多様性の押し付け
※尚、当該ページにおきましては、特定の個人団体や関係者を誹謗中傷する意図は全くありません。関係者等が『侮辱』『中傷』とお受け取りになるとすれば、残念です。
あくまでも個人的な感想なのですが、主張の強い人々を見ると気持ち悪くなる場合があります。
例えば現実社会の中で少数派に属する方々が、「物語での露出が少ないから、もっと増やせ」と主張しているのを見ると、「現実社会でも出会う可能性が低いのに、むやみやたらと登場させたら現実味を失って均衡を失う」と私は考えます。
物語の主題が少数派を取り上げているならば、掘り下げて啓蒙的な物語になるのは良いでしょう。
ですが脈絡もなく少数派が強く主張して来るのは、私個人としては違和感を拭えません。
例えば、学校生活の中で同性愛者に遭遇する可能性はどれほどありますか?
あなたの勤務先に同性愛者がどれほど在籍していますか?
街中で同性愛者に遭遇する可能性はどれほどですか?
日本社会の中で、同性愛者を見いだすのは本人が隠していたりすれば、全く分かりません。
もう一つ、学校生活の中でオタクに遭遇する可能性はどれほどありますか?
あなたの勤務先にオタクがどれほど在籍していますか?
街中でオタクに遭遇する可能性はどれほどですか?
こうして考えてみれば、同性愛者とオタクのどちらが日常的か理解できると思います。
更に言えば、架空の世界観でどのように物語を展開させるかは、作者の自由です。
その世界に少数派が存在しなくとも、それはその作者の持つ多様性の一つであり、登場しないからと言って否定されるものではありません。
そういう意味でも少数派が声高に存在を押し付けて来るのは、私個人としては違和感と共に嫌悪感すら覚えます。
多様性を認めるというのは、作者一人一人の個性を認めることであって、誰かの価値観や習慣を押し付けることではありません。
自らの価値観に合わないならば、無理して見る必要はないのです。
アニメや漫画、小説などの創作物は商業的であれば、消費者の価値観に合わせます。
消費者が求めもしない存在を盛り込んだところで、売り上げに直結しないならばそのような存在は無視されて当然なのです。
逆に言えば登場しないことで売り上げが左右される存在であれば、無理矢理にでも登場させるでしょう。
かつて一世風靡した「美少女戦士」のアニメでは、主役は三人組で展開させる予定だったそうです。
ところが、原作が主要な登場人物を五人組にしたことで、アニメも五人組にしました。そこから更に増えるのですが、その登場人物の中には今で言うトランスジェンダーが含まれていました。しかし視聴者からは何も批判は出ませんでした。
何故ならば、少女向けの漫画ではその遥か昔に「ベルサイユの薔薇」という金字塔の作品があったからです。
日本の大衆娯楽の中で、トランスジェンダーや同性愛は古くから描写されています。
私が知るだけでも、「リボンの騎士」のサファイア姫、「パタリロ」のバンコラン少佐、「ここはグリーンウッド」の如月舜、「マリア様が見てる」など見事に少女向け漫画ばかりですが、「ストップひばりくん」ぐらいでしょうか男性向け漫画でトランスジェンダーと同性愛を真正面から扱っているのは。「Bバージン」や「おかま白書」は少し違うような気がします。「ふたばくんチェンジ」は異色ですね。
江戸時代までは「衆道」と言って男色は社会的に認知されていましたが、西洋からキリスト教が入って来て、明治政府が西洋に阿った結果、男色は忌むべきものと見なされてしまいました。
多様性がないのは西洋の価値観であって、我が国の文化ではありません。
大正時代には「エス」と呼ばれる、少女たちによる一種の同性愛的な関係が隆盛したこともあります。
そうした歴史的経緯や、多様性を否定する西洋文化の裏側を知らずに現在の多様性を強要して来る方々には、我が国の歴史と文化を知れとしか言い返す言葉がありません。
とにかく欧米人は底が浅いのです。
同性愛者を身近な存在にしようと敢えてコミカルに描くことを、批判する向きがあります。
男女間の恋愛物語でも「ラブコメ」という形式があります。
男性はとかく恥ずかしがり屋や照れ屋が多いので、恋愛物語に拒絶反応を示す方が多いです。しかし「ラブコメ」であれば笑い話ですから臆することなく読めるでしょう。ですからトランスジェンダーや同性愛者をコメディ風に登場させることで、少しずつ慣れさせるのが身近にする方策としては正しいと思います。
いきなり真正面からトランスジェンダーや同性愛者を押し付けても拒絶されるだけです。
我が国では「急がば回れ」と表現されるのですが、多様性のない欧米人には理解が難しいのかもしれません。
それと登場させても「現実味がない」と批判する向きもありますが、物語は夢や希望を与えるのが目的なのですから、生々しい現実などドキュメンタリーで扱えば充分です。登場させなければ文句を言い、登場させても「何か違う」と批判されるならば、最初から登場させないのが無難な選択になります。そうして少数派は無視されてゆくのです。
とにかく感性がずれている人々の押しつけがましい行為には日本人は辟易して嫌悪感を示すでしょう。
「急いては事をし損じる」とは先人の知恵です。
多様性を認めるならば、我が国の方策にとやかく口を出すなと大きな声で言いたいですね。
その内、「うるさーい」と火山が大噴火するかもしれません。