第5章:交われぬ想い、遠ざかる道
城壁に囲まれた都市国家の中心――整然と並ぶ石造りの建物と高くそびえる塔。
かつて蓮が“勇者”として迎えられたこの地は、今や彼にとって冷ややかな視線の集まる場所となっていた。
兵舎の中庭に集まった兵士たちの間を、蓮は無言で歩く。
その姿に敬礼を返す者はなく、ただ沈黙が場を満たしていた。
「天城蓮殿。……お前に対する告発が提出された。正式なものだ」
軍の高官が、冷淡な声音で通告を読み上げる。
「軍機違反。規律を無視した独断専行。そして……協定勢力との不適切な接触の疑い」
「……何だと? そんな馬鹿な」
蓮は眉をひそめたが、その声に応える者はいない。
「俺は命令を守った。仲間を――国を守るために戦っただけだ」
拳を握る。けれど、その言葉を正面から受け止める者はいなかった。
「軍議の結果、責任の所在は天城蓮、お前にあるとされた。今夜までに荷をまとめ、城門を越えて退去すること。……以上だ」
声を発した将校は、あとはもう関係ないとばかりに視線を逸らす。
背後に立つ仲間たちの視線も冷たい。
セラフィナは口を開こうとし、結局何も言えずに目を伏せた。
ゴルバはいつもの勢いを失ったまま、腕を組んで沈黙している。
「……分かったよ。行けばいいんだろ」
蓮はそれ以上言葉を継がず、背を向けた。
足元には、整った石畳。かつて英雄として歩いた道のはずだった。
今はただ、硬く冷たい石の感触が、足裏を突き刺すだけだった。
静寂に包まれた医務室の片隅。
イリーナは白布の包帯を手にしながらも、じっと動けずにいた。
――あれは、きっと間違ってる。
でも、それを口にしたら、今度は私が……。
薄暗い室内には、ささやかな明かりが灯っている。窓の外では、追放の命を受けた蓮が出発の支度をしている頃だった。
思い出すのは、あの夜のこと。
命令無視とされた蓮が助けに向かったのは、自分のいる支援部隊だった。
もし彼が来なければ、きっと自分は今ここにはいない。
けれど、裁定の場でそれを証言することはできなかった。
心の奥に、言葉にならない恐怖が巣食っていた。
――私があそこで口を開いていたら、何が変わっていたんだろう。
震える指先が、包帯を落とす。
しゃがみ込んで拾いながら、イリーナは小さく首を振った。
「ごめんなさい、蓮さん……」
その呟きは誰にも届かない。
ただ、胸の奥を焦がすような罪悪感だけが、静かに重く残っていた。
朝靄に包まれた城門前。
荷を詰めた簡素な鞄を肩に掛け、蓮はひとり石畳の上に立っていた。
見上げた空はどこまでも青く、雲ひとつない。けれど、その光景は何ひとつ胸に染み入らなかった。
「……行くか」
呟いた声は、風にさらわれて消える。
彼の周囲に見送りの者はいない。門番すら、目を合わせぬように控えていた。
その時。
「蓮、さん……っ!」
小さな、けれど切実な呼び声が背後から届いた。
振り返れば、息を切らして駆けてくるイリーナの姿。
肩までの髪が揺れ、白衣の裾が風にたなびく。
足元のおぼつかないまま、彼女は蓮の数歩前で立ち止まった。
「……来なくていい」
蓮の声は低い。視線は合わせないまま、冷ややかにそう告げた。
「でも……っ。わ、私は……っ!」
伝えたかった。助けられなかったことへの謝罪も。
一緒に行きたいという想いも。けれど、それらは喉の奥で絡まり、うまく言葉にならなかった。
「あのとき、私は……っ。ごめんなさい……っ」
絞り出すような声。目に涙が滲む。
蓮はその姿を見ても、ただ静かに首を横に振った。
「もういい。……これ以上、何かを期待したくない」
その一言を残し、蓮は門の外へと足を踏み出す。
イリーナは追いかけることも、名を呼ぶこともできず、ただその背中を見送った。
小さくなる背中を見つめながら、唇を噛む。
――臆病者。情けない。
そんな言葉が、何度も心の中を巡った。
けれど、声にはできなかった。
目の前の現実があまりに冷たくて、ただ涙だけが、そっと頬を伝って落ちた。
舗装の途切れた街道に、一人分の足音が静かに響いていた。
肩に背負った荷は少ない。陽射しの下を歩く蓮の背中には、沈黙と重さが張りついていた。
かつては栄光と呼ばれた名も、今はただの通行人。
街道を往く馬車の御者にさえ、誰も彼を振り返ろうとはしない。
――信用を失うのは、こんなにも簡単なことなのか。
歩きながら、蓮はふとそんなことを考えた。
記録を改竄されたのか、それとも上層の意図的な排除だったのか。
確証はない。だが、事実は捻じ曲げられていた。
それだけは、確信できた。
そして――あの時。
イリーナは、何も言わなかった。
彼女を責めるつもりはなかった。怖かったのだろう。
自分も同じ立場なら、何ができただろうか。
けれど、だからこそ。
「……信じたくなかったな」
呟いた言葉は、乾いた風にかき消された。
道端に咲いた小さな花が、風に揺れていた。
誰にも踏まれず、名も知られず、それでもただ咲いている。
蓮はしばし足を止め、腰に差した剣にそっと手を添えた。
片手剣と、もう片方の腰には投擲も可能なソードブレイカー。
この組み合わせに、無数の戦場を駆けた痕跡が刻まれている。
「……さて、どこへ行くか」
言葉に出したことで、少しだけ現実が輪郭を持った。
どこかに居場所があるはずだ。
己を偽らず、ただ“生きる”ための道が。
蓮は再び歩き出した。
草の匂いと土の熱気が、夏の終わりを告げる風に混じっていた。