K153 勇敢と書いて大馬鹿と読む男
森に吹く夜風は、頬を撫でる。ダンジョンかと思われたが、そこに魔物の姿は見えなかった。
風は弱く、穏やかだ。しかし上方は激しいのか、青みがかった森林は坂道を上がり、山の頂上へと向かうに連れてより強く揺蕩う。
所々で小さな光が現れるのは、『ナイト・バグ』と呼ばれる虫によるものだ。魔力を扱う為、生物学上は魔物に分類されるが、ダンジョン以外の場所でも確認する事の出来る生物だ。その美しい光景は夜のみに見られる現象であり、日中は地中深くに潜り、冬眠のように出て来る事は無い。
ゆらり、ゆらり、と青緑色の光が宙を舞う。
時折、闇に隠れた木々の向こう側から釣瓶が落ちた時のような音が聞こえてくる。水面に向かって落下するそれは、おそらく湖の方から聞こえて来るのだろう。木製楽器を叩いた時のようなメロディーは、フェアリー系の魔物が夜に奏でる事があるのだと、聞いた事があった。
それらは風の音と相まって、奇妙で幻想的な音楽を奏でた。
フィーナは、辺りを見回した。あの、鼠の男は――……どこからか、大自然が奏でる音楽とは別の、人工的な音色が聴こえて来る。それはフィーナの艶やかな白銀色の長髪を通り過ぎ、風に流されて旅を続けていく。
これは――――オカリナ?
木々の生えていない、円形の広場までフィーナは歩いた。頂上付近だったが――――中央には雨水が溜まっているのか、月明かりに反射して葉の色を青く染める湖が、風に波打つ事もなく、静かにそこにあった。
フィーナが湖の手前まで歩くと、不意にオカリナの音色が止んだ。
「神に近付き過ぎた人間は、翼をもがれ、地に落とされると言われた。あれは……そう、何て言ったかな」
どこからか、声がした。それがオカリナの聴こえていた場所からだと気付き、フィーナは音の出所を探した。
湖に反射して、木の陰から現れた男の姿が見えた。整った明るい金髪に、ルベライトのような輝きを放つ神秘的な瞳。真紅の戦闘装束に身を包んだ青年は、湖の向こう側で穏やかに微笑んだ。
フィーナは気付いて、顔を上げる――……
「お前さん達は、また『紅い星』に挑むつもりかい? ……確かに、このまま放っておけば何れ世界は終末へと向かうだろう。……向かうだろうさ。だが、俺達がそれを食い止めるって事は、突如として発生する氷河期を食い止めるって事に等しい」
はっとして、息を呑んだ。
湖に姿を反射させ、自身の姿を覗き込んでいるのは。その整った容姿とはあまりに遠く掛け離れた、薄汚れた鼠だったからだ。
そうして、気付く。ガングが彼のことを――オリバー・ヒューレットのことを、『その姿を変えられた』と、表現していたことに。
「……話して、下さいませんか。その時、貴方達に何があったのか」
鼠の男は、湖に映る自身の姿を前にして、栗色の瞳を閉じた。
「話そうっても、俺にもあの時の事はよく分からないんだ。お前さん達と、同じようにな。記憶を消すってのは、どうやら本当らしいって話だ」
「そうですか……」
「だが、全く何も覚えていない、という訳でもない」
鼠の男は湖に自分の姿が映るように、その身の丈ほどもある長剣を鞘から引き抜いた。独特の金属音がして、磁器のように滑らかな美しい刀身が露わになった。
僅かに、光を発しているようにも見える。だがそれは、月光と湖の反射が齎したものだ。鼠の男は、それを夜空に翳して光を確かめる。
刀身から発された蒼い光が連続して湖に反射し、またフィーナの目にも届いた。
「魔法公式の、『境界線』に近付くこと。……それは、この星に存在する『魔力』と呼ばれる不可思議な力の正体に挑むという事だった。即ち、自らが保有している魔力と星全体の魔力、これをイコールに結び付ける行為。それが、『境界線』を『越える』という事なんだ」
嘗て、ラッツが追い掛けていたもの。ゴールバード・ラルフレッドと対峙した時にも感じた、奇妙な違和感。
際限なく魔力を使う事ができ、いち人間や魔族が保有する魔力を抑止する事も出来る。それは、確かにおかしな現象ではあった。
「まあ、リリザは一部だけ融合させるんだとか何とか、色々やっていたみたいだが。一部を借りる事と、完全にイコールにすることは訳が違う。同じともなれば、扱う事の出来る魔力量は無限。まあ有限っちゃ有限なんだが、俺達が利用するレベルで魔力尽きる事はない」
鼠の男は、長剣の向こう側に失われた過去を視ているようにも感じられた。
