K152 ネズミ男、オリバー・ヒューレットの迷い
自分の発した言葉がフィーナに全く伝わっていないからか、鼠の男はどうやら様子が違うようだと気付いたのか、間抜けに声を漏らした。フィーナもまた、地面に両膝を付いた格好のまま、呆然と鼠の男を見ていた。
沈黙が訪れた。長剣を構えられた所で全く脅威を感じなかったフィーナだが、しかし本来の実力は人並み外れているようだ。身を翻した一瞬の動きで、フィーナは鼠男の戦力について理解した。
両手を上げて、降参のポーズを取った。鼠の男もまた、構えを解いてフィーナを見る。
「……どうやら……違うみたい……か? お前さん、何モンだい。どうしてその名前を知ってる」
鼠の男は一度抜いた長剣を鞘に戻し、シルクハットの土を払った。一瞬のやり取りではあったが、その瞬間にフィーナは目の前の男がオリバー・ヒューレットであると確信した。
ならば、言わなければならない事は一つだ。その場で立ち上がり、フィーナは左手を胸に当てて、言った。
「私は、フィーナ・コフール。セントラル・シティにある、『ギルド・セイントシスター』の元ギルドリーダーですわ。実は、ある人を助ける為に貴方の力が必要なので、協力を依頼しに来ました」
「コフール、だと? ……まさか、ウォルテニアの一人娘……か? こりゃあ参った、随分と大きくなったもんだな」
どうやら、自分の事を知っているらしい。
有名人である自らの父親を呼び捨てにされ、複雑な感情を内に秘めるフィーナだったが――――その言葉だけで、目の前に居る鼠の男が如何に長い時間、現世に留まっていたかが分かる。
ウォルテニア・コフール、ガング・ラフィスト、エトッピォウ・ショノリクス。この三人は少なくとも、知り合いであり同期でもあるのだ。ならば、ガングを知っている筈のオリバー・ヒューレットがウォルテニアを知らない筈がない。
嘗ては世に名を憚らせた、権力者の一人なのだから。
「……何の噂を耳にしてここに来たんだか知らないが、すぐに出て行った方が良い。『ユメミザクラ』に意識をやられたら、ここから出る事も出来なくなるぜ」
「私は、貴方を探してここまで来たのです。せめて、話だけでも――――」
バツが悪そうに、鼠男はフィーナから目を逸らした。……どこか影が差したような表情に、フィーナは怪訝な眼差しを向けた。
「人違いだよ。……俺は『マウス五世』。皆がそう呼んでる」
どうやら、話すら聞きたくないらしい。
沈思黙考していた。その内側に、一体どのような想いを秘めているのだろう。何を思って、現実を忘れて自我を無くしてしまうような場所に自ら足を踏み入れたのだろうか。
間違いなく、この男――オリバー・ヒューレット――は、『紅い星』との大戦に関わった人物だろう。『人物』と表現するのが正しいのかどうか、分からないが。
だとするなら、何かを抱えているのだ。
「貴方のご友人……ガング・ラフィストの頼みだとしても、取り付く島もないような事ですか?」
その言葉に、鼠の男は目を見開いた。ぴくりと左腕を痙攣させ、身体を硬直させる。
「あいつ……今更、俺に……」
何かを、考えているようだった。その内容は口にも、表情にも出すことはない。幻想的な桃色の木々が立ち並ぶこの場所で、冴えた大きな瞳は夢などとは無縁の場所に居るようだった。重たい鉛のような視線を地に落とし、鼠男は両の拳を握り締めたままでいた。
程なくして、鼠の男は忌々しいとも取れる表情を浮かべた。直後に目を閉じ、僅かに首を振る。
考えが、固まったのだろうか。
不意に、フィーナに向かって何かが投げられた。慌てて、フィーナはそれを受け取った。
「…………誰を助けたい」
鼠男の着ていた、真紅の上着だった。それと鼠男とを交互に見詰め、フィーナは答える。
「ご存知無いとは思いますが、ラッツ・リチャードという――――」
「ラッツ!? …………ラッツだと!?」
目を見開いてそう答える鼠の男は、ラッツの存在を知っているようだった。一体、どこで関係があったと言うのだろうか。きょとんとしてしまったフィーナは、しかし鼠男の差し出した上着の袖に腕を通した。
知らない所で、何かは起きていた。遠い日に、ラッツ・リチャードはオリバー・ヒューレットと出会っていた。鼠男はフィーナに向かい、薄汚れていてもどこか紳士的で優雅な雰囲気のままで一歩、前に出る。
鼠男の背中を、夜の月が照らしていた。
「――――封印が、解けたのか?」
言葉は断片的なもので、その全ては語られなかった。しかし、彼に一体何を問い掛けられているのか、その意味だけは把握する事が出来た。
