<第11話> ルナの願い
「店に客が一人もいない?」
酒場「エルメス」店長、サルチルは悲鳴に近い声を上げた。一階を見渡すとエルフたちがつまらなそうに雑談しているばかりである。昨日まであれほど繁盛していたのに!
顔面蒼白なりながら、フロアマネージャーを呼びつけるとすぐに理由がわかった。
「酒場『ビーナス』に人が溢れんばかりです。全部、あちらに客を取られたようです」
怒りを通り越して、こいつは阿保かとさえサルチルは思った。
”あそこはもう廃業寸前まで追い込んだはずだろ!”
「何か理由があるはずだ! すぐに調査しろ」
すでに、店のナンバー2と3を送っているらしい。彼女たちなら抜かりなく店内を見てくるだろう。
「それにしても、これだけのエルフを集めて投資したのだ。売上が落ちると、あの方にもご迷惑をお掛けすることになりかねない。それだけは避けないと…」
サルチルの目に、僅かに怯えがにじみ出ている。
「早く、原因を突き止めるのだ…早く」
* * *
エルフのナンバー2のエルドラ、ナンバー3のオクタージュの二人は、酒場「ビーナス」の前に来て驚いた。客が溢れて、店に入るのには整理券が必要だという。並んでいる客から情報を集めると、どうやら、今日から新しい女性が入ったらしい。たった二名だという。どうやら、その一人はエルフらしい。
「わたしたち、その二名に負けた、ということですかね?」
オクタージュがさらりと言う。彼女はあまり、今の仕事が好きではないので、どうでもいい、という口調である。
「悔しいけど、そのようね」
エルドラも同じ感情ではあるが、やる以上はプライドがある。たった二名に、エルフ12名が負けたとあっては、気に食わないと思っている。
“一体、どんな奴らなんだ”
整理券を常連客から手に入れると、店内に入り席に案内された。信じらないほどの盛況ぶりで、あの閑散とした店とは思えなかった。
これは何かメニューで奇抜なものでもあるのかと、二人で品目を確認していると、横から店員が声をかけてきた。
「お決まりになりましたか?」
かわいらしい声に、二人は目を上げた。
そこには、優しく微笑むルビーの瞳を持つエルフが一人、ロリゴシックな服を着て立っていたのだ。
「・・・・・」
その顔を見て、二人は完全に思考を停止した。
え? 何これ? 二人は、ルビーの瞳を見つめられると、心が苦しいほど切なく、溢れ出る感情に振り回された。
気がつくと、涙が出ていた。
そして、なぜ自分が泣いているのかが、わからなかった。
何かが、自分たちを泣かせていたのだ。
二人が泣いているのを見て、ルビーの瞳のエルフは悪いことをしたのかと、困った表情をうかべて、ポケットから小さなハンカチを取り出すと、エルドラに渡しながら
「あ、あの、ごめんなさい。これ、差し上げますから、また後でご注文をお伺いに参りますね」
そう言って、軽く頭を下げると去っていった。
エルドラは渡された小さな白いハンカチを握ったまま、何も言葉が出てこない。オクタージュも固まったままで一言も言葉が出なかった。
「エルドラ?」
とオクタージュが目の前の泣いているエルフに声をかけた。
「うん」
エルドラも泣いているオクタージュに答えるが、それだけしか言えなかった。
「おいおい、美人の姉さんが二人で揃って泣くなんて、何があったんだい? 全く今日はよくエルフが泣く日だね。あのカサンドラさんも泣いていたし…」
隣の飲んだくれが声をかけるが、二人には届いていなかった。しばらく固まっていた二人だが、突然、呪縛が解けたように目の前にあるコップの水を一気に飲み干すと
”ごめんなさい、急用を思い出したので何も注文せずに失礼します”
と近くの店員に声をかけると、逃げるように店を飛び出していた。
二人は「エルメス」に帰らず、酒場と逆方向へ走った。噴水のある広場にたどり着くと、その縁に座りこんでしまった。
“あれは、一体、誰なのだ”
二人は畏怖に近い感情に襲われていた。
「おそらく高位のハイ・エルフなのだと思う」