「だけど、それはこの星と同化する、という事だ。故に『禁忌』……寿命は相応に延び、星の一部となり、この世に存在し続ける。例え肉体がどれだけ壊れようとも、自らに魔力が存在する限り魂が留まり続けるって具合だ」
「留まり、続ける……」
「だから肉体さえ再生されるなら、永遠にとまでは言わずとも、常人の寿命を超えて生き長らえる事ができる。そうすることで世界に君臨し、魔族の平和を目指して統括を続けてきたのが三代目魔王。『夢魔族』、再生の魔法公式を生み出した女。リリザ・ゴディール=ディボウアスだ」
人間と魔族の戦争というものは、長きに渡り続いてきたとされた。ある日唐突に終焉を迎えたのは、魔族の統括者――『魔王』が、忽然とその姿を消したからだという。
その終戦は、長い人類の歴史に比べれば、そこまで遠い話でもなかった。だが、あまりにも結末の無い出来事だったため、人々の中から『魔王』の存在は急速に薄れて行った。
冒険者でさえ、殆どの人間が見た事がない。では、『魔王』とは――――実は都市伝説だったのではないかと噂する者まで居たのだ。勿論、目撃者が居たことで『魔王』の存在は肯定された。
だが、居ないものをいつまでも噂する者などいない。
「人間側の、五代目勇者――オリバー・ヒューレット――は、リリザ・ゴディール=ディボウアスと衝突する。しかし、たった一人『境界線』を越え、リリザと対峙するまでに力を付けた男は、『魔王城』で予想もしない人類と出会う事になった」
それが、誰だったのか。その答えは、フィーナにも分かった。
「トーマス・リチャードだよ」
運命の因果は巡り、やがて時を越え、現代へと続いていく。
「あいつは、『魔力を使わずして不死』なんていう、全く理解不能な技術を持っていた。信じられなかった――あいつはこう言った。自分は遥か遠い、まだ人類がここまで繁栄していない時代に『紅い星』と共に墜ちてきた人間なんだと。処置は施したが、このままでは何れ地中深くで『魔力』を蓄えた『紅い星』が復活し、生物は絶滅に至る、と」
「…………生物は?」
「そうだ。『紅い星』の事はよく覚えていないが、遥か機械科学の進化した『アース』という星で、トーマス・リチャードが生み出したモノなんだという話だ。自分は『システムエンジニア』という、この星では『アイテムエンジニア』に相当する職業なんだと」
思い返しても、全く理解できない。そう言うかのように、鼠の男は長剣を鞘に戻し、肩を竦めてみせた。
「途方も無い話さ」
「ま、待ってください。『紅い星』というのは、随分昔の……例えば、まだ先住民族マウロが生きていた時代の出来事だと認識しているのですが」
「そうだ。復活のタイミングに合わせて、あいつは『境界線』で魔力の研究と開発をしていたと言うんだ。きっと同様に、『紅い星』も魔力について知ろうとするだろう、ってさ」
フィーナにも、理解する事は出来なかった。説明している当の本人が、情報をあまり持っていないのだから仕方がない。
しかし。だとしたら、トーマス・リチャードというのは。よもや、何時しか人間の間で流行った『人類宇宙人説』そのままの人間だとでも言うのだろうか。
その昔、人間は魔力の無い世界で生きていた。代わりに電力を使い、人はやがて自分と似たような動きをする無機物を追い掛け、『心ある機械』を作るようになったという。
だが、機械は人間よりも優れていた。だから心を持った『機械』とやらは、人間を獲物とするように進化していった。どうしようも無くなった人間のうち賢い者だけが、遥か昔に電力を使った最後の技術『宇宙船』を使って、この星に落ちてきた。
当時の星は、人間の手によって滅びたらしい、と――……
「……でも、その方は……トーマス・リチャードは、魔力を使えなかったのでしょう?」
「魔力の扱い方は、第二世の魔王……『ヘレナ・ゴディール=ディボウアス』から教わった、らしい」
「もう、時代が遠すぎて、何が何やら……ですわ」
「ああ、まったくだ。それに、俺達にはどうでもいいことだ」
過去をどれだけ掘り返したとしても、今そこにある事実は変わらない。宙は面白可笑しくひび割れ、現実に存在する二つの世界は、片方が夢物語であったかのように統合を始めている。
鼠の男は、水面に視線を移した。水上を移動する虫を眺めながら、すっかりくたびれた瞼を静かに落とした。