徐ろに、フィーナは頷く。
『封印』と聞かれたら、最早一つしか存在しない出来事。鼠男がその一件に関わっている様子を直接的に見た訳では無いが、彼の驚愕している様子から、少なくとも彼にとっては只事ではない出来事が生じたのだと分かった。
土を踏み締め、鼠の男は月を見上げた。裂けた空よりも向こう側に見える月は、天空に浮かぶ亀裂よりも遠くにあるのだという事を見る者に教えてくれる。
このように月明かりに亀裂が照らされる状態ともなれば、気付く者は少なくないだろう。明日にでも、人間界と魔界の両方で噂になるに違いない。
摩訶不思議な出来事として持て囃されるのか、それとも恐怖されるのかは、起こってみなければ分からないが。だが、どちらでも良いのだ。
民衆がどのような反応をしたとしても、あの亀裂は消える事がない。それだけは、確かなのだから。
「……分かった。話だけは、聞こう」
ある程度は戻って来ていたのか、遥か遠くでどんちゃん騒ぎの声が聞こえた事に、初めてフィーナは気付いた。間もなく夜明けだ、夜間には寝なければならない等という生物としての常識を忘れた者達は、やがて昇る太陽を祝福する為により大きく、宴の歌声を響かせるだろう。
そうして何時からか、自らの終焉に気付くのかもしれない。
「ただ、話だけだ。……それで、いいな」
釘を差して、鼠男はフィーナの隣を通り過ぎた。
フィーナは、後を追い掛けた。
○
フィーナの服と鞄は、温泉地帯の入口に綺麗に畳まれて置いてあった。
夜明けにガングとテイガと合流して、ユメミザクラの咲き誇る極楽浄土の街、『カブキ』を後にした。鼠男の使う奇妙な転移魔法によって、向かった先は東の島国から大陸へと戻った、港町タスティカァの近くにあると言われるダンジョン、『サッポルェの森』。
人間界ではあまり見ない植物ばかりが生えたその森の奥地には、鼠男の暮らす小屋があった。古びた簡素な家ではあったが、少なくとも全員が座ることが出来るだけの椅子があり、白い丸テーブルにベッド、食器棚など、必要な物は全て揃っていた。
そこでフィーナは遂に念願の風呂に入れて貰い、まだ日が昇って間もないうちに、鼠男に事情を話した。
『と、いうことです。『新・魔王国』を放置した事については、もう文句は言いません。ただ、ここからは参加して頂きたい』
ガングも説明に参加した。テイガはと言うと、時折話について正確性の欠ける部分に突っ込んでは来たものの、基本的には何も喋らず、気配を消して部屋の隅に立っていた。
『ガング、分かってくれ。俺はもう、『そういうこと』には関わりたく無いんだ』
『ええ。承知して、それでも言っているのですよ』
『ちっ…………』
テーブルの中央でアクセルが大袈裟に頷きながら、全てを話し終えたのは昼過ぎになってからだった。途中から何も発言する事なく、沈黙して話を聞いていた鼠の男は、最後に呟いた。
『…………少し、考えさせてくれ』
それから日が落ちて、一同は一度、休む事にした。心中穏やかではなかったが、睡眠を取らずに行動し続ける訳にもいかない。来客用の毛布に包まり、フィーナは冴えて眠れない頭をどうにか休ませようと試みた。しかし、思考は休む事無く動き続けていた。
ラッツ・リチャード。
彼は今、無事だろうか。
『フィーナ!! フィーナ、ちょっと良いか!?』
自然と、幼き日の出来事をフィーナは思い出していた。まだラッツもフィーナも若い頃、ある時ラッツが何時もそうしているように、庭の木を登ってフィーナの部屋に押し入り、意気揚々とそう語り出したのだ。
目を閉じると、当時の光景が蘇ってくる。フィーナは思わず微笑み、記憶に焼き付いた在りし日の可愛らしいラッツの姿を思い返していた。
『どうしたのですか?』
『いや、ちょっとさ。覚えていて欲しい事があるんだ』
『覚えて欲しい事?』
フィーナは、鼠男の簡素な部屋で一人、目を開いた。
『もしも、ラッツ・リチャードが入るギルドが無くなったら、『大泥棒が魔王城で待ってる。合言葉は地獄の底でよろしく』と伝えてくれ』
そうだ。確かに、幼き日のラッツはそう言っていた。フィーナは思わず起き上がり、左手で自身の頬に触れた。
どうして、そんな事を今、思い出したのだろうか。ふと少年時代のラッツに思いを馳せた瞬間、泉のように溢れてきた。あの時は覚える事に必死で、何度も字に書いていた。
過去の記憶が、フィーナの下へ蘇ってきた。確かあの時用意した幾つものノートは、ある瞬間から何処かに無くなってしまった。
