ばーか
離岸堤をのぼると海が見えた。
季節が移り変わった海は翠みの蒼をしている。深い場所から立ち上がって来たような白波は風が強いせいだろう。波消しブロックにぶつかっては飛沫を巻き散らしている。
いつもより潮の香が強いのは気のせいだろうか。手のひらが汗ばんで鼓動が抑えられない。
雲に覆われていた空から斜めに陽が差し込み、遠くに釣り人が見えた。
大きく弧を描く水平線に向かって俺はひとつ深呼吸をする。
そして胸ポケットを押さえた。ここに母からの手紙がある。いや、正確には手紙ではない。転送された葉書だ。
そしてその葉書は――
「走り慣れた場所だから大丈夫だ」
大丈夫。
確かめるように俺はつぶやいた。
海に沿ってゆるやかなカーブを描く道。疲れたら防波堤にのぼり休憩も取れるという俺だけの練習場所。ここなら安心して読めるはず――だ。
嬉しいはずなのに、なんだろう、この焦りは。
「あ~もうっ」
もうすぐ大学駅伝の代表選考があるのになんてものを送って来るんだよ、母ちゃん。
『裕、鈴ちゃんからお知らせが来たよ』
一昨日、寮に掛かって来た電話を思い出す。どこか含み笑いをしていた。こういう時は何かイタズラを考えている時だ。きっとこの茶封筒の中には俺充ての葉書が入っている。それも鈴からのもの。母はそういう人だ。
「……」
俺は今も昔も携帯を持っていない。スマホは食べられないし、ラインだかメールだかは違う星の言葉でできている……に違いない。なくても不自由だと感じたことはなかった。少なくなって来たけど公衆電話はあるし、郵便局に行けば何でも送れる。
「そう。送れるんだよなぁ」
俺はわかっていたのに、と溜息をついた。
鈴。
転校して行った鈴とはもう二度と連絡が取り合えないと思っていた。彼女の住所は東京とだけしか知らなかったし、電話番号も聞かなかった。何の繋がりも持っていなかった。
けれど、向こうは俺の自宅を知っていたんだ。ご近所さんだったのだから、考えてみれば当たり前のことだ。
俺は自分のおマヌケさに呆れていた。そういえば一つ下の鈴の方が、頭が良かった。あまり喋らなかったけれど俺より物知りだった。
俺と鈴が出会ったのは小学四年生の時だった。市営住宅の――裕福な人は入居できないという団地だった。ひび割れた跡のある壁には苔かカビか分からないものがある無数にある灰色の箱だ。
誰かに風呂やトイレはあるのかと聞かれたことがあった。もちろんある。使うと周囲に音が響きまくっていた。
四階建てが三棟連なっており、俺と鈴は一番陽の当らない二棟の端だった。俺が一階で彼女は三階。同じ階段を使う仲間だ。鈴は当時小学三年生だったはずだが、もっと幼く見えた。
裕福な人が入れないだけあって訳ありは暗黙の了解だ。住民は身寄りのない年寄りとシングルマザーばかりで、俺たちは後者だった。だからなのか、先に仲良くなったのは母親同士だった。
いつの頃からかお互いの子供を呼び合って交互に夕食に招きあうようになっていた。今から考えると合理的節約だったのだろう。
おばさんは俺の母よりも綺麗好きでほんの少し若そうだった。カーテンは花柄で人形も飾ってあった。
「うちの子も裕ちゃんみたいな男の子だったら良いのに」おばさんはよく口にしていた。
「どうして? 男はガサツで嫌よ」
「でももし男の子だったら……」
「もし、は言いっこなし。過去は変えられないからねぇ」
俺をガサツと呼んだ大雑把な母はよく笑い、よく励ましていた。
どうも俺の所と違い、鈴の父親はまだ生きているらしかった。そのあたりは詳しく知らない。大人の事情というやつだろう。
おばさんは俯き爪を噛む癖があるようだった。鈴も同じだ。だから俺も母のように接した。
鈴はおかっぱ頭で色がやけに白い。おまけに背も低い。頼まれてもいないのに草引きをする不思議な奴だった。
ある時、驚かせてやろうと近づくと色のない頬に流れているものがあった。
――あぁ、そうか。
そういう泣き方もあるのだな。独りで下を向くのにはちょうど良い。涙を誤魔化すのにピッタリだ。草引きで目にゴミが、と言えば誰もが信じるだろう。鈴はきっとそうして生きて来たのだ。
俺は声を掛けなかった。小さく丸まった背中がいくら震えていても黙っていた。邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
だからというのではないが、親が仕事で遅くなる時は、二人で遊ぶようになった。まあ、自然の成り行きだ。
鈴は運動音痴で外遊びはすぐ怪我をする。俺は走っていれば満足だったが、そこは折れた。
鈴はトランプが強かった。ババ抜き、神経衰弱はなぜか勝てた記憶がない。そして彼女は勝っても喜ばなかった。
「もっと笑えよ」と、言っても表情らしい表情はない。
もしかして笑い方知らないのか?
