これがすべてのはじまり
魔族の加護と、精霊に祝福された世界、『フィディラ』。
その、大きな大陸のほぼ真中に位置する、それそのものが国となる魔法学園『ヴィデグ』。
魔法の素質を持つ者が大なり小なり、貴族なり平民なり混在しあいながらもその全てを平等に扱うことを掟とした、完全な中立国。
そんな『ヴィデグ』の一角、第3グラウンドにて、凄まじい魔力の波動による突風と閃光が地面を揺らすほどの衝撃を伴って響いた。
「伏せろ!!」
「結界を!!」
叫んだと同時に、簡易とは言え生半可な衝撃ではびくともしない結界を張ったのは、普段だらけた風情であっても高い実力を持つ教師と、怠惰な彼を叱りつける生真面目で苦労性な、けれど決して見捨てることのない副担任。
ふわり、と瞬時に姿を現し力を貸す彼らの『守護者』も、厳しい表情でその手を重ね、力を貸す。
きぃん、と透明で頑丈な結界が時に雷鳴すらとどろく中心部以外の生徒を守るために敷かれた。
のどかな晴天のもと、いつもどおりの授業風景のはずだった。
中等部1年になって半年たった今日は、待ちに待った『守護者』の召喚の日で、けれど召喚者の潜在的な力に惹かれてやってくる『守護者』は基本的に穏やかな性格をしているし、そうでない『守護者』とてそれなりの礼節は保って召喚されてくる。
だというのに、
「くっそ…!!」
額にじわりと汗が浮かぶ。横に立つ、結界を維持する副担任も涼しく端麗な顔を汗にまみれていた。
びしりとクモの巣状にヒビが入った結界を見て、生徒たちが悲鳴を上げる。
焦りに舌を打つと同時、ふ、と負担が軽くなり、結界のヒビがすぅっときえた。
「なにが起こったのかね?」
静かな声。どっしりとした大きな大樹を連想させる体躯の学園長は魔法士最高位の黒いローブに身を包んでおり、首からさがるのは媒体にあたる瞳と同じ緑柱石。
いかなる時も冷静な彼は年老いて尚威厳を増していた。
その左肩には小さな透明な羽を生やした手のひらサイズの愛らしい少年の『守護者』。陽気な彼も眉をひそめ、見えぬ雲の向こうを睨んでいる。
ぐい、と額の汗をぬぐい、真剣な顔で答えたのは副担任。
「中等部一年A組、リオル=ハンライトが召喚を行ったところ、莫大な魔力を感知。咄嗟に結界を張りましたが、ハンライトがいる場所に届きませんでした。現在も、あの渦の中は確認できていません」
その頃にはほかの教師も結界の維持に手を貸し、その後ろには養護教諭や穏やかな性格の教師が数人、生徒たちのケアに走り回っていた。
端的な、緊急を要する報告に学園長は瞳を細め、手を掲げた。
「『風よ』」
立てた手のひらの前に、巨大な、けれど美しい眞白の風が集まり、真っ黒い雲に絡んでいく。
ぎゅるりと混ぜ合わさった白と黒はすぐにマーブルとなり、灰色になると空へ細く細く伸びて消えてゆく。
風が全て去ったそのあと。むき出しの地面の上に書かれた複雑な模様。ぼんやりと光を放つ、直径5メートルほどの魔法陣の上に立つ二人。
一人は中等部の制服である灰色のブレザーとチェックのズボンがなければ女子としか見られないだろうあいらしい顔立ちの少年。
銀混じりの輝く金の髪に硬質な銀色の瞳。はちみつ色の肌は僅かに青ざめているようだが、致命的な怪我もなにもないらしいことに安堵の息がひとつ、担任と副担任、そして生徒の皆の口から漏れた。
問題はその対面にある。
いうなれば、漆黒の影。
相対するリオル=ハンライトよりも頭一つと半分は確実に高いだろう長身の背を越してふくらはぎの半ば程まで伸びた、夜空の色をしたふかい藍色と漆黒がまじりあう髪。
黒い上質なタキシードと肩に金モールが着いた豪華なマントはともすれば気障ったらしく見えるというのに、彼の均整のとれた体が身にまとえば、王のような威厳を放つ。
きれいに整えられた黒い爪、ニキビの跡やシワひと筋すらないなめらかな肌は褐色。
高い鼻梁、薄い唇、貝殻のような耳。彫りの深い、けれど濃くはないその顔はただ美しく、しかし恐ろしい程に冷たい。だというのに、目が離せない。
切れ長の瞳に嵌るのは黒ではなく白。それも、ただの白ではなくやや青みを帯びたブルームーンストーンだ。
