F95 その子は、大変なスケジュールだったから
その街の木造は簡素なものが多かったが、部屋の中は暖かい。北国だが一年を通して雪が降ることが殆ど無いのは、近くにある『ノース・ホワイトドロップ』に雪雲を全て奪われているのではないかとも言われた。
ノース・ロッククライム。
起きると既に両親は炭鉱に向かっているので、俺はいつも一人、街を練り歩いていた。いつも同じ場所で目覚め、子供の殆ど居ない街を歩き、一日を過ごす。
十歳を過ぎた子供は、様々な学校に行くのだという。当時の俺は九歳で、アカデミーの入学試験を前にして魔法と技能の訓練に四苦八苦していた。
……どうして今更になって、そんな事を思い出しているのだろうか。
俺はどこか遠くから、俺自身を見ていた。炭鉱地は危ないから近付くなと言われていた。血の繋がっていない両親は俺の事を一生懸命に育ててくれたが、俺はどこか、孤独を拭えない生活をしていた。
炭鉱とは違う方向、なだらかな丘の上に、随分と立派な一軒家があった。二階建てで、その周辺だけは俺の住んでいる家の近くとは明らかに景観が違った。緑の芝生を走り、俺はいつも居る女の子の所まで走るのが日課になっていた…………のかもしれない。
その様子を見ながら、俺は少しずつ過去の事を思い出して行った。
小さな俺は走り、真っ直ぐに丘の上を目指していた。子供だけあって、移動するのが遅い。途中で転んだりしても、俺は痛がる事すらしない。
慣れていたのだろう。
家の近くまで来ると、真正直に玄関扉を目指したりはしない。その家には家の様子をいつも監視している狐目の執事がいて、玄関扉をノックしても中には入れて貰えないのだ。
だから、庭にある背の高い木をつたい、二階の窓から声を掛ける。少女はいつも学習机に向かっているか鍵盤楽器を弾いていて、或いは外に出ている。
その日はどうやら、楽器を弾いている時間に訪れたらしい。
銀髪の長い髪を持つ、碧眼の少女だ。窓の外を見る事すら殆どしない程に忙しい彼女は、窓をノックをしても気付かない事が多いので、人知れず窓を開け、中へと侵入する。その辺りで、ようやく銀髪の少女は気付いた。
「ラッツさん」
その表情が、野に咲く一輪の花のように明るくなった。
小さな俺は人差し指を立て、フィーナに合図をした。
しー……
フィーナも俺の動きを真似て、悪戯っぽく笑いながら、ジェスチャーを返す。
聖職者の魔法に詳しい少女。そうだ、俺はフィーナに魔法公式について習っていた。<ヴァニッシュ・ノイズ>や<キャットウォーク>のように、悪戯に使うスキルはすぐに理解できた。だが、聖職者の魔法は難しいものが多く、消費する魔力量も多いので把握が難しい。
窓を開けてすぐ、小さな身体には不釣り合いなほどに大きなベッドがある。その先は化粧台、鍵盤楽器と続いて、窓とは対面の壁に扉がある。姿見の鏡とクローゼット、部屋の角には学習机。
何故か、懐かしく感じた。
その日の俺は、どこかから本を借りて来たらしい。窓から中へ入ると本を広げて、魔法公式を指差した。
「フィーナ、これ、読めるか?」
「<ヒール>ですか? ええ、読めますけど……」
「ジーナおばさんの所から借りてきたんだけどさ、ちっとも分からないんだよ。使えないし……なんでこれで、身体が回復するんだ?」
フィーナは机から紙とペンを持って来て、俺の前に座る。俺の目には複雑な魔法公式を、左から順番に紐解いていった。……懐かしい。俺にも、<ヒール>の理解レベルで戸惑っていた時期があったんだな。
程なくして、小さな俺は目を丸くした。
「あっ、そうか!」
「はい、直接身体に働き掛けるものと、傷の修復のために変化させるものに分けるのですわ」