オクタージュの推測はそこまでだった。
エルドラは何も応えない。
ただ、わかっているのは、あのエルフを見てから、なぜかもう、酒場に戻って今までの仕事をする気が全く失せてしまっていることだ。
「もうエルメスに戻れないわ…。」
エルドラのその呟きに、オクタージュも頷く。
「でも、どうするの? わたしたちは契約で縛られているから、店からは逃げられないわ…」
そうだ。まだ、契約を解除する条件を満たしていない。
「他の仲間はどうするの? 彼女たちも、あのエルフを見たら、きっと同じ思いをすると思うの…」
“そうだろうな”とエルドラは思った。二人だけで逃げるなどありえない。仲間のエルフたちを置いてはいけないのだ。
“今は、心を無にしてでも、戻るしかないわね”
諦めて立ち上がるエルドラに、オクタージュが戸惑う。
「なんて、報告するの?」
手の中にあるハンカチを見つめながらエルドラは迷った。
「それが問題ね。あとナンバー1にもどう伝えるのかもね」
* * *
酒場「ビーナス」での初日の仕事が終わった。オルキヌスが用意してくれた屋敷に入ると、敷地内にある大浴場でこれまでの汚れと疲れを洗い流す。食卓を囲んで今日の出来事、主にルナリアとアイリスの文句ばかり、で盛り上がると、各自、充てらえた部屋に向かった。
もちろん、ルナリアとアイリスの両名は、この屋敷ではライムへ抜け駆けなしの協定を結んだ。そして誰もが疲れて、すぐに眠りに落ちていったのある。ルナリアを除いて…。
なぜか眠れないルナリアは、応接間にあるバルコニーに出て、一人、満天の星を眺めていた。雲一つない美しい星空に、泣いていた二人のエルフのことを思っていたのである。
“どうして、泣いていたのだろう?”
ルナリアには二人の泣いた理由が分からない。しかし、なぜか気になる存在に思えてならなかった。
そして、カサンドラさん。
王女しての血が、彼女に影響を与えていることが、少し不安だった。
“カサンドラさんには、ああするのが、ベストだと思ったのだけど…”
彼女は誰に教わったのでもなく、王族の血が為せる所作を、自然と実行していることに気がついていない。
“脅威”との戦いに明け暮れて、他の大陸のエルフと接する機会がなかったので気づかなかったが、自分の存在が他のエルフたちに影響を与えてしまうのだとしたら…。ルナリアはそれが怖かった。
「ルナ、眠れないのかい?」
いつの間にか、ライムが自分の横に立つと、同じように星を見上げていた。ルナリアは自分の鼓動が早まる気持ちを、アイリスとの約束があるのだからと、なんとか落ち着つかせようと努力した。
「何か心配事でもあるのかい?」
心を落ち着かせ、小さく首を横に振ると、
「ううん、そうじゃないの…、今日ね、お店で泣いているエルフを見たのよ」
ライムはだまって聴いてくれる。今はそれだけでいいと、ルナリアは思った。
「わたし、悪いことをしてしまったのかな…、自分のせいで彼女たちを泣かせたのかな? そう思えてしまったの…。」
自分の存在が、彼女たちを泣かせてしまったような気がしていた。
「彼女たちは君を見て泣いたのではなく、君の瞳の中にある失われた故郷を見て、泣いたのだと思うよ」
”失われた故郷を…?”
ルナリアは星を見つめているライムの横顔を見た。彼はもしかして、自分と彼女たちのことを、店内で遠くから見ていたかもしれない…。
すると、なぜかライムは、出会った頃のことを思い返すように話し始めた。
「ルナ。君を救ったとき、君が王女だとは知らなかった。君がそうだと言わなかったからね。俺が知ったのは、出会ってからずっと後だったね」
確かに、ルナリアが王女だと言ったのは、仲間に認められてから後だった。
「俺はそのとき、君だけでなく、君の王国を一緒に連れてきたのだと思った。ルナと出会ったのは、運命が、王国が、君を逃がすためだったのかもしれない…」
その言葉は、なぜか自分には思いがけない内容に思えた。
“王国がわたしを逃がした…?”
