第4章:風と肉串と巫女修行
風が揺らす葉の音と、鳥の囀りが静かに響く。ここは獣人国大陸の南東、深き森と山の狭間に隠された静かな集落――人目を避けるように暮らす、巫女の血を受け継ぐ一族の隠れ里。
朝の座学の時間。
簡素な木造の集会小屋で、数人の巫女見習いたちが整列し、祭祀の言葉や儀式の所作について学んでいた。
……はずだった。
「こら、ルーファ! また寝ておるな!」
ぴしりと木の棒が卓を叩いた音に、肩をびくりと震わせた少女が顔を上げる。
彼女の名はルーファ。
煌めくような灰銀の毛並みを持つ狼獣人族の少女で、次代の巫女候補としてこの里で修行中だ。
長い耳がぴくりと動き、琥珀色の瞳が半分眠たげに瞬いた。
「んぅ……ご、ごめんなさい、おばあさま……」
やや赤らんだ頬を押さえてぺこりと頭を下げるその様子は、叱られているのにどこかのんびりしていて、まるで子犬が丸まるような愛らしさを感じさせる。
「まったく……祭祀は眠気と戦う場ではないぞ! 巫女の務めとは――」
「“祖霊と風の声を聞き、民の願いを運ぶもの”です……はい、ちゃんと覚えてます……」
半分口の中で唱えるように答えながら、ルーファは小さくあくびを噛み殺した。
そのまま再び机に突っ伏そうとして、再度おばあさまににらまれて真顔に戻る。
「……あと少しで、休憩、ですよね?」
「……ふう」
頑固そうな皺だらけの顔に、苦笑が浮かぶ。どうにかこうにか午前の座学を終えたルーファは、教本を抱えて外へ飛び出した。
⸻
陽光が降り注ぐ木陰の斜面。
草の香りに混じって、香ばしい煙の匂いがふわりと漂う。
ルーファはお気に入りの岩の上に腰をおろすと、片手に握った肉串をうっとりと見つめた。
「ふふっ……いただきまーす」
小さな牙を覗かせて、かぷり。
表面に焼き目のついた獣肉は、塩と香草の下味がよく効いていて、かみ締めるごとに肉汁が口の中に広がる。
「う〜ん、やっぱり昼下がりの肉串は最高……♪」
耳をぴこぴこと揺らしながら、幸せそうに頬を膨らませるルーファ。
膝を曲げて座り、尻尾をくるりと巻いてその上に背中を預ける姿は、まるで日向ぼっこの小動物のようだった。
空を仰ぐと、木々の隙間から青が広がっていた。
どこまでものんびりと、どこまでも平和な午後。
だけど――この平穏が、永遠に続くわけではない。
まもなく彼女にも、運命の風が吹き始めるのだった。
日が傾きかけた夕刻、里の端にある祖霊の祠には、今日も薄青い風の粒子が舞っていた。
ルーファは白装束に着替え、供え物を手に祠の前に膝をつく。昼間とは打って変わった、巫女としての真面目な顔つき。胸元で指を組み、静かに祈りを捧げた。
「――今日も、この里が穏やかでありますように。旅立つ者には加護を。癒えぬ者には慰めを……」
かすかな風が頬を撫で、耳元で微かな囁きが聞こえたような気がする。
ルーファはその気配に眉を寄せ、周囲を見渡す。
「……誰か、いるの?」
もちろん、誰の姿もない。けれど、風の粒子がひときわ強く光り、祠の周囲に円を描くように渦を巻く。
「風の……加護?」
訓練で習った風の精霊の前触れかと、そっと目を閉じる。
その瞬間――確かに、誰かの声が響いた。
『ルーファ。遠き地にて、試されし魂が目覚めん』
はっと目を開けたときには、風は止み、祠は静まり返っていた。
「今の……誰? まさか、精霊様……?」
戸惑いとともに胸に残ったのは、不思議な温かさと、妙な確信だった。
――自分は、何かを託されたのかもしれない。そんな、根拠のない感覚。
その夜、囲炉裏端で祖母と並んで食事をとっていたルーファは、箸を止めてぽつりとつぶやいた。
