。
そんなことは言われなくても知っている、と思った。
2
伊東はたびたび放課後の図書室に現れ、わたしと一緒に本を読むようになってしまった。
「あまり、わたしと一緒にいないほうがいいんじゃないかな?」わたしはそう提案してみた。
「どうして?」と彼が本から顔を上げた。
「仲間だと思われるよ? クラスのみんなから」
「思われてもいいじゃないか?」彼はキョトンとした顔をした。
演技をしているようには見えない。
わたしはこめかみを押さえた。
たぶん彼は、わたしの「それ」に勘付いたのだろう。意識のレベルでなのか、無意識のレベルでなのかまでは、わからないけれども……
だけどそこには、どんなメリットがあるのだろう? 損得ではなく、それが彼の「正義」なのだろうか。
わたしは彼のことが苦手だった。あるいは、怖れすらあった。
それは彼が、人を愛せる人間だから。
幼いころから泥水を飲んできた人が、とつぜん綺麗な水を差し出されても、それに抵抗を覚えるように——
それは本当の「愛」であるように、わたしには思えた。ナルシシズムでも、依存心の変形でもなく……
それがわたしには驚きだった。そんな人間が現実に本当にいるのか、と……。そのような人間は、フィクションの世界にしかいないものだとばかり思っていたからだ。
だけど、世の中には本当にいるのだった――
*
その日の夜。わたしは自宅近くの公民館にいた。
そこの図書室で本を読んでいた。
ここは閲覧者が少なくて、わたしの気に入っていた。
その日もわたし以外には、誰もいなかった。
目が疲れてきたので、本を閉じて椅子にもたれた。
かけ時計に目をやると、短針は八時少しまえを指していた。
頭に浮かぶのは、彼の姿だった。
わたしはその像を振り払いたかった。だけどそれがどうしてもできない……
どうして彼の姿が浮かぶのだろう? わたしはそう自問した。
その答えを、わたしはとっくに知っているはずなのに——
わたしは立ち上がり、窓のそばまで歩いていった。
雨はすでに上がっていた。
街路灯やマンション、自販機の灯りが、水たまりや水滴に反射してキラキラと光っていた。
見慣れた町の風景が、その日はいやに綺麗だった。
3
期末テストが終わり、そろそろ夏休みという時期だった。
その日も、わたしたちは、学校の図書室で本を読んでいた。
「夏休みの予定は?」と伊東が尋ねてきた。
「べつに何も」とわたしは答えた。
本当に何も予定がなかった。例年通り、近所の図書館や公民館に通うのだろう。
「伊東は美術部だよね」今度はわたしが尋ねた。「夏休みも出るの?」
「出るけど、週に一、二度だから、気ラクなもんさ」と彼は笑った。
その時、わたしはイタリアの純文学を読んでいて、伊東は人体学の本を読んでいた。「人間を描くには、骨や筋肉について勉強しないといけない」と彼が以前、話していたことを思い出した。
「絵画展って興味ない?」と彼が不意に尋ねてきた。
「絵画展?」私は本から顔を上げた。「どうして?」
「上野の博物館の絵画展、チケットが一枚余ってるんだけど——」と彼は言った。「これはデートとか、その口実とかじゃなくて……」
「いいよ」とわたしは答えた。
「即答だね」彼はちょっと拍子抜けしたように微笑んだ。
「だって、暇だもん」とわたしは答えた。
*
夏休みが始まった。
JR上野駅の前で、わたしと伊東は落ち合った。彼は五分だけ遅刻してきて、両手を合わせて平謝りしていた。
わたしたちは、大通りの信号を渡り、上野公園の階段を上り、西郷像の前を通った。夏休みが始まったからか、普段よりも人出が多かった。
直射日光が容赦なく、わたしたちの肌を焼いた。髪に熱が吸収されていくのがわかった。帽子を持ってくればよかった……
アスファルトから立ち昇る熱気と気怠い空気、それからうっとおしいほどの蝉時雨——
噴水広場を横切っていった。噴水の水飛沫が太陽の光を受け、キラキラと光り輝いていた。
いつものように、その広場には、家族連れたちやカップルたちの姿が、多く見受けられた。
わたしは隣を歩く伊東をチラッと見やった。嬉しそうだった。今にもスキップでもし出すんじゃないかというくらいに。
そのときのわたしは、たぶん彼のなかに自分自身の姿を重ね合わせていたのだ。わたしはその自分自身の感情を認めたくはなかったから。
博物館を私たちは回っていた。
ここの博物館は、今まで通り過ぎるだけで、入ったことはなかった。明治期の洋館を思わせる建物だった。
博物館の外壁には「黒田清輝特別展・生誕150年」と、大きな垂れ幕がかかっていた。
わたしたちは画廊を歩いていった。
