K156 最高にして最後の試験を始めよう
瞬間、俺を蝕んでいた黒い手は、嘘のように消え去った。代わりに唐突に、消えたリリザの向こう側に人影が現れた。
くすんだブロンドの髪。くしゃくしゃで、薄汚れていて、およそ綺麗とは言えない。いつも白いボタンシャツを着ていて、オリーブ色のズボンはサスペンダーに吊られている。
身長は男性の平均に比べると少し高めで、よくずり落ちる丸渕の眼鏡を掛けていて、くたびれた顔とは対照的に、碧眼は大きく愛らしい。
そいつは、静かに微笑みを浮かべている。
どうして、こんな所に。
瞬間、辺り一面が青空に染まった。場所は、『魔王城』……こんなにも、光の差す場所だっただろうか。俺の知っている魔王城の姿とは、似ても似つかない。
トーマス・リチャードが、魔王城最上階の吹き抜けの部屋にいた。その広い地面に幾つもの魔法公式を描いて、立ち上がった瞬間の笑みだったようだ。
彼の隣には、リリザによく似た魔族の姿が――――ブロンドの長髪に、角。よく似ているが、リリザよりも瞳は垂れた印象で、柔和な雰囲気を醸し出していた。
これは、まさか――――『境界線』に居るからか?
手を握った瞬間、リリザの記憶が俺にも共有されている?
別の個体であって、同一のもの。複合。統一。共有。例えるなら、そのような感覚だった。
刹那とも言える時の中、嵐のように俺へと記憶が降り注いでくる。リリザもそこに居る。ただ、その姿は小さく、今よりもあどけない顔をしている。
まだ、幼い頃の話だ。俺やフィーナなど、他の人間は誰も生きていない時。……しかし、まるで一枚の写真のように世界は固まっていた。雲は固定されて動かず、微笑みを浮かべている魔族も、部屋の床に何か数式の羅列を書いているリリザも止まっている。
「ようこそ、ラッツ・リチャード。世界の裏側へ」
爺ちゃんが――――トーマス・リチャードだけが、動いていた。
俺はどうしようもなく、その場に立ち尽くした。……一体、何が起こっているんだ? 俺が今見ているのは、夢か? ……幻か?
「いいや、ラッツ。これは夢でも幻でもない」
どうして、俺の考えが読まれているのだろうか。
トーマスは両手を大きく広げて、俺を迎え入れるかのように満面の笑みを浮かべた。
「さあ、最高にして最後の試験を始めよう。得意だろう、冒険者アカデミー首席卒業生、ラッツ・リチャード」
これは、トーマス・リチャードじゃない……俺の、爺ちゃんじゃない。俺が最も信頼している人物を使って、俺に試練を与えようとしている。つまり、そういう事ではないだろうか。
それが『境界線』を越える、という事なのか?
トーマスは右手の人差し指を立てて、俺に見せた。
「問一。何故、ラッツ・リチャードはリリザ・ゴディール=ディボウアスの提示する<表現>の魔法公式を使う事ができたか?」
……こいつは一体、何を言っているんだ。
唐突な疑問に、俺は眉をひそめた。トーマスは楽しげに笑みを見せながら、停止された魔王城の空間を歩き回る。
「……そりゃ、リリザに教わったからだろう」
「残念。ハズレだ」
直後、軽快な口調でそのように告げられた。
この質疑応答に、一体何の意味があると言うんだ。そう思っている間もなく、トーマスは人差し指と中指を立てて、俺に見せる。
「問二。初めてリリザ・ゴディール=ディボウアスと出会った『轟の森』で、リリザは宝箱に入って君を待っていた。鍵が開いていたのに、誰も持って行かなかったのは何故?」
思考は飛び、頭が真っ白になった。
いや、待て。もう随分昔の話だから、すっかり覚えていないぞ。適当な事をしたような気がしたけれど、あの時は確か――……
そうだ。初めて入ったダンジョンで、歩いていたら迷ったんだ。そこで見付けた宝箱を開いたら、「不要なので、どなたか持って行ってください」って書かれた紙が入っていた。
あの時、宝箱の鍵は開いていた。
誰でも宝箱を開けて、取って行く事ができた。
俺で無くてもよかった。
…………俺である必要は、無かった?
