君はトイレの蓋を閉めるのか
この手紙を君が読んでいるという事は、私はこの世にいないという事でしょう。
そして洋式トイレの蓋を「閉じる派」「閉じない派」の戦いは、きっと終わったという事なのだろう。だからこれは私の備忘録として読んで欲しい。
私が生きていた時は、私はトイレの蓋を「閉じない派」だったんだ。蓋を閉める事で、水を流す時の水しぶきが飛ばないから衛生的とか、大事な理由がある事も知った上での話さ。不思議かい?
おっと、これ以上、手紙を読むのを諦めるなんて思わないでおくれ。私がトイレの蓋を閉じない理由を、この手紙を読んでいる君に、知っていて欲しいんだ。
それは私が会社勤めをしていた時だ。便意を催した私は会社のトイレに駆け込んだんだ。
幸運にも洋式トイレは空いていた。え? 幸運なんて言葉、可笑しいかい? そんな事は無いよ? なんせ社員の数に対して洋式トイレの数が少なくて、いつも埋まっている事の方が多いのだからね。
おっと、話がそれてしまったね。話を戻そう。そう、洋式トイレに入ったんだ。
その時、洋式トイレの蓋は閉まっていた。その洋式トイレの蓋は、自動で開閉するタイプじゃなかったから先に入った人が手動で閉めたという事だね。私も、自分の手で洋式トイレの蓋を開けた。そう、開けたんだ……。
そしたら、奴がいた。
それはもう、太い茶柱のように浮いていたんだ。浮力が強い奴で強い水流にも負けない奴だったという事なのかもしれない。
そう……。奴が、そこに居たんだ……。居たんだよ。
この時の私の驚嘆を、この手紙に文字として書き記す事は非常に難しい。でも、分かってくれるだろうか。その時の私の気持ちが。分かってくれると非常に嬉しい。
それから私は、トイレの蓋を閉めるという事は出来なくなった。蓋の閉まっているトイレに入る事が、とても恐怖となってしまったんだ。トラウマというやつだね。
「先に水を流せばいいだろ?」なんて言われた事もあるけどね。けれど、私の見たそいつは浮力が凄い奴だったからね。そんな事ではとても敵わないさ。
蓋の閉まっているトイレには奴がいる可能性がある。開けてみなければ分からない。だから私は、私と同じように苦しむ人がいるかもしれないと思い、トイレの蓋を閉じないんだ。分かってくれるだろうか?
でも、君達の時代には、この問題が解決したんだね。どう解決したのか興味があるよ。とはいっても、もうこの世にいない私は知る事が出来ないけどね。とても残念だよ。
どうやって解決したんだろう? 私も対策は考えたんだよ? トイレの蓋を透明、若しくは半透明にするとかね。まあ、これだと、そいつが居るか居ないか分かるだけで、根本的な解決には至らないだろうけどね。でも君達の時代には、もっと良い解決策が出来たんだろうね?
ああ。生きている間に経験したかったな。怯える事無くトイレの蓋を開けるという事を。
そんな内容の手紙を見つけた。そういえば昔、人はそうやって『排泄』という行為をしていたと教わった。人間が固形物を含む物を口から摂取すると『胃』と呼ばれる消化器官でそれらが溶かされ、腸で吸収消化された後、『尿』と『便』という物に変化し、それを体外に排出するという話だった。
そして体外へ排出する際に『トイレ』と呼ばれる設備を利用するらしい。その設備は、それぞれの家庭は勿論、あちこちの建物に相当数が設置されていたらしく、そこで『尿』と『便』を廃棄すると聞いた。
都市部に於いては、その廃棄物を地下に通したパイプを使って1か所に集めて処理するとかって話であるが……。って、都市部の地下って、一体どうなってたんだ????
その手紙が書かれたのは、西暦2018年という事で、今から500年も前の話でもあり、栄養摂取方法も現在とは随分と異なり、そもそも人間の器官自体も相当異なっているようだ。
今の時代『排泄』なんて行為は出来ない。その機能を満たす器官は人体に存在しない。固形物を摂取する事も無く液体だけを口にする。それらを摂取後、必要な栄養分以外は、汗という水分に変化して、自然に体外放出され消えていく。それが当たり前と思っていたけど……。昔の人は大変だったんだな。
手紙を書いた人が言っている「そいつ」の形や大きさや重さ、触感は一体どんな感じなんだろう? 怖いもの見たさという訳ではないけど、茶柱のように立っていたと言う「そいつ」を、体外に排出されたというその固形物を、一度は見てみたいな。
2019年 07月27日 2版 諸々改稿
2018年 11月23日 初版