ジャム
実家に帰省したとき、母が親戚から大量に貰った柚子を、一部持たされたのは一週間前のことだ。
それからマンションに戻った私は、一度もその柚子に手をつけていない。
(……あの柚子、腐ってたらどうしよう)
ふとハッとして、そんな不安が過ぎり青ざめたのは、夜、ゆっくりお風呂に浸かっていたときだった。
パジャマに着替え、スキンケアを手短に、髪も雑に乾かしたあと、私はまっすぐ台所に向かった。
台所と繋がっているリビングでは、同棲中の彼がビールを飲みながら、バラエティー番組を見て、静かに笑っている。
私はそんな彼を横目に、隅に置きっぱなしになっていた紙袋を覗く。その中に柚子が入っているのだ。
変にプニプニして腐ってないか恐る恐る触ってみると、しっかりまだちゃんと柚子の固さだった。
(良かった! まだ大丈夫だわ!!)
それですっかり安心し、ぱぁっと顔を明るくして、台所を後に布団へ潜り込んだ。
しかし、安堵したのはつかの間のこと。
すぐに私は、あの柚子をいい加減、消費しなければいけないと頭を悩ませていた。
せっかく寝ようと、部屋を暗くしたのにも関わらず、枕元で充電していたスマホを開く。真っ暗な部屋の中、目を悪くする画面の光線を一身に浴びて、『柚子 レシピ』と検索をかけていた。
何を作るかはすぐに決まった。
すでに柚子という言葉で思い浮かんでいたものがあったからだ。
脳裏に昔、おばあちゃんが買ってきた柚子茶を飲んだ思い出が蘇っている。
(おばあちゃんが買ってたのって蜂蜜につけ込んでた気がするけど、ジャムでもいいわよね、きっと)
砂糖をたっぷり煮込んだ柚子ジャムをお湯に入れ、柚子茶にすれば、とってもおいしいに違いない!
不意にパチッと電気がつき、室内が明るくなる。
スイッチに視線を向けると、さっきまでテレビを見ていたはずの同棲中の彼・恭一が、大きな欠伸をしていた。
「信子ちゃん。目、悪くなっちゃうよ。せっかく裸眼なんだからさぁ」
と恭一は言った。
恭一は子供の頃から目が悪いせいか、今だ視力がある私のことが羨ましいのだと以前こぼしていた。
「消しても大丈夫。もう寝るから」と私はスマホの画面を消して枕元に置く。
「そお?」
と恭一は返事をして再び寝室は暗くなった。恭一は眼鏡を取って、私の隣の布団に入っていく。
お互い明日も仕事がある身の上だ。
私は体を彼の方に向ける。
「おやすみ。恭一くん」
「うん。おやすみ」
すぐに彼の寝息が聞こえてくる。
私たちが一緒に暮らし初めて、もうすぐ一年になる。もうすっかり、同じ寝室で隣り合わせで眠るのが当たり前になっていた。
私は静かに微笑み、そっと瞼を閉じる。
(よし。休みになったら柚子でジャムを作ろう)
ジャムをお湯に溶かした美味しい柚子茶を二人で一緒に飲む様子が自然と浮かぶ。やがて深い眠りに包まれていった。
◇
平日仕事に追われ、それでもいつの間にか金曜日となり、私は土曜の朝を迎えていた。
休みの日に早起きなんて出来るわけがない。
私が起きたのは、午前十時を過ぎた頃だった。恭一はすでに起きて、どこかに出かけてしまったらしい。
歯を磨き、顔を洗ったあと、台所へ向かい、柚子の入った紙袋を持ち上げた。まな板の上に、たくさん柚子が転がる。
「どうやって作るんだっけ……」
もう一度、ジャムの作り方を確かめるためスマホを開いていると、玄関のドアを解錠する音が聞こえてきた。
「おかえり」と私は帰ってきた恭一に声をかける。「どこいってたの?」
「コンビニ~」
恭一はお菓子が入ったレジ袋をちらつかせた。
「あ~~。また太っちゃうよ?」私は眉間にしわを寄せ、軽い口調で言う。
「大丈夫。大丈夫。他を減らすから」
彼は上機嫌でリビングのソファに座ると、録画していた番組を再生し、スナック菓子の封を切った。
(って言って、いつもいっぱい食べちゃうくせに…)
