2 怪しげな勧誘、再びの猪男
「お断りします」
きっぱりと、お断りする。
その場に束の間の静寂が訪れる。少女は立ち尽くしたまま笑顔を浮かべながらも、しかしその口角は引きつり気味になっていた。俺はその姿を見て今のうちにとばかりに踵をかえす。
「じゃ、これで」
「いやいやいやちょっと待ってくださいよ!」
180度体を反転させたところで後ろから手首をつかまれる。声色から必死さが伺えるが、俺は振り向くつもりはない。振り向いたら負けだ。この類の輩とは目を合わせてはいけない。
「お兄さんお仕事探してるんじゃないんですか!」
「仕事探してるってのは事実ですけど、さすがにその誘いはちょっと……」
俺は振り向くことなく引き気味に答え、歩を進めようとする。少女は振り向こうとしない俺を引き止めるため、足早に俺の前へ躍り出て行く手を遮った。必死すぎて怖い。
「あっ、あぁ!まだ名乗ってませんでしたものね、名乗らなきゃそりゃ怪しいですよね!」
いや違うそうじゃねぇ。っていうか道まで塞いておきながらで未だに自然にコミュニケーションを取ろうとするな。
「改めまして、私はリリアム。『働かない労働者の輪』の協会員で……ってちょっとちょっと!」
言い終わるより先に俺は無視して立ち去ろうとしたが、その少女―リリアムって言ったか―は大慌てで呼び止めてきた。
「なんで最後まで聞いてくれないんですかぁ!人の話を聞くのは社会の常識ですよ!」
「知ったことか!怪しい団体への勧誘なんかまともに聞くわけねぇだろ」
思わず乱暴な物言いをしてしまう。というかもはや突っ込まざるを得なかった。リリアムは俺の腕をつかみながらすがりついてきたが、俺はそれを無視して歩きつづける。こんなあからさまに怪しげな話なんてあるだろうか。ってかさっき協会って聞こえたぞ。宗教とかそういう類じゃねぇのかこれ。この世界の宗教観なんか知ったこっちゃねぇけど、まだ幼い女の子を使って勧誘活動してるような団体じゃまともなもんだとは思えん。そもそもこんな可愛い子が俺に対して親身になって話を聞いてくれていた時点で察するべきだったか。このまま話を聞いてたら「幸福になる壺がありましてぇ」とか始まるかもしれん。
俺はリリアムを引きずるようにしながら、容赦なく歩き続けた。リリアムは引きずられながらも、何やらごちゃごちゃとごねている。
「待ってひきずらないでくださいよから~全然怪しくなんかないんです~!純粋に、働けない人たちを補助するための団体なんですってば!」
そういうところが余計に怪しいんだよなぁ。そもそもその団体は何を目的にそんなボランティア精神旺盛に活動しているのか分からん。こいつらはニートたちを補助して何か利益が望めるのか?もしや無職の息子を育てる健気な母ちゃんたちから指導料とかいって金を巻き上げたりするとかか。とんでもねぇな。
「あんたたちとんでもねぇな」
「会話成り立ってないですよ~勝手に悪いイメージ形成しないでください~」
文句を垂れつつも、リリアムは依然として俺の腕から手を離そうとしない。この執着心は一体どこからきているのだろうか。
このままでは埒があかない。一瞬話を聞くフリをしてやろう。いくら怪しいとはいえ、相手はいたいけな少女であることに変わりはない。乱暴に振り払って逃げるわけにもいかんしな。
俺は一旦足を止め、リリアムの方へと向き直って協会について尋ねた。
「働いてないのに『労働者』なんておかしいだろ。ネーミングセンスなさすぎか」
ようやく俺が話を聞く気になったと思ったのか、リリアムは曇らせていた表情からパッと笑顔に切り替わった。こういう無邪気さは少女らしさが感じられて可愛らしいんだけどな。
「良い質問ですね!私たち協会員は働かないではなく『働けない』人たちを補助してるんです。働きたいけど諸事情で働くことができない人たちを、私たちは潜在的な労働者として接しているんです」
小さく胸を張りながら得意気に言うリリアム。だめだ、やはり聞けば聞くほどうさんくさい。聖人君主の集まりなのか、それか人畜無害も極まって毎日光合成でもして生きているような奴らばかりの団体なのかもしれん。
「さぁ、困っているならあなたも是非協会に参加を……」
