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Χ-十(かいじゅう)  作者: 砂鉦たこま
1/1

緑の霧

終業のベルが響き、作業の手を止める。

分厚い革手袋の中は、地獄のサウナなんじゃないかってくらいの熱と湿度を蓄えていた。

「あっつ……」

金属加工の労務を与えられてからすでに2年が過ぎ、柔らかかった肌も筋張った腕もまるで見違えてしまった。日常的に過酷な労働を繰り返すことで今では革手袋よりも固くなった肌と、破壊と回復を繰り返して盛り上がった筋肉は心の内とは不釣り合いに頑健になっていったように思う。

「帰りたいな」

その気もないのに言葉がでてしまう。帰りたいと思える場所にはもう二度と帰れないのだ。

労務が終わってからは、疎開者用の寮生活が待っているだけだ。相部屋でないことだけが救いで、口の合わない食事と隣人の喧騒、アンモニア臭が鼻をつくトイレでの生活がどうして帰りたいと思わせてくれるのだろうか?


 5年も前になる。県内に海はあるが、比較的内陸で安全とされている故郷に”ヤツら”が侵攻してきた。

当初、“特定脅威生物”と呼称されたそれらは、認識の甘さを人類に突きつけた。

“ヤツら”の最初の個体は海から現れ、人里にほど近い山まで侵攻、そこで活動を停止した。

と、思われた。


 移動や生理反応といったおよそ生物としての活動を終了した”ヤツら”は、自然な肉体の分解を待たず、緑色の粒子を大量に放出して朽ちていったのだ。

緑色の粒子は人体に対して有毒であり、その汚染は動植物に残留することが分かったらしい。

緑色の粒子は大気中に長く残存し、”緑の霧”と呼ばれるようになった。全く未知の物質故、健康に対するリスクは計り知れない。ということから、周囲の人間は避難を余儀なくされた。

人間という高度かつ、強固な社会を持った種族において、住処を追われるという体験は、何らかの災害、または社会的な権利・財産を要因とするもの、そして、人類同士の戦いといった様に、形が無い現象か、あるいは人間そのものによってもたらされてきた事象であった。


 しかし、今回は確かな”実たい”と、目的意識を備えた外来の天敵であったことが、事態の対処をより難しくさせた。

現代では”怪獣”とあだ名される、”特定脅威生物”に対して、国々の対応は迅速に行われた。行動パターン及び、生態の暫定的な情報共有はその日の内に完了し、国家の防衛組織、軍や警察などといった武力による直接的な外敵の駆除を滞りなく進めることができたのだ。


 それでも現在では、人類の生存可能な土地は減り続けている。

海岸線の監視・封鎖といった対応を全土で行うことは容易ではなく、封鎖を突破する個体、監視から逃れる術を持つ個体が内陸部への侵攻を幾度となく果たしているのが現状である。

