F90 嵐の中のリタイア
ベティーナがちょうど、俺の上に跨ってドレスシャツを脱ぎ捨て、白い肌を密着させて来た時だった。
俺は大地の魔力を吸い上げ、左手に集中させた。動くことが出来ないのなら、こいつを使うしかない。魔力のバランスに注意して、俺への影響が極力少なくなるように調整する。
魔力空間だと、『マスクドピエロ』の一件から推測していた。この星空のような空間にもどこかに魔法陣があって、それがプリティジョーカーの動きを助長させているのではないかと。
『魔法陣が何処かにある』という意味では、その推測は当たっていた。違ったのは、『その魔法陣がプリティジョーカーの制限を底上げしている』という推測の方だ。
フィールド作成、出現・消滅の自由、キスによる持続魔法、俺の束縛魔法。それらを同時にこなすなんて、そこいらの魔物に出来る筈がない。
こいつは三十階のダンジョンマスター。まだ、そこいらにいる魔物なのだ。ならば、一体何が考えられるのか。
大地の魔力と自身の左手に込められた魔力のバランスを、僅かに歪ませる。
「ぐうっ!!」
間もなく音がして、俺の左手で軽い爆発が起こった。威力は調整したつもりだ。俺がこの場所に立つことを計算して、予め描いておいたであろう魔法陣。即ち、『星空の中なら魔法陣が見難い筈だ』という仕込みを、こいつも最初から思い付いていた、ということ。
部屋の中に星空のフィールドを作成したのは、魔法陣を隠すことが目的だったということだ。
飛び跳ねるように起き上がり、俺はベティーナの両肩を掴んだ。プリティジョーカーが目を丸くすると同時に、ベティーナの頬を強くつねった。
「いひゃい!!」
こいつは錯覚魔法だ。
ベティーナやチークに掛けられた魔法も含めて、全てが錯覚魔法。俺達が拘束魔法に掛かったように感じていただけで、実際には何も縛られちゃいない。拘束魔法は持続的な魔力のコントロールが必要だが、錯覚魔法なら相手を騙す、その瞬間に魔力を使えばいい。
その代わり、拘束力はない。目を覚ましてしまえば、それまでの魔法だ。
指貫グローブを外して、俺に向かってフラフラと近寄ってくるチークの顔にもぶつけた。既にアイテムカートを外し、服を脱ぎ始めていたチークは俺の猫騙しを受けると我に返り、目を瞬かせた。
俺は身体を起こすとベティーナの肌を隠すように抱き、辺りを見回した。見難いだけなら、どこかに魔法陣の線が見えるはずだ。その領域から外れてしまえば。
「――――えっ」
ベティーナが自身の状況を知って、そう呟いた瞬間のことだった。
奇妙な違和感を覚えた。プリティジョーカーは不機嫌に頬を膨らませると、またもその姿を消す。姿を消す瞬間に、プリティジョーカー自身が僅かに上へと向かって行ったような気がしたのだ。
室内を星空に変える魔法。俺達が部屋に入ると、すぐにその魔力空間に呑み込まれた。俺達はどこに転移した訳でもなく、この部屋に入った時からこの状況だった。
――もしも、プリティジョーカーが『消えた訳ではない』とすれば?
その時、気付いた。もしも消えたのでないとすれば、それは『見えなくなった』んだ。
どうやって、見えなくなった? 考えられるのは、この場所には魔法陣が描かれているだろう、という事であって――……
そうか。
「ベティーナ、<タイダルウェイブ>を――――」
腕の中を見ると、ベティーナは錯覚魔法が解けたにも関わらず、頭を沸騰させて放心していた。仕方なく、俺はチークに顔を向けた。チークは既に何事も無かったかのように服を着ており、巨大化したハンマーを持って戦闘態勢だった。
「ラッツ、どうすればいい?」
…………ん? 珍しくチークの表情に、怒りが見える。ぐらぐらと煮え立つ赤銅色の瞳が、獲物を捕らえる前の獣のようにぎらついていた。
俺は顔を引き攣らせて、答えた。
「範囲攻撃だ。部屋全体に伝わるくらいのものがいい」
「――――わかった」
間違いない。こいつ、既に『塔が壊れる』なんていうリミットを超えて、魔力を展開している。属性ギルドの加護を受けた両腕が唸り、真下の地面に向かって強打される。
「乙女の純情を弄ぶやつはっ……!! 許さないんじゃ――――――――!!」
おお。あのチークがキレている……なんと珍しい光景だろうか……!!