夜に浮かぶ二つの月。……それは、『守護者』の中で最も強大な力を持つ者の特徴にそっくりで、しかしほぼ伝承でしか聞いたことのないほど、遠い昔の存在。
魔人。
そこに立っているだけだというのに、にじみ出る威圧感に押しつぶされそうだ。
それでも、生徒は生徒だと結界を解除し近づこうとした担任を学園長が制し、自らその足を踏み出した。
その背は頼もしく、わずかなうろたえや戸惑いを落ち着かせるに余りあった。
額に汗をびっしりと浮かべて、それでも対する魔人に一歩も引かぬ小さな、張り詰めた背に後数歩で触れられる距離で、学園長たるガラン=シルエラ=ヴィデグはあわてることなく、ただ落ち着いた声をかけた。
「リオル=ハンライト」
「が、くえんちょう…」
大樹のそよめきに、ようやく息を取り戻したように青ざめた顔がこちらを向く。ついで、魔人の視線も。
「魔人よ」
それでもその瞳を逸らすことなく話しかければぱちりと、魔人の瞼が閉じて、開かれる。それだけの動作がやけに人間くさく見えるのは、あまりにつくりものめいた美しさのせいだろうか。
「なんだ?」
淡い桜色の唇から零れたのは冷たい、しかし聞き惚れるほど完璧なテノール。
感情なく向けられた蒼月石に畏怖する様子のない学園長の姿に生徒たちの動揺は収まり、息を呑む音がしそうなほどの静寂と痛いほどの視線が彼らに向かう。
「そなたは、我らにとって重すぎる力を持つ。故に問おう。……『偉大なる夜の王にして支配者よ。汝の存在理由はいかなるものか?』」
それは、その響きは真実を問うもの。決して、魔人といえども嘘をつくことは許されない、偽りを述べたその瞬間、問うた者も、問われた者も、その瞬間すべての力を奪われるほどの力を持った宣言。言霊。
問われた魔人は、わずか、どこか表情を変えたようだ。
注視していた誰もが気づかなかったほどのかすかな変化はすぐなくなり、あわい桜色の唇が静かに動いた。
「……応えよう。『我がここに在るは、ただひとつの理由のため。…我を呼んだ宝の叫びに応えるために来た』」
響いた声の居所は、学園長の真横から。
目線だけを流した先に、わずかに風を孕んだ漆黒の髪が背に戻るのを見て、自らの内を見て、力が失われていないことを確信し、嘘偽りなく答えた魔人への許可を示すために、静かに下がることにした。
あとは、当人同士の問題であろう。
学園長は冷静に断じて、事態の収拾を図るために背を向けて去っていった。
振り向いたのは彼の『守護者』。目があった彼はにっこりと笑みを浮かべ、お茶目なウインクだけを残して共に行ってしまった。
「主」
「……あ…………っ?」
美しい、無機質な蒼月石が、呆然と立ち尽くしたままの銀色の瞳を持つ少年を、リオル=ハンライトを写して、そのとき初めて、やわらかな微笑を浮かべた。
「我が主よ。我は汝の願いを叶えるために汝の前に来た。……主よ、我に、汝の願いを聞かせてくれ」
我は、いかなる時も主のために、汝のために在ろう。この力の、すべてをかけて。
その長い上質な生地や誰もが羨む美しい髪が地に汚れるのですらかまわず、ためらいなく跪かれて捧げられたその言葉の、なんと甘美なことだろう。
蜜よりも甘い響きを理解したと同時に大きく大きく見張られた銀の瞳、開いて、すぐに固く結ばれた唇。力の入りすぎで色を失った手が緩む数秒の間、彼が思ったのは、彼の脳裏に何が浮かんだのか。
「力、を……」
強く強く強く、ただそれだけを願って、祈って、求めて、叫んで、
「僕に、力を……!!」
脳裏に思い浮かぶのは、誰だったのか。
確かに目の前にいるというのに、遠くを見つめるその顔を、その瞳を、その叫びを聞いた魔人の腕が、足が、優美に動く。
立ち上がった魔人は、リオンの手を取り、どんな芸術家ですら作り出せないほど整った顔で、何よりも、誰よりも、ただやさしくうつくしく微笑う。
「では、主。私に、名を。そして、主の名を」
「僕の名前は、リオル=ハンライト。君の名前は…」
顔を上げたリオルの眼差しが魔人に交差する。
「ダリル。…輝石だ」
「我が名はダリル。これから、よろしくお願いします。主…リオル様」
「うん」
こくりと頷いて、ぎゅっと握りしめた手を見た魔人の表情の意味を、今は誰も知ることはない。
当人である、魔人以外の誰にも。