フィーナの魔法に対する理解レベルは、当時の俺を遥かに超えていた。今でもそうなのかもしれないが――……それでも、俺も一生懸命に勉強して、フィーナに近付こうとしていたらしい。
先程転んで擦り剥いた場所に、フィーナが小さな白い手を重ねた。
「<ヒール>」
魔力が変換され、俺の身体に効いてくる姿を、実際に確認する。……なんだ、この空気は。まるでフィーナと俺、幼馴染みたいじゃないか。
……幼馴染か。
修復された傷を見て、俺はフィーナの真似をしようと<ヒール>の練習を始める。しかし幼い俺に聖職者の魔法は難しく、また魔力量もフィーナ程には無かったため、なかなか成立させる事が出来ない。
当時から、俺とフィーナには体内に宿す魔力量に絶対的な違いがあったらしい。今の俺は、殆ど誰にも魔力量では勝てないが……。
「あー、くそっ。俺にはできねー!!」
ついに投げ出した俺、身体に似合わない大きなゴーグルを外して、その場に転がった。……せめて靴くらい脱げ、俺よ。
「大丈夫です、そのうち出来るようになりますわ」
「くそー。どうやってフィーナは覚えたんだよ」
俺が問い掛けると、フィーナは気まずそうに目を逸らした。当時の俺にはフィーナが目を逸らした理由が分からず、小首を傾げていたけれど。
この時のフィーナは、あまり自分の家の事を良く思っていなかったんだろうなあ。
「……私は、嫌でも覚えますから」
「ふーん……? あ、両手ならちょっと出来るかもしれない」
俺が魔法の練習に励んでいる様子を見て、フィーナは嬉しそうに笑った。しなやかな物腰で立ち上がる様は、身体のサイズは違えど今のフィーナそのままだ。
化粧台の引き出しを開けて……あれは、お菓子かな? 俺に向かって差し出した。
「これ、この間親戚から頂いたのですが、もし良かったら」
「いいの!?」
言いながらフィーナから受け取る俺――……いや、俺よ。ちょっとは遠慮しろ。「もし良かったら」のフレーズが言い終わる前に手を伸ばすな。
フィーナはくすりと笑って……良い奴じゃないか、フィーナ。腹黒で計算高い今とは全然違う。
「……ラッツさんは、来年アカデミーに行くのですか?」
俺はフィーナから貰った菓子をリスのように頬張りながら、頷いた。
「うん、行くよ。『ライジングサン・アカデミー』受ける」
「えっ!? 一番難しい所じゃないですか!!」
そうか。だから、<ヒール>なんか練習してるんだな。普通のアカデミーは入学試験で魔法なんて試験しないけれど、ライジングサン・アカデミーだけは、簡単な魔法の試験があった。おそらく、冒険者に興味を持っている子供なのかということを試していたんだろう。
「関係ねーよ。俺は受かる」
「受かるって……それを決めるのは、審査の方じゃないですか」
「俺は受かるの!! そう俺が決めたの!!」
なんて、強引な。……まあ、この謎の自信とたゆまぬ努力があったからこそ、今の俺がある、という事もあるかもしれないが。子供心というのは見た目よりもずっと複雑で、そして意外と的を得ているものだ。
フィーナは俺の言葉の意味が分からず、首を傾げていたが。……程なくして、ふと微笑んだ。
「分かりました。ラッツさんがそう仰るなら、私も頑張って教えます」
嗚呼、フィーナ。君は天使か。とても当時の俺と年齢が同じとは思えん。
「フィーナは、どうするんだ?」
「私は、来年になったら聖職者のアカデミーに一人で行きます。お金も、あんなに用意して頂いて……」
そう言って、フィーナは金の入ったジュラルミンケースを見た。ケースに駆け寄って中身を確認している俺……何で小さな女の子に、ジュラルミンケースなんだ。
そうか、俺はフィーナに教えて貰って、ライジングサン・アカデミーに入学していたのか。すっかり遠い記憶になってしまっていたが……いや、思い出す事が出来なかったのかもしれないな。