激情は力に変わり、塔を揺るがす大地震へと変わった。あまりの衝撃に、俺はベティーナを抱いたまま硬直してしまった。ベティーナもチークの様子に唖然として、今はただその様子を見詰めている。
跳ねたピンク色の猫っ毛。巨大なハンマーを振り翳すその姿は、さながら戦士のようであった。
星空が揺れ、魔法がかき消される。星空だけは、持続された魔力空間だったのだろう。そして、この魔法陣こそが、『見えないプリティジョーカー』という仕掛けの本体だ。
間もなく、星空が消えた。部屋に大袈裟に描かれた四角い魔法陣からは魔力反応が消え、プリティジョーカーは空中から落下した。正方形の魔法陣の中に、円形の魔法陣。円の内側と外側で隔たれ、別の魔力空間になるという代物だろう。見たことはないが、おそらく円形の内側は星空が見え、外側は自由に浮遊できる空間。
迷い込んだ俺達には魔法陣の形さえ見えないので、あたかも星空空間の中を瞬間移動したかのように見せ掛ける事が出来る。
「いたっ」
不器用な体勢で着地したプリティジョーカーは、猛然と突進するチークを見て青ざめた表情になった。容赦なく、チークはその脳天から巨大ハンマーを振り下ろす。
「<インパクトスイング>!!」
攻撃は一直線、芸もない。しかし、この破壊力だけで充分だ。すっぽりとプリティジョーカーが隠れる程の直径を持ったハンマーは、小さな虫を潰すかのように、プリティジョーカーを真上から踏み潰した。
たったそれだけで、部屋の中からプリティジョーカーは居なくなった。
…………あれ。
また、奇妙な違和感があった。ダンジョンの性格なのかもしれないし、気にしなければ気にならない程度のものではあったが――……俺は、どうしてもそれが気になってしまった。
だが、今はそんな事を気にしていても仕方がない状況、段階だ。流れ星と夜の塔、三十階。半分は過ぎたようだが、まだ二十階分の階段と、フロアに居るダンジョンマスターが残っている。
部屋には静寂が戻り、チークはぺたりとその場に尻餅をついた。巨大なハンマーは元の大きさに戻り、それを転がっているアイテムカートへと投げる。
俺は腕の中のベティーナに、一度脱いだドレスシャツを掛けてやった。
「ほら、着ろよ」
ベティーナは無言だった。……相当な精神ダメージだ。殆ど攻撃されなかった代わりに、パーティーへの精神的ダメージが大き過ぎる。
「じっ、自分で、やるっ」
袖に腕を通してやると、ようやくベティーナは赤い顔のままで、俺とは目を合わせずに服を着始めた。
やれやれだ。ベティーナは瞳いっぱいに涙を溜めて、下唇を噛んだままでいた。
「…………私、もうお嫁に行けない」
俺とチークとダンディフクロウしか居ないこの状況で、嫁もへったくれもあるか。ついそんな事を考えてしまったが、ベティーナがショックを受けているのも事実だ。ここは、俺なりの慰め方でなんとかベティーナを元気付けるしかないか……
まあ、ベティーナは顔立ちも整っているし、我儘お嬢様に見えて家事経験はあるみたいだからな。器量としては充分、ベティーナにその気がなくても、誰か男の方から寄ってくるってもんだろう。
「考え過ぎだ。大丈夫、貰ってくれるって」
俺がそう言ってベティーナの頭を撫でると、ベティーナは大きく目を見開いて、俺を上目遣いに見詰めた。
「ほ、ほんと!? ラッツ、もらってくれる!?」
…………なんだ、その反応。
「あ、ああ。そう思うけど」
俺は少し、引き気味に答えた。
その表情は驚きに満ちていて、そしてどことなく嬉しそうな……蕩けた瞳で再び頬を赤くすると、だらしない笑みで俺の胸に擦り寄ってきた。
「……へへ。……えへへ……だったら私、あんたの犬でも……いいかも……」
なんか、激しく話が噛み合っていない気がするのは。なんでだろう。
……………………まあ、元気が出たならいいか。
「ほら、服着たら次行くぞ」
「うんっ!!」
ベティーナを降ろして立ち上がり、俺はチークのアイテムカートを掴んでチーク側へと引き寄せた。……おや? 珍しくチークが、尻餅を付いたままでいる。いつもなら、敵を倒せば喧しく叫び散らす所なのに。
「…………大丈夫か?」
屈んで顔を覗き込むと、チークはびくんと反応した。意識が飛んでいたのか……? 急に勢い良く首を振ると、今度は俺に向かって両手を振った。
慌てて立ち上がろうとするチーク。
「だっ、大丈夫、大丈夫!! さあ、次のダンジョンマスターを目指すよーっ…………あだっ」
だが立ち上がろうとするも、その場につんのめって転んでしまった。急に足腰が立たなくなったのか? いや――……待てよ。こんな症状、俺は何度も見たことがある。
チークの左腕を掴み、俺は引き上げた。強制的に立ち上がらされ、不安そうな表情になるチーク。……反面俺は、その状況を理解した。
