第1章:灰と血の狭間で
【獣人国・南境 小高い丘】
風が吹いていた。
夕暮れの中、丘の上に立つ銀髪の少女が、じっと北の空を見つめていた。
草原の彼方、雲の切れ間を裂くように、一条の光柱が天へと伸びていた。
光は蒼く、どこか儚げで、それでいて異様なほど強く。
少女はしばらく動かなかった。
その目に映る光が何を意味するのかを、彼女は知らない。
ただ、不思議そうに。
まるで夢の中にいるかのように、それを見つめていた。
やがて、光はすうっと消え、空は何事もなかったように色を戻す。
残されたのは、ほんのわずかな風の変化だけだった。
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※それから、およそ一か月後――
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【魔物国・北辺の戦線】
砦が焼け、土煙が立ち昇る。
曇天の下、黒煙と血の匂いが混ざり合う戦場に、剣戟と怒号が響いていた。
「――右前、盾兵! 三体!」
鋭い声が飛ぶ。
戦場を走るのは、銀の髪を持つ一人の少年。
その手には片手剣。そして逆手に構えたソードブレイカーが陽光を受けて鈍く光っていた。
天城蓮。
その名を知る者は、この国境周辺ではすでに少なくない。
彼の剣が道を切り拓き、守るべき砦を何度も救ってきたからだ。
「遅ぇぞ、蓮ッ! 先に突っ込んじまったからなァ!」
豪快な笑い声とともに、盾兵の中央に突っ込んでいく大男がいた。
鋼の肩当てが土を蹴り上げ、巨体を支える脚が地を揺らす。
名はゴルバ。全身筋肉の塊のような戦士だ。
敵の盾を叩き割り、ついでに背後の兵士もまとめて吹き飛ばすその姿は、まさに突撃の象徴だった。
「ちょっとは足並みってもんを考えなさいよ、脳筋」
冷ややかに毒を吐く声が上から降ってくる。
瓦礫の上、ひらひらと黒衣をなびかせる女性――セラフィナ。
杖を一振りすると、空中に描かれた魔法陣が一気に三重展開し、眩い火球を連続で叩き込んだ。
「派手に決めてナンボでしょ? 地味な魔法なんて性に合わないわ」
ごうっ、と音を立てて炸裂する爆炎。
だが味方の誰も驚かない。
彼女の“演出過多”は、もはやこの部隊の名物と化していた。
「……え、えっとっ、《癒しの光、どうか届いて……!》」
少し離れた崩れた石壁の陰。
神官服に身を包んだ少女が、必死に祈りを捧げていた。
イリーナ。
その手から紡がれる光が、傷ついた兵士たちへと届いていく。
「ありがとう、イリーナ」
蓮が短く礼を言えば、彼女は恥ずかしそうにうなずく。
「う、うん……わたし、がんばる……!」
神官とはいえ、剣は握れない。
けれど祈ることで、誰かの命を守れるなら。
彼女は今日も、震えながらもそこに立っていた。
蓮は剣を構え直し、視線を前方に走らせる。
ソードブレイカーで敵の斬撃を受け流し、片手剣で反撃――その動きは鋭く、無駄がない。
「ゴルバ、左の大型は任せた。セラフィナ、援護の範囲を後方にずらせ」
「おうよ! どけどけぇッ!」
「了解。でもMPが尽きたら帰るわよー」
前衛・蓮とゴルバ。
中衛・セラフィナ。
後衛・イリーナ。
四人の連携は、乱戦の中でも崩れず、確実に敵の数を減らしていった。
誰もが、彼らの姿を“英雄譚の一場面”だと思った。
混迷の戦場にあって、確かに前を向き、誰かを守ろうとする者たちの姿だった。
戦の終わりは、静かだった。
砦の外縁、戦場となった丘陵地帯は、すでに敵影を払っていた。
燃え残る家屋がぱちぱちと音を立て、夕暮れの空に煙が漂っている。
「……う、うぅ、こ、こんなに……みんな、ケガしてて……」
崩れた壁の陰で、少女が震えるように声を漏らしていた。