俺は両手で唇の端を無理矢理上げてやる。鈴の柔らかい頬はフニュっとした感じがした。 鈴は何度も目を瞬かしていた。なぜそんなことをされるのかわかっていない。まるで「どうしてそんなことをするの」と驚き、尋ねているようだった。だから俺は言った。
「当たり前だろ、バカ。勝ったら嬉しいだろ。嬉しい時は笑うんだ。あのな、貧乏神より笑いの神様の方が強いんだぞ。笑える機会があれば笑っとけって母ちゃんが言ってた」
彼女は笑顔のタイミングがわからないのだと思った。
俺は作り笑いでも笑いのうちだと大きく手を広げ、何度も説明した。
とは言っても俺は鈴以外、友達がいなかった。嫌われてはいないが、好かれてもいない。この団地に住んでいることを知られると誰も遊びに誘ってはくれなかった。そこは子供の事情。
近所に子供はいたが、年下は保育園か学童で、年上はガキに興味がないという顔をしていた。こっちは団地の事情。
狭い箱の中でもこうだから、外はたくさんの事情が理不尽と共にあるのだろう。五歳で父が亡くなった俺は理解していた。
それは誰のせいでもない。
俺は鈴と出会うまでは風が友達だった。
風は背中を押してくれる時もあるけれど前からぶつかって来る時もあった。草の臭いの中に湿った香りが混じると雨になると教えてくれたりもした。
風は嘘をつかなかった。だから独りは別に嫌じゃなかった。
でも鈴はどうなのだろう。隠れて泣いているのだから寂しいのかも知れない。自分は男であいつは女の子だから、やっぱり可愛い恰好をしたいのかも知れない。お金がかかることは無理っぽそうだけど。
「仕方ねぇな」
俺はこの時に鈴を絶対に笑顔にすると風に誓った。
中学は同じだった。
少し距離が離れていたので自転車通学が認められていたが、俺は買ってもらえなかった。走っていけるからいいやと思っていた。舗装されていない地面はいかにも大地という感じで踏み込む度に一歩がデカくなった気がした。もしかしたら飛べるんじゃないの、俺。
やがて二年に上がると鈴が一年生になった。
遅刻魔の俺は恥ずかしながらいつも鈴に世話になっていた。起こしてくれない母が悪いとか言いながら鈴が来るのを待っていた。
「行こ」
セーラー服の鈴は少し違っていた。どこが、とかはわからなかったけど似合っている。骨っぽかった身体が柔らか味を帯び、髪を少し伸ばしてポニーテールにしている。
小学生の頃は気づかなかったけれど、鈴からはいい匂いがした。
「遅れる」
「わかってるって」
鈴は自転車を買ってもらえたようだ。まあ、トロいし走っていける体力もないしな。
「けど、遅れるような俺じゃねぇだろ」
「カバン貸して」
鈴のスカートは自転車に乗る時に風をふわりと巻き上げる。白い足はすらりと伸びてペダルに届く。
「じゃあスタート」
彼女は自転車で俺の荷物を運んでくれながら並走してくれていた。俺は陸上部に入っているから朝練にもなっている。
「いじめられてないか?」
俺は意を決して尋ねた。最近自転車をパンクさせられていることが多いように思う。
「裕ちゃんの妹だって言ってるから大丈夫」
「そ、そうか」
だったら良いけど、鈴は我慢してしまうタイプだからな。
「ところで鈴はクラブ決めたのか?」
「帰宅部」
「なんだ。マネージャーに向いていると思ったのに」
「それは嬉しいけど」
この頃の鈴は俺に笑いかけてくれるようになっていた。とは言っても母のようにでかい口を開けるのではなく、薄く微笑むレベルだ。