私はそっと彼のでっぷりとしたお腹を見つめて肩をすくめた。
柚子ジャムを作る前に、パスタを茹でて、レトルトのミートソースを温め、昼食の準備をする。パスタを皿に移して彼に、好きなときに食べて、と呼びかける。すると、まだ昼には早いが、すぐにパスタを取りに来た。
「あれ。信子ちゃん、何してるの?」
柚子を切り始めた私の背後で、昼ご飯はもう用意出来ているはずなのに調理を続ける私のことが気になったのか、恭一が尋ねてきた。
「柚子ジャム、作ろうと思って。お母さんがくれた柚子、消費しないともったいないもん」
普段、スーパーで柚子をこんなに買うことはない。というか、柚子こしょうの粉末くらいでしか、柚子を接種しないのではなかろうか。
「ふ~ん」
恭一は相づちを打って、それ以上なにも言わず、パスタを持ってリビングに戻っていった。
さて、全ての柚子をまっぷたつに切り終わると、スプーンで中を潰し、果汁をボールに搾り取った。
絞ってぺったんこになった薄皮と外皮を破がして、それぞれ食べやすいよう短く切る。
(えっと、外の皮は苦いから茹でるんだっけ)
スマホで見たレシピを思い出しながら、しっかり皮を茹でてザルに上げると、皮も薄皮も果汁も全部を空っぽの鍋に投入した。
分量通り計っておいた砂糖も投入し、あとは灰汁を取りながら煮るだけだ。
グツグツと柚子を煮込んでいると、甘い香りが漂ってくる。
その香りにつられてか、ふらふらと恭一が台所にやってきた。
「これってマーマレードみたいなやつ?」
彼はしげしげと鍋を覗いた。
「うん。そうかな。マーマレードはオレンジだよね」
「へ~。俺、マーマレード、好きなんだよなぁ。出来上がったら食べても良い?」
「もちろん。そのために作ってるんだから」
にこ~と嬉しそうに笑う彼に、私もなんだかあったかい気持ちになる。
また台所で一人きりになってからしばらくしてコンロの火を止めた。とろみがあることを確かめると、あらかじめ煮沸消毒をした瓶に流し込む。
そこそこ大きな瓶がちょうどいっぱいになる。
(おお~。ちゃんとジャムだぁ)
考えてみると、ジャム自体、作るのは初めてだった。たまにお菓子は作っても、ジャムはスーパーで買ってくるのが当たり前だった。
「砂糖で煮るだけなのねぇ。簡単。簡単。でもまぁ、やっぱりなんだかんだ面倒くさいけど」
と独り言を呟きながら、完成した達成感に私はしばらく黄色い柚子のジャムを、うっとり眺める。
これをお湯の溶かしたら、美味しい柚子茶になるのだ。一、二ヶ月かけて、ゆっくり消費しよう。
これから毎日ジュースは柚子茶だぁ、と口の中に広がる甘酸っぱい味を想像し、よだれが溜まった。
辺りは夜の帳に包まれて、月明かりが静かに街を照らしている。
私と彼は夕飯も終え、夜のバラエティ番組を見ながらゆっくりしていた。そんなときふと、それまですっかり忘れていた昼に作った柚子ジャムのことが頭に浮かんだ。思い出したらいてもたってもいられず、すぐ台所に向かっていた。冷蔵庫にしまった柚子ジャムを持ってリビングに戻ると、スプーンでジャムをすくいコップに入れ、ポットからお湯を注いで、かき混ぜる。
私はそれを一口ごくりと飲んだ。
甘酸っぱくて温かくてほっとする味――――そうそうこれが飲みたかった。
母から柚子を貰わなければ、飲まなかっただろう柚子茶に満足していると、彼が「俺もジャム食べて良い?」と聞いてきた。すぐにもちろん、と了承する。それから私はテレビのタレントのコメントにくすくすと笑った。
テレビに夢中になって、しばらく彼の方を見てなかった。しかし、CMに入ったところで、彼が視界に入る。
(えっ……)
私は目を丸くして、ぽかんと口を開ける。
なんと彼は、私が作った柚子ジャムを惜しみなくたっぷり食パンに塗っているではないか!
