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神さびた世界は愛に溢れる

作者: 煤竹

架空の世界のお話です。

 律儀な鶫が今日も来た。

 その身体に似合わぬ大きさの届け物を携えて。


「今日もまたご苦労なことだ」


 そう労い、私宛てではない文を受け取りつつ嘴の下を撫でてやると鶫は嬉しげな声を上げて空に帰って行った。ここ暫くの間で顔見知りとなった鶫は大方この文の差出人の元へ戻ったのだろう。いなくなった鶫から漂う甘い香りはその鶫が毎回携えてくる文から香るもの。受け取ったばかりの文を見る。差出人の恋心が詰まった恋文に、思いの強さをその香りから感じ取れるというものだ。


 本来の受取人であるあやつには勿体無いと思いつつ、乗り出していた窓を閉め、階下に降りて見つけた我が友の背に声を掛けた。


「我が友アモレアルアン。またそなたに届いたぞ」

「捨ててくれ」

「何を言う。高嶺の花がそなたを慕っていると文にしたためてだな」

「勝手に読むな」

「いやいやこの場合は仕方がないと言う外は」

「欲しいならくれてやる」

「魅力的な申し出だが、恐らく彼女に嫌われている身としては易々と引き受けることは出来かねるな」

「なら口を挟むな。…少し出てくる」


 そう言うや否や、我が友は颯爽と私の前から姿を消した。

 百発百中と名高い自慢の弓矢を持って出かけたということは、狩りにでも出たのだろう。

 やれやれこれは手強いぞ、という溜息を零しながら手の内にある文を眺めやった。封蝋を開けずとも伝わる甘い香り。我が友に懸想をしている高嶺の花からの率直で真っすぐな恋心。彼女からこれほどの想いを寄せられて、断る理由が私には分からない。私ならば一も二も無く馳せ参じ、彼女の衣に口付けを贈っているところだ。そして願わくば同衾を……、と誰もが願うほどに彼女は魅力的なのだが。我が友だけはどうやら例外らしい。


 欲しいならくれてやる、と言い放つ冷めた言い草が気に掛かった。

 ―――くれてやる。

 つまり一度はその手にしたということなのだろうか?

 堅物の化身のような我が友が。あの春の女神を?


「ふうむ」


 それは、何としても聞き出さねばなるまい。このような面白…いやいや、親友の恋路の顛末をこの私が知らぬままではいられない。

 我が友からは聞き出せないだろうことは容易に想像がつく。であるならば往きつく場所はただ一つ。


差出人(ナユタナディア)のところに行く外はあるまい」


 我が友ほどでは無いがこちらも頑なであろうことは想像に難くは無いが。

 それでも我が友のどのような話が聞けるか、実に楽しみだった。








 *





 麗しの君が悩ましげな溜息を零している姿は見る者の視線を釘付けにし正に虜にするかのようだが、それが真に愛おしい者には通用しないというのは難儀なものだ。

 花水木の下で、飽きずに文を書いている女神の元へ私はそっと近づいた。


「やあ、ナユタナディア」

「…………」

「その羽虫を見るような眼差しがとても眩しいな。隣に座っても良いだろうか?」

「…………」

「ありがとう」


 華の(かんばせ)を嫌悪に歪めながらもナユタナディアは私が隣に座ることを無言で許してくれた。腰を下ろす際、彼女もまた座り直して私から遠ざかったが。

 何故私がここまで彼女に嫌われているのかは分からない。彼女が思いを寄せるアモレアルアンの一の友である私と親しくなれば、それだけ我が友と近付くことが出来ようものだと思うのだが。


「……何用でしょう」


 手元にある書き掛けの文を折りたたみながらナユタナディアが聞いてくる。声には鈴を転がしたような、という形容があるが、彼女の声は正にそれだ。凛として清楚。耳に心地良く響く稀有な声だ。尤も、私に対しては抑揚のない平淡な声色でしか話さないが。

 そしてこちらを見る気は毛頭無いらしい。顔をなるべく上げないよう、私を視界の端にも入れないように努めている。いじましいことだ。彼女にそのようにされる理由が、全くもって私には分からないが。


