第6章「崩れ落ちた空の下で」
剣と最小限の荷を携え、彼は歩いていた。どこへ向かうとも言えぬ、南へと続く街道を。
空は雲ひとつなく晴れ渡っているというのに、蓮の背を照らす光はどこか遠かった。
道すがら、村の辻で耳にした話があった。
――あの“勇者”様が、命令を破って勝手に動いたらしいぞ。
――王命を無視するなんて、もはや裏切り者だな。
振り返ることもなく、蓮は通り過ぎる。だが、耳ははっきりとその言葉を聞いていた。
野良犬が吠えるように声を張る男。酔いどれた農夫が笑いながら語る武勇伝の末路。
どれもこれも、ただの物語に過ぎなかったはずだ――あの日までは。
「……くだらねえ」
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟いた言葉が乾いた風に溶けていった。
かつて、命をかけて守った者たちがいる。背を預け、共に剣を振るった者たちもいた。
だが、真実は声なき正しさより、都合よく仕立てられた虚構を選ぶ。
そして、選ばれなかった側の人間には――名前すら残らない。
夜が近づき、蓮は南方の港町の明かりを遠くに見つけた。
空はまだ青かったが、心は既に沈んでいた。
港町アウレイドの波止場は、夕刻を迎えていた。貨物船や漁船がひしめく中、人々の喧噪と潮の香りが混じり合い、活気に満ちていたはずの場所――その片隅に、蓮の姿があった。
帷子のような外套を羽織り、彼は甲板の隅に座していた。
背を丸め、誰とも言葉を交わさず、ただ波に揺られる音に耳を傾けている。
この国の南端から、外海を渡った先に広がる大地――獣人たちの暮らす“他所の国”。
そこへ向かう民間船の一隻に、蓮は金を払って乗った。
人目を避けるように顔を伏せ、仲間連れの商人や旅人たちの輪には加わらず。
船員たちの視線もどこか冷たい。噂は、もうここにも届いているのだ。
“王命に背いた”
“人間の信を裏切った”
“危険な存在”
それが、今の自分に与えられた“役”だった。
(どうして……)
問いかけても、もう誰も答えない。
イリーナでさえ、あのとき、何も言ってはくれなかった。
この海の先に、何があるのか。
新たな土地に自分の居場所など、本当にあるのか。
誰にも必要とされず、誰からも信じられない――
そんな空虚が、胸の内を静かに侵食していく。
ふと、潮風が髪を揺らした。
その冷たさに、目を細めて顔を上げると、遥か先に獣人国の大陸が霞んで見えた。
白波を裂いて進む船の上、蓮の心だけが、どこにも辿り着けずにいた。
港町セウル――獣人たちの北の玄関口とも言えるこの街は、異国からの船が着くたびに喧騒を増す。
しかし、蓮が降り立ったその日は、妙に風が乾いていた。
重い足取りで石畳の道を歩く彼に、行き交う獣人たちはほとんど興味を示さなかった。
だが人間の姿はこの町では珍しく、その背に向けられる視線は、好奇心よりも警戒の色を帯びていた。
蓮はそれに反応すらせず、ただ空虚な瞳で街を彷徨い続ける。
目的もなく、目印もなく。
「居場所」と呼べる何かを、ただ探すように。
しばらく歩いた先、ひときわ賑わう市場通りに差しかかったときだった。
「てめぇ、こいつが盗んだんだ! オレの財布を!」
怒号。突き飛ばされた子どもの悲鳴。
蓮が足を止めて振り返ると、身なりの悪い小柄な少年が、粗野な男に襟首を掴まれていた。
「ち、違っ……オレ、拾って……!」
少年は震えながら、手にした革の財布を突き出す。
だが男はそれを奪い取り、少年の頬を叩いた。
「言い訳してんじゃねぇ!」
そして――蓮は見てしまった。
その男の腰には、最初から財布が差してあったことを。
(……自分と同じだ)
正しさが、力にねじ伏せられる。
事実が、都合のいい声にかき消される。
言い返す術も、信じてくれる誰かもいない――まさに今の自分と同じ、無力な少年の姿がそこにあった。
次の瞬間、蓮の体は勝手に動いていた。
「やめろ」
静かな声が市場に響いた。
その声に、男が忌々しそうに振り返る。
「なんだてめぇ、人間のくせに首突っ込む気か?」
「拾ったところを見ていた。間違いなく、この子は盗っていない」
「証拠でもあんのかよ!」
男が怒鳴り声と共に拳を振り上げた。
蓮は迷わず前へ出た。
拳を受け止め――受けきれず、体がぐらりと揺れた。
次の瞬間、周囲の路地から現れた男の仲間たちが蓮を囲む。
足払い。背後からの蹴り。腹部への拳。
倒れた蓮に、容赦ない暴力が浴びせられる。
(ああ……また、だ)
打ちのめされ、血の滲んだ口元で、蓮は静かに笑った。
(正しさなんて、こんなもんだ)
誰も信じない。信じてもらえない。
人間であることが、もう何の意味も持たない。
やがて、男たちは何かを呟きながら去っていった。
路地裏に取り残された蓮は、石の壁にもたれ、崩れ落ちるように座り込んだ。
空を見上げる。
夕焼けが滲んで、視界がぼやけていく。
(……もう、どうでもいい)
そのときだった。
空が、ふっと遮られた。
耳と瞳を持つ影が、蓮を覗き込んでいた。
煌めくような灰銀の髪と、狼のような耳。
幼さを残したその顔が、不思議そうに――そして、少し嬉しそうに、微笑んだ。
「おにーさん、カッコイイね」