「ねえ、おばあさま。……外の世界って、どんな感じ?」
「外の世界? ……ふむ、風は荒く、時に冷たいが、それでも導きを求める者が多い場所じゃ」
「……もし、わたしがそこに行ったら、誰かの力になれるかな」
その言葉に、祖母の目がふと細められる。
器に少し残ったスープをすくいながら、静かに返した。
「風が呼んでおるなら、止めはせんよ。お前は、まだ未熟じゃが――お前なりの祈りを、携えてゆくがよい」
ルーファは唇を引き結び、小さく頷いた。
「うん……がんばってみる」
翌朝、夜明け前。
彼女は旅の支度を整え、腰には小さな祈祷鈴と、炙った肉串を二本忍ばせていた。
「……おばあさま、いってきます」
「……けっして無理をせぬように。お腹をすかせては風に嫌われるぞ」
「わかってるってばー」
耳を揺らしながら笑い、ルーファは里の外れに続く山道へと踏み出す。
その足取りは、まだ幼さを残していたが、胸の奥には確かな意思が灯っていた。
獣人国大陸の南東にひっそりと佇む隠れ里から、さらに東へ。
そこは地図にも記されぬ、深い森と岩山の合間を縫うように続く獣道だった。
ルーファは旅装に身を包み、軽やかな足取りで山道を進んでいた。
白と藍の装束に、腰からぶら下がった小鈴が風に揺れてチリリと鳴る。
「ふふーん、山道だって慣れてるんだからねっ」
誰に言うでもなく、自信ありげに言ってみせるルーファ。
だがその直後――
「ひゃっ……あ、あれ!? 足、滑――」
ガサガサッ!
見事な勢いで足を滑らせ、土手を転がり落ちていく。
ふわりと舞う銀灰のしっぽ。
ようやく止まったのは、ふかふかの苔に覆われた地面だった。
「いたたた……も、もう、なんであんな石があんなとこに……!」
涙目になりながら頬を膨らませる。
だが立ち上がって見渡すと、そこには小さな祠がぽつんと佇んでいた。
「……あれ?」
祠の屋根は苔に覆われ、周囲には風の粒子が舞っていた。
人の気配はなく、それでいて、なにか清らかな気配に満ちている。
ルーファは装束を直し、ゆっくりと祠の前に進み出た。
「えっと……風の祠……だよね、きっと。こんな偶然、あるかな」
そっと祈祷鈴を握りしめ、膝をつく。
「――風の精霊様。巫女ルーファ・ヴォルフハイト、導きに感謝いたします」
目を閉じた瞬間、微かに、森の風が囁いた。
『西に向かえ。彼の地に、揺らぐ魂がある』
目を開けると、風は静まり返っていた。
けれど、心の中には確かな響きが残っている。
「……西、か。ふふ、ちょっとだけ怖いけど……わたし、行くよ」
荷を背に担ぎ直し、道なき道を再び歩き始めるルーファ。
その背中に、風がそっと寄り添うように吹いていた。
風の祠からの導きに従い、ルーファは西を目指して歩き続けた。
隠れ里を出てから数日。山を越え、谷を渡り、獣道を辿ってたどり着いたのは、獣人国北部の港町――セウルだった。
「うわぁ……っ!」
里の外をほとんど知らない彼女にとって、その光景はまさに異世界だった。
港の先に広がる果てのない海、軋む商船の帆、賑わいの市場、人混み、そして――異種族たちの姿。
狼耳をぴくりと立てたまま、ルーファはしばし圧倒されたように立ち尽くした。
けれどその黄金の瞳は、強い興味に輝いている。
「わあ……あれ、竜人族? 尻尾がすごく立派……! あっ、あれは魚人!? 本当に魚くさい……!」
ひとりでに声が漏れ、行き交う人々の視線を受けて、顔を赤くする。
「し、しまった……巫女なんだから、もう少し静かに……っ」
背筋を伸ばして気を引き締めた直後――。
「……ぐうぅ」
お腹が、控えめに鳴いた。
「…………」