「何のことは無い。アモレアルアンのことだ」

「……」

「ははは、そなたの視線が槍だとしたら、私は今串刺しだろうな」


 漸く私を見たと思えば桜色の瞳を剣呑に尖らせて射抜いてくる。

 仇でも見るかのような彼女の仕打ちに、私は心の中でひっそり嘆いた。

 誰よりも美しく、誰に対しても分け隔てのない愛を注ぐはずの女神から忌み嫌われる理由とは、一体何だと言うのか。


「アモレアルアン様がどうされたというのです」

「く、首を絞めるのは、さすがにどうか、と思うぞ」


 ぎりぎりと衣の襟首を締め上げる女神の腕力は全く可愛らしいものではなかった。

 万力の如く、締め付ける力が徐々に強まる。


「お早くお話しになってくださいアリアノクスさま。彼の方がどうされたのです」

「そ、のまえに手を」


 私の身体に乗り上げるようにして力を掛ける女神は、普段はこのような行動を取るような方ではない。楚々と、慎ましやかな方であるのだが、我が友の名を聞いただけで豹変する。正に恋狂い。

 ああ、罪深い男よな、アモレアルアンよ。


「アリアノクス。早くお話しなさい」

「……そなたに呼び捨てにされるのは存外に心地良いものだと気付かされるな」


 冗談めかしつつ、半ば本気でそう言えば途端に身を離される。

 乱れた衣を直しながら身体を起こして見てみれば、私から距離を置いた女神は汚らしいものを触れたように執拗に衣で手を拭っていた。嫋やかな手を震えさせながら、音が聞こえそうなほどに擦っている。余程彼女は私がお嫌いらしい。

 彼女からぞんざいな扱いを受けているというのに私は怒りなどは覚えず、どこか深いところで心地良ささえ感じてしまい、表情が緩まるというものだった。美しさは罪というが、罰する思いすら湧き起こさせないもののようだ。


「ナユタナディア。一途に想い慕うだけではあやつには通用しないぞ」


 唇を噛み締め、俯く女神は何とも美しい。その悲しみを堪える表情は、私を邪険に扱う態度を取る彼女といえど優しく慰めてやりたくなる。


「……ですから、こうして思いの丈を文に」

「それだけでは足りないだろうな。あやつはそなたからの文を読むことなく放っている。今朝も、昨夜も、その前のものも」

「言わないで下さいませっ」


 言葉を震わせながら女神が私を睨む。桜色の瞳に、朝露のような雫を湛えさせながら。零れそうで留まっているその雫が、彼女の心の内を表しているようではないかと思った。

 あともう少し、ほんの少しの勇気を出せば或いは現状を変えることが出来るかもしれないのに、そのあと少しの勇気が出せずにいるのではと。


 手を伸ばせば届く距離にいる彼女の涙を私が拭うことは容易いだろう。彼女が私の指を拒もうと、私がやろうと思えば出来ないことは無い。甘露の様な涙を払い、涙に烟る瞳を閉じさせ、瞼に口付けを贈り、優しく慰めの言葉を囁いて―――


 だが目の前の女神はどうにも私に心を開いてはくれない。伸ばそうとした私の手をぴしゃりと叩き落し、睨みつけながら気丈に振る舞う。


「貴方の口から言われたくないのです、アリアノクスさま。他ならぬ貴方から、アモレアルアン様が、私を厭うているなど……っ」

「何故、と聞いてもいいだろうか」

「……何がです」

「何故そなたは私を嫌う」


 直接な言葉で問い掛けてみれば、いかにもどうしてそれを知っているのかというような驚愕の表情をされ、私は思わず噴き出してしまった。


「どうして驚くのか分からないな。これだけ拒絶されもすれば産まれたばかりの春風さえも気付こうものだよ」

「別に、嫌ってなど……」


 表情を隠すかのように再び俯き衣を両手で握り締める女神の顎に指を掛けこちらを向かせる。

 揺れる瞳が気まずそうに私を見てはあちらこちらにと忙しなく逸らし動く様はまるで怯える小動物のようだ。


「嘘が苦手な方よ、私の目を見ながらもう一度言ってごらん。愛らしいその唇で、私への愛の囁きを紡いでごらん」

「愛などと……っ」


 女神の本音の言葉を封じ込めるように、桜色の瞳を視線で絡め取りながら吐息が触れ合う程に近付いて続きを遮った。

 言葉に詰まる女神の表情にさっと朱が走る。これが恋情によるものであれば今すぐにでも口付けを交わしたいところなのだが、生憎と憤怒もしくは嫌悪の感情によるものだというのが眉間に刻まれた縦皺で読み取れるというもの。


