第7章:銀の狼、微笑む時
鼻をくすぐるのは、乾いた草と焚き火の煙の匂い。
遠くで鳥の声が聞こえる。潮騒ではない、風と葉が交わるような音。
――あれ? 生きてる……?
重たいまぶたを押し上げると、視界に映ったのは木の天井。
簡素な天幕が風に揺れ、陽光をわずかに遮っていた。
そして、そのすぐ隣に――
「……あ、起きた!」
声と共に、顔が覗き込んだ。
煌めく灰銀の髪に、ふわりとした狼耳。
琥珀色の瞳がぱっと輝き、にっこりと笑った少女は、見知らぬ誰かだった。
――だが、不思議と敵意や警戒は感じなかった。
「おにーさん、倒れてたんだよ。ボコボコにされてた。血とか鼻とか、すごかったけど……」
「……ああ……」
曖昧に返すと、少女は真面目な顔になった。
「でも、財布の子は逃げられたし、おにーさんの勇気は本物だったよ! あたし、ちゃんと見てたから!」
その言葉に、蓮は眉をわずかに動かした。
“見ていた”――それは、誰にも言われなかった言葉だった。
この世界で、自分の行動を肯定してくれた誰かが、初めて現れた。
心のどこかが、わずかに揺れた。
「ここは……どこだ?」
「港町の外れ。あたしの隠れ場所。人間、あんまり来ないし、静かで落ち着くんだよね」
そう言いながら、少女は持っていた干し肉を差し出す。
「食べる? 塩辛いけど美味しいよ。元気出るって、おばあちゃんが言ってた!」
蓮は一瞬迷ったが、礼を言って受け取った。
硬いが、噛むほどに味が出る。胃に染みる塩気が、ようやく生きている実感を呼び戻してくれる。
少女は満足そうに尻尾を揺らしながら、そっと尋ねてきた。
「ねぇ、おにーさん。名前、ある?」
問いかけは素朴で、まっすぐだった。
だが――蓮はすぐには答えられなかった。
“自分”が、まだ何者であるか、答える資格があるのか。
その問いを、胸の奥に抱えたまま、彼はただ微かに笑った。
「よしっ、じゃあ今日は町の案内してあげる!」
朝日が差し込む屋根の隙間から、眩しい光が差し込んでいた。
狼耳の少女――名をまだ知らぬ彼女は、すっかりやる気に満ちた声でそう宣言した。
「別に、無理に付き合わなくても……」
そう言う蓮の肩を、ぴょんと軽く叩いて少女は笑う。
「だって、放っておいたらまた路地裏で寝ちゃいそうだったから」
耳がぴくりと動くたび、太陽の光が煌めくような灰銀の毛が揺れる。
その背には、ふさふさの尾がゆるく揺れていた。柔らかく、軽やかで、どこか風のようだ。
「それに、あたし――ちょっとだけ人助けしたくなる性分なんだよね。巫女の卵だからさ!」
そう言って胸を張る仕草は、どこか子どもじみていたが、その瞳には確かなまっすぐさが宿っていた。
彼女に連れられ、蓮は港町セウルの通りを歩いた。
朝市の喧騒、魚介の匂い、人々のざわめき――
そこには確かに“普通の暮らし”が息づいていた。
「ここね、おっちゃんが作る干し肉が絶品なの。……あっ、こっちこっち! このお店の木陰が涼しいの!」
道端の草花に視線をやりながら、少女はまるで町そのものと会話するように歩いていく。
蓮は、その背を無言で見つめた。
(どうして、この子は……)
自分が何者かも知らないはずなのに。
肩に背負った傷も、瞳の奥の虚無も、すべて見透かしているような気がして。
けれど、少女はそれを責めたり、問い詰めたりはしなかった。
ただ、そっと手を差し出し、隣を歩いてくれた。
ふいに風が吹いた。灰銀の髪が舞い、尻尾がふわりと浮かぶ。
その瞬間、蓮は――ほんの少しだけ、目を細めた。
胸の奥の、張りつめていた何かが、静かにほどけていくような気がした。
午後の陽射しが傾き、港町セウルはゆっくりと夕暮れの準備を始めていた。
通りを歩く人の足取りもどこか緩やかで、潮風が吹くたびにどこかの屋台から焼き魚の香ばしい匂いが流れてくる。
ルーファ――まだその名を知らぬ少女は、路地を抜けて一軒の寂れた石段の上に腰を下ろした。
蓮もその隣に、黙って座る。
「……ふぅ。やっぱりここの眺め、好きなんだよね。風が通って気持ちいいし、海もよく見えるし」
柔らかく笑いながら、少女は両脚をぶらぶらと揺らした。
潮風に銀灰色の髪が揺れ、その耳――獣のそれを思わせる狼耳がぴんと反応する。
蓮はしばらく黙って海を見つめていたが、やがて、ゆっくりと視線を彼女へ向けた。
「……名前、教えてくれるか?」
その問いに、少女は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、次いでふっと微笑んだ。
「うん。ルーファ。ルーファ・ヴォルフハイト。獣人族の……えっと、まあ巫女見習いみたいなもの、かな?」
「……ルーファ、か」
蓮は一度、その名前を口の中で転がすように繰り返した。
ルーファは少し首を傾げながら、今度は逆に尋ね返す。
「じゃあ、おにーさんは?」
蓮は小さく息を吸い、答えた。
「蓮……天城蓮」
それは、彼にとって久しく口にしていなかった“自分の名”だった。
ルーファは、その名をひとつ頷いて記憶に刻むと、にっこりと笑った。
「うん。よろしくね、蓮」
日が傾き、海の向こうに黄金色の光が広がっていた。
その光の中で、灰銀の髪がきらりと揺れる。
そして――蓮の瞳に、ほんのわずかな“色”が戻っていた。