遠来1
馴染み深い故郷を離れ、見知らぬ土地へ。
電車に揺られ、先程まで大きく渦巻いていた不安は萎むように落ち着いた。長時間同じ体勢を保っていたからか、腰辺りに痛みが走る。体勢を変えつつ、視線を窓の外に投げかけた。
ずっと身を置いてきた人工的な環境が一変、窓の外に広がるのは見慣れない景色。天高く伸びるビルや、道路を走る車などの乗り物、波のようにも見える人の群れ―――そう言ったものが一切ない、超が付くほどの田舎。
そんな場所に、浮かない顔をした少年、達也は訪れていた。
一斉に風に揺られる青い稲や、畑に植えられた苗。広がる田畑の間に長く細く伸びる、整備されていない小道。そしてその全てを取り囲む壮大にして雄大な山々は、それらを見下ろしながら深く息を静めているようだった。
故郷に木はある。ただしビルとビルの間に立ち並ぶ、景観のためだけの木。今見ているような、自然の物ではない。人生初めてである。こんな自然に囲まれた土地は。
「―――お前さん、どこから来たんだい?」
ふと話しかけられ、我に返った達也は声の方向に目を向ける。声の主の老人は、達也の向かいの席に座っていた。しゃがれてはいるが、ゆったりとした気品のある喋り方。その声の主は、姿もまたどこか気品がある。焦げ茶色のスーツを身に纏ったその老人は、手に掴んだ杖を指でいじりながら達也に微笑んだ。
いきなり話しかけられたことで達也は言葉を詰まらせたが、老人は特に気にする様子もなかった。老人は達也の返事を待っているのか、杖をいじっていたしわしわな手を薄ら白いひげの生えた顎に添えた。
達也は老人の言葉を思い出し、繋げるように言葉を紡いだ。
「え、と…中央都市から、です」
「ほほう、あの日本最大の都市からか。遠いところから来たねえ。そんなところから来たら、ここの景色は珍しかろう。中央都市―――そこがお前さんの故郷かい?」
「ええ、まあ」
そこで会話は切れた。しばらくの沈黙。
なんだったのだろう、と達也は再び窓の外へ視線を向ける。
すると、景色が変わっていた。
広々とした景色は、あの一瞬のうちに大きく狭まった。窓のすぐ向こうに、木々や草花が見える。
どうやら達也たちは今は、山々の間に伸びる線路を通っているらしい。木々が、前から後ろへ勢いよく通り過ぎる。数多に重なる葉が日の光を遮っているようで、窓の外は先程とは一変して仄かに薄暗かった。時折差す木漏れ日が、山の草や土を照らしている。
「この土地にはね、」
再び声をかけられた。
「神様がいるんだ」
「神様?」
「そうさ」
達也は、辺りを見回す。椅子を埋め尽くしていた乗客は、今や老人と達也の二人しかいない。
山の奥地まで乗る人間は、そういないのだろう。
山々が作る大きな木陰によって薄暗い、窓の外も手伝ってか。老人がとても、とても薄気味悪く感じる。
「まあ、そう警戒しなさんな。ただの言い伝えさ」
軽快に笑った老人は、ゆったりと瞼を閉じた。達也は、窓の外を見る。
「―――あれ」
白い何かが、飛んでいた。いいや、違う。よく見ると、飛んでいるのではなく走っている。
怪しい光を纏ったその"白"は、薄暗い木陰によく映えていた。木々の奥に薄ら見えた"それ"に、達也はじっくり目を凝らす。
奇妙な"白"を集中して見ていると、"それ"はあろうことか、木々の隙間をするすると駆けていた。
生き物、か…?
達也は、声を失った。今自分は電車に乗って、"それ"を目で追っている。だが"それ"は、電車と同等―――否、それよりも速く山道を走っていた。
まるで、電車と戯れているように。
まるで、電車と追いかけっこしているように。
ただでさえ足場が不安定で、草木の障害物が絶えない山道。そんな道で、電車に劣らず走っているなんて。一瞬、獣かと思っていたが。どうやらそれは、獣ではないようだった。
だが、何であるとも断定できなかった。
山の奥に薄ぼんやりと光をもった白い何かは、現実味をまるで持っていなかった。
そして暫く電車と並走すると、やがて遠ざかっていった。電車と戯れるのに飽きたようにも見えた。
達也は、慌てて周りを見渡した。
あれはなんだったんだ、獣か、それとも別のものか。そう言って騒ぎ散らしたい気持ちが、どんどん膨れ上がった。だが、今この車両には達也と老人の二人だけしかいないことに気付いた。
肝心の話し相手は、すっかり眠りに落ちていた。達也は、肩を落とした。
「―――お客さん、お客さん、終点ですよ」
控えめに肩を揺らされ、重い瞼を持ち上げる。気付くと、老人の姿はどこにもなかった。途中で降りてしまたのか、なんだか先ほどの出来事は全て夢だったのではないかとすら思えた。
電車を降りて、駅を出る。
故郷の、混雑した都会の駅ではない。小さな駅の待合室は、見慣れた駅とは全く違った。天井を見ると、蜘蛛の巣がはっている。さらにその隣には、ツバメの巣が。待合室にある薄汚れた半透明の窓は、ここが掃除すら十分にされていないのだとわかる。駅、というよりは、何かの小屋だと言われた方が頷ける。
キャリーバッグを引き、駅を出る。
「うわぁ」
見事に、田舎だった。
駅を出ると、一本の道路がずっと先まで続いていた。あと見えるのは大きな田畑と、地平線を隠すように佇む山々。
故郷では、"駅前"と言えば栄えているもので、よく学校帰りに遊んだものだった。学生が楽しむには充分なほど、たくさんの店が並んでいた。それが、ここはどうだ。あるのは自動販売機。一本の道路と、劣化した掲示板のようなもの。それと、茶髪にサングラスをかけた無精ひげの男。
「お」
煙草を咥えたその男は、達也を見ると声を上げた。
「やっほー、君が達也?」
「え」
確か、この駅の前で、"今回自分を引き取ってくれる人間"が待っていてくれるはず。待っていて、くれるはずだった。
伝えられた話では、その人はとても人柄がいい人だった。人懐っこく、優しい。
きっと、達也をしっかり育っててくれる。前の親戚には、そう言われた。その言葉は達也を安堵させるものだったが、同時に無責任なものに聞こえた。つまりは、厄介払いをされたわけである。
いや、今はそんなことどうでもいい。
とても人柄がいい、多分本当のことである。にこやかに手を振り、こちらに近づいてくる。
けれど、その風貌は明らかに、このド田舎には全然馴染めていない異質なものだ。"この類の人間"は、故郷にもちらほら見かけた。俗に、チンピラと呼べる者。白スーツに、ごつい金属製アクセサリーをこれでもかというほど身に着けたその男は、咥えていた煙草を手にとった。
「…え」
確か、これから共に生活してくれる人とは、この駅で待ち合わせるはずで、その人の名前は。
「龍之介、さん」
「そうそう、俺が龍之介。よろしく、達也」
もっと、しっかり話を聞いてくるべきだった。これから一緒に過ごす人なのだから、どんな仕事をしているのだとか、昔はどんな人だったのだとか。拒否権はないにしても、心構えとかしなければならなかった。
見た目で判断してはいけない、と誰かが言っているのを聞いたことはあるけれど、これは見た目で判断せざるを得ない。
「マジ、かよ」
どうやら自分は、今日からこの男と住むらしい。