再び、羞恥でしっぽが垂れる。
「ちょ、ちょっとだけだから……! 食べ歩きなんて、滅多にできないもんっ」
そう言い訳しながら、彼女は港の屋台へと向かった。
香ばしい串焼きの匂いに導かれ、銀貨一枚を差し出す。
「肉串ひとつ、お願いしますっ!」
受け取った肉串を両手で握りしめ、嬉しそうに一口。
「んん~~っ、じゅわってしたぁ……!」
顔をほころばせて、尻尾がふわふわと揺れる。
しかし、ふと市場の裏手から怒声が聞こえた。
「おい、待ちやがれこの泥棒ネズミ!」
「きゃっ……!」
小さな影が転げ込むように露地裏へ走り込む。
少年――痩せた犬獣人の子供だった。
追手は屈強な人間の男。見れば、腕に紋章入りの腕輪――セウル警備団のものだ。
少年は明らかに怯え、袋からこぼれたパンを抱えている。
「や、やめて! その子、まだ子どもじゃない……!」
気づけば、ルーファはその間に立っていた。
男は一瞬たじろぎ、ルーファの装束と風に揺れる祈祷鈴を見て眉をひそめる。
「……巫女か。お前、部外者が余計な口出しすんなよ」
「余計なことじゃありませんっ!」
震える声でそう言いながら、ルーファは袖の内側から護符を取り出した。
金糸で編まれた風の紋章が、わずかに光を帯びる。
男は舌打ちし、手を引っ込める。
「ちっ……好きにしな。だがな、巫女だかなんだか知らねえが、ここは山の祠とは違うってこと、覚えとけよ」
背を向ける男を睨みつつ、ルーファは少年にそっと膝をついた。
「大丈夫。怖かったね……。ごめんね、急に出てきて驚かせちゃった?」
少年はしばらく唖然としていたが、小さく首を横に振り、
「……ありがと、お姉ちゃん」と呟いた。
その言葉に、ルーファはほっと笑みを浮かべた。
港の風は、潮の香りとともに彼女の髪を撫でる。
――初めての外の世界。
けれど、守るべきものは変わらない。
そう思いながら、ルーファは空を見上げた。
「……さて。次は、どこに行こうかな?」
セウルの港は、日が傾き始めたことで活気の熱気を少しずつ冷ましつつあった。
夕凪が吹き始め、市場には潮と香辛料、焼き魚と油の匂いが複雑に混じり合う。
どこか懐かしいような、でも慣れない異国の香りに、ルーファは鼻をくすぐられながら波止場へと歩いていた。
「ふぅ……市場って楽しいけど、ちょっと疲れるね……」
手には串の芯だけが残り、尻尾が小さく上下に揺れている。
風に吹かれて、煌めくような灰銀の髪がさらりと揺れた。
そのとき――
「……?」
波止場の先に、大きな商船が一隻、ゆっくりと接岸していた。
甲板から続々と降りてくる一団の中に、彼女の視線は不意に引き寄せられた。
一人の、まだ若い――おそらく彼女とそう年の変わらない、旅装の人物。
装備は軽装。腰には細身の剣と、小ぶりな護身具のようなものを佩いている。
日差しを背に受けているため、顔立ちははっきり見えない。
けれど、その立ち姿、歩みの静けさ、そして……なぜだろう。どこか気になる空気をまとっていた。
「…………」
言葉もなく、ルーファはしばらくその人物を目で追っていた。
港の喧騒に紛れるように、その人影はやがて人混みに溶けてゆく。
(誰だったんだろう……)
理由のない引っかかりだけが胸に残り、
まるで風が彼の背を押していたような、そんな錯覚が、いつまでも尾を引いた。
「……ま、いっか。きっとただの旅人だよね」
自分に言い聞かせるように呟きながら、彼女は足元の石をつま先で軽く蹴った。
それでも、心の奥のどこかで、奇妙なざわめきが鳴り止まない。
空には、あの祠で見た風の粒子――
舞い降りるように、静かに、淡く、彼女の視界を撫でていた。