“怪獣”が発生する”緑の霧”の範囲はその個体の大きさに依存し、監視・封鎖からこぼれてしまう個体は得てして小さい範囲しか汚染を広げることができない。

そのため、ジリジリとかじり取られるように国力は低下している。


 島国である日本がここまで持ちこたえられたのは、持ち前の献身的・従属的な国民性、そして製造業が盛んであったこと、そして人口密度の調整が功を奏したことに起因する。

“怪獣”を迎撃するための配備を、高精度な部品を潤沢に使用した機械が担い、人口密度の調整に依って、”怪獣”の出現位置や、侵攻パターンを限定することに成功したのだ。


 とはいえ、最前線で戦うのには装備が必要になる。それも損耗が激しいので、休みなしの大量生産で賄わなければならない。

そういった事情で僕たちのように労働に耐えうる人間は年齢や性別を問わず、疎開先での労役を余儀なくされている。

栄養管理された3食、管理された睡眠時間、労働は運動として、余暇の時間もある。寝床はすこし硬いかもしれないが。

戦時中という括りでみれば、安定して生活できていると評価できる。しかし、客観的な評価は単なる評価だ。感情や感覚は置き去りになっている。

日に数時間の余暇を、工員は好きに扱える。この自由は陰鬱とした感情を晴らす大事な要素になっていた。

ある人は間食、ある人はゲーム、歌、観劇、絵などに充てている。そんな中、僕はというと……。


「そろそろ紅葉も色づき始めてきたな」

整わない息で独りごちる。

山育ちだったせいか、自然の多い場所へ足を運ぶと気分が晴れるのだ。

この2年、十分に時間がとれる日は近隣の山や、原っぱで植物や野生動物を観察することにしていた。育った場所とは違う環境では見られる種類が異なり、それも知的好奇心を満たしてくれる。

気温も少しずつ下がって、山も実りをつける頃合いだ。一歩足を進めていくごとに響く鈴の音が心を落ち着けてくれる。

気の早い落ち葉を、くしゃり、くしゃり、と踏みしめる。その感触、その音のなんと心地の良いことか。楽しくなってしまったようで、思いがけずにすこし山深いところまで来てしまった。

 動物と人間との生活圏における境界は曖昧ではない。

境界が目に見えなかったり、その決め方に暗黙の了解があるだけなのだ。

明らかな決め事ではない、自然の習わし。そういうでき方。しかし、それを安易に侵犯してしまうと、人にとって、動物にとって、悲しい出来事が起きてしまう。

今、人間が脅かされているのもそういったことなのか?

考え事をしていたら、進みすぎてしまった。

明らかに何も武装していない人間が立ち入って良い領域を逸脱している。

「参ったな。これじゃ昔の自分を笑えないぞ……」


――――


まだ小さかった頃、怪獣が現れる前のこと。

「お前は山の御子様だからね」と、母に手を引かれて山中の神社へと頻繁に通っていた。

年月を経るにつれて、山道を一人ですすめるようになったことで、母に連れられずとも神社に通うことができるようになっていた。

「一人で行けるよ。大丈夫。母さんは忙しいからさ。もう膝もあんまりよくないのだし」

心配する母をよそに家を出る。

鈴を着け、リュックの紐を調節する。背負い直し、これなら楽に山を歩けると確信する。

その日もいつものように同じ道を通り、鳥居をくぐり、参拝をした。

少し湿った匂いがした気がする。そんな記憶が残っていた。

ちょっと興が乗ってしまったと言えば、そうなのかもしれない。

―今日は少し奥まで行ってみよう。

そんなちょっとした冒険心。

―神社の奥はどうなっているんだろう?

そんなちょっとした好奇心。

そして、成長したことを見せたいという見栄。

物事の失敗にはいくつも理由が重なるものなのだろう。

大した装備もなく山奥へと一人、進んでしまったのだ。

そこからは、微かな日の明り、倒木と苔、少しのキノコ、シダや虫。

そして、明確な敵意があった。

 筋肉質で巨大な影が、存在を示すかのように荒々しい呼吸音を漂わせながらこちらを見ている。

茶褐色で、森の薄明かりの地面に溶け込むような毛皮は、まるで敵愾心が形を得たように張り詰めている。

―しまった!

幼いながら、この非常事態がすでに取り返しのつかないところまで来ていることを悟った。

野生動物の縄張り。まるで知識がなかったわけではない。

しかし、領域を侵してしまったのだ。自然の理として異なる生命が互いの領分を守らなければ、それは無用な争いに発展せざるをえないのだ。


 そこから先は、記憶が定かではない。

覚えていることは破裂しそうな胸と、ぼろぼろになった両足。そして、青ざめた大人たちの顔だけだった。


 「ここにいては駄目だ」

努めて冷静に判断する。

勇み足を意思の力で鎮める。焦ること、焦った体の動きですら、命取りになることは身を以て知っているのだ。

足元に気をつけ、周囲の気配を感じ取ることを意識しながら来た道を戻る。

「金属音は良い。大丈夫だ」

自分を落ち着かせるためにつぶやく。

一歩ずつ、リンと鳴る鈴の音が何者かに一挙一投足をみはられているように感じる。

動物避けのためにつけたのは自分だ。大丈夫。これで安全が買えているんだ。

木の枝が折れる音。落ち葉が踏み崩される音。大丈夫。自分の足音だ。動物のものではない。

十数歩進んだところで、額から水滴がこぼれた。水滴と言うにはあまりに滑らかでない。

早鐘が胸を締め付ける。

緩やかな風音の中でなにか動いたように感じる。

血管の一本一本がジクジクと痛む。

(隠れる場所はないか?)