「部活はお母さんが、ね」
「……なら仕方がねぇな」
おばさんは最近、仕事を二つ掛け持ちしているらしい。鈴は家の用事をするのだろう。
俺もそのつもりだったが、体育の先生が強く陸上部を勧めてくれた。
「まあ、何だ。変なこと聞いてごめん」
「そんなことより団地の隙間に花壇を作りたい」
「え、何で」
「花があったら綺麗だと思う」
「俺はプチトマトとか食えるやつが良い」
「良いよ。野菜も花が咲くし」
鈴の自転車は、俺の少し前を行く。
俺は追いつこうとスピードをあげる。
「種はどうするんだ?」
「小学校の用務員さんに分けてもらえないかな」
「ゲッ」
「なに?」
「卒業したのに行くの恥ずかしくね?」
鈴は進む。
俺は走る。
もう少しなのに抜かすことはできない。
俺は鈴の後れ毛が揺れるのを眺めていた。
片道二十分の登校。その内、大通りに出るまでの五分間が二人だけの時間だった。
山の脇を抜けるようにあるそこは車すら通らない。緑の風が時おり光って行き過ぎるだけだ。
意味のあるような、ないような会話。見えるようで見えない鈴の顔。
その宝物のような瞬間がずーっと続けばいいと思っていた。
続くと信じていたのだ。
そう――これからも。
朝が来て夜になり、雨が降り、そして陽が差す。
やがて季節は進み俺は高校生になった。
運が良かったのか最後の大会で三千メートルで二位に入り、スポーツ特待生の誘いがあった。
私学だから少し遠いが、一時間も走れば直行の無料バスが出ている所に着く。時間的にアルバイトはできなくなるが、今やれることをやれと背中を押された。母やおばさんに先生、誰より鈴の応援が嬉しかった。
男子校だから鈴とは違う高校になるけど、住んでいる場所は同じだし、練習に付き合ってくれている。
練習はきつくて特待生というプレッシャーを感じたが、怖いものは何もなかった。
「裕、鈴ちゃんママが再婚するって」
部活から帰って来た時、パンダがスキップを踏むように母が駆け寄って来た。
「は?」
俺は初耳だった。
おばさんが結婚する?
昨日会った鈴は何も言っていなかったけど。
「なんか嬉しいわねっ。お祝いは何にしよう。連名にする? それとも個人で? 急がないと引っ越ししちゃうし」
母はいつになくはしゃいでいるようだった。おばさんのことは妹のように思っていたようだからか、身体から〈嬉しい〉を発散させている。
「東京転勤に付いて来てくれというのがプロポーズだったらしいわよ。いやん、羨ましすぎる。ねえ、鈴ちゃんも喜んでたでしょ」
「……」
明るすぎる鼻歌が聞こえて来る。
たぶん俺はポカンと口を開けたままだっただろう。
まばたきをするのも忘れていた。次の言葉を考えることもすべて放棄していた。
「あ。あれ? ごめん。なんだ、まだ裕は」
「うるせーなっ!」
走ることに集中して頭がからっぽになることはあったが、この時は違う意味で真っ白になった。鈴が出て行く? しかも東京に。
――なんで俺に教えてくれないんだよ。
急に怒りが込み上げた。
進級して学校は違ったが、仲が悪くなったわけじゃない。おばさんが仕事の時はうちに夕飯を食べに来ていたし、洗い物をしてくれた時もあった。毎日顔を合わす家族以上のものだったはずだ。
「ああ、そうだ。俺は聞いてねえよっ!」