白い法衣に身を包み、両手で杖を握りしめているのはイリーナ。
その小柄な身体は、風の音にさえ怯えるように縮こまっていた。
「《癒しの光……と、届いて……》」
祈る声もか細く、途切れがち。
何度も詠唱を間違えそうになりながら、それでも彼女は必死に魔法を行使していた。
「ひぃっ……っ、ち、ちがっ……ごめんなさいっ、わたし、ちゃんとやります、やりますから……っ」
自分の魔法が上手く届かなかっただけで、顔を青ざめさせ、今にも泣き出しそうな声で謝る。
誰も責めていないのに、まるで全て自分のせいかのように怯えていた。
そんな彼女に、蓮がそっと声をかけた。
「イリーナ。ありがとう、助かった。おかげでみんな無事だった」
「……っ、ぁ……う、うん……わたし、もっと……がんばる、から……」
顔を伏せ、涙をこらえるように唇を噛みしめるイリーナ。
怖い。でも、ここで崩れたら誰も助けられない。
だからせめて、自分の祈りだけでも――そう思っていた。
⸻
その頃、瓦礫の上で杖を片手に座っていたセラフィナは、つまらなそうに足を組み直す。
「まったく、ド派手にやってやったってのに、誰も称賛してくれないんだから」
そこへ、いつものようにゴルバの不満が飛ぶ。
「見えねぇっつってんだよ! オメーの魔法、煙と火で敵も味方もごっちゃになってんだ!」
「じゃあ突っ込まなければいいんじゃない? 頭、ついてるんでしょ?」
「おぉん!? てめぇ今なんつった!?」
「け、けんかは、け、けんかはだめっ……!」
イリーナが慌てて両手を広げて止めに入る。
しかし声は震え、目には涙がにじんでいる。
「も、もうだめぇ……せ、戦った後くらい、し、静かにしてよぉ……」
「……あー、悪ぃ悪ぃ。ごめんな、イリーナちゃん」
「……チッ」
セラフィナは舌打ちしながらも、それ以上は口を開かず立ち上がる。
⸻
そこへ、伝令の兵士が駆け込んできた。
「緊急連絡! 本営より撤退命令です!」
蓮が報告書を受け取る。血に濡れた封筒から引き出された紙には、簡潔な文字が並んでいた。
「“火の砦・第七壁、陥落。周辺部隊は即時撤退”……だと」
セラフィナが眉をひそめる。
「第七壁が? あそこは戦力多かったはずよ……」
「敵の動きが速すぎる。もう、安全圏なんてどこにもないのかもな」
蓮は報告書を畳むと、皆に声をかけた。
「明朝、ここも引き払う。戦力再編と移動準備を頼む。今夜の巡回は俺がやる」
「ちぇっ……焚き火用のクッション、ようやく整えてたのに」
「おうよ、さっさと片づけりゃいいんだろ」
ゴルバがどっかと腰を上げ、セラフィナは髪を整えながらふてくされたように歩き出す。
その中で、イリーナだけが立ち尽くしていた。
まだ震える手を胸に当てながら、そっと呟く。
「……明日も、戦うの……?」
誰にともなく漏れたその声に、誰も応えなかった。
ただ、夕暮れの風が、静かに砦の上を吹き抜けていった。
朝霧が、谷を覆っていた。
砦を引き払い、蓮たちは部隊の先遣隊として南東の「黒煙の峠」を進んでいた。
かつて火山活動があったこの土地は、今も地熱が残り、深い谷間にはほのかに硫黄の匂いが漂っている。
「ったく……この道、相変わらず最悪だな」
先頭を進むゴルバが、鼻をつまむように顔をしかめる。
重い足取りを引きずりながらも、戦槌を肩に乗せて前を警戒していた。
「この辺り、昔は輸送路だったらしいわよ。今じゃ獣と盗賊の巣だけど」
セラフィナは手のひらに小さな光球を浮かべ、霧を照らしながら歩いていた。
その声には緊張感はなく、どこか退屈そうですらある。
「……あ、あのっ……お、お水、誰か……」
列のやや後ろ、イリーナが不安そうに呼びかけた。
息は荒く、額に汗が滲んでいる。
「イリーナ、大丈夫か?」