錯覚だろうか?それとも実際に追われているのだろうか?

まだ明らかではないが、何かあったときの隠れ場所を探したくなる。

身を隠せば、少し息を整えられればこの心臓も、心も落ち着いてくれるはず……。


 時間の感覚が狂っているのが分かる。この状況で探しものが見つからなければそうもなるだろう。

目を必死に動かして安全地帯を探す。

まだ色づいていない碧い領域にも足を踏み入れる。

どこかにあるはず。野生動物も隠れ場所を持っているのだから。

数時間とも、数十秒とも感じられるような長く、そして短いような間、瞬きすることも忘れた結果、隠れ場所が見つかった。

不思議と来たときに見つけられなかったが、緑の中に大樹がウロを開いていた。

駆け込みたい気持ちを抑え、一歩一歩着実に足を進め、待ち焦がれた避難場所にたどり着いた。


 ぴたりと貼り付いたシャツに、自分がどれだけ焦っていたかを実感する。

緊張からくるものだろうか?それとも体力を消耗したからだろうか?

掌から震えが拭えない。

ようやく装備をおろして腰を据えたころには、背中はジトっとした冷たさに覆われてしまっていた。

どこか空気も冷ややかに、湿り気を帯びているように思える。

心の落ち着きを、ウロから見える緑の風景が取り戻してくれると良いのだが……。


日が落ちるまで、そんなに暇はないだろう。

装備は簡単なものだけにしてある。テントやグリルなんてものは無い。

幸い、火起こしくらいはできるので、下山を諦めるならここで夜を明かすこともできるにはできるが……。

状況を整理していこう。自分に言い聞かせるようにつぶやく。


動物に襲われる危険は、とても高い。

縄張りがどの程度かわからない以上、できるだけここから早く離れるべきだ。


時間的余裕は、あまり無い。

日の傾きや時刻を考えるにここから一直線に帰路を進めてギリギリといった所。


食料や夜を越すための用意も、あまり無い。

夜を越した場合、下山するだけの体力が残るかどうか……。


身動きが取れなくなった場合にどうなるか?

これは考えるまでもないだろう。

答えは行方不明者リストに名前が載るだけだ。

ただでさえ人手不足なこの環境で、捜索隊なんかが結成されるわけもない。

それに、山に入ったことのない人間が大半だろうから、ミイラ取りがミイラになるだけだ。

何が助かるかもわからない中で、わざわざ危険を侵して他人を助ける余裕など、もうないのだ。


さて、いよいよ現状がとても困難なものであると理解できた。

夜を明かすも明かさないも、どちらも博打でしかない。

掛け金は命、倍率はそれぞれ不明。


要は、今すぐに動き出すかそれとも、後で動けるか?だ。

それなら答えは簡単だ。

動けるうちに動こう。

少ないながらも食料を抱えている状態で一箇所にとどまっていることは危ういし、

なにより、動けなくなったときにじわじわと後悔しながら衰弱していくのは嫌だ。


装備から、火付け道具をポケットに移す。

道中、手頃な枯れ枝を見つけたら松明にしよう。

他にもすぐに取り出せると良いものを選別するときに、汚れが目に入る。

隠れ場所を探しているときに、植物が擦れたのだろうか?

荷物がところどころ、緑に滲んでいる。

いや、そんなことはどうでもいいことだ。

他の装備に置き忘れがないことを確認し、木のウロから歩み出る。


-大きすぎる恐怖が背中に張り付いていた。


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