K154 次元斬
夜が明けると、フィーナは森の中の小屋から出た。しかし、そこに鼠の男は姿を現さなかった。
だが、それを責められる筈もない。事情を理解したフィーナに、彼を無理矢理戦地に連れ戻す事は出来なかった。まして、ラッツを救う事が青空に浮かぶ裂け目に何かの影響を与えるなど、考えてもいなかった。
しかし、これまでの話を統合して考えると、ラッツ・リチャードの居場所は『魔法公式の境界線』と呼ばれる場所で間違いないのだろう。
強大な力だ。『紅い星』も、或いはトーマス・リチャードやオリバー・ヒューレットも、世界を司る力というものに手を出そうとした。そうして、全てを失ったのだ。
ならば、その強大な力に近付く事で危険が及ぶというのは、考えられなくもない事なのかもしれない。
極めて抽象的な、明確に分かる事象など何もない憶測をフィーナはこねくり回していた。
小屋の前に、それぞれ集まった。夜通し離れていたテイガ・バーンズキッドは、特に何事も無かったかのように立ち尽くしていた――――何かを聞いていたのだろうか。若しかしたら、鼠の男との会話も聞かれていたかもしれない。
ガングが身体中の関節を回転させながら、準備運動をしているようだった。
「彼は、どうでしたか?」
その動きが治まると、ガングは聞いた。フィーナはその問いに対し、首を横に振った。
「……そうですか」
たったそれだけで、ガングは全てを理解したようだった。テイガが少し面白く無さそうな表情で、ガングに鋭い眼光を向けた。
やはり、昨夜の会話を聞いていたのだろう。
「それで、どうするんだ? ……あのネズミが使い物にならないようなら、『境界線』に行くのも厳しいんじゃねえか」
「ですねえ……。まあ、やれるだけやってみましょう。まずは、『四葉の思い出し草』が魔王城の何処かに隠されている筈なので、それを探す所からですね」
「何ですか、それは?」
聞いた事も無いアイテムの名前だった。フィーナが問い掛けると、ガングはええ、と相槌を打って話し始めた。
「『思い出し草』よりも強力な、転移性能を持った植物ですよ。『境界線』から帰る為に必要なものなので、リリザとトーマスは持っていた筈なのです」
成る程、それで『魔王城』か。しかし向かう事が出来ないのでは、帰り道だけ確保しても仕方が無いのでは。
フィーナはそう思ったが、愚直に言葉に出した所で、解決するような問題でもない。ガングが歩き出した事をきっかけに、一同は『魔王城』へと向かった――……
その、瞬間の事だった。フィーナは思わず立ち止まり、その場に固まった。
「フィーナさん?」
ガングが不思議に思い、フィーナに振り返る。テイガもまた、無言ではあったがフィーナの顔を見ていた。テイガの肩で眠りこけていたアクセルが、唐突に立ち止まった事で目を覚ました。
背後を、振り返る。
立ち止まったのは、音楽が聞こえてきたからだった。昨夜も聞いた、どこか物悲しく、或いは賢明とも表現できる音色。まるでそれは、孤独に立ち向かう男の鎮魂曲のように。
音が大きくなるに連れ、ガングとテイガも気付く。木の陰から現れた男は口元のオカリナを離すと、フィーナの前に現れた。
「『四葉の思い出し草』なら、俺が持っている」
すぐに、気付いた。
嘗ての混迷した男は、そこには居なかった。確固たる決意と俯瞰して対局を見据える瞳を持ち、フィーナに向かって左手に持ったそれを、放り投げた。
「一体、どういう心境の変化ですか?」
ガングの問い掛けに、彼は答えた。
「俺が居なけりゃ、どうやって『境界線』の扉を開けるつもりだよ」
「そりゃ、どうにかしてですね」
彼は笑った。
「嘗ての『オリバー・ヒューレット』は、もう何処にもいない。なら、俺は誰だと思う」
投げられたオカリナが、宙を舞う。
自身で認識していたのかどうなのか、テイガが僅かに口元を緩めた。ガングもまた、左目のレンズを指で回している。
「俺は、『マウス五世』と名乗ってきた。……なら、それで良いと思わないか。ラッツ・リチャードは今の俺が持つ、数少ない友達だ」
フィーナが、オカリナを受け取った。
それは、彼にとっての覚悟のようなものだったのだろうか。
彼の――マウスの左手に握られた長剣が、振動に音を立てる。美しい真紅の戦闘装束も、同色の優雅なシルクハットもそのままに。マウスは大きな栗色の瞳を真っ直ぐにフィーナへと向けた。