「残念。時間切れだ」
なんだ、これ。俺に、どうやって答えろって言うんだ。ざわついた胸を、思わず左手で押さえた。トーマスの姿をしたものが、俺に一体何を期待してこんな質問をしているのか、皆目見当がつかない。
ただ、得体の知れない不安や恐怖みたいなものが、俺に襲い掛かってくる。限りなく絶対的な存在である何かが、俺を押し潰そうと両手を広げている。
冷や汗が流れた。
「では、問三だ」
瞬間、見えた。
トーマス・リチャードの姿を模しているものが口を開いた瞬間、その向こうに空白の世界が広がっている事が、確かに分かった。
目の前にいるこれは、やはり人ではないんだ。人間的なようでいて、何処と無く機械のように話す声色は、冷たさを伴っていた。
「何故、ラッツ・リチャードは数多の冒険者ギルドから拒まれたのか?」
だから。
その問い掛けに、一体どういう意味があるのかと。そう、言って。
トーマス・リチャードがその場を離れると、そこにもう一人のトーマス・リチャードが立っていた。……二人? 片方は停止された空間の中に居るようで、時が止まっている。
もう片方は、俺に向かって空中を歩いて来る。
…………止まっている方が、本物か。
唐突に、止まっていた時間は動き出した。徐ろに雲は流れ、俺の目の前に居るリリザと、もう一人の魔族が挙動を始めた。
彼女は、リリザの母親のように見えた。……母親。魔族にも、親子関係というものがある。それを見るトーマスの顔は、どこか落ち着いた愛を注いでいるような。
情報が、頭の中に入ってくる。――――彼女は、ヘレナ・ゴディール=ディボウアス。リリザの母親にして、唯一の親なのだと。
『夢魔族』という魔族は、女性しか存在しない。それは独りでに子供を造り、繁殖すると言うのだ。但し数は希少で、その余生数百年のうちに一度だけ、子孫となる赤子を産むらしい。
成人はするが老いる事はなく、誰にも殺されないだけの絶対的な魔力量を持っている。正に、この世を支配するに相応しい能力を秘めている。
それが、リリザ・ゴディール=ディボウアスだった。世界に必ず唯一の個体を持ち、『数を増やすこと』を目的としない彼女らは、この世界の母と呼ばれる存在。
即ち、『魔王』だったのだと。
「間もなく――ヘレナ・ゴディール=ディボウアスはその長い寿命を迎え、第三世代の夢魔族が現れる」
視点は変わった。魔王城の最上階で戦っている、二つの影があった。片方は真紅の戦闘装束に身を包んだ、金髪の男。もう片方は、漆黒のドレスを身に纏った、リリザ・ゴディール=ディボウアス。
二人共、異次元の戦闘をしている。真紅の青年は瞬間的に部屋の端々へと移動し、どうにかしてリリザを追い詰めようとしていた。対するリリザは苦心な様子で、瞬間的に莫大な威力を持つ魔法を次々に放っている。
「『境界線』を越えた者だ。オリバー・ヒューレットは、その圧倒的な自己愛によって。リリザ・ゴディール=ディボウアスは、世界の真理を追い掛ける者として。歪んではいたが、二人共『境界線』を乗り越えた」
オリバー・ヒューレットってことは……あれが、マウス五世の正体、ってことか?
……見た目が、まるで違う。
青年の方が、有利なように見えた。しかし、あまり余裕は無いようだった――――真紅の青年、オリバー・ヒューレットの近くには、彼の仲間と思わしき二名の人間が転がっていた。どちらも重症で、動ける様子ではなかった。
リリザにやられたのだということは、直ぐに分かった。
片方は、ゴールバード・ラルフレッド。その胸には、以前見たような銀色の物質は見られない。全身傷だらけで、身動きさえ取れずにいた。
もう片方は――……、不思議な形の帽子を被り、茶色のコートを羽織った男。長身だがすらりとして細く、ぱっちりとした碧眼の男だった。眩いばかりの跳ねた金髪が美しい。
……あれは若しかして、ガング・ラフィストなのか?