「何か、もう魔法は覚えたのですか?」
「実際に使える魔法、ってこと? それなら、<キャットウォーク>は出来そうだけどなあ」
話している最中のことだった。
ふと、俺はベッドに潜っている生物の姿を発見した。見たことのない鳥が、フィーナのベッドで眠っている――……そんなものを見るのは初めてだ、と当時の俺は思っていた。俺の視線に気付いたのか、フィーナが立ち上がって言った。
「……病気になってしまって。誰も介抱しないので、私が面倒を見ようと」
「そう、なのか」
「全然、元気にならないんです。ずっと、良くしてくれた方で。私は子供の頃から、遊んでもらって」
「……鳥と?」
「お話ができるんですよ」
俺も立ち上がり、その鳥を見た。その時、俺は気付いた。
――――そうか。クール・オウルって、誰かと思ったけど。こんなに昔に、出会っていたのか。男気に溢れる顔は皺だらけで、既にかなりの年齢であることが分かった。
フィーナは俯いて、悔しそうにベッドを睨み付けていた。
「なのに、私はこの人のそばに居てあげる事もできない……」
その時、扉が開いた。フィーナは飛び跳ねるように振り返り、俺をどうにか隠そうと――――もう、遅い。
扉の向こう側に居たのは、フォックス・シードネスだった。…………あれ? なんだ、こいつ。今と全く顔が変わっていない。その瞳は俺を睨み付けると、溜め息を付いた。
「楽器の音が止んだと思えば……お嬢様。父上のスケジュールに沿っていると、何度話せば分かるのですか。貴女が怠けることで、貴女の仕事が増えるのですよ」
「ご、ごめんなさい」
俺は多分、当時からこいつの事が嫌いだった。その狐目の向こう側に、何か得体の知れない気配を察知していたのかもしれない。
だが、フォックスは柔らかく笑って、フィーナの頭を撫でた。
「いいですか、お嬢様。私の言う通りになさい。それで、父上は喜んで下さるのです。簡単なことでしょう」
「…………はい」
フィーナはちらちらと、俺の方を見る。……出て行けって事なんだろう。小さな俺もその意思を汲み取って、部屋の窓へと向かった。
出際、フォックスが薄ら笑いを浮かべて俺の背中を見ている、その気配を察知していた。
「あの『失敗作』のようには、なってはいけませんよ」
きっと当時は、聞かない事にした。何も言わず、部屋の窓から外へと出た。
場面が移り変わる。また、別の日の事なのだろう。いつもの庭まで辿り着くと、二階へと登るための樹の下に、一羽のフクロウが落ちていた。
クール・オウル。当時は、名前も知らされていなかったが。
俺は、フィーナの代わりにそのフクロウを抱き上げた。
その時は、確かにまだ息はあった。
早送りをするかのように、一日が途方も無い速度で過ぎて行く。クールを抱きかかえた俺は一度家に帰り、ただ、その様子を見ていた。程なくして、それが病気ではないことも。或いは、『寿命』のようなものだったということも、なんとなく分かるようになった。
そのフクロウは年老いていて、熱を出す様子もなかった。ただ、衰弱していたのだ。
そうして、ロッククライムに嵐が訪れた。俺はフクロウの様子を見ながら、自分の部屋に果物を持って現れた。
「……ほら。『メイシー』だってさ。ジーナおばさんがくれた。美味しいんだって」
ずっと、コフール一族に仕えて来たと言っていた。勿論、当時の俺はそんな事を聞いていた訳では無かったが――――幼心に、思った。
少なくともフィーナは、このフクロウの事を大切に思っているようだったのに。
窓から捨てたのは、間違いなくフィーナではないだろう。
ならば、それは誰だったか。