カバンを玄関に投げ込むと、力任せに扉を閉めた。ただでさえ軋む扉は信じられないほどの音を立てた。
「……転校?」
知らない。
「……引っ越し」
知らない。
俺は外に飛び出た途端、怒りよりも失望していることに気がついた。信頼されていなかったのだ。だからそんな大切なことを教えてもらえなかった。一緒に喜ぶ価値がないとでも思ったのだろう。
力が抜けていくのを感じた。
「だる……」
今日も厳しい練習だった。部分筋トレは初めてだったから慣れない。身体の節々が突っ張り熱を持っているようだ。
走るって好きだけど、タイムを縮めるって辛いことだったんだな――って、何を独りで愚痴ってるんだ。
空を見上げると狭い団地の隙間から星が見えた。住んでいる場所がボロいとは言っても空は綺麗だったんだ。
瞬いているんだな、星は。
俺の足はなんとなく花壇に向かった。
始めは二人で作ったものだったが、途中で年寄り連中が加わった。トマトにキュウリ、ほうれん草。夏のゴーヤは苦すぎて食べられなかったが、サツマイモは美味しかった。花壇は大きくなり、もはや畑だ。俺たちの手から離れてはいったが、爺ちゃんも婆ちゃんも喜んでいた。たぶん届け出が要るのだろうけれど、誰も団地に視察なんて来ない。自給自足で楽しむくらい、良いだろう。
俺は元花壇を見下ろした。
ほんの少し前に収穫をした。だから土を休ませている。平になったここには何もない。
「広くなったな」
俺と鈴が始めたのだ。
山の腐葉土を集めて運ぶのは大変だったけれど、あれを楽しかったと呼ぶのだろう。
周囲のカーテンから漏れる灯りでよく見えた。最初は朝顔だったっけ。あれだけだったな、花らしい花は。
思い出しながらふと見上げると鈴の部屋の窓が開いているのに気がついた。
逆光でよく見えなかったが、シルエットから彼女だとわかった。髪を下して肩に流している。
「――鈴」
きっと扉の閉まる音と俺の声で気がついたのだろう。
「おい、鈴っ」
呼びかけたけれど何も返っては来なかった。
きっと母との会話も聞かれていたのだろう。壁は折り紙レベルに薄いから丸わかりだ。殴るように扉を閉めたのも悪かった。だから脅えて返事ができないんだ。
確かに俺は腹を立てて部屋を飛び出した。
でも違う。
今は哀しい。
情けないんだ。
おばさんの再婚ってすごくめでたいことだし、誰よりも喜ばなければいけない。両親が揃うんだろ、きっとこれから腹いっぱい食えるんだ。綺麗な服だって着られる。幸せしかないじゃないか。
おばさんも鈴も……なあ、良いことだらけだ。
「……っ」
なのに俺はお祝いの言葉を口にできない。突っ立っているだけだ。できればもうちょっとカッコつけて鈴の前に立ちたかった。
暗い畑の前で握りこぶしを作っているなんてミジメじゃないか。
転校、引っ越し。しかも東京だ。走っていける距離ではない。どれだけの夜を使ってもゴールできる気がしない。
孤独は平気だとか大口叩いて、置いて行かれるのが嫌だったんだな、俺は。風と友だちだとか誤魔化して怖いんだ、楽だけど怖いんだよ、ぼっちは。
鈴が居なくなるなんて絶対に嫌だ。
なんて我儘なんだろう。
たぶん俺は風の中で泣いていた。あの時の鈴と一緒だ。涙は生きていく儀式だったんだろう。弱い自分を捨てるために必要な儀式。
けれど俺たちはそれを二人で辞めた。本当の意味で笑顔になるために。
もう涙を風で吹き飛ばすことには使っていない。鈴もそうだろ?