だが、既に万策尽きたような顔で、部屋の端に転がっている。
「何故……啀み合う!! それが無意味な事だということに、どうして気付かない!!」
リリザの涙ながらの言葉を、オリバーは吐き捨てるように睨み付け、口を開く。
「どちらかの王が倒れなければ、この争いは終わらねえんだよ!!」
泥沼だ。
おそらく、人もまた、恐怖を覚えた魔族によって攻撃された。魔族もまた、恐怖を覚えた人間によって殺された。二つは似た者同士。そして、永遠に受け入れられる事はない。
死に対する、圧倒的な恐怖。
それが、長きに渡り人類と魔族を戦わせてきた、最も単純な原因だった。互いに恐れているからこそ、どうにかして潰し、乗り越えようとする。
『強者』と、『正義』を決める戦い。
だが、オリバーとリリザの間に空間が出現した。唐突な出来事にオリバーは立ち止まり、リリザも攻撃を止めていた。
そこに現れたのは、白衣を着た中年男の姿。あまりにも場違いで緊迫感の欠片も感じられない顔で、しかし真剣に左手に持ったボードを眺め、何かを呟いていた。
そこに記述されたのは、魔法公式の羅列だ。あまりに難しい、常人では到底理解出来そうもないもの。光の空間より現れ、魔王城の地に降り立った。
何故か白衣の内側のシャツが破けているトーマスは、その左胸に銀色の硬質物を光らせていた。
トーマス・リチャードはリリザを見ると、微笑みを浮かべる。
「久しぶり。――――ただいま、リリザ」
リリザの表情が、ふと緩んだ。
突然に現れた男。オリバーは動揺して、トーマスの正体を突き止めようとする。しかし、トーマスはオリバーを見るなり、「珍しい奴も居たもんだ」と笑い、まるで昔仲良くした旧友に再会した時のように、笑顔でオリバーに向かって左手を差し出す。
「良ければ、協力して欲しい。……間もなく、この世界の『終焉』とも言える者が覚醒する。その前に、奴を止めたいんだ」
はっきりと、トーマスは宣言した。
「俺は、トーマス・リチャード。この星にとっての、『宇宙人』だ」
瞬間、時間が止まった。時空間より現れたトーマス・リチャードは止まり、俺の隣にいるトーマス・リチャードを模したものが口を開く。
「ラッツ。これが、彼等の『出会い』だ。この場に居る五人が『終焉』と戦う為に立ち上がった五人。そして、彼等の旅は始まる」
面食らった。あまりの出来事に言葉もなく、俺はただ、その場に立ち尽くした。
出会っていたんだ。……全員、出会っていた。トーマス、リリザ、オリバー、ガング、そしてゴールバード。『紅い星』に挑むため、この世界で立ち上がった勇姿は五人。
いや、待て。なら、どうして『ゲート』を通過できるのは『四人』だったんだ?
「まあ、慌てる事はない。ラッツ、君はここまで辿り着いた者だ。特別に、正解を教えよう」
思考を読まれるということは、どうにも気持ちが悪い。俺は苦い顔をして、トーマスを模した者を見た。
この『境界線』の空間は、こいつの思い通りに動かす事が出来るのか。……なら、こいつは一体誰なんだ。俺の思考を読んだからか、目の前のトーマスもどきは俺に不敵な笑みを浮かべる。
そして、再び世界は動き出した。
トーマス・リチャードは、その瞬間から世界各地のあらゆる武器を見て回り、最も理に適った強いものを選び始めた。『紅い星』と戦う為。生半可な覚悟ではやれないと、彼は思っているようだった。
集めた武器を選び、そして情報を記していく。質量、重量、構成要素。魔力濃度と、その用途。強い武器は何れにしても、バランスが良い。偶然かどうかまでは分からずとも、そこには確かな扱い易さがある。
そうして、ひたすらに情報を集めた。一度完成された武器を、魔法で――――バラバラに、していく?
なんだ、あれは。……一体、何をしているんだ?
「悪いが、それは答える事が出来ない。頼まれていてね」
トーマスもどきは、俺にそのように応えた。
『境界線』にさえ干渉する程の何かが、この世界には潜んでいるのだろうか。一体、誰に頼まれたと言うのだろう。
舞台は『世界』から、五人だけが移動する事の出来る『境界線』へと移り変わる。
トーマスは次に、啀み合う人類と魔族の世界を二つに分割した。限りない魔力の知識を使って、この世界にもう一つ、架空の世界を創り出したのだ。
リリザの希望で世界各地には、永遠に生まれ続ける『ダンジョン』というものも創られた。それは際限なく、まるで生物とは呼べない『ノーマインドの魔物』と呼ばれる魔物を創り出す。倒れては『境界線』に還り、その分解された構成要素を再び組み直し、『ダンジョン』へと復帰する。
「『人間界』を、正規の世界に。『魔界』を俺達の創った、架空の世界に」
トーマスは白い世界に書き記した魔法公式を叩きながら、他の四人に提案する。
……ダンジョンを生み出し、魔族の紛い物を住まわせることで、人類が恐怖するだけの、そして乗り越えられるだけの新たな『敵』を創り出した。
「なるほど。魔力結界<ドリームウォール>と同じ公式で、隔離させるのか……」
リリザが下顎を撫でながら、トーマスの目を見てそう言っていた。
「架空の世界も成長する。何れは完全に孤立した、もう一つの星のようになるさ」
「なら、基本的には二つの世界を自由に行き来できるのは、<ドリームウォール>の場所を知っている私達五人だけか」
リリザがトーマスに問い掛ける。
空白の世界に降り立った五人は、トーマスの創り出した世界への干渉論――――『解決策』を前にして、腕を組んで考えている。
オリバーは、全く興味無さそうに。
ガングは、「いやー」だの、「ほうほう」だのと、大袈裟な相槌を打ち。
ゴールバードは、少し頼り無い表情で、その魔法公式を見ていた。
純白の光に包まれた、広大な世界で。胡座をかき腕を組んで、しかし冷静で柔和な笑みに満ちたトーマスは、リリザに言った。
「いや――――空間を移動できるのは、『四人』までにしよう」