「しねぇよ。あとから何請求されるか分かったもんじゃねぇ」
リリアムが気を抜いて腕から手を離した隙を見計らい、俺は再び背を向け、言葉を吐き捨てながら走り出した。
「ま、待ってください!一度試しに本部まで来ていただければきっと分かってくれるはず!信じる者は救われますよ~!」
後ろから何か聞こえたが、俺は気にせず走ってその場から離れた。さすがに体格差もあるし追いつかれることはないだろう。
しかしさっきから変な奴にしか絡まれてない。どうなってんだ、俺のバラ色異世界ライフ。
すったもんだあったわけだが、とりあえずは中央広場近くにあるという「アイーダの酒場」とやらに向かってみるとする。さっきの怪しい少女から聞いた情報だから多少信憑性に欠けるが、少なからず仕事を探せる場所ではあるだろう。おそらく人も多くいるだろうし、そのあたりで情報を仕入れつつ、可能ならクエスト(あえて案件とは言わんぞ)も受注できれば、少なくとも食いっぱぐれることはない。クエストも最初はその辺に生えてる雑草とか石ころの蒐集でクリアできるようなものもあるだろうしな。簡単なクエストを受ければ今日一日をやり過ごすことくらいはできるだろう。まぁ俺もだてに某オンライン狩猟ゲームに2000時間を費やしてない。こんな感じの世界観なら現実世界よりもよほどうまく立ち回れる自信があるぞ。
と、自信満々にしたり顔を浮かべていた最中、そもそも中央広場というものがどこにあるのかを聞いていなかったことに気づく。少しうーんと唸って悩みもしたが、これまたなんとかなるだろうと道行く人の流れに沿って歩いていたらどうにかそれらしき広場にたどりついた。数々のMMORPGをプレイしてきた経験も伊達ではない。ほんとこのくらい現実世界でもうまくいかねぇもんかなぁ。
その場所は裸のおっさんを象った石膏像が中心に立つ大きな噴水から、目算半径100メートルほどはありそうな広い敷地だった。街全体を通して狭い道路が多いため、こういった開けた場所に来ると途端に解放感を得られる。そしてそれはこの街に住む人たちにとっても同じことなのか、広場内は人であふれかえっていた。もちろん見た目も様々。普通の人間、獣よりの人間、もはや獣、といった具合である。つまりは1:2で獣優勢。
街の中でもいろんな獣面を見かけたが、その種類は非常に豊富で、現代で近い動物を挙げると犬や猫、兎といったメジャーどころから、熊、鹿、ウーパールーパーみたいなのまでいる。これは冗談抜きでケモナー大歓喜だな。この世界にいると俺も何か目覚めたりするのだろうか。
広場の中には見知った顔があった。
「おぉ、フランク!今日も精が出るねぇ。元気に最後まで頑張ろう!」
今朝がた出会った猪顔のおっさんが広場の噴水のふちに腰掛けていた。どうやら休憩中のようで、タンクトップ姿に肩からさげたタオルで額の汗を拭っている。
「ようデイビスじゃないか、元気でやってるか」
手元に酒瓶と思しきものを携えながら、猪男はこれまた知り合いと思しき通りすがりの人物に声をかける。
「おぉ元気だ元気だ!というか昼間っから酒なんか飲んでじゃねぇよ」
「いやいや俺は昼休憩中だよ!どうだついでに一杯やってくか!」
そういって猪顔のおっさんはガハハと豪快に笑い声をあげる。見ていると、知り合い以前に目の前に来た人全員に声をかけているのではないかというほど、片っ端から話しかけてる。凄まじいコミュ力だった。
そうだ、ちょうどいい。広場から酒場への行き方が分からないし、あのおっさんに教えてもらうことにしよう。
「どうも、こんにちは。今朝山でお会いしましたよね」
「おぉ、変な格好した兄ちゃんじゃないか。頑張ってるかい!」
おっさんは俺に対して何の隔たりも感じさせないようなフランクさで挨拶を返してくれた。俺も迷わずこの人が今朝のおっさんだと見て話しかけにはきたものの、果たして他の猪顔と見分けがついていたかと言われると、正直ついてはいなかったので少し安心である。なんなら少しほかの人よりも柔らかい口調で話してくれている気もする。誰とでも話せるコミュ力の上にさらに気も遣えるとか人間出来すぎか。いや、猪出来すぎか。それはともかく、ここまで気兼ねなく誰とも話せる人は、ここが異世界であるといえどそう多くはいないのではないかと思う。このコミュ力見習いたい。