 だが私は負けまいと、あらん限りの甘い囁きを女神の唇に吹きかけた。


「ほら、聞かせておくれ。ナユタナディア」

「アリアノクス……っ」


 女神が私の名を忌々しげに呟いた時、どこかでがさりと音がした。大きな獣が葉を揺らすような、生き物が作り出す音だ。

 その音は女神も聞きつけたようで我に返った女神が私の胸を突き飛ばす。その力に抗わず、私は素直に身を引きながら音のした方向を見てみれば、剛弓を携えた我が友の姿がそこにあった。


「奇遇だな、アモレアルアン」

「……お前こそ」


 感情を露わにしない声音と(おもて)

 友が何を考えているのか表面に出てはいないが、不機嫌であることは明らかだった。

 不必要なほどに感情を凍てつかせた友の首に浮かび上がる筋が、いかに心の内を封じ込めようとしているかの努力の跡だと分かる。また、弓矢を持って出掛ければ四、五日は戻らぬ我が友がここにいる理由。それらに気付かぬふりをして、私はのんびりと話し掛けた。


「狩りの成果は上々だろうか?」

「……まあまあだ」

「そうか。まあ、余り狩り過ぎるな、とだけ言わせてもらおう」

「…………」


 穏やかな会話の最中に潜む濃厚な死の気配がひしひしと伝わるだけに、まあまあだと答えた友の嘘はこちらには丸分かりだ。

 無闇やたらにその死の矢を降らされては、弱きものたちは堪らないだろう。それが死の神たるアモレアルアンの仕事とはいえ、必要以上に数を減らしては元も子もないと言うのに。


「……お前は何故ここにいる」


 固く強ばる声が私を非難しているような響きを持っていた。私は笑い、懐から芳しい香りを放つ文を取り出した。


「何故も何もないだろう? 我が友がくれてやると言った文を読んで私はここにいるのだ。手紙の主がしたためた、あなたに会いたい、という至極簡単な願いを叶えに」

「私の文を読んだのですか……っ!?」


 女神は物凄い形相で私を睨みながら持っていた文を奪い去った。恋とはこうも豹変させるものなのか。全くもって、不憫で仕方がない。


「おっと、また首を絞められたら堪らないな。……恋に狂うそなたを見るのも悪くはないがそろそろ潮時だろう。恋文ではなく、そこにいる朴念仁に直接伝えるが良い。……もしも玉砕したその時には破れた心を慰めにそなたを拐いに来よう」


 豊かな髪の一掬いに口付けただけで射るような視線が二つとは、全くもって理解に苦しむものだ。同じ心を持つならば話はひとつだけであるはずなのに、二人ともややこしく考え悩みすぎていて端から見ている者としては如何ともし難い。


「では私は退散するとしよう」


 去り際、友に耳打ちをしてやるのを忘れずに。


「逃げるふりをしながら隠れて眺めるのはもう止めることだ。そなたの動向を私が知らぬとでも思っているのか?」

「な……」


 無表情を貫く友の顔を驚愕の色に染めてやったことに満足を覚える。下心を見せまいとして堅物を演じるのは評価に値するが、覗き見は地に落ちる所業だ。


「弱きものにではなく、彼女にその思いをぶつけてやれ」


 一つ肩を叩いて私はこの場を去った。


 彼らがこの後どうするかは、時を見て我が友から聞き出せば良いことだろう。話してくれるかは別問題だが。













 ―――さて、他人の恋路に関わるのはこの辺にして、今度は自分自身のために動こうと思う。


 あの花水木から遠く離れた場所で、私は虚空へ向けて手を差し出した。


「おいで」


 一度目の呼び掛けに応えるものはない。

 だが、着いてきているという確信のもとに再び呼び掛ける。


「おいで」


 二度目でそれは、姿を現した。


 ぱたぱたと羽ばたきながら私の腕へと停まった鶫。春の女神の恋文を我が友の元へと運ぶ可愛らしくも健気な忠義者だ。


「どうだ、そなたの願いは叶っただろう」


 文が運ばれる度に顔を合わせていれば自然と気心も知れてくるもの。鶫の願いはただ一つ、主たるナユタナディアの元へアモレアルアンを連れていくこと。それが会いたいという願いを綴った文の、運び手の願いだった。