そこにはわたしでも見たことのある有名な絵も何点かあった。たとえば、「湖畔」と「読書」。美術の教科書にも掲載されていた。色使いの対照的な絵だった。
「読書」の絵を二人で並んで見ているとき、わたしは彼のほうをまたチラッと見やった。さきほどの楽しそうな彼とはうって変わり、真剣な目つきをしていた。それでいて、肩から力が抜けているというか——
わたしの視線に気づいた彼は、こちらを見てまた微笑む。
*
「良かったよ」とわたしは言った。「絵のことはよくわからないけどね」
「良かった」と伊東が微笑んだ。胸を撫で下ろしたみたいに。
博物館からの帰り、わたしたちは、近くの黒田記念館にあるカフェで、机を挟んでコーヒーとお茶を飲んでいた。
「伊東は、あの人の絵が好きなんだ?」
「うん、好きだ」と彼は頷いた。「格好いいんだ」
「格好いいって……」わたしは半ば飽きれてそう言った。「もっと何かないの? 『繊細な筆使いが……』とか、『色使いが……』とか」
「そんなこと言われてもなぁ」彼は困ったように答えた。「それが率直な感想なんだよ。僕は君のように、ボキャブラリーがあるわけでもないし……」
「どの絵が好き?」とわたしは訊いた。
「難しいなぁ」伊東は目を斜め上方に向けながら言った。「正直に挙げるなら、あの博物館にはない絵なんだ」
「メジャーな絵じゃない?」
「メジャーじゃないどころか、たぶん習作だ」と彼はコーヒーを飲んだ。「デッサンでね。あの『読書』の人がモデルなんだけど……。ネット検索にも引っかからないし、今度画集を持ってくるよ」
「あのモデルの人って誰なんだろうね?」とわたしはお茶を飲んだ。
「黒田清輝の恋人だったフランス人らしい。パリでの修行時代のね」と伊東は答えた。
「そうだ!」と彼は目を大きくして言った。そのあとしまったとばかりに、背後を振り向いた。
「えっ?」とわたしは驚いて言った。
「絵のモデルになってくれない?」伊東は周囲をはばかるように声を潜めて言った。それでも目を輝かせながら。
「モデル?」とわたしは言った。「どうしてわたしを……」
「細身でスタイルがいいから」と彼は答えた。「うってつけだ」
「べつに裸になってくれと頼んでるわけじゃないよ」と伊東が冗談めかして笑った。
「当たり前じゃない」とわたしは少し怒って言った。
4
それから一週間後。その日わたしは、駅前のロータリーに立っていた。高校の最寄り駅だ。
服装は白のワンピースに麦わら帽子。こんな機会でもなければ、こんな服は一生着る機会もないと思ったからだ。なにも口実なしには……
駅前を行き交う人たちと、町の景色とが、陽炎でユラユラと揺れていた。
「ごめん、ごめん」としばらくして声が聞こえた。
振り返ると、伊東が立っていた。彼はその日、学生服を着ていた。部活動の一環だと捉えているのかもしれない。
「また遅刻」とわたしは不機嫌な振りをして言った。
「あとで何か奢るからさ。モデル代も兼ねて」と彼は取り繕うかのように微笑んだ。
*
美術室に、わたしと伊東はいた。
窓は開け放たれ、レースのカーテンが風になびいていた。
窓の外からは、野球部員たちのかけ声が聞こえていた。
やはり蝉たちが鳴いている。
伊東は、イーゼルの上の用紙に向かって、絵を描いていた。
わたしは、椅子に座ってジッとしていた。
彼は真剣な面持ちだった。
その顔はあの日、博物館で見せたそれだった。
「上手いね」とわたしは彼の絵を見て言った。
お世辞じゃなかった。本当にプロが描いたように見えた。
「ありがとう」と伊東は綺麗に笑った。
わたしたちは少しのあいだ、休憩をとっていた。
気がついたら、野球部員たちの声は聞こえなくなっていた。
その代わり、遠くの空から旅客機の音が小さく聞こえていた。
「今日は調子がいい」と彼は続けた。「本当に、どういうわけか……。モデルのおかげかもしれないな」
*
その帰りにわたしたちは、学校近くの喫茶店に寄った。
川沿いにあるどこかシックな店だった。実は前から入ってみたかったのだ。
約束通り、代金は彼が払うとのことだった。
「いつから描いてるの?」わたしは机の向こう側に座る伊東に尋ねた。
「小学生のころから」と彼は答えた。「本格的に描き始めたのは、高校生になってからだけどね」
「そのわりには、サボりがちに見えるけど?」わたしは少しイジワルで言った。彼はここのところ、しょっちゅうわたしと図書室にいたからだ。
「さいきんはね」彼は少し困ったように言った。
「父親が都内で画廊を経営しているんだ」と伊東は続けた。「父親自身も描くし、きっとその影響だろうね」
そのときウェイターがやってきて、コーヒーとお茶をわたしたちの前に置いた。
「どうしてわたしなの?」そうわたしは尋ねた。
