K151 落ちぶれた勇者
探すと言っても、どこをどう探せば良いのか。当てもなく『カブキ』の街を歩いていたフィーナは、今自分が何処に居るのかも定かでは無くなっていた。
辺り一面、桃色の木に囲まれている。右も左も似たような景観。
どうしようもなく、途方に暮れた。
ゲートを潜って間もない頃は陽の当たっていた町並みも、気付けば影が目立つようになっていた。幾らかの時間が経過し、フィーナは自身の身体に異変が起きている事に気付いていた。
『ユメミザクラ』の下にいる魔族達の中から、巨大な鼠の姿をした男を探そうとした。……だが、『ユメミザクラ』を視界に入れていると、段々と魔族の姿形に判別が付かなくなって来るのだ。
まるで靄が掛かったかのように、霞んで白く濁って来てしまう。その変化に恐怖したフィーナは、安全地帯を求めるかのように『カブキ』の街を歩き回った。
だがフィーナの求める安らぎの場所など、ここには存在しない。城門の手前でさえ強烈な臭気に吐き気を催したのに、奥に行けば行くほどその悪臭は鼻を付いて回るのだ。
急いで探そうとして息を荒げる程、『ユメミザクラ』の毒を吸う格好になる。フィーナはハンカチで口元を拭い石垣に凭れ掛かり、溜め息をついた。
行けども行けども、道は花見と酔いどれの魔族達。着々と奪われていく、正常な思考。
そうしてどうしようもなく見上げた時に、初めて気付く。
「…………あっ」
ゲートを潜った瞬間から視界に入っていた、金色の城に目が留まった。出入口は反対側だろうか。その建物の顔は入口の城門に向かって正面を向いていた。という事は今、ちょうど裏側に居るという事になる。
そのように単純な事にすら気付かない自分に、恐怖を覚えた。
正に、『夢見の街』だ。夢と現の区別も付かないこの場所は、現実に疲れた人を狂わせるには充分過ぎる働きを持っている。
「もう、嫌ですわ……」
自身の身体を両腕で抱き、フィーナはその場に屈み込んだ。せめてガングかテイガがそばに居てくれれば正気を保つことも難しく無かったかもしれないが、今は一人。手分けして探す按排になっているのだ。
確かに割れて探せば効率は良いが、この場所に限ってはどうだろうか、とフィーナは考えていた。二人共、この人を狂わせる甘い香りを前にして、特に影響を感じないのだろうか。既に身体は僅かに熱を持ち、足取りは覚束ない。酔っ払ってしまった時とちょうど似たような感覚だ。
自分が敏感なだけなのだろうか。フィーナは朦朧としながら、軽く眠ってしまいたい衝動に駆られた。
――――『甘い香り』?
はっとして、双眼を見開いた。自身の考えている事に、異変が起こっている。胸を締め付けられるような緊張を覚え、フィーナはその場から立ち上がり、両手で頬を叩いた。
自分は、何を考えているのだろう。入った時は確かに、強烈な悪臭だと認識していた筈なのに。
泣き言を言っている場合ではない。どうにかして、オリバー・ヒューレットという人物を見付けなければ。……見付からなかったとしても、夜明けまでは耐えなければ。フィーナは自分にそう言い聞かせて、再び桃色の園へと向かって行った。
○
「そうそう、それで一人、『俺は真っ当な未来を生きるんだ』とか言って、カブキを飛び出して行きやがったのよ!!」
「まあ、そうなのですか? それは、可哀想な方ですわね」
満開の花弁は、夜が更けてもその美しさを損なう事なく、通り一面にその存在を主張していた。フィーナはついに、意を決して衣服を脱ぎ、温泉地帯を歩いていた。
見る限り、陸地に鼠の姿をした男は見当たらなかったのだ。
『酒の泉』。二本の滝として流れて来る酒は冷酒と熱燗まで勝手に作られ、その二つは下流で混ざり、優雅にも酒で造られた、天然の露天風呂となる。
酒の滝に向かって猪口を差し出すと、今迄に飲んだこともない美味な酒がきっちり水平に、猪口を満たしてくれる。心まで温まる風呂に入りながら、ユメミザクラの果実で乾杯だ。すっかり酔いつぶれた魔族の中には、酒と湯の熱にやられて既に息絶えている者も居た。
「今頃ティロトゥルェでアイテム屋でもやってるんじゃねえかな、あいつは。エビス顔の癖して、真面目な男だったよ。ギャハハ!!」
宴会を続けている人々と出会うたび、本心では拒否していても、フィーナは幾らかの酒に付き合わなければならなかった。