 鶫は小さな小さな頭をひょこりと下げて、私に感謝の思いを伝えてくる。それでも十分に伝わるが、今の私には足りない。あの不器用な二人に当てられたかのように、私の心は満たされない。

 いつものように嘴の下をくすぐってやりながら、言った。


「感謝を表すならば、正統な手段があるはずだと思うのだが?」


 意地悪げにも聞こえただろう私の言葉に、心地よさげに伏せていた目を薄く開けた鶫から困惑した感情が伝わってくる。

 ああ、どうにも愛くるしい。


「そなたの声を聞かせておくれ」


 鶫は素直に小さな嘴を開閉して鳴いてみせた後、幾ばくかの思考の果て、私の腕から羽ばたき離れた。そして直ぐ目の前で鶫は目映い光りと共に姿を消し、新たな姿で現れた。


 目の前に現れたのは小柄な女性。肩までの長さに整えた薄茶色の髪で表情を隠すように俯く彼女の額には、女神の遣いであることを示す雫型の宝石が一粒備わっている。

 鶫の時と変わらない可愛らしさを持つ女神の遣いは、上目遣いで私を見ながら控えめに可憐な声を発した。


「アリアノクス様……お気付きでございましたか」

「やあ、鶫の君」

「この度は畏れ多くもわたくしめの願いをお聞き届けくださいまして恐悦至極に……」

「そんな堅苦しい挨拶は要らないよ。おいで、こちらへ」


 腕を広げ、傍へと誘う。眉尻を下げて切なげな眼差しを私に注ぐ彼女は、春を司る女神ナユタナディアに仕え、次節には冬の終わりを告げる女神の位を拝する予定の女神候補だ。

 神殿へ赴く度に耳にするナユタナディアとアモレアルアンの逢瀬を願う言葉を誰よりも口にし、またその身からあの鶫と同じ香りをさせていたのだから私が気付かないはずがないというもの。


「……お戯れは困ります」

「おや、それは心外に尽きるな。君の感謝を間近で聴きたいだけだというのに」


 清廉潔白も裸足で逃げ出すような表情で笑いかければ、途端に身を固くさせ私を警戒する女神候補の頬は赤い。私のことを憎からず思ってくれているとは推測出来るが、如何せん確証がない。

 (さが)に身を任せ女性と見れば誰彼構わずに甘い言葉を囁き続けた私を警戒することは褒めて然るべきことだが、今はそのような警戒心など無くし、その身を任せて欲しいと願うのに。……身から出た錆とは正にこれを言うのだろうと思う。


 嗚呼白状しよう―――私は、鶫の君に恋をしているのだ。



「エレミエスカ」

「わたくしの名を……?」

「私に知らないものなど無いよ」

「……陽の神たるアリアノクス様は万物を照らすお方と存じておりましたが、あなた様の前に隠し事など出来ないのでしょうね」


 諦めたかのように笑うエレミエスカはしずしずと私の側へ歩み寄ると、一言断りを入れてからその嫋やかな手で私の腕を取り、手首を伝って私の指先を両の手のひらで捧げ持つ。頬を赤らめながら、しかし真っ直ぐに私を見上げた女神候補から、私は目が離せない。


「あなた様に感謝を申し上げます」


 そして、伏せた小さな頭は私の指先に柔らかな口付けを捧げ、感謝の祈りを紡いだ。恋し君の甘やかな口付けに私の心は射ち貫かれ、息をすることも忘れそうだ。


「……エレミエスカ」


 ようよう絞り出したような声が彼女に伝わらなければいい。これから言おうとしている言葉の数々は、我が事ながら誠実の欠片も無いのだから。


「はい」

「それではまだ足りない」

「え……?」

「私は、まだ満たされないよ」


 更に朱色が上る頬は、精一杯の感謝を伝えた努力を無下にした怒りからか。はたまた私が言わんとしていることの意味を理解したからか。

 私を陽の神アリアノクスと知っている彼女だ。これまでに流した浮き名の数々もまた、知っていることだろう。


「我が友ながら、あの朴念仁をあそこまで焚き付けるのには相当苦労したのだよ。指先への可愛らしい口付けだけでは労いきれないと私は考えるな」


 春の女神とどう知り合いどのような経緯を経たのかは知れないが、頑なに姿を隠していた我が友をあの場に引っ張り出すために行った演技を鶫の君に目撃されている身としては、やはりこの程度で済まされては慰めにもならないだろう。