「なにが?」伊東はコーヒー・カップから目を上げた。
「モデル」とわたし。
「君を描きたかった」と彼。
「どうして……」
「細身でスタイルがいいから」
「スタイルなんて良くないし……」
「それに綺麗だ」
「わたしは綺麗じゃないし……」
彼は、呆れたように吐息をついた。どこか怒っているようにも見えた。「君は自分自身のことを、もっとよく知ったほうがいいんじゃないかな?」
そのとき注文したケーキが二皿やってきた。シフォン・ケーキだった。
「ここのケーキは美味いよ」彼は取り繕うように笑った。
わたしはケーキをフォークで口に運んだ。たしかに美味しかった。
5
秋の連休に、わたしと伊東は海へとでかけた。
「海を背景に君を描きたい」と彼が言ったからだ。
場所は千倉だった。わたしたちは、人のいない海を好んだからだ。
それに館山には、わたしの祖父母の家があって懐かしかったからだ。二人ともわたしが小さいころに亡くなってしまったけれども。
北千住駅で彼と待ち合わせ、地下鉄で錦糸町まで行き、JRを乗り継いで千倉まで向かった。
*
太平洋はどこまでも広かった。
低い石段に腰かけて海を眺めている人と、砂浜で犬の散歩をしている人がいた。
遠くでは、小さくサーファーたちの姿が見えた。
風が少しだけ強かった。
「気持ちがいいね」と伊東が綺麗に笑った。
「本当に」わたしも麦わら帽子を押さえながら、微笑んだ。
伊東は、リュックサックからスケッチブックを取り出し、わたしを低い石段に座らせて、絵を描き始めた。
彼は、ひたすら紙に鉛筆を走らせ、わたしはずっと、遠い海原を眺めていた。
*
海岸沿いにある旅館に、わたしたちは泊まった。
まだ未成年だったので、わたしたちは大学生だと嘘をついた。
風呂に入ったあとで、わたしは部屋で本を読み、伊東は窓際の椅子から外を眺めていた。
「散歩に行こうよ」と彼が不意に言った。
わたしは顔を上げ、彼のほうを見やった。
「月がすごく明るいんだ」と彼は微笑んだ。
わたしは小さく吐息をついた。
月は、たしかに明るかった。
蒼白く光るそれが、流れの早い雲を照らしていた。
やがて、巨大な雲が月明かりを遮った。
わたしたちは海岸を歩いていた。
「伊東は、画家になりたいの?」わたしはそう尋ねた。
「そのつもりだ」と彼は答えた。「美大を目指そうと思ってる」
「伊東はなりたいものがあっていいね」わたしはそう言った。
皮肉ではなかった。わたしには、なりたいものなんて何もなかった……
「君は、何かを書けばいいじゃないか」伊東が不意に言った。
「何か?」とわたしは答えた。
「本を読むのが好きなんだから」と彼は続けた。
雲間から月が顔を覗かせ、ふたたび地表と海原を淡い光で照らし始めた。
暗い沖合いが月の光を受け、キラキラと輝いていた。
安直過ぎる、と思った。
だけど……
「考えたこともなかった」わたしは笑った。
「君ならいいものが書けるんじゃないかな?」と伊東が言った。
「どうして?」
「わかるんだよ」と彼は綺麗に笑った。「君の書くものは、きっと『いいもの』だってね」
仮に世間の人たちに、受け入れられなくても、と彼は続けた。
「ゴッホみたいに?」わたしは冗談めかしてまた微笑んだ。
「そう、ゴッホみたいに」と彼もまた笑った。「あるいは、アンリ・ルソーみたいに」
6
11月。
その日は冷たい雨が降っていた。
わたしは傘を忘れて、学校の昇降口で雨宿りをしていた。
少しして、伊東がやってきた。
「奇遇だね」と彼は微笑んだ。「僕も傘を忘れたんだ」
わたしも微笑んだ。
わたしたちは並んで、昇降口に立っていた。
わたしは黙って、雨を眺めていた。
雨は校庭に静かに降り注いでいた。さぁ……と、とても静かに。
沈黙を破ったのは、伊東の言葉だった。
「僕は、君が好きだ」彼はそう言った。
わたしはなにも言えなかった。
「君は——」
「ごめん」とわたしは答えた。
「どうして……」
わたしはなにも言えなかった。
わたしは、昇降口から出ようとした。
そのとき、伊東がわたしの手を掴んだ。
「濡れるよ」と彼は言った。
ごめん、とわたしは彼の手を振り解いた。
わたしは雨のなか、校庭を横切っていった。背中に彼の視線を感じながら。
わたしは彼のことを受け入れることができなかった。
わたしは愛されることが怖かったのだ。どうしようもなく。
幼いころから泥水を飲んできた人が、とつぜん綺麗な水を差し出されても、それに抵抗を覚えるみたいに——
だけど、それだけじゃなかった。
わたしは彼に、「父」を求めていたのだ。
彼に父の影を垣間見ていた。
わたしにはどうしても、それが間違ったことのように思えたのだ。