「事情はどうあれ、そのトーマス・リチャードという男の一言が、長きに渡り続いてきた戦争に終止符を打った。『境界線』を越えた俺達は、それぞれが生き易いように世界を改築する。オリバー・ヒューレット、トーマス・リチャード、ガング・ラフィスト。この三人は、人類が犯した罪を償うために。リリザ・ゴディール=ディボウアスは、魔族の平和を護るために。俺達は、『紅い星』と戦った」
「…………どうして、戦争は終わったのですか?」
「分かるだろ。俺達は、強大な魔力を扱う魔族の事を『闇より湧き出る、危険な生物』だと言っていた。ところが、トーマスが『人類は宇宙人』だと告白したことで、この星にとってのイレギュラーな生物は……『悪』は、俺達だという事で結論が付いちまった」
自虐するかのように、鼠の男は笑った。
「戦う理由がない」
しかし、人類は遥か昔から、この星に住んでいた筈だ。トーマス・リチャードが宇宙から来たとして、この星に元より住んでいた人間は――……一瞬だけ、そのようにフィーナは思ったが。考えてみれば、元の星に住んでいた記憶のあるトーマス・リチャードは、如何として人類が宇宙へと飛び出したのか、その事実を知っている。
誰も知らない技術を使った、事実上最強の人間による解答だ。反論など出来なかっただろう。
「そうして、世間から『勇者』だと持て囃された哀れな男、オリバー・ヒューレットは目的を見失った。人々からも忘れ去られたが、自分を最強だと信じて今一度、名声を轟かせる為に立ち上がる――――『境界線』を越えた事で慢心し、何の努力もせず、相手の事も調べずに『紅い星』と戦った。……そうして、負けたんだ」
その時、鼠の男はフィーナと目を合わせた。
瞬間、フィーナの脳裏に映像が現れた。何者かと戦っている、真紅の戦闘装束を身に纏った青年の姿が見えた。その向こう側で嘲笑う得体の知れない何かが、彼を指差して言った。
『私が怖いか。……お前は、ここでは勇者と呼ばれていたらしいな。臆病者が勇ましい者とは、面白い矛盾だ』
トーマスに庇われ、何処とも分からない真っ白な空間から弾き飛ばされる。決して抗う事の出来ない魔法を全身に受け、彼は――オリバー・ヒューレットは――次元を越え、天空に放り出された。
広大な地面へと落下していくオリバーは、やがてその姿を、弱々しい動物のそれに変えられていった。
「『トーマス・リチャード』の技術を護る為、アイテムとして五つの神具に封印され、世界の端々に散らばったリリザ。様々な道具の知識に最も詳しかったが、半身を切断され魔力を失い、ようやく人間界に返されたガング。……そして、自分が忌み嫌っていた魔族に姿を変えられ、魔界に落とされた……無様な男」
彼は言った。
「あの日、勇敢と書いて大馬鹿と読む男、『オリバー・ヒューレット』は死んだのさ」
幸運にも魔界に落下した彼は、誰から攻撃される事もなかった。不気味な巨大鼠の姿で、それでも――――しかし、記憶を奪われ、何と戦ったのかも分からない彼に出来ることは。
もう、何も無かったのだろう。
「昔ほどの体力もない。姿を変えられてから、剣捌きも衰えた。……もう一度『境界線』に行けば、何かが起こるのさ。記憶は無くても、それだけは分かる」
或いは。
「あの、空の亀裂は冗談でも何でもない。リリザの封印が解けた事で、何かが変わった……起こるぜ、最後の戦争が」
『紅い星』がもう一度目覚める、という事も考えられるのだろうか。
フィーナは知らず、両手を胸の前で合わせていた。鼠の男はフィーナの様子を見て、自分の話した事が伝わったと確信を持ったのだろう。一人、フィーナに背を向けて歩いて行く。
人々に持て囃され、『魔族を敵』だと信じていたからだろうか。それとも、自分を最強だと誤解し、『紅い星』に挑んで負けたからだろうか。その後姿は、どうしようもなく頼りない、小さな鼠に見えた。
「……俺は、考え無しだったんだ。自分で考えているつもりで、囃し立てられて調子に乗って、誰かに人生を委ねていたに過ぎないのさ。全てを知った上で、今も……そんな俺に、何ができると思う」
胸が、締め付けられるような想いだった。
「なあ、トーマスよ」
鼠の男は――――オリバー・ヒューレットは、森の影に消えた。
暫しの沈黙のあと、再び豊かなオカリナの音色が聞こえてくる。どこか物悲しい気持ちにさせられる音色は、フィーナの心を強く打ち付けた。
「でも、貴方は!! まだ、生きているじゃないですか!!」
その声は、夜の森に紛れて消えた。