果実もまた、人を狂わせる。一口含めば炭酸飲料のような突き抜ける刺激と、桃のようにまろやかな甘味が同時にやって来るのだ。ずっと食べ続けていたいという欲求は、この場所でのみ叶えられる。
夜の花は月の光に照らされて、なんとも幻想的な色合いを見せていた。水面に移る月影は、滝から寄せてくる波の影響を受け、滲んだように揺れている。
匂いを嗅ぐだけで酔ってしまいそうな酒の風呂に入り、どうにか意識を保ちながら情報収集を続ける。
「このお風呂に浸かれないなんて……人生の八割以上、損してますわね」
せめてもの、皮肉だった。
「ああ、全くだ!! 姉ちゃん、もう一杯どうだい?」
「ええ。……いえ、もう結構ですわ」
「なんだよ、つれねえなあ」
元々、酒など滅多に飲まないのだ。これ以上、異物を体内に取り込んでなるものか。
自分は今、正常な思考をしているのかどうか。これが普段通りであれば一体何があったのかと周囲に問い掛けられるような疑問だが、この場所に限って言えばその疑問が浮かんでくるという事は、少なくともまだ正気は保っているということだ。
金色の城を遥かに越え、温泉地帯の奥地まで来ていた。どうやら、ここが行き止まりのようだ。
「ところで……この辺りで、鼠の男を見かけませんでしたか?」
「鼠男なんて、そこら中に居るだろ。へへへ」
「…………そうですか。貴方には、そのように映っていらっしゃるのですわね」
噎せ返るような酒の香りも、気付けばそこまで苦痛なものではなくなっていた。それどころか、後一歩でも間違えれば、魅了される芳香へと変化してしまうのではないかと恐怖させる程に、嗅覚は変化していた。
…………あまり、時間がない。直感的に、フィーナはそう考えていた。
ここに来るまで、一体何人の魔族にオリバー・ヒューレットについて聞いてきたかを思い出す事が出来ない。どうして自分が温泉地帯まで出向き、服を脱いで酒の風呂に浸かる必要があったのかも、もう思い出せない。
湯に浸かっていると、どうでも良いような気持ちにさせられるのだ。魔性の泉は、否応無しにフィーナの気力を奪っていく。微睡んだ思考は麻痺し、隣に居る魔族の姿もはっきりとは見えていない。
このまま、今の自分がおかしい事に気付けなくなったら。
僅かな恐怖さえ、悦楽に溺れて掻き消されていく。
「時に姉ちゃん、アンタ良い身体してんなあ」
どうせ、自分が何処の誰かなど見えてもいないのだろう。何故なら、この男よりも遥かに時間の短いフィーナでさえ、目を離してしまえば隣の魔族の事を、一時でも覚えていられないのだ。
まるで譫言のように、人を見付けては会話するだけの動物。フィーナの目には、そのように見えていた。
いつの間にか服の代わりに手に持っていた、身体をすっぽりと隠すタオルを押さえて、フィーナは立ち上がった。
「どうも、ありがとうございました。ごきげんよう」
「……あー、行くならついでに酒持って来てくれねえかあ。足りねえんだよ」
可哀想に。……もう、元には戻らないのだろう。
快楽という名の、牢獄。一度捕まれば骨までしゃぶり尽くされ、生きてこの場所を出る事は出来ない、食虫植物のような街。フィーナは立ち上がり、両手で頬を何度も叩いた。
先程まで話していた鬼族の男が眠った事を確認して、やるせない気持ちでフィーナは別の場所へと向かう。
ここまで、朧気な記憶ではあるが様々な魔族を見てきた。言葉を喋る事が出来る者は、まだ程度が浅い。放っておけば何れ赤子のように鳴く事しか出来なくなり、やがてそれさえも無くなる。
退化していくのだ。
自身の身体の匂いを確認して、フィーナは顔を顰めた。
「五時間……五時間は、お風呂に入らなくちゃ……」
奥地まで来てしまったからなのか、辺りに人影はない。
嘘のように、静まり返っていた。ここまで来る者は少ないのだろうか――……気が付けばフィーナの息は上がり、すっかり回った酒と風呂の熱が意識を混濁させていた。
やはり自分もまた、正常な判断が出来ているかどうかは怪しい。ここが何処なのか、既に思い出す事が出来ない。
金色の城が見えない事から、おそらく『カブキ』の街でも端の方だとは思う。石垣で囲まれた空間、出入口とは反対側のはず。
「一度、戻りましょう。……このままでは」
独り言を喋るのは、自分の意識を覚醒させる為だ。