そうか。あのキスの魔法は対象を錯覚魔法でコントロールするだけじゃなくて。
「…………魔力、放出したな?」
チークは図星を突かれて、目を泳がせた。
対象の意識に働きかける、強力な錯覚魔法だ。身体から魔力を放出し続けなければならないと、勘違いをさせるってことも可能なんだろう。
覚めてしまえばそれまでだが、あと一歩遅かったらやばかったのかもしれない。
ベティーナはマジックカイザーの加護を受けているんだろうから、魔力的にはまだ問題はないだろうが。モノトーンスミスのチークは別だ。最大出力で魔力なんか放出したら、足腰立たなくなって当然だ。
「あはは……大丈夫、グリーンホタルを食べればすぐに」
「駄目だ。お前今日、何回回復したよ」
言いながらアイテムカートに手を伸ばすチーク、俺はその右腕を掴んだ。もしも本当に最大出力の魔力を使い切ったんだとすれば、これ以上の強制回復は止めておいた方が良い。
パペミントやカモーテル、グリーンホタルもそうだが、回復アイテムってのは万能じゃない。魔力を放出した事によって、溜まった疲労は消えないのだ。一旦元気になったように見えても、後から後遺症が残ることはよくある。
ここぞという時に使うのはいい。だが、無闇に使い過ぎると回復効果は落ちていくし、何より負担が大きい。深淵の耳を取りに行って、身体が動かなくなって冒険者辞めたんじゃ、本末転倒だ。
「チーク、ここで降りろ。『深淵の耳』は取ってきてやるから」
「またまたそんな事言ってー、取ったらあたしにはくれないつもりなんでしょー。そうはいかにゃっ!」
言い終わらないうちに、チークの額にデコピンを喰らわせる。大体、そもそもチークは戦闘職じゃないんだ。攻撃力があるから戦力にはなるけれど、長時間のダンジョン攻略に適したスキルを持っている訳じゃない。
どの道、俺が『深淵の耳』を手に入れたからと言って、何が起こる訳でもない。こいつがパーティーに入って、アイテムを共有すりゃいいんだ。
「俺のギルドに入れよ、チーク」
「えっ……?」
チークは全く予想もしていなかった様子で、俺を見て目を瞬かせていた。くりくりとした赤銅色の瞳が、絶え間なく動き続ける。俺はチークに軽く笑みを浮かべて、リュックから『思い出し草』を取り出した。
「思い出し草のメモリーを解いて、こいつを握るんだ。そうすりゃ上書きされて、ギルドの隠れ家に行ける」
「で、でも、あたしは戦闘職じゃないし、ラッツみたいに強くもないし……使えるのも、ほとんどソロのためのスキルだよ?」
まあ、アカデミー時代からよく知る人間だからな。フリーショップ・セントラルに居た時は流石に声を掛けられなかったけれど、ソロになったのなら声を掛けても問題はないだろう。
「似たよーなもんだ、俺もお前も。……まあ、ギルドって言うほどまともな集団にはなってないんだけどさ。俺が今後もちゃんと冒険者として認められるようなら、ギルドを組もうって話をレオとしてるんだ。向こうに着いたら、ちゃんと介抱して貰えよ」
「レオ? って、レオ・ホーンドルフ?」
俺は頷いた。チークは目を輝かせて、俺のことを見ていた。……脈あり、ってとこか。
ベティーナが俺の言葉に少し不満そうな顔をしていたが――……ふと溜め息をつくと、自身のふわりとした金髪を左手で撫でながら言った。
「……まあ、虫を食べる事以外は悪い子じゃないっていうのは、よく分かるわ」
そこは別に、チークも好きで食ってる訳じゃないだろ。……たぶん。
チークは苦笑してアイテムカートから思い出し草を取り出し、僅かに魔力を放出させた。光の波紋のようなものが思い出し草から放出され、僅かに色が変わる。思い出し草のメモリーが外れた証拠だ。
思い出し草は自らの魔力を流し込む事で使えるようになるから、一人が何本持っていたとしても、移動できるのは一箇所だけなのだ。後は解除状態で人から受け取るか、<マークテレポート>を覚える以外に移動手段を増やす方法はない。
「……へへ。ラッツに仲間認定されちった」
チークは柔らかくはにかんで、俺にリラックスした笑みを見せた。これでチークも、当分は俺の仲間というわけだ。
「じゃあ、ごめんね。『深淵の耳』は任せたぞ、友よ」
「おう、任されたぞ。友よ」
軽く拳骨をぶつけ合い、俺とチークは笑みを交わした。ベティーナが複雑な表情で、それを見守っていた。チークの姿が、やがて薄れていく。そのまま、隠れ家へと移動していくのだろう。
「……下着を見られるのは恥ずかしくないけど、下着姿を見られるのは結構恥ずかしいので、そこんとこよろしく」
去り際に、チークは珍しく頬を赤らめて、そんな事を言った。こいつの『女の子』している部分を、俺は久しぶりに見た気がする。
しかし、やっぱり感覚はおかしいと思った。




