鉄拳聖裁/愛の下に我在るならば
「忘れてください」
聖都に居られなくなった聖女アネモネと僕は、西にあるという竜都を目指すことにした。
「忘れるって、なにを」
マザー・シトラスから訪問用の馬を貸してもらったので、昼には着くらしい。僕は手綱を握るアネモネに抱かれるまま、唐突に投げかけられた言葉に振り向く。
「……私が、シトラスさんの胸で泣いていたことです」
「そっち?」
「そっち、とは」
「オーガを素手で倒したり、とか……」
目を丸くするアネモネ。少女が気を許した相手の前で泣くことと、鉄拳伝説、どちらが珍しいかは比べるまでもない。
「恥ずべきことではありません。私の肉体は、主より賜ったもの……それを鍛え上げ、磨き上げることもまた主への信仰の証なのです。いえ、もう主は私を見てくれはしないのですけれどね……」
そういうものなのだろうか。
「遍く愛を尊敬します。差し伸べる愛を敬愛します。主よ、……はぁ……」
それからも道中、聖都に向かって祈りを捧げる時間だ、と馬を止めては「もう祈ることはできないのです」、マザー・シトラスから頂いた携帯食に感謝の言葉を並べようとして「あっ、……いただきます」。……街が見えて来るころには、禁断症状なのか経典の一部を引用しては中断し、少し飛ばしてまた引用する、という状態になっていた。
「わた、私は……なにに祈れば……!」
◆◆◆
「着きました。ここが竜都です」
禁断症状も一旦治まり、到着。
「……聖都とあまり変わらないんだな」
街並みは多少違うが、人の暮らしというのは大差ないように見える。
「どこもそんなに変わりないですよ。でもこれ。見てください、クレス」
アネモネの指差す先……噴水には、勇壮な竜の彫刻が飾られていた。
他に、緊急時に結界を発生させるために設置された柱にも、竜のモチーフがあしらわれている。
「ここは、人と竜が共に築いた街、という伝説があるようです。少し見ていきませんか?」
その足先は、屋台の方に向いている。
「すまないが……先に竜都の代表と話がしたい」
僕がこっちに来てすぐ、オーガが送り込まれるくらいだ。大群とは行かないまでも、魔王軍幹部の一人や二人、こっちに来ていてもおかしくはない。
それらより早く、一国でも多く、話を聞いてもらわなければ……。
「しかし、いきなり申し入れはリスクが高いのではないのですか?」
「……それもそうだが……」
「スニークほどの聞かん坊はそうはいませんが、それでも信用は必要です。人の中で信用を得、クレスが愛のある人物だと認めてもらうのです。そうすれば、相手も魔王という先入観を捨て、あなたの言葉を真摯に受け止めてくれることでしょう」
「…………」
なんというか。
「聖女様みたいなことを言うな、アネモネは」
「聖女です! 主を失ったとはいえ、私が私である以上、そこは変わりません!」
ただでさえ真っ直ぐな背筋を一層伸ばし、胸を張るアネモネ。
と、その後ろを少年が掠めた。
その小さな手には、アネモネがマザー・シトラスから頂いたという路銀が入った小袋が握られている。
「スリだ、アネモネ」
「スリ……えっ⁉︎」
腰の辺りを確認したアネモネは、走り去る少年の背を目で追った。
走って追いつくのは骨が折れる距離だ。指先に魔力を集めて……
「チッ」
集めた先からほどけていく。
当然核に傷がついたのは初めてだが……ここまでダメになるのか……!
外に出すのがダメなら、体の中に魔力を満たす身体強化で、
「えっ」
強化しようとした手前、すでに走り出していたアネモネが拳骨をかましていた。
「えぇ……」
膝から崩れた少年の襟を掴んで、アネモネが戻ってくる。
「いいですか? 人の物を盗むのはよくないことです」
説教が始まった。
……。
……。
長い。さすが聖女、さすが修道院育ちというべきか。
「――」
……。
あ、逃げた。
長かったからな。仕方ない。
「――ですから、人は人を騙しては……はて?」
はて。
「クレス、クレス! あの少年は⁉︎」
「……逃げたよ。説教が長くて」
「長い⁉︎」
逃げた方じゃないのか……。
少年は少しふらつきながらも、すでに後ろ姿が小さくなるほど遠くまで行っていた。
「まだ終わってませんよ!」
すごく速くて怖い。拳骨のキレも増している。
再び首根っこ捕まえて戻ってくる聖女。
「人を騙してはいけません。なぜこのようなことを?」
「……仲間を、食わせるために……」
ウソだ。
「仕方なかったんだ。つい出来心で……これがはじめてだったんだ、許してくれ」
これもウソ。
……初犯だから許してくれ、という理屈もよくわからない。
「……そうですか。そういうことなら許しましょう。主……いえ、ええと……彼も、今回だけは目を瞑ってくれることでしょう」
彼、と僕を指すアネモネ。
どうして僕なんだ。
「……そう、だな」
拳が握られていたので、僕は渋々同意する。
「いいですか。盗みは悪いことです。咎められれば、あなたを待つ仲間たちも心配するでしょう。それはきっと、一時の飢えよりもつらいものです。以後、このようなことをしないように」
アネモネに肩を優しく叩かれた少年は、僕たちに一礼ずつして駆けていった。
……。
「おい、アネモネ。あいつ、ウソをついていたぞ」
「えぇ。わかっていました」
……なに?
「しかし彼は、言い訳とはいえ、最初に仲間を想う言葉を選びました……。彼の心に、愛がある証拠です」
また愛か。
「ひとたび愛のある言葉を口にすれば、心もそれにつられ、正しい道へと向かいますよ」
「そういうものなのか?」
「そうです」
断言された。
「……もしあいつが、またスリをやったら?」
「そのときは、また導きます」
「そうか」
……命が惜しければ、もう絶対悪さはするなよ。
僕は初めて、心の底から人間個人の安寧を願った。