「どう、すれば……」

「そなたはどうすれば良いと考える?」


 無垢な女神候補に悪辣な誘惑を仕掛ける。彼女が女神となった暁には他の神々から積極的な誘いが舞い込むことだからして、それらが彼女の内に入り込む余地を今から無くしてしまいたいのだ。



「考えてごらん。私はどうすれば満たされるのか。そなたの何を私が望んでいるか」


 彼女から触れてくれた手を緩やかに握り込む。逃げたくば離してやれる程度の力加減でいれば、彼女の手にも力が込められた。逃げようとするのではなく、私の手を掴むかの如く。そして潤みを帯びた視線が、私の目ではなく少し下の辺りを漂った。


「……わ、わたくしは」


 勇気をもって一度開いた唇は再び閉ざされた。きゅっと引き結ばれた可憐な唇は抗いがたい力を持っているようで、私は吸い寄せられるように片膝をつく。近い場所で視線が交わり、熱さを持つようだ。


「このようにすれば都合が良いだろうか?」


 息を飲む音さえも聞こえる間近で囁けば、こくりとエレミエスカの喉が動いた。


「私はどうしたら良い?」

「そ、のまま……で……」

「このまま?」

「目を、閉じていて、くださいませ……」

「見てはいけない?」

「恥ずかしい……」

「そうか。ならばほら、そなたの仰せのままに」


 言われた通りに瞼を下ろす。塞がった視界の外で、鶫の君の逡巡が伝わる。

 すうはあ、と深呼吸をしたエレミエスカが意を決して近付いてくるのが分かった。―――ので、少し頭の位置をずらした。


 柔らかな唇の感触は、彼女が目指した着地点を少し逸れて、私の望む場所へと辿り着く。触れ合う唇同士に舞い上がり、私はいつの間にか強く握り締めていた彼女の手を引き寄せ、伸び上がるようにして触れ合いを深めた。


「……んふ、んっ……」


 鼻に抜ける艶めかしい声に導かれるままに私は目を開けた。するとどうだ、無垢なる女神候補は目を閉じて薔薇色に頬を染め、私との口付けを受け入れてくれているではないか。

 どれほど深めたら拒まれてしまうかという懸念は早々に消え失せた。どこもかしこも可愛らしい造りになっている鶫の君との口での交わりを堪能することに熱中し過ぎ、気付けばエレミエスカは自力で立つことが困難になっていた。


 女神候補にとってみれば淫らに過ぎる口接の果て、ようよう繋がりを解けば彼女の膝がかくりと抜け、濡れた吐息と共に撓垂れ掛かる彼女の体を支えてやった。否、抱き竦めたとも言うだろう。恋し君の初めて見せる表情を、私以外の数多の神々に見せてなるものかと強く思ったからだ。