「どうしたんだい、こんなところで」
にやにやと爽やかな笑顔を浮かべながらおっさんは言った。笑顔とはいったが、猪顔なので至近距離じゃないと認知できない。
「ちょっと道を尋ねたいんです。アイーダの酒場に行きたいんですが、どちらにあるかご存じですか」
「おぉ、アイーダか。ちょうどこのあと案件の報告にいこうとしていたところなんだよ。そしたら一緒にくるかい」
よく通るガラガラ声でおっさんは快くそう言った。よかった、やはり気のいいおっさんだった。この世界に来てから碌なのに出会ってなかったから、やっとまともっぽい人に会えて嬉しくなってしまう。まぁ最初のいい出会いが猪顔のおっさんというのもファンタジーものとしては雲行きが怪しいが。
「ありがとうございます!じゃあご一緒させてください」
俺はおっさんの誘いを快諾する。その言葉を聞くや否や、おっさんはそのでかい図体を起こし、元気に立ち上がった。勢いがよすぎるんだよびっくりするじゃないか。
「よし、じゃあいこうか。その前に、兄ちゃん一杯飲んでくかい」
そういって手元の酒瓶を俺に向ける。
「いえ、実はお酒はあまり得意でないもので……」
「そいつはもったいないな!人生でこれが飲めないだなんて損しかないぞ」
そう言いながら酒瓶を口に持っていき、ズズズと中身を飲み干していた。おいおい、中身結構入ってたぞ。休憩中に飲む量じゃないだろ。
しかし俺の心配をよそに、満足げに一息つくと、酒瓶の蓋を締めて手元のバッグにしまっていた。手元がおぼつかないといった様子はない。やはり人とは根本的に身体の作りが違うのだろうか。
「じゃあ行こうか!って言っても、すぐ近くだけどね」
おっさんはバッグを背負いながら言うと、再びガハハと笑いながら先導するように歩きだした。どこまでも豪快なおっさんだ。
おっさんに連れられて歩くこと約3分。本当に広場から近い位置にアイーダの酒場はあった。店自体は立ち並ぶ外食店のうちの一つでしかないため特別目立った外見ではないが、何より人だかりが激しいので、遠くからでもきっとあそこなのだろうと思えるような雰囲気を呈していた。テラス席のような場所では血気盛んな男たちが飲んだくれながら大声で会話を繰り広げている。再度確認するが、今はまだ昼である。やべえな異世界の生活環境。
間違いなく一人だったら入るのを躊躇していた店に、迷うことなく入っていく猪顔のおっさん。まぁ見た目的におっさんは問題なさそうだが、どう考えてもスーツ姿でガリひょろの俺が入っていったら浮くこと間違いなしだな。大丈夫かな、カツアゲとかされないかな。
そんな感じで店の前で少しあっけに取られていた俺だったが、一人取り残されるわけにもいかんので急ぎ足でおっさんの後を追った。入る途中何か異質な目で見られたようにも思うが、声はかけられなかったので無視することにした。まぁ酒の肴にでもしてくれ。食べないでくれ。
酒場の中の席はそれなりに賑わってはいるものの、テラス席に比べて少し落ち着いていた。大柄な男たちが酒瓶で隣の男を殴りつけてるくらいの光景は覚悟していたが、さすがにそこまで野蛮ではないらしい。
「ここがアイーダの酒場だよ。初めて来るってことはどっかからこっちに越してきたってことかい?」
「はい、まぁそんなところです」
異世界から、とはさすがに言えない。
「そうか、基本的には他のところと変わらないだろうが一応説明しておくと、バーカウンターの隣が受注できる案件が貼られている掲示板で、その隣の、あのおねーちゃんが立ってるところが案件の受注カウンターだよ」
おっさんは指差ししながら一つずつ教えてくれた。なんていいやつなんだおっさん。親しみを込めておっさんからおっちゃんに変えてやってもいい。
「まぁ越してきてすぐなら慣れないことも多いだろうけど、なんかあったらいつでも声掛けてくれな!」
そう言って、俺の肩を力強く叩いた。そういうキャラ性に忠実なのはいいことだが、正直今のは痛いぞ。まだレベル1とかなんだから勘弁してくれ。
そのあとおっちゃんは「じゃあな」とだけ言ってガハハと笑いながら意気揚々とバーカウンターに向かっていった。また飲むんかい。
