第8章:風の祠へと続く道
朝靄がうっすらと漂う港町セウル。静寂の街並みに、潮の香りを含んだ風が流れ込んでいた。
宿の前に立つ少女――灰銀の髪と獣の耳を持つその姿は、異国の旅人の目にも目を引くだろう。
獣人族の巫女として育てられたルーファは、旅立ちの朝にひとり静かに手を合わせていた。
「……祖霊の加護を。今日も、正しい道へと」
胸元には、小さな護符が下がっている。
それは、巫女としての修行の節目に授かった“風導の紋”。
彼女がこの旅路を始めたその日――すなわち“旅立ちの日”に、祖母から手渡されたものだった。
あれからいくつもの日々が過ぎ、ルーファはすでに獣人国の大陸南東から出発し、祠を巡りながら半時計回りに各地を旅してきた。
そして今、巡礼の終盤、彼女はこの北部の港町に辿り着いている。
次に向かうのは、西の丘を越えた先――“風の祠”。
霊風が通うとされるその地には、巫女の最終試練とも言える“風の啓示”が待つとされていた。
「……さて、と」
小さく息を吐いて振り返ると、宿の壁際に、ひとりの青年が立っていた。
蓮。
昨日、路地裏で倒れていた彼と出会い、ほんの短い会話を交わしただけの存在。
彼の目には未だに深い陰りが残っていたが、それでも今は、ルーファの前に立っていた。
「おにーさん……来てくれるの?」
問いかけるルーファに、蓮は短く視線を逸らしながら呟いた。
「……行く場所も、特にないからな」
「ふふっ、そっか。じゃあ、ついてきてもいいよ? ついてくるの、上手そうだし」
冗談めかしたルーファの声に、蓮の口元がわずかに動く。
それが笑みだったのかどうかは、彼自身にもわからない。
「目的地は?」
「西の丘を越えた森の先。“風の祠”ってところ。祖霊様が通る風の道だって……。でも、人間族の人は、普通は辿り着けないんだって」
そう言って、ルーファは軽やかに歩き出す。
風に乗るような足取りと、朝日に煌く灰銀の髪が、道行く者の目を奪う。
蓮は迷うことなくその背を追った。
静かに、一歩ずつ、確かに。
西へ――
過去からも、未来からも逃れることのできぬ者たちが、今、風の導きに従って歩み始めた。
西の丘陵地帯へと続く小道には、乾いた風が吹いていた。
視界を遮る木々の合間を、灰銀の髪が風にたなびく。
ルーファの歩みは迷いなく、まるで風そのもののように軽やかだった。
「こっち。……道らしい道はないけど、大丈夫?」
後ろを振り返り、蓮に問いかける。
彼は頷くだけで、無言のまま彼女の後ろに続いた。
二人は既に町を出て一刻ばかりが経っていた。人気のない丘陵の斜面を越え、小さな獣道へと踏み込んだ頃、突然、茂みの奥から唸るような音が響いた。
「っ……来た」
低く構えたルーファの手には、いつの間にか金属製の鉄爪が装着されていた。
その刃は鋭く光り、陽を受けてかすかに青白く反射している。
「草喰い獣……いや、これは凶暴化してる。風の気配が乱れてるせいかも」
呻くような鳴き声と共に、灰褐色の大型獣が姿を現した。
体躯は大人の獣人族と同等以上。瞳は血走り、泡を吹いている。
ルーファは短く息を吐き、鉄爪を引っ込めてガントレット形態に切り替えた。
そして――足を踏み込み、疾風のように前へ。
「――っ、はああっ!」
その動きは、獣というよりも武人のそれだった。
回し蹴りが獣の顎を跳ね上げ、即座に繰り出された肘打ちが腹部へ突き刺さる。
反動で跳ね飛んだ獣に、再び鉄爪を展開したルーファは、低く構えたまま接近。
「甘く見ないでっ……!」
地を這うような滑り込みから跳躍。
振り下ろされた鉄爪が、獣の肩を抉り、そのまま斬り抜けた。
呻き声を上げながら崩れ落ちる獣。
その背後に、剣を手にした蓮が立っていた。
「……手を出さなくて、よかったのか?」
ルーファはふっと笑って、小さく肩をすくめる。
「……あのくらい、巫女としては当然。これでも、修行旅の終盤なんだよ?」
息を整えながら、彼女は再びガントレットを収納し、素手のまま木陰に腰を下ろした。
蓮はしばし無言でその姿を見ていたが、やがて背を向け、何も言わずに次の道を指差す。
「行こう」
「うん。風が呼んでる」
二人の影が、風に揺れながら再び動き出す。
旅路の先、霊風の祠はまだ遠い。
けれど、今の彼らは、確かにそこへ向かっていた。
(…巫女ってなんだっけ。)
蓮は浮かんだ疑問を飲み込みながら歩いて行った。
丘を越えた先、木々の密度が緩やかに減り始める。
風の音が変わった。ざわめく葉の合間に、どこか澄んだ笛のような響きが混じる。
「ここ……だよ」
呟くようにルーファが立ち止まり、茂みをかき分けた先に現れたのは、岩壁に抱かれるようにひっそりと建つ小さな祠だった。
祠と言っても人工的な建造物ではなく、自然石と蔓草、風にさらされた祠型の結晶岩が、まるで“在るべくして在る”ようにそこに鎮座している。
蓮は言葉もなくそれを見つめていた。
周囲には、風の粒子――かすかに輝く光の流れが、円を描くように舞っている。
ルーファは慎重に祠へと歩み寄り、祈るように手を組む。
「風の精霊シルフィアよ。我が願いを聴き届け給え。祖霊の名において、御前に立つ我らを導き給え……」
静寂が訪れた。
風が止まったかと思ったその瞬間、祠の結晶岩が淡く輝き出す。
そして――。
《ようやく……来たのですね、ルーファ・ヴォルフハイト》
澄んだ女性の声が、風そのもののように響いた。
どこからともなく姿を現したのは、透明な衣をまとい、長く柔らかな風髪をたなびかせた女性。
彼女は地に足をつけているようで、つけていない。空気そのものが具現化したような存在。
「あなたが……風の精霊、シルフィア……?」
《ええ。私は女神セレフィアの意志を受け、この地に風を巡らせる者》
シルフィアは微笑む。
その顔立ちはどこか中性的でもあり、威厳と優しさが同居していた。
《あなたの旅立ちの日に、風は確かに語りました。西に向かえと。そこに未来の鍵があると》
「……蓮のこと、ですか?」
《名を出すことは叶いません。しかし、彼は“戻る者”であり、“揺らぐ者”でもある。あなたの加護が、やがて彼の魂をつなぎ止める糸となるでしょう》
シルフィアは、風の粒子を両手に集め、それを編むようにして小さな護符を作り出す。
透明な結晶のような石に、風の紋が刻まれた護符。
《この護符を持ち、風の導きに従いなさい。心が迷ったとき、風はあなたに答えるでしょう》
ルーファは膝をつき、静かにそれを両手で受け取る。
「……ありがとうございます。絶対に、あの人を……」
《言葉は要りません。ただ、あなたの意思が風と共にあらば、それで良い》
風が再び吹き、シルフィアの姿が粒子となって空へと溶けていく。
祠の光は静かに消え、風の笛音も収まった。
ルーファは立ち上がり、蓮の方を見て、柔らかく笑う。
「さ、行こっか。――風が、そう言ってる」
蓮は短く頷き、無言でその背に続く。
風が二人の背を押すように吹いていた。