「はぁ……は……ぁッ」

「エレミエスカ……」


 万感の思いの丈をこの腕に込める。私を受け入れてくれた彼女を、決して離しはしないと。


 折れてしまいそうな程に華奢なその身を震わせながら、息の整わないままエレミエスカは何事かを呟いた。


「は、ふ……、も、申し訳、ございませ……」

「何を謝る?」

「誠に、申し訳、ございません……わたくしが拙いばかりに、アリアノクス様の、……唇を、汚してしまいまし、た……」

「そなたは……本当に……」


 胸に広がるこの想いを何と例えれば良いのだろうか。

 汚したのは私の方だというのに。無垢なる彼女の唇を私は小賢しく奪ったのだ。何れかの神にとられる前に、その全てを欲しているがため。


 後ろ頭を支える名目でより近付く。頬に頬を寄せ、耳に囁いた。


「エレミエスカ、そなたは私に触れられるのは厭わしいだろうか?」

「い……、いいえ、そのような……こと、は……」

「ならば、私に想われることはどうだろうか?」

「想われる……?」

「私はそなたを、恋しく想っている」

「……っ」


 驚きに息を飲む仕草にも心奪われる。


「このような告白をする私は厭わしいだろうか」

「ぁ……ぅ……」

「それとも……」


 顔を離し、言葉に詰まる女神候補の表情を見つめる。悪辣な誘惑を仕掛けた時のように、甘い毒を囁いた。


「そなたも私を憎からず想ってくれている、と考えても?」


 エレミエスカは、真っ赤に熟れた林檎のような色に頬を染めてぎこちない仕草で首を横に振るうけれど、それでは肯定しているようなものだ。


「エレミエスカ」


 名を呼べば涙の薄膜が張る綺麗な眼差しが揺れる。甘露のようなその雫を優しく拭ってやりたい。この指で。唇で。願わくば、今この時よりこの先彼女が流す涙は私のためだけであって欲しい。


「恋し君」


 目の前にいるエレミエスカに対する私の思いは、他の女神に抱くような甘やかなものではない。それこそ戯れに許しの口付けを衣に贈るような手間を省き、その内に秘された肢体に直ぐ様触れたいと願う程に。

 性急にも思えるそんな欲望を叶えるには力ずくでなら可能だろう。だがエレミエスカの許しなく触れてしまえば、彼女を蔑ろにすることと同義。……いや、先ほどの甘美な口付けは彼女との距離を測るために必要であり彼女からの行動であるため蔑ろにはしていないと主張したい。

 だからこそ、彼女からも私と同じだけ求めてもらいたい。彼女から私に寄り添い、彼女から私を乞うて欲しい。


「わ、わたくし……」


 可愛らしく囀る唇を指先でなぞる。困惑と混乱と、羞恥と高揚。それらに苛まれたエレミエスカの可愛らしさは春の女神さえ及ばぬと考えるのは惚れた欲目というものだろうか?


 はくはくと某かの言葉を紡ごうとして唇が動くがそこは先を制す。


「畏れ多いという言葉は肯定と受け取ろう」

「ひ、ぅ……!」


 どうやら図星のようで、エレミエスカは折角言葉にしようとしたものをそのまま飲み込んでしまったようだった。すまない、と声無き声で詫びるのは私が肯定以外を受け付ける気がないからだ。

 それを察したからかエレミエスカは可憐な唇を引き結び、俯く。頬は赤いままだ。


「お戯れを……」

「私のことが信じられないだろうか」

「そのようなことはっ…………、けれど陽の神アリアノクス様のお言葉でございますから……」

「女好きの男の言葉は信用できないと」

「は、い、いえ! ああ、そんな、うう……っ」

「そなたは嘘が付けないな」


 故に、心配なのだ。


「ならばそなたに誠意を見せよう」

「誠意……?」

「我が心が真か否かを見極め、その上で判断をして欲しい」

「な、何をです……?」


 嘘が苦手な恋し君には神々の誘いをはね除けることは難しいだろうから。


「見極めた暁には、私をそなたの恋の奴隷に」

「アリアノクス様っ!?」

「今この時より、陽の神アリアノクスは冬の終わりを告げる女神候補エレミエスカへ心を捧ぐ。果て無き心を捧げ、果てまでそなたの心を照らすことを我が御父(ちち)の御名に誓おう」


 聞こえただろう、万物の神々たちよ。

 この後女神となっても彼女に手出しはさせない。人の恋路を邪魔するものは神馬に蹴られるがいい。


「そんな、そのような……っ!」

「我が心はそなたのもの」


 決して逃がしはしない、私の鶫。恋し君。


「燃え盛る陽の如く永久(とこしえ)に」


 そなたの心が今はどうあれ、私の想いを周知し、私の想いで囲い、ゆっくりと私に振り向いておくれ。

 弱きものはこれを、外堀を埋める、と言うのだったか。


「そなたが私を受け入れてくれるよう誠心誠意努めよう」


 私は我が友と違いただ見ていることなど出来ない。この想いは誰にも消せはしない。





 我が心、我が愛は―――遍く世を照らす太陽の如し。






 

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