さて、とりあえずアイーダの酒場にも辿りつけたわけだ。まずは案件の受注カウンターとやらで話を聞くとしよう。そのあとは適当に酒持ってその辺の人に話しかけて……はなかなかハードルが高いな。あんな屈強なおっさんたち相手にフランクに声をかけられる自信がない。間違って酒瓶で殴られたらその時点でゲームオーバーだぞ。「おぉ、死んでしまうとは情けない」とかいって生き返してもらえるなら話は別だがそんな様子もないしな。そもそもの話、俺酒弱いし。
とにもかくにも、まずは案件を受注しなければならない。掲示板からなんか簡単そうなのを探してみるとしよう。
俺はバーカウンターの隣まで足を運び、学校にある黒板大ほどの掲示板を眺めた。掲示板には案件の名前とその概要が記された紙が無造作に貼り付けられている。
その一枚を掲示板から剥がし、手にとって見てみる。
「ランダロスの討伐 ランクA、か……」
俺がとった紙には標題の下に討伐対象となっているモンスターのイラストが描かれており、さらにその下に詳しい内容と受注条件、達成時の報酬について記載されていた。誰もが一目で分かる通り、この案件はイラストのモンスターの討伐を依頼するものらしいが、そこには丸みのある巨体に、うねうねと伸びる数本のたこあしと、果たしてそんなに必要なのだろうかと問いかけたいほど無数の緑色の目が描かれていた。イラストを見ながら俺は頭の中でイラストを具象化してみる。うん、これはないな。
手に持った案件を画鋲で掲示板に止め直し、掲示板内を見渡して別の案件を探した。異世界転生して数時間、未だに攻撃手段にできるような装備品は身につけていないし、スーツだって現代社会で言えば割高な服でも、この世界ではぬののふくと大差ないだろう。できることなら討伐を目的とする案件は避けたい。
片っ端から眺めていくと、端の方にモンスターのイラストではなく、植物のイラストが描かれている案件があった。俺はその紙を手にとり、一通り黙読してみる。
「……よし、これだ」
概要によると、どうやら「ヒネモス」と呼ばれる植物を採集する案件らしい。ランクは先ほどのものと違いDランクと表記されている。どう見てもハンター初心者が受ける案件だった。これなら今の俺でも問題なくこなせることだろう。
俺はその張り紙を掲示板から剥がし、受注カウンターへと向かった。受注カウンターの前には10人ほど並んでいて、店内を縦断するように列が形成されていた。その列も並んでいる本人たちが酒を飲んでいたりするせいで、ぐねぐねと蛇行してしまっている。あの状態じゃ多分横から入られようが気づくことはないだろう。まぁそんな程度のことを気にするような見てくれでもないが。
しかし俺は律儀に列の最後尾に並ぶ。異世界に来ても日本人の真面目な心を忘れないでおきたいものだからな。謙虚に謙虚に。
俺が並んだ後も、次々と顎髭を生やした屈強なおっさんたちが並んでいった。昼過ぎはちょうど混雑する時間帯なのだろう。午前の仕事が終わって次の仕事に移行するタイミングなのかもしれない。
グダグタと牛歩のように進む列で辛抱強く待つこと約半刻。やっとのことカウンターにまで辿り着いた。
「いらっしゃいませ、本日はどういったご用件になりますか」
笑顔で対応する金髪の美女。おそらくずっと酔っ払いの相手をしているだろうに、疲れた様子も見せず笑顔で応対してくれる。苦労してんだろうなぁ。
俺はカウンターの上に静かに依頼書を差し出し、緊張しつつも返答する。
「あっ、えっと、この案件を受注したくて……」
たどたどしくも、ぼそぼそと自分でも聞き取りづらいほどの小さな声で言う。なんにせ美女とは目も合わせられない。我ながら天晴れなほどのコミュ障具合。せめてもう少し大きい声で言おうな。
「承知しました。こちらはDランクの案件ですね。所属ギルドはどちらになりますでしょうか」
キョドつく俺を意に介することなく、ビジネス的やり取りを行う金髪美女。所属ギルドなどと問われたが、こっちに来てからその単語を初めて聞いた。まぁMMORPGによくあるハンターチームみたいなものだろうとは思うが……依然としてまだ一人なのでとりあえず縁のない話だ。
「あっ、えーと、ギルドにはその、所属してません」