『ど、どこからどこまでですか?』
『全部』
『全部って……!? いつまでですか!?』
『ずっと』
『無理ですわ!!』
脳裏に刻まれたパズルのピースを掘り起こすように、フィーナは頭を抱えて考えた。確かにあの時、そのような会話はあった。絶対に忘れないようにと何度も覚え、そして何時しか通り過ぎてしまった事だった。
幼い時の記憶は、ある日唐突に蘇ってくる事がある。それが何度も反芻して記憶しようと努力していた事なら尚の事、完全に忘れてしまう事は少ない。
これは、メッセージだ。
『大泥棒』とは、当たり前のように『伝説の大泥棒』と称された、トーマス・リチャードの事だろう。という事は、このメッセージはトーマス・リチャードから発信されたモノなのだろうか。
――――有り得る。
「なんてこと……なんて、事ですか……。私は今まで、こんな大切な事を忘れて……」
立ち上がり、古びた木造の部屋の隅を見詰める。どうにかして引っ張り起こした記憶を消すまいと、右往左往しながら頭を指で叩いた。
無理もない。自分自身には全く何の関係もなく、言わば暗号にも近いメッセージだ。肝心の部分は全てぼかされ、まるで誰かに悟らせない為に言葉を選んだのではないかと思える程に、曖昧だった。
いや、曖昧にしたのではないか?
ふと、フィーナは立ち止まった。
「そう、ですわ……!! ああ、そうですわ!!」
『紅い星』は、記憶を喰うと言われる化物。その程度の知識は、フィーナにも伝えられていた。事実、ラッツ・リチャードの祖父に当たるトーマス・リチャードはガングらと共に『紅い星』に挑んだという出来事はあった筈なのだが、その事について誰も知らない。文献も無かった。
フィーナは、トーマス・リチャードその人を見た事がない。だが、『伝説の大泥棒』という肩書きはフィーナも知っている。世に存在する伝説と呼ばれた武器防具を盗んで、どこかに雲隠れしたというトーマス・リチャード。
彼がもし、自分についての記憶を消される未来に、気付いていたとしたなら。
トーマス・リチャードと直接関わりを持たない人間なら、名前を出さなければ記憶が故意に消される事はないと、考えていたとしたなら。
その作戦は、間違ってはいなかったという事になる。
「『大泥棒』……は、トーマス・リチャード……。『魔王城』は、そのままですよね……」
伝える。……誰にだろうか。やはり、『入るギルドの無くなったラッツ・リチャード』にだろうか。だが、そこから先はフィーナには理解できない内容だった。
合言葉は、地獄の底でよろしく。何の事なのか、さっぱり意味が分からない。
平和なように見える世界の影に隠れた真実。……思えば、違和感はずっとラッツやフィーナの周りを巡っていた。一つ間違えれば破綻し兼ねないと、誰かに囁かれているようにさえ感じた。
例えば、『スカイガーデン』。先住民族マウロの遺跡は、スカイガーデンの地中深くに埋まっていた。何よりも不思議なのは、街そのものが生きていた事だ。
崩れる事もなく、地中に存在した。原住民の言葉が綴られた外壁がそのまま残っている程だったのだ。
とても、何かの災害で起きたとは思えない。ならば、隠れていたのだ。
何から隠れていたのか。
それはやはり、『紅い星』だろう。
「……とにかく、ラッツさんにこの事を伝えないと」
その為には、どうにかしてラッツを救出する必要がある。何処に居るのかも分からないが、ガングが生きていると言った言葉を、フィーナは信じる事にしていた。
そして、彼を助ける為には鼠男――オリバー・ヒューレットの協力が必要だと言う。
彼はすっかり出て行ったきり、そこには居なかった。何故かテイガの姿も見えない――……ガングは眠っているのか眠っていないのか、顔からは判別が付かない。テーブルの上では、呑気に涎を垂らしながらアクセルが寝入っていた。
……何処に、居るのだろうか。
立ち上がり、フィーナは外へと出ようと扉を目指して歩き出す。ギシギシと木製の床が歩行に合わせて軋んだような音を立てた。踏み抜いてしまわないよう注意しながら、フィーナは扉のノブに手を掛けた。
「フィーナさん」
「ひっ!?」
呼ばれ、振り返った。仰向けに横になっていたガングが首だけをこちらに向け、その不気味なレンズを光らせていた。
玩具のような見た目は、暗闇で急に動くとかなり怖い。
「……行くなとまでは言いませんが、あまり刺激しないであげてくださいね」
しかし、その忠告は優しさを伴うものだった。