出口を目指し、フィーナは風呂を突き進む。だが一向に暗闇は晴れず、周りには桃色の花が咲き誇る林があるばかりだ。
風はなく、噎せ返るような酒気を帯びた湯気だけが辺りを支配する、ただそれだけの空間をフィーナは進んだ。膝まで湯に浸かった状態で、黙々と。月明かりだけが照らす酒の道は、宛ら亡者が歩く路のよう。
死して丸裸になり、極楽浄土を目指して歩いているかのような気持ちにさせられる。
「……が、ガングさん……」
少し心細くなってしまい、フィーナは仲間の名前を口にした。
自分が居た所は、確かに滝を前にした奥地だった。滝を降りてあの場所に来たとは、考え難い。ならば、川下の方へと進んで行くのが吉だろう。
覚えていない出来事が増えるという事が、最も厄介だ。まだ判断は出来ている。目的は覚えているので、そこまで酷い状態でもないのだろうか。
「――――ひっ!?」
ふと、林の奥に光るものを発見した。醜態を見られる訳に行かず、全身を隠すために再び酒の風呂に浸かる。明かりもないこの場所では、一瞬だけ見えた光の正体を確認する事は出来なかった。
しかし、光るものと言えば何だろうか。生物の瞳か、それとも――……
「……ガングさん?」
考えられる中で最もフィーナに有利な男の名前を、フィーナは呼んだ。しかし当然それがガング・ラフィストである筈もなく、フィーナの声は静寂に包まれて、無に帰った。
可能ならば<シャイン>を使いたい所だが、流石にタオル一枚の姿で発光体を生み出す行為は躊躇われた。
目を凝らして、林の先を見詰める。
石の縁に、足を掛けた。
「……あっ」
その先に何があるのかを確認した瞬間、フィーナが思わず吐息を漏らして左手を口元に添える。
光を反射したのは、剣だった。半分ほど鞘から引き抜かれ、鈍い光を発している。フィーナは辺りをきょろきょろと見回して、誰も居ない事を確認してから、下半身を湯から引き抜いた。
鼠の姿をした魔物で、それ程までに大きな姿を持つ種をフィーナは知らない。ごくりと喉を鳴らして、フィーナは這うようにして林の中を進んだ。
べたつく全身に嫌になるが、ぐっと堪えてその先へ。
「…………大丈夫ですか?」
肩を、揺さぶる。
何処かの王宮の騎士だったのではないかとも思える、真紅の剣士装束。その胸には、フィーナが見た事もない紋章が刻まれていた。
服も、隣に転がっている真っ赤なシルクハットも、真っ白なズボンも、土にまみれてすっかり汚れてしまっている。汚れが余計に目立つ服装だった。
出っ張った腹が、鼠男の呼吸に合わせて出ては引っ込む。……酔って、いるのだろうか。
「あ、あの。しっかり、してください」
オリバー・ヒューレット?
本当に、この男がそうなのだろうか。ボテ腹を撫で擦る男からは、とてもではないが歴戦の勇姿を感じる事は出来ないが――……
別人だったら、どうしよう。フィーナは不安を拭い切れず、しかし他に当てもなく、彼の肩を揺さぶる。断続的に聞こえてくる鼾が、間抜けさに拍車を掛けている。
不意に聞こえていた呼吸が止まった。
「んむ…………?」
僅かに瞳が開き、栗色の瞳がフィーナの顔を覗いた。思わず、はっとして鼠男から身を引いてしまうフィーナ。
「…………なんだ、天使か」
そう言って、また深い眠りに落ちた。
「天使じゃありませんわ!! 私はフィーナ・コフールと申します!!」
唐突に恥ずかしい事を言われて、赤くなってしまった。確かに今のフィーナは裸同然の格好ではあったが、そんな事を言われるとは思っていなかった。
とにかく、確認をしなければ。フィーナは照れた表情を悟られないように、今度は両手で鼠男の肩を押した。
「オリバー・ヒューレットさんでいらっしゃいますか?」
フィーナがそのように呟いた瞬間、先程まで酩酊状態とも思われた鼠男の双眸が、一瞬にして見開かれた。急速な変化に、フィーナが驚く。
半分程引き抜かれた大きな長剣を戻し、フィーナから離れるように身を翻す。先程までの間抜けな痴態は何処へやら、男はフィーナから三メートル程離れた場所で着地し、シルクハットを被ると同時に長剣を引き抜いた。
「『真・魔王国』への勧誘なら、受けねえって言っただろ。俺はもう何の関係もないと、てめぇらのボスに伝えておけ」
緊張は一瞬。フィーナは目を丸くして、男の言葉に首を傾げた。
「はあ…………?」