コミュ障ぼっちの俺よ、「あっ、えーと」っていうのやめなさい。
「はい、それでしたらソロでの受注ということになりますね。Dランクライセンスをご提示いただけますでしょうか」
出た、ライセンス。さっき少女が言っていたものと同じだろう。やはりそれがないと案件の受注はできないのだろうか。いかんせん詳しくは聞いてないからどこで手に入るものなのかも分からない。ただ今はとりあえず資金稼ぎをしたいところだ。ライセンスなしでも受注できないか粘ってみよう。
「あっ、ライセンス?は持ってないです」
俺が手を頭の後ろに回して苦笑いを浮かべて誤魔化すように言うと、途端金髪の姉ちゃんは訝しげな表情に変わり、頭に疑問符を浮かべていた。
「はい?お客様、ライセンスがないと案件は受注いただけませんが……」
あたかも何を言っているか分からないとばかりの口調だった。さきほどまでの社交的な笑顔も消え去っている。
しかしもう少しだけ粘ってみる俺。
「えーと、そこをなんとかなりませんかねぇ。実は別の街から来たものでライセンスとやらも持ってないんですよ」
得意のおちゃめさを持って接してみる。これでダメだったらしゃあない。
「いえ、そういう問題では……失礼ですが身分証はございますか」
えっ、身分証?
「あなた様がどこから来たのかは存じ上げませんが、少なくともこの周辺国ではライセンスの取得が義務化されております。それをお持ちでない場合は身分証などで身元を提示していただかないと、最悪局の者にご連絡させていただくことになります」
姉ちゃんは明らかに怪しい者を見るような目で俺を眺めていた。そして、俺が挙動不審な態度を取っているのを見ると、すぐさま店の奥の方に視線を流し、他の店員に合図を送る仕草をした。
まずい。これはどう考えてもまずい状況だ。ライセンスを持ってないことがこんなに問題なるとは。しかし身分証は……こっちの世界ではなくて元の世界のものしか持っていない。まったくなんで世界観は中世ヨーロッパ風異世界のくせしてライセンスだの身分証だのって 現代よりな設定があるんだ!
「おいおい何やってんだ!早くしろよチビ介!」
後ろから顔を真っ赤に染めた熊のように毛深いおっさんがいちゃんもんをつけてきた。なんだよさっきまで陽気に飲んでたくせにいきなりギア上げてきてんじゃねぇよ。
熊のおっさんは俺の肩を押しのけるように力強く引くと、カウンターの姉ちゃんに声をかけた。
「一体どうしたってんだよこいつよぉ!早くしてくれよ」
「お客様がライセンスをお持ちでないというので身分証の提示をお願いしているのです」
「おいおい!そいつぁまじかよ!」
そういうと、今度は怒るのではなく店内全体に響き渡るほどの大声で笑いだした。
「ライセンス持ってねぇとか、お前まさか仕事もできねぇ身分か」
熊のおっさんは俺を見ながら明らかに馬鹿にするような口調で言った。その顔は真っ赤に染まっていたが、それは先ほどのような怒気からくるものではなく、大笑いの影響で起きた息苦しさによるものに変わっていた。
「もしかしてスレイブか?それともまともに勉強もできずに学院も卒業できませんでしたってか!」
スレイブだの学院だのと、聞き慣れない言葉が連呼される。
聞きなれない言葉ではあった。でもこれだけは分かる。どうやら俺は今馬鹿にされているらしい。しかも、仕事ができないことをネタに。
「てめぇ……」
だんだんと頭に血が上っていくのを感じる。自然と右手には握りこぶしを作っていて、もはやリンゴでも潰せてしまいそうなほどに力強く握りしめていた。
しかしそんな俺の気持ちとは裏腹に、目の前のおっさんはより愉快に嘲笑う。あろうことかそれをさらに後ろに並んでいる男にまで伝える。そしてその男も笑う。次第に笑いの連鎖となってその陽気は伝わっていき、やがては全く話の内容も分からないであろう店の端まで笑いで溢れていた。
もはや自分でも何を考えているのか分からなかった。ただでさえ異世界に来てまごついている上にこの辱めである。怒らない方がおかしい。たとえ無知であることが罪だとしても、それを頭ごなしに馬鹿にする権利なんて誰にもないはずだ。