「良いだろう。お前の『境界線への旅』、俺が案内人を請け負った」
それは、誰の目にも限りなく、頼り甲斐のある言葉だった。
○
「……よし、と。これでOKです」
ガングがペンディアム・シティの砦で作っていた、砂時計のような不思議なアイテムは、マウスの持っていた『四葉の思い出し草』を擦り潰して粉にすると、その真価を発揮した。楕円形の宝石に入れられた『四葉の思い出し草』の粉末は、フィーナが受け取るなり、フィーナの魔力に呼応して光り出した。
「これで、アイテムを発動させれば戻れます。あまり長く『境界線』に居るのは、良くない。一日以内には、戻って来てください」
「……それを過ぎてしまうと、どうなるのですか?」
屈んだままのガングはフィーナの瞳を見上げて、不気味にレンズを光らせた。
「いやー。『境界線』に認められないままで何時までも留まっていると、知らず吸収されてしまう事もありましてね」
危険な旅だ。それが分かっていたフィーナは、唇を真一文字に結んだ。
『四葉の思い出し草』が手に入った事で、魔王城に行く必要も無くなった――――サッポルェの森には、穏やかな空気が流れていた。これから行われる出来事など、露ほども知らないと言っているかのようだ。
木の影で、腕を組んだままでテイガ・バーンズキッドが見守っている。横目でそれを一瞥して、フィーナは決意した。
必ず。青年を、取り戻すと。
「言っておくが、俺が居るからといって命の保証が出来るものじゃない。フィーナ・コフール、お前さんが『境界線』に存在を認められなければ、神に近付き過ぎた者への天罰として、大地の土へと還る事になる」
つまり率直に言ってしまえば、死ぬという事だ。
ガングがフィーナの肩を叩いた。振り返ると、その包帯巻きの顔面には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「大丈夫です。――――貴女は強い。自分自身を、見失わないようにしてください」
マウスはポケットからキセルを取り出すと、咥えた。右手を剣に、左手をシルクハットに添えて深く被り直し、フィーナとガングから一歩、前に出る。
訪れた静寂は、意識の集中によるものだろう。
すう、と息を吸い込んで、吐く。
真紅の戦闘装束が、穏やかな風に揺れた。その胸に秘めた、確かな決意と覚悟。鋭い栗色の眼光は、何もない虚空を見詰めていた。
「…………我が問いに答えよ、『境界線』」
そう呟いた瞬間の出来事だった。突如として、マウスの全身が光り出したのだ。
地響きと共に、嘗てフィーナが見た事も無いほどの巨大な魔法陣が、マウスの足下に描かれた。
その美しさに、息を呑んだ。テイガでさえ、驚愕に目を見開いていた。サッポルェの森に生息していたと思われる鳥達が、一斉に彼方へと飛び立っていく。マウスを中心として放射状に風は吹き荒れ、踏ん張っていなければ飛ばされてしまいそうになる。
咥えられたキセルを噛み切らんばかりに、マウスが歯を剥き出しにして唸った。目の前に、壮大で崇高な魔力の流れを感じる。
左手に支えたシルクハットを今一度、より深くへと押し込んだ。
「汝は無き者にして有りし者へと変化した、有象無象の神であるか!! ならば我は今もう一度、その領域へと身を投じる者となる!!」
太陽光に反射して、鈍い輝きを放つ長剣は金色。
マウスを中心として際限なく展開され、泉のように湧き上がる魔力は虹色。
立ち所に魔力の色は移り変わり、まるで多情多感な生物の様を映し出しているかのように淡く、光る。或いは四面楚歌に抗う動物であるかのように、それは唸り、吠える。
これが、『境界線』を越えた者の魔力なのか。
フィーナはその偉大さに脱帽し、呆然とマウスを見詰めた。足下の草花が身を屈める頃、大気に僅かな歪みが生じる。僅かな歪みは僅かな亀裂へと変化し、その空間に裂け目が生じる。
――――これは。
フィーナは、思わず遥か頭上の裂け目を見た。
「<次元斬>!!」
刹那の閃光。
たった一度、長剣を鞘から抜き一刀を振るったマウスは、その場から動いてはいなかった。彼が放った一閃は、僅かな亀裂を生み出した空間を斬り開き、まるで何かが『破れた』かのように、そこから何かが噴き出す。
この世界のモノとは明らかに、違う。恐ろしいまでの魔力を抱え、世界が裂けた。身を投じる前から、フィーナは湧き上がり身を竦ませる恐怖と、そこに存在する様々な『世界の裏側』を視ていた。