でもお前は遠くに行くんだ。
また草刈りに恰好つけて泣くんじゃないぞ。あぁ、大丈夫か。鈴は強くなったんだもんな。背中をよく押してくれたよな。前に進めって。
一度俺のために――笑ってくれよ、鈴。
あの日に誓ったんだ、お前を笑顔にするって。だから笑ってくれよ、頼むから、俺のためだけに――そうしたら俺も笑って見送るから。
「鈴……」
俺は自分の中で叫び続けた。でも声にすることはなかった。
「風邪ひくから、窓閉めな」
最後に口から出たのは、そんな白けたセリフだった。
気まずくなり俺はそれから鈴と顔を合わせるのを避けた。一週間後の朝、鈴とおばさんは小さなトラックで引っ越して行ったという。
母は団地の仲間と見送ったそうだが、俺のことは何も言わなかったらしい。
酷くあっけなかった。
終わりというのは、こんなにも突然来るのだ。
きっと心のある場所を知っていたらえぐり出していただろう。
どうして最後に挨拶しなかったのか。近くて遠い場所から、遠くて遠い場所に行ってしまうことになったのに……俺は後悔ばかりだ。
唇を何度も噛んだ。噛んで考えた。これ以上ミジメな奴にはなりたくなかった。
俺は鈴たちの気持ちを無駄にしたくなかった。だから陸上の練習に明け暮れるようになった。短い距離のタイムはそれほど伸びなかったが、一万メートルは県代表になれた。
そのおかげで、駅伝をやらないかと大学からスカウトが来た。
山の狭い道しか知らなかったが、大学の周辺には海があった。
あいにく遊泳禁止で浅瀬はなかったが、視界に空と海だけの空間が映った。太陽が溶けて沈んでゆく。
目の中がそれだけで一杯になった。
俺は寮を抜け出してよくカモメに餌をやりに出た。ここの風も優しい。くるりと方向転換する鳥たちと遊んでいる。
「さて、そろそろ」
俺は薄い茶封筒を指で開けようとした。覚悟はできたつもりだった。ここに鈴が詰まっているはずだ。
だけど半分もいかない内に止まってしまった。
三年ぶりの便りだ。何が書いてあるのだろう。急に疑問が湧いたのだ。
「近況、かな」
だったら葉書ではなく手紙だろう。それに時間が開きすぎている。一つ下だから鈴は今高校三年生のはずだ。
女子高生というのは遊ぶので忙しくないのか?
いやまて。鈴は真面目だったから都会に馴染めなかった、とか?
だとしてもどうして今になって連絡を取ろうとしたのかわからない。
「えっと……」
高三だから卒業か。つまり就職の悩み。
いや、違う。俺は東京のことなんてわからない。相談ならおばさんか新しいお父さんにするだろう。
俺はしばらく使っていなかった頭をフル回転させた。
「まさか結婚の案内、とか?」
一番考えたくないことを考えてしまった。
あの頃から鈴の家事は完璧だった。洗濯物をたたむのは俺の母より上手だった。だからよく練習着を洗ってもらっていた。肩も襟元も張りが出て、本当に綺麗になって返って来ていた。
結婚の可能性は一番高い。
「えっと、案内って出席か欠席に〇をつけるんだっけ」
まだ現物を見たことがないが、何かの漫画で目にした記憶がある。人数合わせは大変だとかで新婦が困っていた。
それにしても早い。
早すぎるぞ、鈴。
血の毛が引いてゆく。茶封筒を持った指が小刻みに震えた。
今度は祝えるのか。鈴に「おめでとう」と言えるのか。
「……俺、は」
鼓動がますます早くなった。口から飛び出してきそうだ。
あれから俺は十五センチ背が伸びた。鈴も大きくなっているだろう。ちゃんと笑えているだろうか。きっと綺麗だろうな。
「あぁぁぁぁ、もう!」
風よ、助けてくれっ。
海に目をやると遠くに船が見えた。
これから行くのか帰るのか、ぼんやりと水平線に浮かんでいる。カモメは群れて空を行く。
夏を外れた水面は強い反射で目を射ることはなかった。
ほぅ、とため息に似た何かが口から出た。
季節が変わり学年が進み、自分は少し大人に近づいた。俺は色々な人に支えられてここに居る。たった独りで進んだ道ではない。鈴もまた誰かのお陰で立っているのだろう。だから彼女が選択したことを祝えるはずだ。
「……取りあえず読むぞ」
俺は茶封筒を開けた。
そして二つ折りにされた葉書を取り出す。
「なん、だ」
え?
葉書には一行だけ記してあった。元々彼女は無口な方だったが、ここまで簡素に書かなくてもいいじゃないか。俺は思わず吹き出した。
同じ大学に行くね――って主語が書いてない。それに俺の大学、体育系はまだマシだが偏差値低いぞ。鈴なら都会だし、もっとオシャレな大学もあるだろう。頭も良いだろうし選びほうだいのはずだ。ここは海しかない場所なんだ。わかっているのか?
はっきり言って大学は就職にも関係してくる。わざわざFランなんて選ぶ必要性はない。給料は高い方が良いじゃないか。まったく何を考えてるんだあいつは、本当に――
「……ばーか」
読んでいただきありがとうございました。