俺は視界が揺れているのを感じて、初めて自分の身体が怒りに震えていることに気付いた。よもやそこに思考など存在しなかった。目の前の男の赤っ鼻をくじき、さらに真っ赤に染めてやることのみを目的に俺は右手の拳を振り上げた。
「おいてめぇふざけやがっ……」
「おにいちゃーん!探したよー!」
俺が激高し、叫び出そうとしたそのとき、唐突に視界の端に写った何かは意味の分からないことを叫びながら突進してきた。そして俺の振り上げた右腕を力強くからめとった。
「こんなところにいたんだ!もう、探したんだから。心配させないでよね!」
右腕に依然絡みついているそいつは、このシリアス展開からは想像もつかないようなコミカルな口調で馬鹿みたいなセリフを吐きながら、俺の身体を揺さぶっていた。その人物は背が低く、頭に白い頭巾を深く被っていた。絡みつく腕の細さから察するに、おそらく女だろう。わざと表情が見えないにようしているのか、必要以上に深く被った頭巾のせいで、そいつがどんな顔なのかは俺の視点からでは分からない。
「はっ?なにいってんだあんた……」
「もう帰ろう!無理しなくても私、ご飯は毎日にぼしで我慢するから!」
苛立ちながら発した俺の言葉を全て遮るように、大声でその女は言った。周りも展開についていけてないのか、さっきまで笑い声で満ちていた店内がとっさに静けさに包まれる。
全くもって訳が分からない。こっちはヒートアップしてるっていうのに水を差された気分だ。より一層怒りが沸き上がっちまう。
「何を意味の分からないことを……」
「そうだよね!おにいちゃん病気がちで身体が弱いのに、頑張ろうとしてくれたんだよね!ありがとう……でも私大丈夫だから!」
俺の言葉を遮りながらさらに訳の分からない設定をねじ込んでくる。俺はこいつの兄なんかじゃないし、そもそも元の世界でも俺は一人っ子だ。悲しいことにな。その上このベタすぎる設定、嘘だというのがモロバレだ。そしてそんなことを突っ込んでいられるほどこっちにも余裕はない。
俺は意味の分からぬことを言うその人物の左腕でつかんだ。そして、どうにか引きはがそうと力を入れた……が、びくともしない。そいつがめちゃくちゃな力で俺の腕を掴んでいるわけではない。体格差から考えるに、明らかに俺の方が力は強いはずだ。どんなにひょろがりでも男並みの力はある。しかしどれだけ力を入れてもびくともしない。
「なんだ、これ!」
「ささ、帰ろっ」
そいつは俺の腕を引っ張り、酒場の出口へと連れていこうとする。俺は抗うように今度は足に力を入れてその場で踏ん張ろうとしたが、驚くことに俺の足は全く地面にひっかからず、まるで地面を滑るかのように全身がそいつの引っ張る方向にスライドしていった。
ほんとなんなんだ一体。俺はまだこの目の前の男に用があるってんだ。
俺の抵抗も虚しく、とうとうフードを被ったその人物によって出口へと引っ張りだされてしまった。連れだされている間、周りは同情の目や憐れみの目でこちらを見てきた。そんなやつらに対してすら苛立ちを覚えていた俺は悪態の一つもつきたかったが、これもどういうわけか叶うことはなく、口が開くことができなくなってしまっていた。まるで全身の力が完全に抜け落ちたような感覚だった。頭は湯が沸騰するほどに怒りでいっぱいなのに、為されるがまま俺は何一つやり返せずに酒場を出ることとなってしまった。
酒場から離れ、中央広場にまで引っ張られてきたとき、やっと抜けた力が腕に戻ったのを感じた。俺はすぐさまそいつの腕を引き剥がし、距離を取った。
「どういうつもりなんだ、あんた!」
自分でもびっくりするくらいの大声が出る。広場でゆったりとした時間を過ごしていた周りの人々も、一体何事かとこちらを見たが、誰も男女のいざこざには関わり合いになりたくなかったのだろう、すぐさま視線を外していた。
目の前の人物は俺の言葉を聞くや否や、ゆっくりとそのフードを外す。すると、目を引く美しい白髪の少女が顔を見せた。驚いたことに、さっき会った怪しげな勧誘をする露店の女の子、リリアムだった。
「あなたこそ、どういうつもりですか?アイーダの酒場でギルドに手を上げようとするなんてとんでもなく愚かなことですよ」