蓮が振り返ると、彼女は慌てて首を振った。
「へ、平気、だよっ……がんばるから……迷惑、かけないから……」
その声音は弱々しく、目には涙がにじんでいた。
段差の多い岩場で転びかけたのか、法衣の裾が泥に汚れている。
蓮は腰の水筒を外し、黙って差し出した。
イリーナは驚いたように目を丸くしたが、遠慮がちに受け取った。
「……あ、ありがとう、ございます……ごめんなさい……」
「おーい、おふたりさーん。いちゃついてるヒマがあったらこっち見張ってくれない?」
セラフィナの軽口が飛ぶが、蓮はそれを受け流し、周囲を見回した。
谷の霧が、どこか重たい。
風もなく、鳥の声もない。
蓮は剣の柄にそっと手をかけた。
「気をつけろ。何か来る」
次の瞬間、霧の向こうから獣のうなり声が響いた。
「――伏せろ!」
黒い影が飛び出す。
大きな猿のような姿に、甲殻じみた肩と牙。
全身を黒毛に包まれた異形の獣が三体、同時に飛びかかってきた。
「チッ、やっぱり出やがったな!」
ゴルバが真っ先に前へ出る。
戦槌が地を叩きつけ、一体目の獣を叩き潰す。
「こっち来んなっての! 《雷鎖陣》!」
セラフィナが放った雷の魔法が、獣の脚を撃ち抜き、痙攣させて倒す。
蓮も剣を抜き、残る一体に斬りかかる。
霧の中で動きは鈍るが、敵も同じだ。
ソードブレイカーで敵の牙を受け流し、脇腹へ鋭く突き立てた。
「蓮くんっ……ま、まって、回復……!」
イリーナが杖を構え、震える声で呪文を唱える。
「《癒しの光、そ、そばに……!》」
白い光が蓮を包み、浅い裂傷が塞がっていく。
「……助かる」
敵は倒れた。
谷の静寂が、再び戻ってくる。
「これ、偵察じゃなくて罠じゃないの? 数、絶妙にいやらしいわよ」
「まだ先にも潜んでるかもしれん。慎重に行こう」
蓮は手を上げ、全員に合図する。
「この先、少し開けた場所で小休止する。……イリーナ、歩けそうか?」
「ぅ、うん……がんばる、から……っ」
返ってきたのはか細い声と、小さな頷きだった。
霧はまだ、谷の奥まで続いている。
その向こうに、何が待っているのか――誰も知らなかった。
夜の焚き火が、パチパチと乾いた音を立てていた。
王都への帰還を翌日に控え、蓮たちは中継地である小さな監視拠点――**「第九野営地」**に宿をとっていた。
戦の傷を癒すには心許ないが、雨風をしのげるだけで十分だ。
だが、焚き火の輪の中には静けさが漂っていた。
「……こうして座ると、何もなかったみたいだな」
蓮がぽつりと呟いた。
剣を外し、膝の上に置いたまま、炎を見つめている。
「ふぅー……あーしんど。膝にクッション持ってきゃよかったわ」
隣で足を崩しながら座り込むのはセラフィナ。
魔道具の浄化布で杖を拭きながら、背筋を伸ばして大きくあくびをした。
「王都戻ったら、風呂入って、酒飲んで、寝る。……で、また出撃? 冗談じゃないわよね」
「それは……まあ、俺が決めることじゃない」
「ったく真面目だねぇ。もうちょい気を抜きなよ、蓮。肩こっちゃうよ」
「オイラはもう寝ていいか? 飯三杯食ったら急に眠くなった」
焚き火の外、丸太に寝袋を敷いていたゴルバが大あくびをしながら横になる。
「ま、王都戻ったら報告と整備でどうせ忙しいしな。今のうち寝とくに限る」
そう言って、彼はあっという間に鼾をかきはじめた。
しばらく沈黙。
薪が崩れて火花が飛ぶ音だけが、夜気の中に残った。
「……あ、あの」
遠慮がちな声が、焚き火の向こうから届く。
イリーナが、おずおずと両手で湯の入ったマグカップを抱えていた。
目は伏せがちで、表情には不安の影が浮かんでいる。
「お、お茶……いれました……あ、あんまり美味しくないかも……で、でも、の、飲めなくは、ない……です……」
蓮は小さく笑って、受け取った。