「きょ、恭一くん……えーとその…」
「ん?」
きょとんとした顔をこちらに向ける彼に、私は心の中で叫んでいた。
(そんな沢山、遠慮なく取るなんて! これ今日わざわざ、貴重な休日の時間を使って作ったのに!!)
確かに食べても良いと許可は出した。だが、まさか一度にこんな量をとるとは、考えていなかった。
これが既製品なら、こんな気持ちにはならなかったかもしれない。けれど、この柚子ジャムは時間をかけて作った手作り。普段スボラで、料理は最低限しかしない私が、レシピを調べてわざわざ作ったものなのだ。
そんな私の気持ちを察して欲しい。そんな切なる願いを抱いたが、言葉に出さなければ彼がこちらの気持ちに気づかないことも分かっていた、
食いしん坊な彼は柚子ジャムをたっぷり塗った食パンをパクリと食べる。
「ん~おいしい。信子ちゃん、すっごくおいしいよ。僕、マーマレード、大好きなんだけど、柚子も良いねぇ」
などと、満面の笑みで彼は言った。
「そう……」
私は微笑を作り、相づちを打った。彼が美味しく食べてくれたことは嬉しい。だけど、柚子ジャムが自分が考えていた予定より、かなり早く無くなりそうなことが、悔しくてガッカリだった。
でも、食い意地を張っていると思われたくなくて、ぐっと言葉を我慢してしまった。その後、私は彼に心のモヤモヤを抱いたまま、眠りについたのだった。
二日後の夕飯後の夜、柚子ジャムはとうとう空になった。
(うう……こんなにも早く終わってしまった…………)
最後のジャムをスプーンでかき集め、マグカップに入れると、お湯を注ぐ。
ずずっとリビングに座って一口飲むと、お湯を入れすぎたのか味が薄かった。もう少し甘みが欲しい。
私は砂糖を足して、また一口飲む。やっとちょうど良い、甘みになった。
(もっと長く柚子茶が飲めたはずなのにぃっ)
私は少しだけ、恨みがましく、ソファでテレビを見て無邪気に笑う彼に、唇をとがらせる。
それでも一度ふぅと一息ついてから、甘い柚子茶をゴクリと飲む。
(おいしい……。これが最後の一杯だから味わって飲まなきゃね)
私は仕方ないと嘆息してから、ちびちびと飲む。少し彼にモヤモヤは残ったものの、最後の柚子茶をゆっくり堪能したのであった。
それから彼の後ろで一緒にテレビを鑑賞したあと、重い腰を上げ、マグカップを洗いに台所にいくと、目の前の光景に目を丸くした。
(え…………?)
そこにはピカピカに洗ってある柚子ジャムが入っていた空瓶があった。水を切るため、逆さまに置かれているではないか!
(恭一くん、洗ってくれたんだ……)
空になったジャム瓶を洗うのが面倒くさくて、私は蛇口に置きっぱなしにしていたのだが、いつの間にか彼が綺麗にしてくれたらしい。
私はまじまじと瓶を見つめる。すると、みるみるうちに、彼に抱いていたモヤモヤがすーっと無くなっていくを感じ取った。
(あらら、私ってば……)
小さなモヤモヤは、こんな些細なことで晴れるのだ。
私は口端を緩め、ふふっと小さく笑った。
振り返って私はそっと彼を一瞥する。
それから自分のマグカップを洗うため、私は袖を捲った。
END
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