白髪の少女、リリアムは真剣なまなざしで俺を諭すように言った。しかし、その言葉の意図とは裏腹に、未だ俺の腹は煮えたくっている。
「愚かだろうとなんだろうとどうでもいい!あいつらは俺のことを心底馬鹿にしやがったんだぞ。俺がただライセンスを持ってなかったってだけでな」
そう、俺は何も知らなかっただけなんだ。仕方ないじゃないか、異世界にだって来たばっかりで右も左も分からないんだから。かつて本で読んだ主人公たちのように上手く立ち回ることなんて到底無理だ。実際にその場面に直面してみれば、そんな器用に立ち回ることなんてできやしない。
「なんだって俺はあんな馬鹿にされなきゃいけなかったんだよ!誰も親切に教えるという意識はないのか」
「仕方ないですよ。ライセンスを持っていない人間は学院も卒業してない、仕事をする権利もない身分って決まっているんですから。それが世の中の共通認識です」
まただ。またそうやって、世の中のルールだとか、世間体だとか、そんなもののせいで自由に過ごすことができないんだ。学院だのライセンスだの、そんなことは俺にとって知ったこっちゃないってのに。
結局どの世界でも同じだっていうのか。仕事してないというだけで、人間性を根本から否定するような、そんな自由のない世界だっていうのか。
「誰にも教わってないのに、そんなうまくやれるわけないじゃないか!」
俺は激高し、吐き捨てるように言った。悔しかった。ただただ悔しかった。俺は結局自分にも苛立っていたんだ。こんな気持ちになったときでも何もできない、何の解決も導きだすことのできない自分に。そして仕事をしていないというだけで自分の意見を通すことも主張することもできない、自らの立ち場というものに。
冷静に俺を見つめるリリアムの視線に耐えきれず、俺は目を逸らした。今まで幾度となく体験してきた冷たい視線は、俺に過去の記憶を思い出させる。いかんともしがたい腹立たしさにさいなまれ、俺は力強く歯を食いしばり目を閉じた。
こんなのはもうたくさんだ、俺はただ納得できるように生きていきたいだけなのに。
「だから、私たちがいるんじゃないですか」
透き通るように淀みのない声でリリアムは呟く。その言葉に思わず俺は視線を戻すと、彼女ははひたすらまっすぐに、俺の顔を見つめてた。決して俺の言葉を馬鹿にする様子もなく、真剣なまなざしで。
「生き方なんて誰も教えてくれないのも、世の中に暗黙のルールがあるのも、それはもう仕方のないこと。そんな理不尽な世の中で生きていくためには、私たちは互いに支え合って生きていくしかないと思うんです」
静かながらも芯のあるしっかりとした声色で、少女は語る。その表情はどこか苦しげで、まるで俺と同じように、何か遠い日の記憶を思い出しているかのようだった。
「たしかに、私たちは普通に生きていればライセンスだって手に入ることはできる。
でもライセンスを持っていたって、生き方なんて誰も教えてくれない。そのせいで道を迷う人なんて、あなただけじゃなくたくさんいるんですよ」
俺を諭すため、リリアムは平然と、しかし力強い意思をこめて語った。
「そんな人たちの手助けがしたくて私はこの仕事をしているから」
リリアムは静かに目を閉じ手を胸に当ててそう語り続ける。
「だから決してあきらめないで欲しいんです。世の中の理不尽になんか負けないで、あなたなりの生き方を見つけて欲しいんです」
それは自分の気持ちがどうにか届くことを願っているような口ぶりだった。世の中のあらゆる理不尽に絶望する俺の心に、少しでも少女の想いが響くようにと。そしてその想いは、少なからず俺の昂る気持ちを抑え、思考するだけの冷静さを与えてくれた。
「迷ってもいい、つまづいて転んだっていいんです。大切なのは立ち止まり続けず、歩き続けることだから」
果たして今日初めて会った人物にこれほどまで親身になって語ることができるだろうか。俺は少しずつ冷静になってそう考えるとともに、荒げていた声を抑えて静かにその語りを聞いている自分が、その少女の真摯な態度に自然と載せられていたことに気づく。
そして息をつく間を取ると、リリアムは目を開き改めて俺を見つめなおす。
「どうか改めて、私と一緒に働けるように頑張ってみませんか」
そういってリリアムは俺の前に手を差し伸べた。