それはきっと、部屋の外ではいつもサングラスを掛けている男。あの執事なのだろう、と。
「かたじけない……少年、名を何という」
「俺はラッツだ。ラッツ・リチャード」
「そうか…………」
老いたフクロウとの会話は、たったそれだけ。そいつがどういう性格だったのかも、何を考えていたのかも、俺には分からなかった。一口大に切った果物を食べると、寝たままで涙の雫を、俺のベッドに零していた。
「あの男さえ…………あの男さえ来なければ、コフール一族は平和でいられたというのに…………!!」
クールの言うところの『あの男』というのは、一体誰のことだったのか。幼い俺はきっと、すぐにフォックス・シードネスと結び付けて考えていた。
だが、偶然にもそれは正解だったのかもしれない――――そういう理由なら、あの日の俺は正しい事をした、のかもしれない。
大切な人と共にいる。それを止めてまで何かに打ち込む事が、そんなに大事なことなのか。
一人で生きるための、術を磨くことが。
当時から、そんな問い掛けを自分にしていた。
「せめて、最後にお嬢の御顔を拝んでから、逝きたかった――――」
だってそいつは、フィーナにとってはきっと、かけがえのない、大切な人だった。
少なくとも、当時の俺はそう感じていた。
だから。
部屋の外に掛けてある、いつも使っている木の棒を持ち出した。その時は、それだけが俺の武器だった。しっかりと棒を握るための、指貫グローブ。
いつか爺ちゃんが買ってくれた、カーキ色のジャケットとリュック。
炭鉱に通い詰めている両親がくれた、お気に入りのゴーグルを装備して。
俺は、家を出た。
「ざけんなっ……!!」
嵐の中、俺は全力疾走していた。歯を食い縛り、目に入った雨をものともせず、丘の上を目指していた。
「ざけんなああああああ――――!!」
家の数も少ない小さな街では、その叫びを聞いている者は、何処にも居なかったのかもしれない。
誰が聞いていなかったとしても、俺は叫んでいたのだろうけど。
木を登り、嵐の中、勢い良く窓を開いた。フォックスが現れるから、静かに窓を開ければ良いのに……幼い日の俺は、計画が乱暴だった。
学習中のフィーナが驚いて、俺を見る。俺は雨に濡れたままで部屋に入り、フィーナのアカデミーへの入学資金をリュックに詰めた。
これが無いとなれば、あの執事も給料が出なくて困るに違いない。浅はかな想いではあったが、俺は沸々と湧き上がる怒りを押し殺して、ただ作業していた。
「あ、あの、ラッツさん?」
俺は黙って、フィーナの腕を掴んだ。
「行くぞ、フィーナ」
「ど、何処へ?」
「何処でもいい。どっか、遠くにだ」
フィーナは抵抗しながらも、俺の腕力に逆らえずにいた。……当然だ。部屋に閉じ篭もりきりのフィーナと、普段から外に居る俺では体力が違い過ぎる。
それは、少しだけ逃走を不利にするかもしれなかった。
「こ、困ります!! 勝手に家を抜け出すのは、悪い子のやることだと」
それはもちろん、当時のフォックス・シードネスが言ったんだろう。俺は獣のように目を見開いて、フィーナを一喝した。
「悪い子でいい!! つーか、悪い子になれよ!! 大人しく黙ってて得するのはお前じゃない、あの執事だろ!!」
俺は、背の高い樹の枝に飛び移り、フィーナに手を伸ばした。
「お前が忙しかったから、あの鳥は独りで死んだぞ」
フィーナは、目を見開いていた。
どこに行ったのかすら、分からなかったのかもしれない。だってフィーナは、この場所から動かなかったのだから。窓から外を見ることさえ、殆どしない子供だったのだから。
それは、どこか心まで冷たくしてしまうような、嵐の日の出来事だった。
「なあ。…………お前、このままでいいのかよ」