「ありがとう。温かいのは、それだけで助かるよ」
「……よ、よかった……っ」
イリーナは、ほっと息をついたあと、焚き火から一歩下がった場所にちょこんと座った。
誰よりも背中を丸め、小さくなって。
火が静かに揺れる。
少し冷たい風が吹き、火の粉が夜空へ舞い上がった。
「蓮くん……その……王都、久しぶり……ですか?」
イリーナの声はかすかだった。
だが、蓮は少しだけ驚いたようにそちらを見た。
「……ああ。正確には“覚えている限り”では初めて、だな」
「……そう、ですか……」
イリーナは、少しだけ顔を上げたが、すぐに視線を落とした。
「わ、私……その……王都、こわいです……」
それは突然だった。
焚き火の音が、急に遠くなったような気がした。
「人がたくさんいて、光がまぶしくて、し、失敗したら、誰かに責められて……っ。
わ、わたし……何度も……いなくなれたら、って……」
蓮は、彼女の言葉を黙って聞いていた。
そして、カップを置いて、立ち上がる。
焚き火をひとつ越えて、イリーナの隣に腰を下ろした。
「大丈夫だ。お前は、ここまで来た。自分の足で」
イリーナの肩が、ぴくりと震えた。
「こ、こわいです……で、でも……蓮くんが、そばにいてくれたら……わたし、少しだけ……頑張れます」
その言葉に、蓮は一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに微かに笑って、頷いた。
「……ああ。明日も、そばにいるよ」
火の粉が、夜空に消えていく。
この夜が終われば、王都が待っている。
そして――本当の戦いが、静かに始まりつつあった。
夜明け前の王都は、静けさの中に微かな胎動を秘めていた。
高台に建つ白灰色の城――セレルガルド王城。
政務と軍権を司るこの地に、一人の王がいた。
玉座の間に響く足音は、ただ一人分だけ。
紅い絨毯の果て、陽光もまだ届かぬ玉座に、少年のような若き王が静かに座していた。
その名は――ヴェルゼ=リュミエール。
年若くして王位に就いた彼は、剣も政も弁もすべてに通じる天性の才を持ち、
即位からわずか数年で、この国を混乱の渦から立て直したとされている。
白金の髪は滑らかに整えられ、深紅のマントは無駄なく肩に沿う。
その表情には一切の揺らぎがなく、常に王としての自覚と覚悟が宿っていた。
「……天城蓮。よく応えてくれているな」
王都帰還の報を記した書簡を指先で転がしながら、ヴェルゼは呟く。
彼の視線は、窓の外――まだ眠る街並みへと向けられていた。
控えていた文官が、静かに報告を差し出す。
「明朝、軍務局にて正式な任務再配属の発令がございます。
天城殿にはこれまで通り、北辺戦線直属部隊の……」
「いや」
低く、よく通る声がそれを遮った。
「いったん前線任務は解除し、王都近衛へ仮配属とせよ。彼は“前に出すにはまだ早い”」
「……はっ。ですが、功績としては充分に……」
「問題は、功績ではない。意志の形だ」
王は静かに立ち上がる。
その動きに、まるで剣のような切れ味がある。
「心を読める者は不要だ。ただ、正しく見つめる目だけが必要だ」
文官は一礼し、足早に退室していく。
ひとり残された王は、窓辺へと歩み寄った。
深い夜の空。
かつて、天へと伸びた光の柱があった方角に、ゆっくりと目を向ける。
「……観測は進んでいる。意志の流れも安定しつつある。だがまだ、定着はしていない」
かすかに指先を動かす。
それは、何かを確かめるような、あるいは“手繰っている”ような仕草だった。
「この世界に残るのか。それとも、拒むのか。
君がその答えを出すまで――私は、君の“王”であろう」
朝が来る。
彼が治めるこの国にとって、ごく普通の、そしてほんの少しだけ歪な、いつもの朝が。