白銀色の長髪が、風に揺れる。
それは、『時間』。それは、『質量』。それは、『歴史』。
そしてそれは、『魔力』だった。
「――――――――先に行くぞ!!」
マウスがフィーナに指示し、自ら一身を投じる。色も分からない程に莫大な光の渦に飛び込んだマウスの姿が真っ白に染まり、消えていく。
この中は。フィーナは、気付いた。確かに、世界の真理に触れる事に等しい。最早肉体が何処にあるのかさえ定かではない、異なる時空間に飛び込んで行くかのようだ。
通常の『思い出し草』では、戻って来る事が出来る筈もない。そう思わせる程に、そこは別世界だった。
本当に、ラッツはこんな所に居るというのか――……
「さあ、お行きなさい」
フィーナの背中が押された。見ると、ガングが穏やかな笑みを浮かべたままで、フィーナを見ていた。
そうだ。フィーナは直ぐに、思い直す。
自分は、一人ではない。
肩に掛けられた小さな鞄から、チークに渡された小さな盾を取り出し、握り締めた。残りの荷物をガングに手渡し、フィーナはガングに微笑みを返した。
「……持っていて、頂けますか。必ず、ラッツさんを連れてここに戻って来ますわ」
「ええ。楽しみにしていますよ」
誰かと共に居る事の心強さ。信頼できる味方が居ることの、頼もしさ。それさえあれば、どのような世界に行ったとしても、どうにかやっていく事が出来るのではないか。
それだけを心の支えにして、フィーナは既に閉じ掛けている『空間』へと、歩き出した。
「行って来い」
広場の端で、テイガが呟いた。フィーナはその表情に、僅かな微笑みを浮かべた。
やはり、根の部分から悪い人間ではない。
五感を信じれば、途方も無いほどの光に目を奪われ、自分の目的地を見誤ってしまうかもしれない。
護るべきものが、ある。助け出したい人も――――。
フィーナはその人の事を想い、目を閉じた。
さあ、踏み出そう。
世界の裏側。終末の真実。隠された、本当の出来事。『紅い星』に、最も近い場所へと。
○
ラッツ・リチャード。
そう、呼ばれた気がした。どこの誰にだろうか? ……よく、分からなかったな。
俺は今、どこに居るのだろう。
炭鉱に住んでいる父さんと母さんは、俺の事をとても大事に育ててくれた。でも、どこか俺は一人で生きてきたような気がしていた。
父さんも母さんも、本当の家族ではなかったからだろうか。冒険者アカデミーに行くと決めた時、どこかほっとしたような顔をされた事が、今でも目に焼き付いて離れない。
それでも、大切にはされていた。それは、よく分かる。
そうだ。
俺は『伝説の大泥棒』、トーマス・リチャードの孫だ。だからこそ、世間は両親にも辛く当たったのではないか。
――――俺の、育ての親。
なら、産みの親ってのは、一体誰だったんだろう。
まるでその問い掛けに答えるかのように、俺の脳裏に記憶は蘇った。
俺の爺ちゃん――――トーマス・リチャードは、俺を見て微笑んでいる。小さな俺が誰かに抱かれて、その小さな胸を張り裂けそうな程に上下させていた。
俺を抱いている人。
……誰?
どことなくその姿は、誰かに似ているかのような――――…………
「ラッツ!!」
目を、覚ました。
ここは、何処だろうか。辺り一面、真っ白だ。だが、それは黒いようにも見える――――光があるようで、ない。ただ一つ分かるのは、魔力が辺りに渦巻いているという事だけだ。
途方も無い程に、強大な魔力だ。俺なんかの魔力では、太刀打ちする事など到底出来ないくらいの。
だが、どこか懐かしさも感じていた。不自然な事に、それは扱い慣れたモノのような気がしたのだ。
「良かった、ラッツ。……我が主よ。目を、覚ましたんだな」
向こう側に、少女の姿が見える。
艶やかなダークブラウンの髪は、色の不明確なこの場所でも鮮やかに発色していた。年齢とは不釣り合いな程に低い身長、黒いドレス。賢そうで幼そうな、大人びていて子供っぽいような、複雑な容姿。
意志の強そうな、眉。
俺を見て、微笑んでいる。
「初めまして。……私は、リリザ・ゴディール=ディボウアス。『再生』の魔法公式を造り、『ノーマインドの魔物』を、そして『ダンジョン』を造った張本人。そして、主を……いや、君を……支える為に、生き残った女だった」
今更過ぎる、自己紹介だった。
だが、たった一言、彼女は「だった」と。
そう、呟いた。