でも…、とルナリアはそれを否定したかった。
「もう王国は滅んでいるわ」
“西方大陸のことなど、忘れたのよ。もうあの地に戻るつもりはないわ。”
ルナリアはそう主張したかった。
「いや、まだ君の中に生きているさ…」
なぜ、そんなことを言うのか、ルナリアには理解出ない。
自分はもう王女ではない。ただの一人のエルフでしかないのだから…。
「王国など自分の中にはどこにもないわ」
「ライムは、王女の私と、ルナリアの私、どちらを好きでいてくれるの?」
婉曲的だけど…、自分でも思い切った質問だと思った。
一瞬、彼の顔を覗き見たい衝動に駆られた。
「ルナリアが好きさ!」
さらりと答えてくれた。素直にルナリアは嬉しかった。
「俺が知っているのはルナリアで、王女の君はあまり知らないからね。」
“あまり? ということは少しは知っているのね”と、ルナリアが口にすると
「ああ、少しだけだが…。カサンドラさんを見て、あの泣いているエルフたちを見て、王女の君の姿を垣間見たような気がしたよ…。君自身はルナリア、しかし、あのエルフたちにとっては、君は王女に映るのだろうな…」
ふと、ルナリアの前に、大きな鏡が現れる。
そこに映る姿はルナリアではなく、王女の姿をしたエルフが映っていた。自分ではあるが、自分でない誰かが鏡の中にいる…。
そんな錯覚に陥った。
だからだろうか、ライムの言葉が胸に突き刺さる。それが真実だと、どこかで自分も知っているのかもしれない…。
自分の中に眠る、もう一人が起きてくる…。ルナリアがルナリアでなくなるような気がした。
「ルナ、いつか、君は王女の君と向かい合わなければならない日が、来るのかもしれない…」
「いや!」
彼の言葉を最後まで聞く前に、自分でも驚くほどに強く否定した!
「いや! 絶対にいや!」
まるで、あの大陸に戻され、逃げられない運命に縛られそうな気がしたのだ。
「そうして、そうして…あなたは、わたしをあの大陸に残して、去っていく気なのね! そんなの絶対いや!」
両手で顔をふさぎ、下を向いて泣き崩れた。
「もう、あなたと離れるのはいや!」
彼が去っていくような恐怖、さよなら、と言われているように思えて、涙が止まらなかった。置いていかないで、お願い…。
いつまでの泣き止まないわたしを、彼はやさしく抱きとめてくれた。
このままこの温もりの中で生きさせてほしい、そう願った。今も、そして、これからもずっと…。
「もう王女の事は、言わないで…」
わたしはルナリア…本当の名前を捨てた…あのときに、あなたに救われたあのときに…、エルフの王女は死んだ。それからのわたしは、彼をひたすら追って、ついてきた一人の女性でしかなかった、
例え、多くのエルフたちがわたしを王女と慕ったとしても、皆が王国を再興したい願ったとしても、わたしが彼を思う気持ちが、わたしには一番だった。我儘だと言われてもいい、自分勝手だと罵られてもいい。わたしは、ルナリアでいたかった。
いかに広大な領土があろうとも、いかに莫大な富があろうとも、いかなる王国もわたしには価値がないの。
わたしは…、わたしは…、
ただ彼の腕の中にだけある、安らぎを感じられる小さな王国だけがほしい…。
だから、どうかお願い…、わたしをルナリアのままでいさせて…。
そう願いながら、わたしは彼の腕の中で泣き続けた。
そして、そんな切なる願いとは別に、泣き続けたもう一つの理由を、どこかで気づいていたのかもしれない。
真の名を捨てきれない自分の運命を知って、王女としてしか生きられない自分の運命を呪って…。
<第1章 ルナリア 終>




